#20 お母さん


 あの日の夕食の強烈な本音のぶつけ合い以降、郁美いくみはいろいろなことがうまくいくようになったと感じていた。


 実際、千尋ちひろとだけではなく、姫子ひめこ果歩かほとも、きちんと距離が近付いたと思う。取り繕うことは減り、本音で話せたり、頼ったりできるようになった。

 肩の力が抜けたのだろうか。見栄を張るのをやめた、とも言えるのかもしれない。


 それはふだんの振る舞いにも現れていた。

 郁美は隙のない優等生の雰囲気を捨て去り、ときどき羽目を外したりビビったりする、ふつうの十六歳の顔をするようになっていた。いままでだってクラスメイトたちとはふつうに同級生らしい交流をしていたが、最近はとくに「表情が柔らかくなった」と言われるようになった。


 言い換えればそれは、相手が踏み込んできやすい雰囲気になったということだ。

 それで佐倉さくら家の妻・尋子ひろこもくだけた物言いをする気になったのだろう。




「あー、美味しい。やっぱり秋はサンマね」


 旬の魚の塩焼きが並んだ夕飯の食卓に尋子は上機嫌だった。たっぷりの大根おろしをのせて、すだちをしぼって、これぞ秋の味覚! とばかりに堪能している。

 テーブルには他にサツマイモの甘煮に長芋の梅肉和え、秋ナスの揚げびたし、椎茸の山椒炒め、おあげとワカメの味噌汁。

 酸いも甘いもしょっぱいも、しっかりバランスを考えて並べてある。サンマの脂でこってりとした口を梅肉和えがさっぱりさせてくれるのがポイントである。


 ふだん通りとはいえ、それなりに心を尽くしたのだ。自分の用意した夕食を褒められて、郁美も悪い気はしない。笑顔で尋子の旺盛な食欲を見守る。


「千尋はねー、こういうの作ってくれなかったもんねー。郁美ちゃんがお夕飯作ってくれるようになってホントよかったよー。大人になるとさ、ハンバーグとかばっかりじゃちょっとしんどいときもあるのよ」

「むー」


 尋子の放言に千尋がむくれる。父・幸輔こうすけが「えー、僕は千尋ちゃんの作るハンバーグとか好きだけどねー」とフォローするが、そもそも幸輔は何を食べてもうまいと言うのが周知の事実となっていたので、あまり慰めにはなっていない。


「お酒のおつまみにもいいの、作ってくれるもんね。はー、幸せ」


 翌日は土曜ということもあって、大人二人には少々お酒が入っている。幸輔はビール、尋子は日本酒。

 尋子は意外にも酒好きのようだ。お酒を造る杜氏とうじの肌はきれいと言うし、そのあたりも関係しているのかもしれない、と郁美は思う。知らんけど。


「そう言ってもらえると、作るかいがあります」

「まー可愛い。君もこういうことを言いなさい」

「そういうことを言われるとお母さんに作る気が失せます」


 お行儀良い答えの郁美を引き合いに出され、千尋が憮然とした表情を作る。

 他愛ないじゃれ合いをする尋子と千尋はやはり似ている。愛くるしいお姫さまに見えた千尋がその裏に激しい戦士の顔を隠していたように、尋子もきれいな大人の女性に見えてけっこうな女傑だったりするのかもしれない。


