#16 あんたなんてだいきらい


 もの言いたげな姫子ひめこの視線を受けながらも、いつも通りの昼ごはんの時間を千尋と三人で過ごし、その後の授業もつつがなく終え、あっという間に放課後になった。

 大きな課題を背負っているせいで、授業の内容は今日もろくに耳に入らなかった。


 姫子は郁美いくみを肘でつつき、「ほんま、きばりや」と言うが早いかさっさと教室を出て行ってしまう。

 それとほとんど入れ替わりくらいのタイミングで千尋ちひろがやってくる。昨日とはうってかわって、憂いのない笑顔だ。


「いっくみちゃーん。かーえろっ」

「う、うん。帰ろか」


 今日も千尋のテンションはしっかり上向き。それに押されて郁美はひきつった笑顔を浮かべる。もはや定番の光景だ。

 ともかく帰ろうと、郁美と千尋は二人連れ立って歩き出した。


 事情を知らない生徒からすれば、あれこれと嬉しそうに話しかける千尋と落ち着いた様子でそれに耳を傾ける郁美、という組み合わせはなかなか絵になっていた。写真の心得がある生徒が見たら、すかさずカメラに収めて「少女たち」などというようなありがちなタイトルでも付けていたかもしれない。

 実際には、聞き手の少女はいつどうやって自分の思いを話そうかということで頭がいっぱいで、さっぱり話を聞いていなかったのだが。


 昇降口を出ると、瓦屋根の門まで続く道なりに山茶花さざんかが花をつけていた。くすんだ緑の間に咲いた赤には、楚々とした美しさと不思議な艶やかさが矛盾なく備わっている。

 郁美がもう少しマシな精神状態だったら、その風景を見て心を震わせていたりしたかもしれないが、もちろんそれどころではない。まったく目にも入らない。

 一方の千尋は、山茶花を愛でるには好みが若すぎた。それに、彼女には路傍の花よりもっと夢中になれるものがそばにあるのだ。


 結局、話を切り出すきっかけをつかめず逡巡するうちに家に着いてしまった。


 ひとまず制服を脱いで部屋着に着替えながら、頭の中でシミュレーションしてみる。

 気まずいけど、ベタに「話があるの」という感じで切り出すしかないのか。いや、さりげなく話の流れの中で小出しにするべきか。


 郁美がブラウスの第二ボタンに手をかけた半脱ぎの状態のままで悶々と考え込んでしまっている間、千尋はさっさと着替えを済ませ夕食の準備にとりかかっていた。

 思考の迷路から抜け出してダイニングに行くと、エプロンを付け、なにかメインディッシュの下ごしらえにかかる千尋の背中が目に入る。鼻歌なんか唄って上機嫌だ。


「あ、また……。今日はわたしがやろ思てたのに」

「うふふー。今日はね、ロールキャベツです」


 結局、千尋が佐倉家にやってきてからこっち、郁美は一度も料理できていなかった。機会を見てやろうとするのだが、千尋がその隙を与えない。奉仕の喜びあふれる彼女は、佐倉家のキッチンを自らの聖域としつつあった。


 お世辞抜きに(そもそも郁美が千尋にお世辞を言わなければならない理由なんてこれっぽっちもないのだけれど)千尋は料理上手だ。そのあたりは母子家庭でフルタイムで働く母親の代わりに家事をしてきた経験があるのだろう。

 よく似た環境にあった郁美にもそれは共通していた。付け合わせや副菜にもきちんと気を配るし、栄養や味の取り合わせ、彩りのバランスにも配慮が行き届いている。


 ただ、正直に言わせてもらえれば、全体的に味が濃いという気がしないでもなかった。

 といっても、一般的にはじゅうぶん許容範囲内におさまっていると言える程度だし、結局は好みの問題というほかない。郁美の個人的な嗜好の問題だ。薄味好きの郁美には若干合わない部分があるかな、というだけだ。

 その郁美の作る料理をずっとうまいうまいと食べてきたはずの父・幸輔こうすけが、料理主任が千尋に替わっても変わらずうまいうまいと食べているのは、まあよしとする。実際、美味しいというのは事実なのだし。

