#11 尋子さん


 わたしはいったい、どうしたいんやろ。


 自分がわからなかった。

 千尋ちひろとの関係を自分にとってマシなものに変えたい、というのがそもそもの始まりだったはずだ。

 自分は崩さない。家庭の平和も崩さない。

 だから、千尋のほうに変わってもらうのがいちばんうまくいく。そうすれば自分もいらいらせずに済む。


 なのに、千尋はいっこうに変わってくれない。

 それどころか、以前にも増してぐいぐいと好意をぶつけてくるように見える。あけすけで遠慮のない、まっすぐな好意。あなたが好き、という単純でまじり気のないメッセージ。


 日曜の出来事で自己嫌悪に陥ったあとも、郁美いくみは手を変え品を変え、様々な方法で千尋の好意を薄めたり他に向けたりしようとした。

 しかし、それらの作戦はことごとく失敗に終わった。


 まず、千尋に彼氏を作らせようとして失敗。そもそも中学から女子校の郁美には男子の人脈が皆無だった。これは作戦以前に企画倒れとも言える。

 次に、できるだけ千尋と一緒にいる時間を減らそうとした。同じ時間を過ごすことが親密さにつながるなら、その時間をなくせばいい。

 しかし、これも失敗した。千尋を避けようとしても、姫子ひめこやクラスメイトたちの包囲網に阻まれるのだ。学校では既に、郁美と千尋の二人が一緒にいて当然、という空気ができてしまっていた。千尋が一緒にいないと、何かあったのかと聞かれる有様なのだ。


 小細工はいっさい通用しなかった。うまくいかず作戦の遂行をあきらめるたびに、うしろめたい気持ちが積もっていった。


 わたしはいやなやつや。


 自分を好いてくれる相手にする仕打ちではない。こちらもまっすぐ気持ちを伝えるならまだいい。でも、自分はずるくて、遠回りな手段をとってばかり。


 千尋に傷ついてほしくない。それは本心だ。でもそれは、自分が千尋を傷つけてしまいたくないという気持ちの裏返しだった。


 郁美は怖がっていた。


 千尋の心を砕く手の感触を。自分に向けられる優しい千尋の瞳が、畏怖いふや憎悪に変わってしまうのを。


 きらいなはずなのに。あんな子、迷惑なだけなのに。


 家族の平和を保ちたいだけではなかった。もっとパーソナルな部分で、千尋という人間を失うのが怖かった。




「郁美ちゃん。どうかな、あの子……うまくやってる?」

「え?」


 リビングで尋子ひろこに話しかけられたのは、金曜の夜だった。


 千尋はちょうど入浴中、幸輔こうすけは残業でまだ帰宅していない。同じ家で暮らしてはいるが、郁美と尋子が二人きりになるのは珍しかった。

 もしかしたら、タイミングを見計らって声をかけてきたのかもしれない。


「新しい学校でってこと。高一のこの時期に転入って、めずらしいじゃない? まあ心配してるってほどでもないんだけど。郁美ちゃんに、迷惑とかかけてないかなって」

「あ、ああ……」


 たくさん迷惑かけられてます。


 そんな言葉はぐっと呑み込み、郁美はいつもの優等生な笑顔で「そんなことないですよ」とかなんとか言ってフォローする。


 千尋の母、尋子。

 女手ひとつで千尋を養ってきた、すごい人。よくは知らないが、父の取引先の会社に勤めているらしい。毎朝ぱりっとしたスーツで出かけるその姿は、まさにキャリアウーマンという感じだ。


 千尋の父親、つまり前夫とは千尋が幼いうちに死別したらしい。詳しく聞いたことはないが、父親が亡くなったとき千尋はまだ赤ん坊だったという。

 もとは東京のほうに住んでいたらしく、京都に来たのは一年だか半年だか前のことらしい。転勤が決まって、娘と一緒に引っ越してきたとか。


 生まれてからずっと同じ土地で暮らしている郁美にはわからないが、母子二人だけで知らない土地に移り住むというのはなかなか心細いものなのかもしれないとも思う。


 千尋に似て(正確には逆なのだけれど)美人だ。でも、当たり前のことながら千尋よりずっと落ち着いている。

 いつもやわらかな笑顔を浮かべているようなイメージだけれど、ときおり千尋とじゃれているところを見ると、けっこう茶目っ気のある人なのかもしれない。


「千尋さんは可愛いし、クラスでも人気あるみたいですよ。あっという間に馴染なじまはったみたい。友達もたくさんできたって言うてはったし」

「そっか。ふふ、よかった。郁美ちゃんが仲良くしてくれてるおかげかな」

「いや、そんなん、なんも。べつに、わたしなんもしてません」


 ちくり、と胸が痛む。


 嘘は言っていないが、自分はたぶんこの人をあざむいているのだと思う。千尋をうざったく思って、自分から遠ざけようとしているのに、表面上ではいかにも仲の良い二人に見せている。


「ありがとう。あの子はあんなんだから、郁美ちゃんにいろいろ迷惑をかけてしまっていると思うけど、優しく面倒見てくれて」


 ちくり。


 自分は優しくなんてない。いい子を装ってへらへら笑いながら、千尋の心を踏みにじる算段をしているような人間なのに。

 こんなふうに言ってもらう資格はない。


「そんなこと、ないですよ」


 千尋によく似た瞳から目を逸らす。


「でもね。千尋があんまり迷惑かけるようだったら、ちゃんと言ってね。郁美ちゃんはすごくいい子っていうか、がんばり屋さんに見えるからさ。その、無理してほしくないし」

「えへへ、そんな、ぜんぜん。無理してなんてないです」

「そっか、それならいいんだ」

「えへへ。わたしなんかのことより、新婚なんやし、お父さんとしっかり仲良うしてあげてください」


 百点満点をあげられるくらい完璧な笑顔で言った郁美の言葉に、尋子は照れくさそうに笑う。


「えっと、はい。……がんばります」

「はい、がんばってください。あっ、千尋さんそろそろ出るかな。わたしもお風呂入る準備せな」


 突然の攻守逆転にてれてれとはにかむ尋子を残し、郁美は自室へ向かう。


 あの人と話をしていると、心がざわざわする。


 部屋のドアノブを回そうとかけた右手は、かすかに震えていた。

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