#17 きみは太陽



「わたしは、わたしは……あんたとなんて、一秒も一緒にいたくない!」


 ひどい、あんまりだ。こんな無法が許されていいわけがない。

 なんだって千尋ちひろのような子がこんな目に遭わされなければいけないんだろう。

 なんだって千尋のような子をこんな目に遭わせてしまっているんだろう。


 ほかならぬ自分がやっていることなのに、そう思う。


「……もう、わかったやろ。こんなんあんただってうんざりやろ。もう失望してしまったやろけど……仲良しこよしなんて、あきらめて。再婚した先の子がこんなひどいのんで、気の毒とは思うけど。それはわたしも同じや。がまんして、あと何年か過ごそ」


 千尋が泣いている。

 ぼろぼろとこぼれるのは真珠の涙だ。ザ・美少女はこんな崩れた顔も可愛らしく、そうさせた張本人の加害者にすら痛ましい気持ちを揺り起こさせる。


 たぶん、生まれて初めてこんなひどいことを言われて。純粋な好意を最悪の形で裏切られて。しばらくは立ち直れないかもしれない。


 そんなことはなかった。


「それでも決めたの! 好きになってもらうって! 郁美いくみちゃんにぜったい笑顔を向けてもらうって!」


 千尋の声が響く。


「え」


 きっと顔を上げた千尋の瞳には、確かな意志の光が宿っていた。

 立ち上がったその姿は凛々しく、郁美は美術の教科書に載っていた半裸の女神を連想した。あれはたしか、ドラクロワ。


「郁美ちゃんがあたしのこと嫌いだってかまわない。ううん、かまうけど。それはとってもとっても、ヤだけど。それでも、にっこり受け容れてもらえるなんて奇跡みたいなことなんだから。あたしは奇跡には頼らない。自分の力でやってみせる」


 今度は千尋が立ち上がってテーブルにばん、と両手を突いた。衝撃で食器が揺れる。


 突然反旗をひるがえした千尋に、郁美は気圧けおされていた。おとなしく言いたい放題言われるがままだったか弱い少女はもういない。


 そもそも、郁美にはそう見えていただけで、実際にはそんな子は最初からどこにもいなかったのだ。


「あたしは、あたしは絶対絶対ぜったいぜったいぜぇーったい郁美ちゃんの心を手に入れるんだから! 大好きだって言わせてやるんだから! それまでついて離れない! そうなったらなおさら離れない! ずっとずっとずーうっと一緒にいる!」


 無茶苦茶だ。


 千尋の言葉は宣戦布告に似ていた。

 いや、それ自体はずっと前から、それこそ出会ったその瞬間から叩きつけられていたのだ。


 千尋は迷わない。いつでもまっすぐに、激しく恒星のように強烈な光を放ち続ける。


 周囲のことなどお構いなしに強烈な輝きで全ての障害をき尽くす彼女は、つまり太陽だった。


「初めて郁美ちゃんに会ったとき、あたし全部わかった気がしたの。あたしがいままで生きてきたのはこの瞬間のためだったんだって。いっつも家にひとりだったのも、うちにお父さんがいないのも、全部郁美ちゃんに会うためだったんだって」


 郁美は暗い家でひとりぼっちの千尋を想像した。いつも笑顔でみんなに好かれているこの子が、自分の家にひとりきりで座っているところを。

 うまく想像できないし、あまり想像したくなかった。


「あたしだってやっぱりひとりは寂しかった。お母さんは大好きだけど、家にいてくれる時間は少なかったし。他のおうちみたいにせめてきょうだいがいたらって思ったことも、やっぱりあった」


 自分はどうだったろう。ひとり家で父の帰りを待っているとき、きょうだいが、もしくは母がここにいてくれたらと思ったことがあっただろうか。

 思い出せない。そういうことは考えないようにしていたのかもしれない。

 それは父への、そして自分たちとは別の道を歩くことに決めた母への裏切りになると思っていたのかもしれない。


「だから、やっと会えたと思ったの。郁美ちゃんとお話したりするうちに、一緒にいたいって気持ちがどんどんふくらんでいった。寂しいからだけじゃない。お父さんのためにがんばる郁美ちゃんが好きになった。お父さんを優しい目で見る郁美ちゃんが好きになった。家族を、大切にする人なんだなって思った。この人のそばにいたいって思った」


