#13 アングリー・ガール
週が明けて月曜、登校して教室に入るなり
なんとなくうしろめたい気持ちが邪魔してまっすぐ顔が見られないものの、どうにか笑顔でおはようと挨拶する。
「話があるから、ちょお来て」
姫子はおはようも抜きに言い放つと、郁美が席を立つのも待たず、すたすたと歩いていく。
こんなことは初めてだった。戸惑いつつも、思い当たるふしはいくつかあるのでおとなしくついていく。
真剣な顔だった。
いま目の前を歩く背中からうかがい知ることはできないけれど、きっと同じ表情のまま歩いているのだろう。自分よりも小さな背中が、いまは大きく、遠く見える。
人気のない階段の踊り場までくると、姫子は振り返った。先ほどの険しさはいくぶん和らいで、それでも口は
怒られる、と郁美は反射的に思った。
「責めたりするつもりはない」
第一声は予想に反した言葉だった。
「クミとちっひーやと、やっぱりクミのほうがずっと付き合いが長いし、うちはどうしてもクミ寄りになってしまう。それはしゃーないし、それでいいと思ってる。だからクミのすることやったら応援したげたい」
姫子らしくない回りくどい前置きを聞きながら、ほんまはこんなこと言いたくないんやろな、と郁美は思う。
こんな表情をさせてしまっているのは、やっぱりわたしや。
姫子は話しながらもどかしそうにスカートの端を握っては放し、また握っては放しとくり返していた。ぼうっとそれを見つめながら、自分も無意識のうちにブレザーの袖口のボタンを意味もなくいじっていることに気づく。
「でも、やっぱりクミのやってることは不毛やと思う。誰も幸せにならないし、意味がない」
「なんの、こと……? どれの、ことよ」
洗いざらいぶちまけてしまいたい気持ちとは裏腹に、しぼり出すような声が勝手に飛び出す。誰か他人がしゃべっているみたいに聞こえたけれど、まぎれもなくそれは郁美自身の声だった。
姫子はそれを見るとふっと泣き笑いのような表情になった。
やめて。そんな顔せんで。
「クミが、ちっひーを遠ざけようとしてること。そのために、いろいろ、わかんないくらいにいろいろ考えて、そんでいろいろやってること。遠回りすぎて、ほとんど意味あらへんけど」
意味がない、と姫子は軽く笑ったが、それは決して嘲笑ではなかった。
もっと優しくて、親密で、寄り添うような。
だからこそ、いちばん向けてほしくない笑顔だ。
「なんでわかったん……て言うのは、ええわ。うん、いまのはなし」
「ふふ。クミは、自分で思ってるよりずっとわかりやすいんよ。うちは付き合いが長いってのがあるにしても、最近は前よりわかりやすい顔してるし」
「言わんでええって、もう」
あるいは、そんな自分の本心をきちんとわかってくれる友達がいることを喜ぶべきかもしれない。
「あんな。ちっひーに対して割り切れないもんがあるのは、ええねん。それはもう、しかたがない。それの原因とかも、うちは知らん。想像することはできるけど、想像すること自体があかんような気もする。それに、さっきも言ったけどやっぱりうちはクミの味方になってまうから」
「……ほんなら、なに」
「クミは、しんどいばっかりでなんにもならんことしてると思う」
「…………」
「なあ……。遠ざけるんならそれでええ。でも、ちゃんと嫌われる覚悟はあるん?」
嫌われる、覚悟。
「嫌いやないんやろ、ちっひーのこと。でも、クミは遠ざけようとしてる。……ほならやー、ちゃんと嫌われたらええんとちゃうの。もしくは、ちゃんと嫌ったらええんちゃう」
「ちがうッ!」
口をついてでた声が思ったより大きく響いて驚く。さいわい、あたりに人の姿はない。特別教室の並んだこのあたりは、登下校の時間にはほとんど人が通らない。
姫子は一瞬目を見開いたものの、すぐに表情を引き締める。
似合わない表情。
「なにがちゃうの」
「わたしは、千尋のことを嫌いになりたくない。嫌われたくもない。それは、わたしの望む家庭とちがう。せっかく再婚したのに、わたしのわがままでそんなんなるんは、ちがう。いやや……」
姫子はなにも言わずにじっと郁美の目をのぞき込むように見つめてくる。
勝てない。すべての武装を解かれたような気持ちで、言わなくてもいいはずのことまで言ってしまう。
「あの子に嫌われるのは、怖い。あの子を傷つけてしまうのは、もっと怖い……。全部ぜんぶわたしのせいやのに、わたしの、自分勝手なわがままやのに。だからせめて、ちょっとでもうまくいくように、みんながうまくいく、ように……」
言葉や思考が自分の手を離れていく。
もう支離滅裂で、それでも自分自身を明け渡すわけにはいかないから、郁美は必死で立っていた。崩れ落ちたり、泣き出したりしてしまいそうだったけれど、そうしてしまえばいっそ楽になれる気もしたけれど、佐倉郁美はそういうわけにはいかないのだ。
姫子はためらいながらゆっくり右手を差し出そうとして、やはり手を引っ込め、固く拳を握った。充血して、爪が手のひらに突き刺さって痕になるくらいきつく握っていた。