 でも、こう濃い味で洋風の料理ばかり続くと、さすがに和風の薄味が恋しくなる。ことことじっくり愛情込めて鍋を煮込んでいる千尋には悪いが、郁美は根っから京風の薄味好みなのだった。


 その晩は大人たちが両方とも遅くなるという連絡があったので、子どもたちだけで先に夕飯をとることになった。


 向かい合って、二人きりの食卓。食事のさいにテレビをつける習慣はないけれど、なんとなく気詰まりで適当なチャンネルに合わせて流しておく。

 郁美が一方的に感じている気詰まりさではあったけど、千尋は特にテレビがつけられたことを気にする様子はない。


「どうかな、美味しい?」

「うん、ようできてると思う」

「ふふ、よかった」


 語尾にハートマークがつくくらい嬉しそうな声で千尋が笑う。

 まるで新婚夫婦のような会話だが、それを指摘してもあまり愉快な反応は得られそうにないので黙っておく。


 もぐもぐとやっぱりコンソメ濃いめのロールキャベツを咀嚼しながら、郁美は落ち着かない気持ちで千尋の顔をうかがう。

 話をしなければと思うのにどうしてかそれができない。自分の中にフラストレーションがたまっていくのがわかる。


 そんな郁美の気持ちなどまるで知らず、千尋は幸せそうな顔でいる。


「姫ちゃんと仲直りしてくれて、ホントによかった」

「え」


 その話が出てくるとは思わなかった。


「二人はとっても仲良しのお友達同士なんだし、あたしは郁美ちゃんのことも姫ちゃんのことも大好きだし。二人が気まずくしてるの、やだなって思うもの。だから、仲直りしてくれてありがとね」


 べつに、あんたのために仲直りしたんとちがう。


 言葉にはしないが、心に反発の言葉が浮かぶ。


 もとはといえば千尋のせいでけんかするはめになった、というのはちょっとあんまりだから言うつもりはない。さすがにそれはとばっちりだ。


 郁美の中に「千尋のせいで」という気持ちがまったくなかったと言えば嘘になる。自分のせいだという思いに押し潰されそうになりながらも、千尋がいなければこんなことには、と考えたことが一度もなかったわけじゃない。

 とはいえ、それが千尋にとってどれほど理不尽な言いがかりか、というのは理解していた。それは八つ当たりだ。


 でも、でもでも。


 そういうのを抜きにしても、姫子と仲直りしたことに「ありがと」なんて言われるのは、妙に腹が立つ。それはあまりにも図々しい、と言ってやりたい。


 千尋は既に箸を置いていた。

 郁美はロールキャベツを既に飲み込み、しかし右手は箸を持ったまま止まっている。左手のごはん茶碗はまだ温かい。


「姫ちゃんはー、とーってもいい子だから」


 知ってる。あんたに言われんでも、わかってる。


「姫ちゃん、あたしにもすごく親切にしてくれて。……郁美ちゃんとのことも、相談にのってもらったりしたの」


 それも、知っている。聞いてしまったのだ、あのとき。


「正直ね、郁美ちゃんが、なんていうかまだあたしに心を開いてくれないなー、って思うこともあったの。郁美ちゃんは優しいからあたしに笑ってくれるけど、それはなんていうの、気遣いっていうか。そんなふうに感じてた」

「…………」


 なんと言っていいか、郁美はわからない。

 やっぱり千尋を騙しきれておらず、それを指摘されたことを気まずく思う気持ちもある。なのに「優しい」なんて言われるのが耐えられない、という気持ちも。

 千尋がこんな話をはじめたことへの動揺もあった。


「でもね」


 しんみりと目を伏せて話していた千尋が顔をあげ、満面の笑みになる。


「わかったの。郁美ちゃんは『ツンデレ』なんだって」


 ……はあ?


