#12 いちじくタルトの午後
翌日、
ここ最近は休日のたびに
日曜日の
郁美と同い年くらいの子たちもたくさんいて、仲の良さそうな女の子二人組を見ると、自分と千尋もあんなふうに見えるのだろうかと不思議な気持ちになる。いつかのファミレスで似たようなことを考えたときはこそばゆくなったのに、いまはその温かさがどこにもない。
外から見るだけじゃ、何もわからない。
とにかく家にいたくなくて、起きるなり身支度を整え飛び出してきたものだから、あてなんて何もなかった。千尋が用意した朝食もとらず顔も合わせず、逃げるように家を出てきたのだ。
とりあえずぶらぶらお店を見て回ろうと思うのだけれど、どうにも気分が乗らなくて、何を見ても気持ちを動かされなかった。
だいたい、このあたりのお店は先週末に千尋たちと来たばかりなのだ。一週間くらいじゃ品揃えはたいして変わらないし、何を見ても千尋のコメントが浮かんでくる。
あの子は離れていても自分につきまとう。
ぐずぐずと混濁した感じをまぎらわせたくて、とにかく甘いものでも食べてやろうと
間違いない。
果歩は薄く微笑んでこちらにやって来た。
清潔感のある白のブラウスの上に薄いグレーのカーディガンを羽織っている姿は、いつにも増して大人びて見える。水色のデニムに包まれた脚はすらっと伸びて、キャンバス地のスニーカーがよく似合っていた。
「こんにちは、山田さん。偶然やね」
「うん、こんにちは」
大人っぽさに気後れしているのを悟られないよう先手を打って笑顔で挨拶すると、果歩ははにかみながら小さな声で返してきた。
普段会わない場所で出会った気恥ずかしさは果歩も同じだったらしい。年相応なその反応が郁美を安心させてくれる。
安心したところで果歩が大きな荷物を背負っているのに気がついた。黒くて細長いナイロンケース。
「それ、ギター?」
「うん、えっと、ベース。ベースギター」
「おおー、かっこいい。山田さん、楽器やるんやね」
おとなしい果歩のイメージからすると意外だったが、改めて見るとギターケースを背負った姿はよく似合っていた。ガールズバンドの一角、クールなベース少女。
「べつにかっこいいことないよ……」
恥ずかしそうに目を背ける姿もアンニュイではまっている。
「かっこええよー! じゃあ、バンドとかやってるん?」
「ううん、バンドは組んでへんよ。ていうか、ただ趣味で弾いてるだけやから。そんな大げさなこととちがうし……」
慌てて小さく手を振る姿は可愛らしく、郁美はなんだか得した気分になっていた。
たぶん学校の誰も知らない果歩の姿を自分は目にしている。ベースを抱えたロック少女の姿も、クールに見えてその実とても恥ずかしがり屋な姿も、きっと知っているのは郁美だけだ。
例えるなら、校舎裏にひっそりと咲く一輪の花を見つけた気分。
せっかくだから、この可憐な花をもう少し眺めていたい。
「あんな、時間あるならちょっとお茶しいひん? 用事なかったら。せっかくやし」
「あっ、うん。ええよ」
思いのほかあっさりうなずいてくれた果歩をひっぱるようにしてすぐ近くのリプトンに入る。
郁美はこの店のショーケースを眺めるのが好きだ。甘くとろけるようなケーキ、色とりどりのフルーツがたっぷり贅沢に載ったタルト。宝石箱なんかよりずっときらきらしている。
それがなんと今日は眺めるだけじゃない。
高校生の財力ではあまり頻繁に通ったりはできないから、こういう喫茶店にくるのはなんだか特別な日という感じがする。それは果歩も同じのようで、二人はたっぷり悩みに悩み抜いてからやっと注文を決めた。
「今日はどこかで弾いてきたん?」
「……?」
質問の意味をはかりかねたのか、果歩は手を止めて静止する。フォークの先には和栗のモンブラン。
「ああ、ベースのこと。そこの楽器屋さんで、メンテナンスしてもらってきたとこ。家で弾いてるだけやから。路上で弾いたりは、ぜんぜん」
「なるほど……。わたしな、街中で私服の子がギター背負ってるのって見るとなんか不思議やなーって思ってた。楽器ってそんな持ち歩くものとちがうと思ってたから。だから楽器持ってる子はみんなライブ帰りとか路上で弾いてるんやーって」
郁美はミルクティーのカップを置いて素朴な疑問を投げかける。ちなみにこちらはいちじくのタルト。二人とも、せっかくだからと季節のケーキにしたのだ。
果歩はその意見に「わかる気がする」とうなずいて静かに笑う。
「あれかな、スタジオとか借りて練習した帰りとかなんかな。私はバンド組んだことないからわからへんけど」
「バンドやりたいとは思わへんの?」
素人考えで悪いかもしれないとは思いつつ、郁美は尋ねた。
単純に、この子がロックバンドでベースを弾いている姿はとても美しいだろうなと思ったのだ。もったいない、と言うのはさすがに踏み込みすぎな気がして飲み込んだけれど。
果歩は特に気を害した様子もなく「私はまだそんなレベルとちがうから」と苦笑しながら否定した。
「……でも、音がきれいに重なったときの、ふわっと体を抜けてくような気持ちよさは、知ってる」
果歩はどこか遠くを見るような目でつぶやく。
きれいな顔だ、と郁美は思う。
千尋や果歩はタイプこそちがうけれどどちらも美人だ。容姿だけでなく、まとっている雰囲気というか、芯から美しいと思う。
見た目には関係なく、ぐずぐずとつまらないことばかり考えている自分とはちがう。
「私、自分のこと凡庸っていうか、どこにでもいるふつうの人間やと思ってて」
そんな風に思っていたから、目を伏せながら果歩の言った言葉には驚いた。
