#19 手紙


 郁美いくみが帰宅してポストを見ると、そこにはダイレクトメールに混じって一通の手紙が入っていた。

 白い封筒の表面には、エンボス加工で一羽の鳩が浮き出ている。抽象化されたそのシルエットがあるほかは模様のないシンプルな図柄で、紙質の良さもあいまって上品な雰囲気が出ていた。


「かわいいねえ、その手紙」

「あ、うん。そやね」

「郁美ちゃんに?」

「あー、うん」


 一緒に帰ってきた千尋ちひろが横からのぞきこんできて、軽くびくっとする。

 べつにやましいことはないのに、なぜか体が反応してしまった。


「あ、溶けちゃう溶けちゃう」


 千尋は手元のコンビニ袋を見て、慌てて靴を脱いでキッチンに向かう。帰りに寄ったコンビニで新製品を物色し、アイス三つのどれにしようか二十分近く悩んだあげく、結局すべて買ったのだ。一緒にいた姫子ひめこはなぜか大ウケしていたが、郁美は呆れてしまった。

 そろえずに脱ぎ散らかした靴は片方がひっくり返っていて、郁美はそれを「だらしない」とつぶやきつつ直してやり、自分も家に上がる。


 差出人を詮索されなかったことに、少しだけ安堵する。

 べつに隠す必要もないのだけれど、やはりホッとしてしまうのは否めない。


 郁美宛てのその手紙は、母からのものだった。




 夕食の片付けを終え、郁美はひとり部屋に戻っていた。

 開封せず机の上に置いておいた手紙を手に取り、はさみで封を開け、ベッドに腰掛ける。

 母とは定期的に手紙のやりとりをしている。月に一、二通ずつくらいだろうか。現在は府外に住んでいることもあって、直接顔を合わせることはほとんどない。もうずいぶん長いこと会っていない。


 手紙の内容はとりたててどうということもない、近況報告のようなものだった。

 再婚のことは前回の手紙で伝えてあったが、特にそれについて言及するわけでもなく、軽く触れる程度だ。短い祝福と、仲良くできるといいねというふわっとした励まし。

 さっぱりしているなと思うが、どうコメントしても角が立ちそうな気がするし、このくらいがちょうどいい塩梅なのかもしれないとも思う。


 実際、他人事なのだ。

 特に冷淡なわけではなく、それが線の引き方というものなのだろう。

 母の名字はもう変わっている。本人からすれば「戻った」という感覚だろう。

 佐倉家の人間ではないから、佐倉家の構成員が変わったところで母がどうと言うものでもないのだ。

 他の人からすれば別の意見があるのかもしれないけど、少なくとも郁美にはその態度が分別ある大人のものだと思えた。

 それに、佐倉家の人間でなくなっても郁美の母であることに変わりはない。


 母の仕事はうまくいっているようだった。

 意外にも、父と結婚する前はけっこうな仕事人間だったらしい。郁美の知らない顔だ。

 現在はすっかり昔の顔を取り戻したようだ。今も大きな仕事が山場を迎えているらしく、それに触れた箇所はそこだけ明らかに生き生きとした筆致で、露骨さに苦笑してしまう。


 文面から伝わってくる性格は、かつて主婦としてこの家で暮らしていた母とはまるで違っている。

 でも、それもずいぶん前のことだし、それからずっと手紙でしかやりとりをしていないから、今ではあまり違和感を覚えなくなっていた。

 郁美にとっての「母」像が塗り替えられ、違う姿に上書きされている。

 上書きも何も、母という生きている人間はいつだって一人しかいないのだけれど。


 返事を考える。

 千尋とのことは、ちょっといろいろありすぎてどう書いていいかわからない。

 いっそ苦悩していたなら思いの丈を綴ることもできただろうが、悩んで迷走して、励まされて、爆発して、逆襲を受けて、するっと解決してしまった。古い映画のコピーじゃないけど、「落ち込んだりもするけど、私は元気です」という感じで完結してしまう。オチがない。


 まあべつに千尋や尋子ひろこのことを書く必要もないか、と思い、それなら最近レパートリーが増えつつある洋食系メニューのことでも、と便箋を探し始めたところで部屋の扉がノックされる。


「はい?」

「郁美ちゃん、わたしわたし」

「なんやそれ詐欺みたいやな」

「へっへっへ、おねえちゃん今どんなパンツはいてんの」

「それちゃうし共通点電話だけやしセクハラやし」


 自分からふったとはいえだいぶ調子こかれとんな、と思いつつベッドから立ち上がる。

 いっそ放置してやってもよかったが、セクハラがエスカレートしそうな気もするので素直に扉を開けた。


「アイス食べよ」

「あー、うん。ありがと」


 冷気ただようコンビニ袋(冷凍庫にそのまま突っ込んだらしい)を頭の横に下げた千尋がそこにいた。


「あんたそれ自分で食わんでええの」

「え、半分こしよーよ。二つ二人で半分ずつ」

「ええけど。お金いる?」

「んー、今度別の買うときおごって」

「ほんまアイス好きやな」


 千尋を迎え入れ、小さなテーブルの横にクッションを敷いてやる。先週の学校帰りに生活雑貨店で買ったそれは既に千尋専用と化していた。


「あれ、抹茶のがない」

「あ、それはお風呂上がってから食べようと思って」

「まだ食べるん」

「まだひとつも食べてないよ?」

「あ、いやそやなくて、えーと、めんどくさいな。なにキョトン顔しとんの。わかるやろ」

「え?」

「こいつほんま……あー、食べすぎなんちゃう」

「だいじょうぶ!」


 無根拠な笑顔がまぶしい。

 そこには肥満や腹痛への恐れが一切感じられず、いかにも千尋らしいイノセントさにあふれていた。


 まあそれならそれでいいか、と千尋への小言が増えてきてしまっているのを半ば自覚していた郁美はコメントを差し控える。あんまりいろいろ先回りして世話焼きみたいになるのもちょっと気持ち悪い。そんな自分を見た姫子の反応も目に浮かぶし、何も自らアホを喜ばせてやる必要もない。


 でもスタイルいいしなあ、結構ダイエットとか気にしそうに見えるけどなにげに太らないタイプだったりするんかなあ、べつにええけどなんや腹立つなあ……。


 幸せそうにアイスをぱくぱく食べる千尋を複雑な気持ちでながめながら、郁美は手紙の返事を明日にまわそうと考えていた。明日の英語の予習もあるし、千尋との会話を楽しむのも悪くないと今では思える。


 ちなみに残った一個のアイスは千尋が風呂に入っている間に尋子が食べてしまい、郁美に泣きついてきた千尋をなだめるのにゆうに一時間を要して、英語の予習は翌朝にまわされるのだった。

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