#18 愛されモテカワガール


 物語は終わらない。


 週末の休みも迫った金曜、佐倉さくら家の朝はせわしない。鏡の前でぐずぐずとヘアブラシをいじる千尋ちひろの後ろに、不機嫌そうにれた郁美いくみが立っている。


「千尋。まだ?」

「えーっと、ここがね、ここのところがね。なんかも、ぼわあーって。ぼわあーってなって、まとまってくれないの」


 湿気の多い日ってこうだからイヤ、と泣きそうな顔でふわふわの髪と格闘する千尋に、とっくに身支度を終えてあとは家を出るばかりの郁美は苛立ちを隠さない。とんとん、と足を軽く鳴らし「はよせえや」とアピールする。


「ね、どう思う? ここどう思うー? 変だよねえ、やっぱり変だよねえ。あーもー、いっそ結んでったほうがいいのかなあ」

「もー、そんなんたいして変わらへんし。どっちでもええやん」

「どっちでもいいことないでしょう!」


 不用意なひと言に噛みついてくる千尋に気圧けおされそうになるが、時間は待ってくれないのだ。郁美は千尋の上着の裾がスカートにひっかかってしまっているのを目ざとく見つけ、それを直してやりながら、適当な言葉でお茶を濁そうとする。


「あーもー、どっちでもだいじょうぶやって。そのままでもおっけー、可愛い可愛い」

「えっ、そお? 可愛いかなあ? 郁美ちゃん、あたしのこと可愛いと思う?」

「うんうん、今日もすっごくかいらしいし。そやからはよ学校いこ、な?」

「うふふ、そっかー。郁美ちゃんこんな感じの髪好きかー」


 人の言葉の意味を都合よく取り違えてくれるが、わりといつものことなので突っ込まない。そりゃ可愛いことは可愛いが、嬉しそうにニヤニヤとする表情はだらしなくて、率直に言ってこいつもうほんまめんどくさいわーという感じだ。


 郁美は千尋に遠慮するのをやめた。

 それがいちばん、自分にとって自然なことだったし、多少きついことを言ってもそれでへこたれるような千尋ではなかった。

 郁美が思っていたより、ずっとずっと千尋はタフなのである。


 千尋は図々しくなった。

 郁美のご機嫌をうかがうような行動は減り、より自分の気持ちを前に押し出すような振る舞いが増えた。

 郁美のほうでもそれをうまくあしらえるようにはなったが、時には不意のアプローチに虚を突かれて顔を赤くすることもままある。

 そうすると千尋が調子に乗るから、郁美としてはもう少し動じないメンタルを身に付けねば、と思うのだけれど。


「ほら、もう遅刻リーチかかってんねんけど。走るよ!」

「はーい! 置いてかないでね!」

「あんた置いてくとぴーぴー騒ぐからようせんわ、そんなん……」


 行ってきますの挨拶もそこそこに、家を飛び出て走る。

 体力のない千尋が早々にスピードをゆるめ、「だめ、もう今日遅刻でいい、それが運命、デスティニー」などと弱音を吐き出したので、手を掴んでひきずるようにして無理やり走らせる。

 手を握ってもらったのが嬉しかったのか、現金な千尋は荒い息を吐きながらも嬉しそうな顔をしている。一日の始めから甘やかしてしまった、と後悔の念が郁美を襲う。


「リボンずれてる! 教室入る前に直し!」

「ええ~、直してくれないの~?」

「…………」

「あっ、すみません。調子乗りました」


 そんなふうにして、佐倉家の朝は始まる。




「最近なんか、ちっひーの肌ツヤッツヤやね」


 もりもりとビーフカツサンドを口に運びながら、姫子が言う。

 いつものお昼。一年一組の教室で机をくっつけて、郁美と千尋と姫子の三人が昼ごはんを食べている。

 ただ、今日はいつもとちがってもう一人ゲストが加わっていた。


「前からきれいやったけど……。たしかに、少し肌艶が増したかも」


 卵サンドを手に言うのは果歩だ。

 いつものごとく三人が弁当を広げたところに通りかかって、姫子に捕まったのだ。特に断る理由もなく、果歩はおとなしく昼食に加わった。


 果歩は相変わらず一人でいることが多かったが、最近は少しずつクラスメイトと話す場面も見られるようになった。姫子爆発事件を華麗に仲裁したことで、クラス内で一定の尊敬を勝ち得たらしい。

 敬意という意味では、以前からその独特の存在感で尊重されてはいたが、それは距離の遠さという形で表れていた。要するに近寄りがたかったのだ。

 しかし、ほとんど接点があるわけでもない(と思われていた)郁美や姫子を止めに入ったのが転換点になった。果歩にも他人と関わる意志がある、ということが初めて認識されたのだ。


 きっかけを作った当人である姫子も、いろいろちょっかいをかけている。

 内気な果歩はあまり表情を変えなかったが、それは感情を表に出し慣れていないだけだ。そのあたりはうっすら姫子にもわかったようで、あまり反応が返ってくるわけでもないのにめげず、いろいろかまったりしている。