「いや、それはいまでも思ってるけど。でも、例えばギターとかベースとか弾けるのってなんか特別な気がしいひん? ホントはべつにぜんぜん特別なことちゃうけど、でも、ベースやるようになる前は、そう思ってたんよ。すごくかっこよく見えて、でも自分には縁のない、ぜんぜん別の世界の話やって」
果歩は恥ずかしそうにおしぼりを指先でぐりぐりいじりながら話していた。
たぶん彼女にとってはずいぶん照れくさい話なのだろう。でも、一生懸命に話してくれている。
「私はふつうの自分に満足してるけど、でもあるとき、なんやもったいないなって思って。それで、思いきって始めてみた。初めて弾いたときは、体の奥の、骨まで音が響いて。私にも音が出せるんやって。……すごく、ドキドキした。頭の後ろのほうが、熱くて、甘くて、痺れるような感じにふわーってなって」
独特の静かな雰囲気を持つ美しい果歩と「ふつうの自分」という言葉はそぐわない気がしたけれど、口には出さない。
つっかえながら話す彼女は、いつもとちがって本当にただの同い年の少女なのだという気がして、でも、だからこそとても美しかった。
「弾いたり弾けたりすることが特別なんとちがう。それ自体はありふれてて、誰にでもできることやけど。弾けるからって何が変わるってわけとちがうけど。でも、指先から音が出て、振動が体に伝わって響いていく、その瞬間が、私にとって特別で……。私が特別になったわけとちがうけど、自分にとっての特別が、そこには確かにあったっていうか」
そこまで言うと、果歩は我に返ったのか慌てて口をつぐみ、紅茶を一口飲んでうつむいた。
「なんか、ごめんなさい……。ひとりで興奮してしゃべってしもて」
「ううん。いつも静かな山田さんがこんなにしゃべってるとこ初めて見るから、ちょおびっくりしたけど。でも、なんか嬉しい」
そうなのだ。初めてまともに言葉を交わしたあの保健室での出来事からまだひと月も経っていないけれど、郁美の中で果歩の印象は大きく変わっていた。
物静かで美しい、孤高の高嶺の花。
それが本当は自分と同じふつうの高校一年生で、等身大の戸惑いや喜びを持っている、とても可愛らしい女の子だなんて。
そんなこと、まったく知らなかった。「クールビューティー」の一単語で果歩という少女の印象を固めてしまっていた。
「私も、嬉しいかな。佐倉さんとこんなふうに話せるようになって。前にも言うたけど、近頃の佐倉さんはいろんな表情するようになって、少し隙があるっていうか……親しみやすくなったと思う」
「……ううー。そっかな。そやろか」
隙がある、というのは言い得て妙かもしれない。あまり歓迎できることではないけれど。
「あのね、たまにしんどそうな顔もしてるよ。あ、もしかしていま無理してるんかなーって」
「うそっ!」
「ホント。放課後あの子が迎えに来たときとか、たまに」
ばっちり笑顔で迎えられていたはずだと思っていた郁美は顔面蒼白だった。そこまで崩れていたなんて。それじゃ、まさか、まさか。
「
なぜか急に取り繕うように早口になった果歩だったが、郁美にとって重要なのはそこではなく。
「でも、もしかしたら千尋さんも気づいてるかも。たぶんいちばん佐倉さんのこと見てるのはあの人やと思うし。一見そんなん気づかへんように見えるけど」
「そんな」
そんなわけない。郁美は否定したかった。
だって、そんならわたしは嬉しそうに駆けてくるあの子を傷つけるような顔をしてたってことになる。
自分が無防備な顔を晒してしまっていたことも恐ろしいけれど、あの子の笑顔の、その奥のやわらかい部分を痛めつけてしまっていたかもしれないのがなにより怖かった。
でも、言葉を継げずに青くなる郁美に気づいて気づかわしげな視線を向けてくる果歩の顔は、冗談や嘘を言っているようには見えない。
「ごめん。言わんでもええこと言ってしまったかも。……でも、あの人はね、ほんまはめちゃ勇気を出してはるんやって思うの」
「勇気……」
「そんなんには見えへんくても、すごく欲しいものがあるから、勇気を出してはんのやと思う」
のんきそうに見える千尋がそんなふうに思っているというのは、あまり想像がつかなかった。
「何かを欲しがるんは勇気が要って、かわりに何かをなくすような怖さもあるけど。でも、意外と手に入れた自分はそれまでの自分とそう変わるものでもなくて、それはほんまはもともと自分の中にあったものでってことも、あると思う」
果歩の言うことは禅問答のように入り組んでいてわかりにくかったけれど、自分にとって重要な何かを伝えているような気がする。
でも、自分の欲しいものが何なのか、それがわからない。
わからないのか、見えないように自らしまいこんでいるのか。
「……なんや、自分でも何を言いたいんかようわからへんようになってしもたけど」
「ううん、ありがとう。そろそろ、出よか」
すっかり冷めてしまっていた紅茶を飲み干して、二人は店を出た。
自分の言ったことを後悔しているのか、隣を歩く果歩がそわそわと落ち着かない表情を浮かべているのがなんだかおかしい。
普段は表情を変えない彼女が無防備な顔をするのは、本人は嫌がるかもしれないけれど、好ましく思えた。いつもより親しみやすく見える。
だから、そういう気持ちを伝えたくなった。
「山田さん。えと、また、来よ。今度はべつのケーキ食べてみよ」
「うん……!」
こんな顔をされたらかなわない、というくらい無防備だったけれど、それはそれはとても可愛らしい顔を、果歩はしてくれるのだった。
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