#14 かわいいあの子


「あの……」

「無理に話さなへんでもええよ。言葉にするにも時間がいると思うし」


 ずんずん歩く果歩かほに手を引かれながら、郁美いくみはしょぼくれた顔で付き従う。

 雨の日の捨て犬みたいに情けない顔をしてんのやろな、と思う。それとも、迷子になったところを見つけてもらった子供か。


 連れて行かれた先は校舎裏だった。銀杏いちょうの木の陰になって、あたりに人気はほとんどない。一応、申し訳程度にぽつんとベンチが置かれている。普段使う者も少ないだろうそれは、不思議とほこりをかぶることもなくきれいに手入れされている。


 迷わずベンチに座った果歩を見て、いつもここで昼ごはんを食べていたのか、と得心する。ひとり銀杏の下で弁当を広げる果歩を想像すると、ひとりぼっちなのに寂しそうというより絵になるという言葉のほうがふさわしく感じる。

 もっとも、それも他人の勝手な印象に過ぎず、シャイな果歩は人並みに寂しいと感じているのかもしれない。


「座ったら」

「あ、うん」


 うながされて、人ひとりぶんくらいのスペースを空けて座る。

 それから弁当の包みを抱えたままうつむき、思い直して半分スペースを詰めて座り直す。果歩は何も言わなかった。

 果歩はこの前とはちがって弁当を持参していた。魚のフライ、茹でたサヤインゲン、プチトマトなど、スタンダードなおかずが詰められて美味しそうだ。

 弁当箱を見つめる視線に気づくと、果歩はようやく硬い表情を崩し「今日は母が気まぐれを起こして」と言って笑った。


「ふーっ……。緊張した」


 笑ったのがきっかけで何かの糸が切れたのか、果歩は大きくため息をつくと、ベンチに全身を預けるようにして姿勢を崩した。

 膝が笑っている。穏やかながら有無を言わせない、毅然とした先刻の様子とは、まるで似ても似つかない。


「柳さん、えらい声出したはんのやもの。なにか変な感じやなとは思ってたけど。いつもニコニコしてはるから、あんな姿は初めて。びっくりした」

「うん、わたしも。あはは……。あの、ごめん。ありがとお」


 果歩は力ない感謝の言葉にひらひらと手を横に振って応えた。珍しく脱力した様子の果歩に、郁美の緊張もようやくほぐれてくる。


 まだ手が震えていた。

 興奮した姫子ひめこに怯えて、というのではない。

 いつも確固とした方針を打ち立てて行動する郁美には、あんなどうしていいかわからないようなイレギュラーな事態は経験がなかった。手の震えは、未知の状況に面してパニックを起こしたしるしだった。


 小心者なのだ。

 いつでも隙の無いように振る舞ってきていたけれど、それは小心さの裏返しに過ぎない。ここしばらくの日々で、郁美はそれをいやというほど思い知った。


「ちょっと、後悔してて」


 紙パックのお茶をひとすすりしてひと息ついてから、果歩が言った。


「この前、余計なこと言ってしもたなと思って」

「それは、だからええって。言ってもらってよかったと思う。ちゃんと活かせているかっていうのは、まあ、まだやけど。わたくしめの不徳のいたすところで」


 おどけて冗談めかして言う郁美に、果歩は困ったように笑う。

 果歩の印象が、以前の冷たく美しい無表情から、こういうふうに困ったように笑う顔で上書きされているのを感じた。こういう顔ばかりしているというよりは、こういう顔ばかりさせてしまっているというほうが正確な気はしたが。

 でも、この顔に安心している自分がいるのも事実だった。


「姫子とはな、なんていうんかな、その……」

「べつに、言いにくいんやったらええよ。無理して聞くつもり、ないし」

「ううん、聞いて」


 果歩は郁美を甘やかす。

 どうしてこんな優しくしてくれるのかは、正直わからない。

 けれど姫子といい、果歩といい、自分が友達に恵まれているというのは事実だ。郁美はしみじみと思う。


「姫子にね、怒られたんよ。千尋ちひろさんとの話になって、いろいろ言われ……忠告、されて。それで、それから……全部わたしのせいなんやって言ったら、怒られた」


 無意識に膝の上に置いた拳を握り、とつとつと言葉にしていく。

 果歩は鳥の声に耳を澄ませるみたいに目を伏せていた。長いまつ毛の落とす影がきれいだな、などと場違いなことを思ってしまう。

 そういえば、姫子もけっこうまつ毛が長かった。


「いっつもいっつも自分のせいにしてるって。周りの人間はみーんな無関係かって。……わたしが、友達でいたいと思ってるんかわからん、って」

「……そう」


 言い終えて、大きくゆっくり息を吐く。

 改めて言葉にしてみると、情けなくて涙が出そうになる。本当に情けないのは、ここまで言われたのになおも「やっぱりわたしのせいや」という気持ちが凝り固まって消えないことだ。


 それこそが姫子を爆発させてしまった原因なのに。


 果歩は何も言わなかった。まぶたを閉じたまま何も言わずに聞いていた。

 そして目を開くと、銀杏の木を見上げてふっと少し息を吐いた。


「どうしたら、いいと思う……?」


 耐え切れず、聞くのも嫌になるくらい弱々しい声で郁美は尋ねた。


 言ってから、あんまり芯のない声でびっくりする。

 自分からこんな声が出るなんて信じがたい。頼りなくて、むきだしで、あまりにもみっともなくて、それを自覚してまたいっそう不安になる。


 果歩はゆっくりこちらを見ると、いたわるように微笑んだ。


「同じこと、言ってみたらええと思う。柳さんに」

「え?」


 同じこと。

 どうしたらいいかと、姫子に聞く?