「そっかなー。べつにトクベツなにかしてるってわけじゃないんだけど」


 平和そうな顔でのんびり言う千尋の顔は、たしかにツヤツヤと輝く玉の肌だ。今日の弁当は郁美担当で、幸せそうにそれを頬張っている。

 ちなみに弁当の中身はキノコの炊き込みご飯、小芋の含め煮、だし巻き卵、ささ身の梅肉はさみ揚げなど、和風でまとめられている。ご丁寧にデザートとして別のタッパーに剥いた柿までついていた。


「まあ、ツヤツヤにもなるか」

「うん、ツヤツヤにもなるかも」


 姫子は楽しそうにニヤニヤと、果歩は無表情の中にわずかな呆れのニュアンスをにじませ、二人で顔を見合わせる。それから意味ありげな視線を郁美に向けてきた。


「な、なに……」


 ぶしつけな視線を向けられ、少したじろぐように聞き返す。しかし、言わんとすることはなんとなくわかっている。


「べっつにー。ただ、最近なんかいい感じっていうか、仲ええなーって思って。二人」

「えへ、やっぱり~?」


 とぼけようにも笑いを抑えられずニヤニヤと崩れた半笑い状態(わりとお見せできない感じ)で言う姫子に対し、千尋が嬉しそうに反応する。

 また調子づかせて、と頭が痛いのは郁美だ。


「呼びかた、変わったし。呼び捨てするようになったね」


 果歩も冷静に指摘する。


「べ、べつにええやん! おんなし家に住んでんねんもん。呼びかたくらい、気安うなりますう!」


 よせばいいのに郁美が期待通りの反応をするものだから、姫子はいっそうニヤニヤしてもはや面白がっているのを隠そうともしない。

 話題になった千尋も千尋で満面の笑みを浮かべている。郁美がつい顔を見てしまうと、ばちこん、と強烈なウィンクを送ってくる。

 そういうのええから。


「そう、なんていうか、あたしたち……姉妹なの。呼びかたに『さん』なんていらないの。そしていずれは郁美ちゃんがあたしを『おねえさま……』と呼ぶ日が来るの。熱い吐息と一緒に」

「きっしょいなもう!」


 調子に乗りすぎた自称おねえさまの頭をはたく。

 叩かれたくせに、千尋はニヤニヤと嬉しそうに頭をさすっている。そういう種類の心の強さはためにならないと思う。


「ええやん、おねえさま。言うたったらええやん。キャーオネエサマーって」

「冗談! 千尋、でじゅうぶん」


 迷惑な姫子の提案は一蹴する。というか「おねえちゃん」とかでなく「おねえさま」というのがまたふざけている。


 冗談抜きに、千尋を姉と呼ぶのには抵抗があった。

 好悪の問題ではない。なにか、それは決定的に「ちがう」という気がした。

 根拠はいまいち、言語化できていないけれど。


「ほんなら、山田ちゃんは? クミはいつまで『山田さん』て呼ぶん? あんたら仲良しやん。なんやときどきこそこそ話してるやん、知らんけど」


 アホのくせに鋭い。

 姫子にはめざといところがある。基本的に感情を表に出さない果歩が、郁美の前ではわりと表情豊かになる、ということに気づいている。


「べつにええやん、山田さんでも。関係の遠い近いは、呼びかたの問題とちがうやろ」

「ふーん、ごもっともやね。でも、山田ちゃんのほうではまたちゃうかもしれんやん」


 えっ、と果歩のほうを見ると、無言だが少し唇をぷるぷると震わせるような感じで、なにか言いたげな目線でこちらを見ている。


 期待されている……?


「えっ、あの、ほんなら……。果歩さん、とか?」

「もう一声!」

「か、果歩ちゃん?」

「まだまだ!」

「……果歩」


 姫子の調子のいい合いの手についつい乗せられてしまったことに気づき、とりあえず頭をはたいておく。

 それからハッと不安になって果歩のほうを見ると、わずかに頬を染めた果歩は、めずらしくそれとわかるくらい微笑んでいた。


「おおー、レア……」


 姫子の感心するような声に、シャイな果歩はすぐ表情を戻してしまう。しかし、こほんと軽く咳払いして、郁美のほうに向き直って言葉を返す。


「郁美……ちゃん」


 例えるなら希少な野生動物が近付いてきて手の平から餌を食べた、というような謎の感動が郁美を襲う。嬉しいんだが照れくさいんだかよくわからない気持ちでとりあえず、えへへ、と笑ってみる。はにかむ二人。


 姫子もうんうんうなずいたりして、なにやらちょっとした感動ムードに包まれつつあるなか、千尋だけはひとりぶっすーと、それはそれは不機嫌そうに頬を膨らませていた。


「浮気……」


 いつもとうってかわってトーンの低い不吉な声でつぶやく千尋はそのまま「郁美ちゃんてタラシ……スケコマシ……愛されモテカワガール……」と続けて呪詛じゅその念を送り、それからウーッと唸って果歩を威嚇いかくする。その姿はふわっふわの室内小型犬そのままで、怖いどころか愛らしいくらいだったが、繊細な果歩はそれなりに怯えていた。


「こらっ、千尋! ステイ! ステイ!」


 しつけのなっていない犬をたしなめる郁美を見ながら、姫子は心底面白そうな顔で笑うのだった。

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