#6 姫子、と郁美と千尋
午後からの授業をつつがなく過ごし、
帰り支度も素早く終えて、いつでも来るなら来い、と準備万端。
妙に鼻息の荒い郁美を不審そうに見るクラスメイトたちの視線も意に介さない。
そこにやって来た
不安げな表情でおそるおそる歩いてきて一組の教室をのぞき込み、郁美の姿を認めると弱々しく駆け寄ってすがりつく。
「郁美ちゃん……。大丈夫? 具合もう悪くない?」
「あ、全然。なんもないよ、平気、大丈夫やから。ごめん、千尋さん。心配かけて」
いつもまばゆいばかりに元気な千尋がウソのようで、郁美の心がまた少し痛む。
ほんとうに、心配していたのだ。保健室では顔も見られず追い返され、放課後までの時間を不安に過ごしていたのかもしれない。
「あの、昨日の夕ごはんとか朝ごはんとか、なにかまずかったかなって思って。あたしの作ったごはんで調子崩しちゃったのかなって、不安で、申し訳なくて……」
予想外の言葉に郁美は慌てる。
「そんなことない、そんなんとちがう! ごめん、ちょっと調子悪かっただけやから。大げさやったね。全然心配しなくてええよ」
「ホントに……?」
「ほんまほんま! あ、お弁当ありがとお、美味しかった。お昼にお弁当食べたら元気になったわ。ありがと」
必死のフォローが功を奏し、千尋は泣きそうになっていた顔をほころばせる。
さっき気合を入れたばっかりでもうこれだ。郁美はこうもあっさりペースを乱されるものかと自分のことながら呆れていた。
なぜなのだろう。この子が泣きそうになると慌ててしまう。悲しんだ顔を見せられるとどうにも落ち着かなくなる。千尋が、あまりにも素直に感情をぶつけてくるせいだろうか。
笑顔になった千尋は、やっぱり憎らしいほど美少女だった。
「ほな、帰ろか」
「うん!」
素晴らしすぎる返事に郁美がちょっと引いていると、横からつんつんとつつかれた。姫子だ。二人のやりとりをずっと見守っていたらしい。なんともわざとらしい笑みを浮かべている。
「うちもご一緒してよろしいかしらん」
「……ええけど」
千尋が転入してきてからは佐倉家二人で下校していたが、それ以前は郁美と姫子の二人で帰ることもたびたびあった。
いつでも一緒というわけではないが、中等部からの付き合いとあってクラスではわりと仲の良い組み合わせだ。というか、たぶん親友といっていい。
だから別段この提案自体は不自然なものではない。
しかし、姫子に何か意図があるのは明白だった。
というか、明らかに面白がっているのだ。一見親密さに満ちた愛想ばっちりの笑顔だが、こらえきれずニマニマとゆるんだ唇がそれを雄弁に物語っている。
「えっと……お友達だよね」
「そ、クミの友達・柳姫子。柳ちゃんでも姫ちゃんでも姫さまでも柳さんでもなんでも好きなように呼んでな!」
遠慮がちな千尋とは対照的に、待ってましたとばかりに姫子が食いつく。
「クミ……?」
「あ、『郁美ちゃん』のこと。ほら、佐倉郁美、さくら・いくみ、さくらい・くみ……」
千尋がなるほど、と手を叩く。
「さくらい・くみ」は郁美が自己紹介するたびに間違われる、一種の持ちネタのようなものだった。
本人としてはわずらわしいとしか思っていないのだが、姫子は面白がってクミと呼ぶ。中学一年で同じクラスになって以来ずっとそう呼ばれ続けているため、いまでは姫子に限らずクミと呼ぶ友人がほとんどで、郁美自身もそれを受け入れていた。
そのせいか本気で「
「あ、そっかあー。さくらい・くみちゃんかあー。えへへ、面白いね郁美ちゃん」
千尋はほんわかと笑う。さきほどまでわずかばかり抱いていた警戒心もどこへやら、姫子とすっかり打ち解けてしまっている。
姫子はこういうのがとても上手い。相手の緊張をほぐしてあっという間に仲良くなってしまう。
「ほんなら行こかー」
姫子がうながし、三人は教室を出る。
中央に郁美が位置し、左に千尋、右に姫子。千尋は腕に抱きつかんばかりの勢いだったが、姫子に遠慮してか自重しているようだった。