「最近は、千尋と料理教え合ってるから。じき作ってくれるようになりますよ」

「そうだよ! 郁美ちゃんに教えてもらってるもん。お父さんの健康に配慮したメニューなんかも作れるようになるもん。コレステロール低下! 血液サラサラ!」


 子ども二人を見て、尋子が笑う。アルコールが入って少し赤くなった顔は心底嬉しそうだ。


「二人はさー、近頃ぐっと仲良くなったね。おかーさんは嬉しいです」

「あ、お父さんも嬉しいです」


 なんとなくいい話になりかけた流れを幸輔が絶妙な間で崩す。

 が、尋子は「幸ちゃんはもうちょっとビールを飲んでてください」と穏やかにすっこんでろ宣言をして、子供二人に向き直る。


「わたしさ、幸せ。結婚してホントによかったと思う。千尋は毎日すっごく楽しそうだし、郁美ちゃんみたいなすてきな娘はできたしさ。嬉しい」

「お母さん……」

「尋子さん……」


 しみじみと言う尋子に、千尋と郁美は素直に感動する。千尋の鼻の頭が赤くなってたりして、あれは涙が出る兆候だ。

 郁美も泣きはしないが、父がいい人にめぐり逢えたことに感謝したい気持ちになる。


「あとは、郁美ちゃんがもうちょーっとわたしにフランクになってくれたらいいかな。ですます口調やめてさ」

「あっ、はい……じゃなくて、うん」

「すぐには慣れないけど、一緒に暮らすようになってけっこう経ったし。千尋のことも、呼び捨てで呼ぶようになったしね」

「うん……。そ、そうする」

「ふふ。この娘、可愛い」

「郁美ちゃんはすっごく可愛いよ!」

「こっちの娘はもうちょっと空気読んで」


 こそばゆいやりとりも、わざと冗談めかして言う尋子の気遣いと、完全に天然で首を突っ込んでくる千尋のおかげで、どうにか素直に受け取れる。外野に追いやられた幸輔も、父親らしい慈しみを演出してるっぽい笑顔で見守っている。


 ここで終わっていれば美しいホームドラマの一シーンだったが、そうはいかないのが尋子と千尋に流れる血筋というものなのかもしれない。


 いい空気にウキウキの尋子がいいことを思いついた、というような顔でこんなことを言い出した。


「じゃあじゃあ、お母さんて呼んでくれたりなんかしちゃったりして」

「え、それはちょっと」


 冗談は苦笑で受け流す。

 郁美にとって尋子の要求は「冗談」だ。


「え、でもでも、やっぱり言ってほしいっていうか。ほら、簡単だよ?」

「いやでも、それはやっぱり、えへへ……」


 気持ちよく酔っているのか、尋子はいつもより積極的だ。


「えー、やだやだ。ね、呼んでよー。お母さんて言ってよー」

「…………」

「お母さん、ちょっと酔いすぎ……。空気読めてないよ?」


 しつこい尋子にさすがにやばいものを感じたのか、ふだんは空気の読めないことに定評のある千尋その人が抑えにかかる。

 しかし、相手は大人の分別を身に付けたはずとはいえ、言ってみれば大きくなった千尋である。幸輔もそれとなく落ち着かせにかかるが、効果がない。


 うわべだけとって見れば、どうということのない要求だった。

 再婚家庭にはありがちな、ほんの少しデリケートなイベント。ちょっと勇気がいるかもしれないが、乗り越えてしまえばなんてことのない課題。

 尋子はそれを酔いと明るい雰囲気を利用して済ませてしまおうと思ったのかもしれない。


 尋子からすれば、自分の娘の千尋はいつ呼び出したのかわからないくらいはじめから「お父さん」呼びをクリアしていたのだ。自分も呼ばれてみたいな、というくらいの軽い気持ちだったのは否めない。


 だが、千尋にとっての父とは違い、郁美にとっての「お母さん」はもう少し特別なものだった。


 危険な兆しを感じたらしい千尋の顔が青くなる。


「わたしお母さんて呼んでほしいもん! ねーねー郁美ちゃん、おねがい」

「しつっこい!」


 とうとう郁美が爆発した。


 千尋が天を仰ぐ。

 すてきで可愛いほうの娘の突然の豹変に、尋子は固まっている。

 幸輔はやや早く立ち直ったが、そもそもの非が尋子のほうにあるので娘をたしなめるのにためらい、逡巡している。公平なのは美徳だが、こういうときにまで発揮しなくてもいいだろうに、と郁美の冷静な部分がつぶやく。


 ここですぐ適当に謝ったりすれば冗談で済んで場を収められるのに、根本的に怒りを発散することに慣れていない郁美にはそれができなかった。

 自分でもわかっているのに、引っ込みがつかなくなって悪いほうに踏み切ってしまう。


「お母さんは、わたしのお母さんは一人だけや!」


 郁美が駆け出した。

 尋子が「待って!」と制止するのも聞かず、バタンと玄関を出て行く音が響く。


「郁美!」

「待った! お父さん、あたしに行かせて!」


 幸輔が追いかけようとしたのを止めて、千尋が宣言した。

 ばかな母を呆れた顔でみやりながらも、「お父さんは、お母さんについてあげて」と言ってやる。

 尋子は酔いも一気に冷めて青ざめてしまっている。幸輔は一瞬迷う様子を見せたが、「ちゃんと帰ってくるんやで」と言ってうなずくと、尋子の肩に手を置いた。


「行ってきます!」


 千尋が走る。

 今朝は遅刻しそうになってうんざりするくらいたくさん走って、今日はもう一メートルだって走りたくないと思っていたのに。

 でも、いままでの人生でいちばんの走りを見せなきゃいけない。


「ていうか、もう!」


 街灯の下を駆けて。


「郁美ちゃん、やっぱ短気すぎ!」

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