「あるいは、勝手なこと言うなって言うてもええかも。そんなん言うてもしかたないやん、て。柳さんに。ううん、柳さんじゃなくても。千尋さんに、親御さんに……誰がいちばんいいかはわからへんけど。みんなに言うって手もあるかも」


 そんなん、そんなん……。


 なぜか、突然海に放り込まれて「泳げ」と言われるイメージが郁美の頭に浮かんだ。


 言われたことを咀嚼そしゃくしきれずほうける郁美を見て、果歩はまた困ったように笑う。そして、わざとらしくこほん、とせきをして居住まいを正す。


「あのね、私、これからめちゃ恥ずかしいことを言います。しょうもないて言うか、その」

「……?」

「ああ、前置き長いと余計、恥の上塗りやね。……えっとね、私、優越感を抱いてる」

「優越感……?」

「そう。千尋さんや、柳さんに。佐倉さんにいちばん近いところで暮らしてる子や、佐倉さんにいちばん近い友達に対して、優越感を抱いてんの。その、なんていうか……佐倉さんに、頼られてるから。たぶん、どうしたらいいかなんて聞かれたのは、私だけやから」


 果歩が次々と思いもよらないことを言うので、郁美はいよいよぽかんと口を開けて呆然とするしかない。


「みんな、佐倉さんのことちゃんとした人やって思ってるでしょう? ううん、実際そうなんよ。佐倉さんはほんまちゃんとした人で、誰かに頼ることなく、いつでもなんでもひとりでやってしまえる」

「わたしは、そんな……」

「ごめん、恥ずかしくなるからちょっと一気に話させて」

「あ、はい……」


 果歩の白い肌が目に見えて赤く染まっていくのを見ると、なんだか悪いことをしてしまった気になって、おとなしく口をつぐむ。


「……えっと。佐倉さん自身も、なんでもひとりできちんとやろうって思ってると思う。あんまり、人に頼らない。弱味を見せない」


 そう、佐倉郁美は誰かに頼らない。

 自分以外の誰にも振り回されることなく、心の真ん中に芯を持って、生きていく。

 そのはずだった。


「最近はちょっと、隙のある顔するようになったけど。それでも、基本スタンスは崩さへんよね。そんな佐倉さんに、どうしたらいいか、なんて言われて。ホントに困ってはるのに、不謹慎ていうか、申し訳ないんやけど。……私は、ちょっと喜んでる。嬉しくなってる。頼って、もらえてるって」


 果歩はそこまで言い終えると、はあーっと大きく息を吐いてうつむく。両手を頬に手をやって、見られないよう顔を隠す。

 照れている。これ以上ないくらいあからさまに、照れている。


「ごめんね、俗物で。……がっかりした?」


 顔を隠したままぼそぼそとつぶやくように言う果歩があんまり可愛らしくて、郁美は思わず笑ってしまった。大きな声で、腹の底から笑い声が出る。

 可哀想に、果歩はおろおろと赤い顔で戸惑っているけれど、止められない。


 ようやくおさまったころには、果歩はむくれて頬をふくらませていた。

 慌てて「かんにん、かんにんして」と顔をのぞき込むように言って、果歩がそれにうろたえるのが面白くなって途中からわざとしつこく顔を近づけて謝り続ける。

 郁美が故意にやっているのだと気づいた果歩がやっぱり困ったような笑顔を見せるころには、空気はすっかりほぐれていた。


 じゃれているうちに乱れた胸元のリボンを直して、郁美は果歩に向き直る。


「ありがとう。わかった。わたしは、もっとちゃんと人と接していかなあかんのやね。いまのまんまやったら、人を遠ざけるばっかりで。迷惑をかけるかもしれんことも、ときには大事なんやってこと」


 果歩はまだ照れ臭さが抜けないのか、声を出さずにうなずく。

 それにしても。


「ふふ。山田さん、いっつもそんな顔してたらええのに。みんな遠巻きに見てるだけやけど、話したい人たくさんおると思うよ。人のこと、言えへんやん」

「……もうっ! そんなん言わんで!」


 そんな果歩の言うことだから納得できて、でも、そんな果歩だからこそ、もう少しみんなには内緒にしておいて、自分だけが知っているという優越感に浸っていたい。

 そんな「俗物」っぽいことを、郁美は思ってしまうのだった。

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