「姫ちゃんが言ってた。郁美ちゃんは結局照れてるだけなんだって。それであたし、わかったの。かたくなに心を閉ざしているように見えるのは、心の奥の熱いパッションを隠しているだけなんだって。その気持ちに自分でも戸惑ってしまっているだけなんだって」


 千尋は話すうちに自分で自分の言葉に酔ってしまったようで、ひとりどんどんテンションを上げて舞い上がっている。ばっさばっさとまつ毛を揺らし、胸に手なんか当てたりして、すっかり自分の世界にひたって戻ってこない。


 ……姫子もずいぶんたいがいなことを言ってくれたみたいやけど、それを数段上回ってこのいけすかんタコがすぼけたこと言うてくれる。


「だから、あたしだいじょうぶなの。郁美ちゃんがどんな顔したって。あたしが手をつなごうとするとさりげなーい感じですっと手を引いたりするのだって」


 やはりバレていた。


「だって、郁美ちゃんは『ツンデレ』なんだもの。そのツンツンは近い未来のデレデレへの大いなる布石だってわかってるから!」

「なに言うてんねやコラァ!」


 若干過剰な、新喜劇のチンピラ役のような台詞が郁美の口をついて出た。


 突然目の前に現れたチンピラに千尋は目を白黒……ではなく、初めて見る郁美の怒りを受け止めきれずきょとんとして、理解が追いついていない。


「つ・ん・で・れェ~? ハッ! 人がおとなしゅう聞いてるんをええことによくもまあベラッベラ好き勝手言うてくれるなあ」

「郁美、ちゃん……?」

「そうやって相手のことなんてぜんっぜん考えんと自分のことばっかのくせに、わかったような顔していい気になって!」


 郁美が急に椅子から立ち上がって、テーブルと椅子が揺れてがちゃん、と耳障りな音を立てた。料理がこぼれたりはしていないが、美味しい夕飯というのんびりした雰囲気は消え失せ、ダイニングの空気が緊張で張り詰める。


 自分のやっていたことを棚に上げて、というのはたける心の片隅でわかっていた。

 でも、止まらない。

 千尋は椅子から立ち上がって怒りに燃える目で見下ろす対面の少女を怯えた目で見つめている。


「あんたは相手の迷惑なんてぜんっぜん考えへんねや! なにが『おねえちゃん』や、たかが数ヶ月ちがうだけのことをへらーっとだらっしない顔で言うて。もうほんっまウザい!」

「それは……」

「味付けもそう。濃いばっかできらい。このロールキャベツもコンソメきかせすぎ。出汁だしはうまみやからってなんでも足したらええもんとちがう。ハンバーグやら揚げ物やら……いいかげんもたれんねん! わたしはもっと薄味が好きやのに」

「え、ええええっ」


 勢いに任せて無茶なことまで言ってしまう。


「甘ったるい声でまとわりついてくるのもいや。ふにゃふにゃへらへらお父さんと話してるんもいや。勝手に家事やるのもいや。腕組んできたときに微妙にムネ当たるんもいや!」


 ああ、言うべきでないことばかりが口を出る。

 自分からも相手からも目を逸らし続けていたツケだ。不誠実の代償を払わされている。

 

 その支払いに千尋まで付き合わされているのは、気の毒としか言い様がない。

 郁美の頭の冷静な部分がそう思う。


「『ツンデレ』? そんなわかりやすい言葉でわたしをわかった気にならんといて。そうやって人の気持ちを決めつけて、相手がほんとうは何を思うてるかなんて考えもせんやん」


 過去の自分に言っているのだ。


 姫子や果歩をわかった気になって、さかしい顔して振る舞っていた自分。

 千尋をばかにして、完全に舐めきっていた自分。


 母のことなんてひとつも考えてあげられなかった、幼いころのばかな自分。


 そうやって責めて、手ひどい言葉を叩きつけて、いっそ泣いてくれれば少しはすっきりするとさえ思った。

 いまの郁美にとって、千尋が泣くのは過去の自分が泣くのと同義だった。

 ばかな自分に罰を与えて、愚かさを思い知らせて、自分の罪を清算した気持ちになれるかもしれない。


 そのかわり、千尋をいけにえにしたという新たな罪を背負う。

 過去のとがだって消えはしない。罪の上塗り。


「わたしは、わたしは……あんたとなんて、一秒も一緒にいたくない!」



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