#22 わたしの好きな人(終)


「お母さんのこと、ビンタ一発くらいで許してあげてね」

「わたしが叩く前提なん……?」

「最近あたしよく叩かれるもん……」


 もちろん叩きはしなかった。


 二人が家に戻ると、半泣きになっている尋子ひろこの頭を幸輔こうすけがよしよしと撫でているところだった。

 鼻の頭を赤くした尋子は、ぐずぐずとはなをすすりながらぐずっている。まるで子どもだ。


 呆れつつリビングの入り口に突っ立っている娘二人を見ると、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったまま走ってきて、郁美いくみに飛びつく。勢いでそのまま押し倒されそうになったところを、すかさず後ろに回った千尋ちひろががっちり押さえた。


「ごめっ、ごめ……ごぉべん……」


 郁美の腰にすがりつくような態勢で顔を押しつけ、声にならない声で謝罪の言葉らしきものをぼそぼそとつぶやく尋子を見ると、なんだか笑えてきてしまう。

 大人らしい雰囲気の消え失せた尋子の顔は、千尋によく似ていた。

 いや、それだけではない。しっかりしているように見えて、その実とても手のかかる大きな子ども。そういう意味では、むしろ自分と尋子こそ似た者同士なのかもしれないと郁美は思う。


 いい加減シャツを鼻水で汚されるのも嫌なので、きちんと座らせてからティッシュを箱ごと取って渡してやる。

 尋子はちーんと豪快にかむと、赤くなった目で改めて郁美に向き直った。


「ごめんね、郁美ちゃん。わたし、調子に乗りすぎた。ううん、それだけじゃなくて。……わたし、郁美ちゃんが何を思っているか、ちゃんと考えてあげられてなかったのかもしれない。自分のことで浮かれて。なさけない」


 床に座り込んで向き合った二人の後ろで、千尋が心配そうに郁美のシャツの端を掴んでいる。郁美はその手をぽんぽんと軽く叩いてやった。

 だいじょうぶ。


「それでね、郁美ちゃん。わたし、こんなんじゃこの家にいる資格がないのかな、とも思ったの」


 とんでもないことを言い出す尋子に、さすがにぎょっとして他三人が声をかけようとするが、それをさえぎって言葉が続く。


「でも、ちがう。わたしはやっぱり、郁美ちゃんと仲良くなりたいよ。大好きな人の娘で、わたしの大切な娘が大好きになった女の子。郁美ちゃんはもしかしたら、わたしのこと気に入らないかもしれないけど。それでも、わたしは郁美ちゃんのこと、好きだから」


『それでも郁美ちゃんのことが好きだから』


 やっぱり、この母娘おやこは自分の気持ちを曲げたりしない。


 千尋が「宣戦布告」したあの日の再現のようで、郁美は思わず噴き出してしまった。

 そのままツボに入ったように笑い続け、リビングにはぽかんとした三人を置き去りにして郁美の笑い声が響く。

 尋子はまた鼻水の垂れてきた間抜けな顔で、千尋はいよいよおかしくなったのかと郁美のシャツを型崩れするくらいに引っ張り、幸輔はいつ口出ししたらよいのか逡巡したまま妻の横に突っ立って、それぞれ郁美を見つめている。


「郁美、ちゃん……?」


 心配そうに声をかけた尋子と千尋の声がきれいにハモって、それがまた笑える。

 でも、そろそろちゃんと尋子の決意に応えてあげなければ。でないと、ポケットのスマホに手を伸ばした千尋に救急車を呼ばれてしまう。


「こっちこそ、ごめんなさい」


 どうにか笑いを抑えて立ち直り、脇に置かれたティッシュを一枚抜き取って、尋子の鼻水をぬぐってやる。せっかく美人なのにこんな腑抜けた顔にしておいたらもったいない。


「急に家を飛び出したりして。心配、させてしもた。ごめんなさい」

「それは、わたしが……」

「ううん。だって、あんなんでいちいち飛び出してたら、やってけへんやん。……家族として、さ」


 口をぽかんと開けて呆然としていた尋子の顔が、郁美の言葉を理解してゆっくり笑顔になる。

 花が開くようなそのさまは、やっぱり千尋そっくりだ。


「えっと。わたし、やっぱり尋子さんのことお母さんとはよう呼ばん。わたしのお母さんは別のとこにいるし、お母さんはやっぱりお母さんやから。……ごめんな」

「ううん、謝らないで」

「えへへ……。でも、でもな。その、尋子さんはわたしのお母さんとちがうけど、でも、わたしたちは家族になれる。ううん、わたしたちは、家族なんや。一緒に家で暮らして、一緒にごはん食べて。尋子さんの大切な人が、わたしの大切な人で。……それって、けっこう悪くないと思うんやけど」