「……なんでも自分のせいやん。いっつも、そうやって。なんでも自分のせいや」
ぽつりと言った姫子の声が震えているのに気づき、郁美はいつのまにかうつむいていた顔を上げた。
姫子は泣いていなかった。感情を押し殺そうとして殺しきれず、怒ったような顔をしていた。
「ちっひーとうまくやれへんのは自分のせい。窮屈な思いしてるんも自分のせい。なんでもかんでも自分のせい。ぜーんぶ自分のせいにして、他の子は入れてくれへんねや。関わらせてくれへん。嬉しいのも悲しいのもみんな自分のものか? 周りの人間はみーんな無関係か?」
「そんな、ことはッ……そんな、ことは……」
力強くちがうと言ってやればいい。一単語で否定して表明すればいい。すぐだ。
なのに。それなのに。
言えない。
「うちは、クミと友達でいたいと思ってる。でも、クミもそうなのかは、うちにはようわからへん」
友達でいたい。
そう強く思ったのは、むしろ郁美のほうだったはずだ。
同じ言葉が姫子の口から出て、同じ言葉のはずなのに、二人は笑い合えていない。
なにも言えなくなってしまった郁美を少し眺めたあと、「もう朝礼始まるし、行こ」と姫子は言って、そっと二の腕に触れた。触れるか触れないかわからないくらいの手はすぐ離れ、郁美を残して歩いていく。
前を歩く姫子とのほんの少しの距離が、なぜだかとてつもなく遠く思えた。
これすらもやはり自分のせいだと思うけれど、「自分のせい」そのものを糾弾された郁美には、もうどんな言葉も残されていなかった。
昼休みはまるでお通夜だった。
いつものとおり机をくっつけて弁当を広げたはいいが、和気あいあいと昼ごはん、というわけにはいかなかった。
郁美は落ち込んでいるのを隠し切れずに不完全な笑顔を浮かべ、なんとも痛々しい姿になってしまっていた。
姫子は不機嫌さを隠そうともせず
間にはさまれた
いつも昼休みになるとどこかへと消えてしまう果歩が、教室から出ていく瞬間こちらを見やったのが郁美の目に入った。心底気の毒そうな表情で、かえってこちらが申し訳なくなるくらいだった。
なにも律儀にいつもどおりの昼ごはんを装うことはないだろうに、と自分でもわかっているものの、郁美と姫子にとってこれはもはや意地の張り合いだった。
姫子が郁美に対して意地を張っているのに対し、郁美はむしろ自分自身に対して意地を張っていたという差異はあるが。
「このチキンカツおいしー。我ながら絶品かなー、って……思うん、だけ、ど……」
場を明るくしようとした千尋の声はむなしく響き、郁美は「そうやねー、美味しいわー」などと平板な声で形だけ同意する。愛する郁美にほめてもらったにも関わらず、千尋が喜ぶ様子はなかった。
姫子はひたすらがつがつとパンを口に運んでいる。あんパン、クリームパン、ジャムマーガリントースト、サンライズ……と、まさに糖分の大行進である。紙パックの豆乳をずずっと吸って、ひたすら戦うように
痛々しい自分は棚にあげて、二人の姿をどうしようもなくいたたまれなく思った郁美が不用意なひと言を漏らしたのが、第二ラウンド開始の合図となった。
「……ごめん、わたしが悪かった」
「はあ!?」
郁美も例外ではなく、上目遣いでおそるおそる見ると、姫子は目を見開いて見たこともないような顔をしていた。感情が先走って、自分でも怒ったらいいのか泣いたらいいのかわからず混乱してしまっている。
「そ、それが、そういうんがっ、うっ、うおっ、ウオワワァーッ!!」
言語も追いついてない。
「だって、やっぱりわたしのせいやと思うし……」
「…………!!」
もはや声にもならないくらい興奮した姫子に、郁美の申し訳なさはかえって増すばかりだった。謝る以外に言うべきことが見つからない。それが表情にまであらわれたのがまた姫子の興奮を煽る。
本当に勘弁してほしいくらい迷惑きわまりない事態を抱えて黙示録状態の教室を救ったのは、出ていったはずの果歩だった。
「そこまで。私が預かる」
いつの間にかすぐそばまで果歩がやってきていた。郁美と姫子の前を隔てるようにすっと手を伸ばし、手の平を立てて「待て」のポーズだ。
思わぬ人物の登場に虚を突かれ、ゲージを振り切る寸前だった姫子のボルテージが下がる。その隙を見逃さず、果歩は郁美を立たせると食べかけの弁当を包ませた。
「それは正当な怒りなのかもしれへんけど。みんな、困ってるから」
果歩の落ち着いた低音で
隣に視線を戻すと、千尋は半泣きだった。いまにも大泣きしようとしたところで果歩の登場に驚き、中途半端に涙が引っ込んでしまった形で、なんとも可哀想なことになっている。
果歩は泣きベソのまま顔が固まった千尋に「借りるね」と言うと、すたすたと郁美の手を引いて教室の外へ出ていってしまう。
あとにはやらかしてしまったことに顔を赤くしたり青くしたり忙しい姫子と、理解が追いついていない千尋、そしてひとまず事態が収まったことに安堵のため息を漏らすその他大勢の生徒たちが残されたのだった。
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