昇降口を出ると、目の前をだだっ広い道が横たわっているのが目に入る。
川沿いに柳が植えられた景色は優美で、ここを通学路とする生徒たち以外に観光客の姿もよく目に付く。
華洛女子の生徒はその多くが門を出て右方向、すなわち白川に沿って道を北へ上るか、あるいは川を渡って向かいの、これまた北へ延びる商店街のアーケードを通り抜けて下校していく。北方向に集中しているのは三条通りにある地下鉄の駅を利用するためだ。
佐倉家は西方向、すなわち門からまっすぐが帰り道であり、また姫子の帰宅ルートもすぐ南のバス停を経由するため、三人はこの下校の流れから外れる形になる。
が、今日は姫子の「三条のマクドでお茶してこ」という提案により、北へ歩く生徒たちの流れに加わることになった。
古くのんびりとした雰囲気の商店街をきゃいきゃいとかしましい女子高生たちが歩いていくのを見ながら、郁美は自分がまた流されているのを感じていた。
下校する人の流れに呑まれている状況はメタファーにもならないくらいそのまんますぎる。
千尋と姫子はどうということもない会話を交わして笑い合っていた。郁美も適当に相づちを打つ。
「でねえ、あたしけっこう張り切ってお夕飯作ったの。口に合うかちょっと心配だったけど、郁美ちゃん美味しいって言ってくれて嬉しかったなあ」
「へー、そらええなあ。クミも千尋ちゃんも料理上手なんやねえ」
郁美としては味付けにいささか意見がないわけではなかったが、それを晴れの席で口にするほど無神経ではない。多分にそれは好みの問題であり、千尋が料理上手なのは間違いないのだ。
というかあの場で味に文句を言うなんて、古いドラマに出てくる意地悪な
なんとなくいたたまれない気持ちになって視線をずらすと、お惣菜屋さんが目に入った。ひじきの
千尋の料理とはまさに正反対のこれらが郁美の得意分野だった。つい二日前までふつうに作っていたにも関わらず、もはや懐かしくすらあるおばんざいたちが郁美の後ろ髪を引く。
幸せそうに料理する千尋の姿はある意味で有無を言わせない存在感があり、佐倉家の調理主任はなし崩し的に千尋に委譲されつつあった。ちなみに母・尋子は再婚後も仕事を続けるため主任候補からは外れる。
それ自体は、べつに悪いことではない。
自分の意志で家事の一切を引き受けていたとはいえ、同年代の子たちと比べて自由な時間が少なかったのは事実だ。それがなくなるとは言わないまでも軽減されるのは、郁美にとって良いことのはずなのである。
こればっかりやな。
良いことのはず、悪くないはず。そやけどもやもやする。
そんなんばっかりや。
郁美はいつまでも煮えきらず曇りっぱなしの自分を不思議にすら思った。
アーケードを抜けると、憎らしいくらいにどこまでも雲ひとつない水色が視界に広がる。
秋の空は高い。
『クミLOVEマックスなのはハンパないけど、ぜんぜんまともなええ子やん』
スマホに表示された姫子からのメッセージは郁美自身が思っていることそのままで、やっぱり誰が見てもそうなんやなあとむしろ感心してしまう。郁美はベッドに寝そべりながら返信を打つ。
時刻は午後十時。あれからシェイク片手におしゃべりして、帰宅後はやっぱり千尋の作る夕食を食べ(付け合わせのにんじんグラッセがキュートなハンバーグだった)、いまは風呂上がりのまったりタイム。
マクドでしゃべり倒しすっかりリラックスして遠慮もなくなった千尋は、バスに乗って家に帰る姫子を手を振って見送った。もう片方の手でしっかりと郁美の左腕に抱きつきながら。
郁美としては頭をつかんでひき剥がしたかったが、はしゃいだ様子の千尋を見ると気が引けてしまい、結局されるがままになってしまったのだった。
郁美にべったりで一見それとわからないけれど、転入してきたばかりの千尋にとって新しい友達ができたというのはやっぱりとても嬉しいことだったのだろう。
ウザく思うだけでなく、心配もしていたのだ。
郁美の周りをつきまとってばかりで、新しい学校でちゃんと馴染めるのか。