「うん……!」


 あかん、尋子さんまた泣いてまう。


「わたしのこと、好きになってくれてありがとう。……嬉しい。尋子さんて、思ってたよりずっとへんな人やけど」

「え」

「でも、知らなかったことは、これから知っていけばええことやし。それに、その、わたしも尋子さんのこと……その……す……き、嫌いやないよ」


 肝心なところで好きと言えない郁美のヘタレっぷりに千尋と幸輔がそろってガクッとなるが、尋子は構わず感極かんきわまった様子で抱きついてきた。

 色々あったけど、なにはともあれ一件落着、という感じに空気が弛緩しかんしかける。


 が、尋子がその勢いのまま頬に二、三回ちゅっちゅと唇をくっつけてきたりして、それに千尋が目の色を変えた。


「オラッ!」

「いたっ!」


 素早く尋子の背後に回った千尋が母の尻に本気の蹴りを入れる。しっかりバックスイングで勢いをつけたサッカーボールキック。

 そのあまりの本気度に、おお、痛そう……と郁美は本気で引いてしまう。

 いつもとろい千尋のどこにあんな運動能力が秘められていたというのか。


「ちょっと! 郁美ちゃんから離れて! そこまでは許可してません! 許されません! コラ!」

「か、家庭内暴力……! やっぱりあっちの娘はダメ! こっちの可愛い娘のほうがいいよー」

「コラ離れろ! ばか! このばか! 気安く郁美ちゃんに触れるな! もっと反省しろ! あっ、郁美ちゃん。ちゃんと消毒してね、ほっぺ。ばかがうつるから」

「コラァー! ばかとはなんだこのばか娘!」


 突如始まった仁義なき母娘喧嘩にあっけにとられながらも、郁美はまた不思議と笑ってしまう。

 必死にひっぺがそうとしてくる千尋に、引き離されまいとしがみつく尋子。いい加減しんどいので尋子には離れてもらって、リビングの端のほうで思う存分キャットファイトしていただく。


 騒がしい二人から離れてほっとひと息ついた郁美のそばに、いつのまにか幸輔が立っていた。ぽん、と「おつかれ」というように頭に手をのせてくる。

 そのままぐしゃぐしゃと乱暴に頭を撫でてきたのは、ちょっと恥ずかしかった。

 ごめんなとかなんとかしょうもないことを言おうとしたのは視線で制止し、幸輔もそれに対して「あっという間に大人になるなー」とか言って笑っていた。


「まあ、家を急に飛び出すなんてのは子どもそのもので可愛らしいけどね」

「このばか子、反省してない……!」


 いつの間にか揉み合いをやめた二人がこちらを見ていた。

 けろっとした顔で茶々を入れる母に対してそっくりな顔をした娘が戦慄している様子は、いっそ笑えた。


「くっ、くふふふふふ。あははははっ」

「あっ、また郁美ちゃんが笑い袋に。やっぱりばかがうつって……」

「あんたがいっつも郁美ちゃん郁美ちゃんて付きまとってるストレスなんじゃないのお? ほら、ウサギとかって構いすぎると死んじゃうじゃない」

「郁美ちゃんは死なないし! ばか!」

「そのばかから生まれたばか娘があんたですー! ざんねんでしたー!」


 また性懲しょうこりもなく喧嘩を始めたばか母娘二人。ひとり笑い続ける郁美。いい加減もう付き合わなくてもいいだろうとばかりにさっさとソファに座ってテレビを点けるマイペースな幸輔。


 それぞれバラバラでてんやわんやの四人は、昨日より少しだけ家族らしい四人になっていた。


 これが佐倉家の家族だった。




「ねえねえ郁美ちゃん」

「なに」


 十一月も二週目に入ったある日の夜。ソファでまどろみかけていた郁美の上着の袖を、千尋が引っ張った。睡眠のいちばん気持ちのいいところを邪魔されて、郁美の返事は少しだけ不機嫌な調子だ。

 図太い千尋はそんなことには構わず、郁美の身体を端に押して一人分が座れるくらいのスペースを作ると、そこに身体を押し込んでくる。千尋の高めの体温が郁美に伝わってきて、甘い匂いもあいまってまた郁美を眠りに誘う。


「ちょっと! 起きて!」

「なに……。ああ、わかった。ごめん。ちゃんと部屋で寝るし」

「そうじゃないの」


 じゃあなんなんだ、と郁美は軽くにらむ。体育ではりきりすぎて疲れているのだ、正直放っておいてほしい。

 千尋はにらまれても怯えるどころか満面の笑みを浮かべた。

 どうやら目が合ったのが嬉しかったらしい。わりと安い幸せである。


「あのね、わたし郁美ちゃんのこと大好きって言ったでしょう」

「えっ」


 急に何を言い出すのか。


 大好き大好きと言われるのはもはや日常になっていたが、こんなふうに改めて言われるようなことはほとんど初めてだった。それこそ、いつかの「宣戦布告」以来だ。

 なんのつもりなのだろう。


 もしかして、もしかして、ちょっと考えたくないけどもしかして……。

 恋愛、というかなんというかそういうお話になってしまうのだろうか。

 それはちょっと予定表にない。想定外。そんな演習はしておりません。


 困る!


「あっ、あのな、千尋。ちょお落ち着いてほしいねんけど」

「あのね、郁美ちゃんて好きとかそういうこと言ってくれないじゃない?」


 聞けよ。


「この前もお母さんに言いかけて、結局は『嫌いじゃない』とかヘタれちゃったじゃない? ああいうのってよくないと思うの。慎み深いのはいいことだと思うけど、あんまり慎み深すぎてもちょっと寂しい。主にあたしが」


 おや?


 尋子の話が出てくるということは、どうやらそういうお話ではないらしい。

 そう思ったとたん、自意識過剰な自分が恥ずかしくなってくる。

 耳はじんじん熱く真っ赤になり、頬も朱に染まる。


「あれ? なんか郁美ちゃん顔赤くない?」

「ね、寝そうになってたし、ぽわーってなってるんちゃうかな」

「ふふ、赤ちゃんみたい」


 どうやら納得してくれたらしい。


「それでね、やっぱり何につけても素直じゃない郁美ちゃんには、もっと自分の気持ちをストレートにあらわす訓練が必要なんだと思うの」

「訓練」

「そう、訓練。恥ずかしがらずに好きな人たちを好きって言えるように、訓練」


 安心するのは早かった。

 郁美が危惧きぐしたような方向ではなくとも、じゅうぶんめんどくさい話だった。


「だから、これから寝る前に『大好きだよ、千尋』って言うようにしましょう」

「アホ」


 ぱちん。


「ぶ、ぶった! 郁美ちゃんがぶったー!」


 思わず手が出てしまった。軽くだがぱちんと頬を平手打ち。


「あっ、つい手が勝手に……」

「最近ちょっとひどくない? ツンデレーションがひどくない?」

「ツンデレ言うのやめえや」


 ぱちん。


「二発目!」


 返す手で反対の頬をぶってしまった。

 どうにも千尋に気を許したとたん手が出るようになってしまい、郁美は自分の右手がおそろしい。

 というか自分でも自覚していなかったが、眠りをさまたげられたのがわりと真剣に不快だったらしい。

 さすがにやり過ぎたと思い、よしよしと患部を優しく撫でてやる。みるみるうちに千尋の顔がゆるみ、ちょっとこのお手軽さもどうなのかと疑問になる。


「ごめんごめん。かんにん」

「えへへ……。許してあげます」


 ここで「大好きって言ってくれないと許してあげない」などと言われたら誰も望まない三発目が飛ぶところだったが、さすがにそれはなかった。

 千尋が学習して自重したというよりは、単純に撫でられて幸せな気分になってしまっただけ、という感はあるが。


「えっと、大好きとかそういうの、よう言わん」

「ううー」

「……嫌いじゃないって、わかるやろ。……わかってよ」

「うっ、うん……」


 切なげにつぶやいたひと言がなにやら胸をきゅんとさせたらしく、千尋はおとなしくうなずく。

 その隙に郁美は立ち上がり、自室へ退散する。


「あっ」


 我に返った千尋が郁美の背に向かって言う。


「もう、絶対いつか言ってもらうんだからね! 言わせてやる!」


 郁美は答えず、後ろ向きのままひらひらと手を振った。




 手紙を書こうと思う。

 遠くに住んでいる、お母さんに。


 わたしは元気でやっていると。父は新しい妻を迎え、佐倉家には二人ほど一筋縄ではいかない女性メンバーが増えたけれど、楽しく健やかに家族をやっていると。


 新しい妻はきれいでかっこよく見えて実はけっこうアホだったり、同い年の女の子はとんでもなくうざったいところがあるけれど、自分はこの人たちが大好きなのだと。


 本当に、千尋と尋子のことが大好きなのだと。


 そして、それでもやっぱり、わたしのお母さんはお母さんひとりだけなのだと。


 手紙を書こう。

 好きだという気持ちを、便せんいっぱいに込めて。


 (終)

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