 千尋の言った「家族」という言葉に、なぜだかびくりと体が震える。


「あたしは郁美ちゃんが好きなの! 大好きなの! なにがなんでも、郁美ちゃんと好き好き同士の輝かしい未来を手に入れるの!」


 その目にもはや涙の影はない。

 落ちた涙と一緒にはかなさや弱さを捨て切って、残ったのは燃える瞳の輝きだ。


「わがままだって思うでしょ? 郁美ちゃんの都合なんて考えなしに、押しつけがましいって、そう思うでしょ? でもいいの、こうなの。わたしは郁美ちゃんの前だとこうなっちゃうの。大好きだから、大好きな郁美ちゃんの前ではそうするって決めたの」


 高らかな宣言だった。


 傲然ごうぜんと言い放つ千尋はお姫さまなんてものではなく、女王すら超えていっそ暴君のようで、それゆえにあらがいがたいきらめきでもって君臨していた。暴力的なまでに美しかった。


 降参だ。


「……う、えっと……うう……」


 言葉が出ない。あそこまで身勝手な罵詈雑言ばりぞうごんを、それをはるかに上回るくらい身勝手な愛の宣言で返されては、もはや何も言えなかった。

 かなわない。郁美には、千尋の激しい熱情に逆らう力など残っていない。

 抵抗の意志は根こそぎ奪われていた。奪われついでに、心の一部も持ってかれていた。


 つまり、認めたくはないけどちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、魅了されてしまった。


「わたしは……えっと、その……」


 とにかく何かを言おうとするのに、ぜんぜん頭が働かない。耳が、顔全体が、熱い。


 こんな気持ち、知らない。


「……わかって、くれた?」


 勝利を確信した千尋は完璧な笑顔でコケティッシュに首をかしげ、いつの間にやらすぐそばまでやってきて郁美の手を握る。両手で、これ以上ないくらいの愛おしさで包み込むように。


 郁美はその顔が見られない。


 目を逸らしたのはうしろめたさからではなく、自分の中にいきなり芽生えた、戸惑いに似た何かのせいだ。

 その顔からどんな感情を読み取ったのか、千尋は太陽の美貌に蠱惑こわく的な笑みを浮かべ、嬉しそうにささやく。


「大好きだよ、郁美ちゃん。だいすき」




 その後の話をしよう。


 すっかり冷めてしまったロールキャベツを温め直しながら、千尋は料理を教えてほしいと郁美にねだった。料理自体はもうじゅうぶんなくらいできるじゃないかと指摘すると、郁美の好きな薄味を覚えたいのだという。


 千尋と郁美の得意分野はまるで逆だ。ラザニア、ハンバーグ、ロールキャベツ、ミートローフ……やや濃いめの洋食が千尋の領分。それに対し、かぶら蒸しだとか、はもきゅうだとか、和風のおばんざいが郁美の得意料理。

 まだまだ男盛りの父・幸輔こうすけにとっては洋食のはっきりした味も魅力なのかもしれないと思うと、郁美も千尋に料理を教わろうという気持ちになった。

 家事は分担して、夕飯を作るのは交代で担当して。


 強烈な宣言の裏で、千尋も歩み寄ろうとしているのかもしれない。

 郁美が勢いに任せて言った不満の数々に、きちんと対応しようとしているのだ。


 二人はまだお互いのことをほとんど知らない。


 郁美は欺瞞ぎまんに満ちた態度を捨てて、千尋は郁美の心に寄り添って、二人はいま初めて出会ったのだ。


 これから長い年月を同じ家で過ごし、互いの心を一本のり糸にして。


 やっと郁美と千尋の関係が始まる。

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