だいたい、それでなくても今年の四月に東京からこちらにやってきたばかりなのだ。中学から高校という微妙な時期に急な環境の変化で、落ち着く間もなくまた転校(転校自体は千尋の意志による部分も大きいようだったが)。
もしかしたら郁美への過剰なスキンシップは寂しさの表れかもしれなくて、中学から持ち上がりの地元内部生ばかりのクラスでは東京からやってきた外部生は異分子そのものなのかもしれなくて……。
今日の千尋のはしゃぎ方はその考えに信憑性を与えるように思えた。
やはり、ちょっとなんとかしてあげなくてはいけないかもしれない。
そんなん知らんし、というわけにはいかない。
「あの、ちょっとええかな」
「わあー、郁美ちゃん。どしたの? ささ、入って入って」
はたして郁美が決意とともに隣室をノックすると、なんとも平和そうな顔をした千尋がそこにはいた。
予期せぬ訪問を嬉しいサプライズとばかりにどんどんテンションの上がっていく千尋を見ても、郁美の使命感が萎えることはない。いや、正確には少し萎えないでもなかったが、そこは困難さというスパイスがたじろぐ心を悲壮感に変えて補強してくれる。
「えっと、ガッコはどお? クラスでとか、友達できた?」
勢い込んでやってきたものの、下準備もなしにいきなり突撃したのは失敗だったと郁美は早くも後悔していた。
とっさに出たのはまるで思春期の娘となんとか会話しようとする父親のような問いかけ。父・
千尋はそんな対面の義妹の不自然さを意に介さず笑顔で答える。
「うん、できたよー」
あれ。
「隣の席の子がね、すごく親切にしてくれてー」
うむ。
「前の席の佐伯さんは特別教室とか案内してくれるしー、斜め前のかずえちゃんには数学の先生の当てる癖とか教えてもらったよお。二十二分だから出席番号二十二番とか珍しいよねえ。ふつう日にちとかなのに」
あかん、この子コミュニケーション強者やった。
郁美の懸念は杞憂だったらしい。途端に恥ずかしくなってくる。なんという空回り。
使命感という言葉がふわふわと自分の周りをただよいながら「なんやわしどこ行ったらええねん」と小突いてくる。ほんまもうこれちょっと勘弁してください……。
「でっ、でも! お昼休みとかわたしのとこ来るよりクラスの子たちと一緒にごはん食べて親交を深めるとか」
「なんかね、みんな『しっかりね!』って言って郁美ちゃんとこに行くの応援してくれるの」
おい三組。
「放課後とかクラスの子たちとお茶しに行ったりとか!」
「わあ、じゃあ郁美ちゃんも来てくれるんだね!」
すんまへん。
千尋は強かった。
自分の決意を無駄にしないためにと食い下がり、さらにあわよくば自分離れさせようという下心混じりの提案はきれいに打ち返された。それどころか三組の愉快な仲間たちの前で美しい姉妹愛を見せつけなければいけない事態に陥ろうとしている。
ゆるふわ美少女千尋は持ち前のゆるふわっぷりで早くもクラス内のポジションを確保し、しかも義妹ラブというおもしろキャラでもって愛され応援されているようだった。
持ち上がりの内部生が大半で刺激の少ない学校に降って湧いた格好のネタなのだ。考えてみれば当然のなりゆきとも言えた。
「えっと、そしたら今日の帰りめちゃ機嫌良さそうに見えたんは……?」
「ん? あー、嬉しかったからかも。ほら、姫ちゃんに中学のころの郁美ちゃんのこといろいろ教えてもらったでしょう。それが嬉しくて」
「さ、さよか……」
千尋はぶれない。郁美は寂しさの反動とかいうありがちなレッテルを貼っていた自分を恥ずかしく思った。
こんなん、お母はんいなくて寂しいやろとかしょうもないこと言うてくる人らと一緒やん。
今日何度目か数えるのもおっくうな自己嫌悪に陥る郁美を尻目に、千尋は愛する義妹が自分を気にかけてくれた感動にうち震え、とびきりの笑顔を浮かべていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます