#4 エスケイプ


 私立華洛からく女子中学校・高等学校。

 京都府京都市は東山区に位置する中高一貫の女子校である。


 制服はスリムなシルエットがきれいな濃紺のジャンパースカートにボレロ型の上着で上品に全体をまとめつつ、胸元の小さなリボンタイが可愛らしい。シックなデザインで京都府下の女子に人気がある。


 府下の私立校の多くがそうであるように、仏教系の学校法人によって経営されている。とはいえ宗教色はさほど濃いものではなく、一部の仏教行事や仏教教育の授業が設けられる程度に留まる。

 お嬢様校というほどではないが、わりとのんびりとした校風とそれなりの進学実績で認知されている。


 その高等部、一年一組が佐倉さくら郁美いくみの所属するクラスである。


 二限目を終えた休み時間、郁美は自分の席でやっぱりため息をついていた。

 季節は秋。ずるずると引きずっていた残暑もどこへやら、十月に入りめっきり涼しくなって寒いくらいだ。


 ひそかにお気に入りの冬服も気持ちを慰めるにはいたらない。今朝は千尋ちひろが越してきてから初めての登校、同じ家から一緒に通う初めての登校であった。

 千尋のハシャぎ具合に比例して、郁美の疲労度たるや推して知るべし、である。


「ため息なんてついて、どないしたん? まだ二限やで。疲れるには早い早い」


 声をかけてきたのは仲良しのやなぎ姫子ひめこだ。中等部から一緒で、もう三年以上の付き合いになる。


 クラスでいちばん背の低い彼女は、しかしクラスでもいちばんの元気娘だ。

 ふんわり軽めのお団子を頭のてっぺんにまとめた赤めの茶髪は彼女の軽妙な雰囲気によく似合っていて、森の小動物的な印象を際立たせている。

 つぶらな瞳はくりくり、大きめの口はにっこり。今日も元気いっぱい平常運転である。


「あー、昨日引っ越しだったんよ。それでちょっと疲れが残ってんのかも」

「ああ、あの子やんね。あの三組の転校生! なんやモテそうな!」


 やや乾いた笑いで返した郁美に対し、姫子はがっつり食いついてくる。郁美のザ・美少女という第一印象にたがわず、学期の始まりから少し遅れた一週間前に転入してきた千尋の存在はいま最もホットな話題となっていた。


 しかも一組の佐倉さんとなにやら姉妹だったりするらしい、いやいやいわゆるステップファミリーというやつですよ……と、年頃の少女の好奇心を刺激する要素に満ちた千尋は、一年生のみならず高等部全体の注目の的と言っていい。郁美は「通常、同家庭の子女は別々のクラスに配属する」という慣例に感謝せずにはいられなかった。


「とうとう嫁入りが済んだんやねえ。もう昼休みのたびにラヴ全開やもんなあ」


 姫子の不用意なひと言で(というか無駄に下唇の振動を強調したVの発音はなんなのだろう)郁美の笑顔にヒビが入る。


 そう、千尋は学校でもやっぱりすごかった。


 朝は名残惜しそうに郁美の教室までついてくるし、放課後には迎えにやって来て廊下できっちり待機。郁美の登下校は常に千尋のエスコートつきだ。

 さらに昼休みにまで郁美ちゃん郁美ちゃんと一組の教室にやってきて、お昼ごはんを一緒に食べようとねだる。

 千尋が転入してきてわずか一週間で、四限終了の鐘とほぼ同時に廊下を駆けてくる弾んだ足音は昼休みの開始を彩るBGMとして定着しつつあった。


 ましてや今日は千尋作の弁当である。

 普段は郁美が手早く父と自分の二人分の弁当をこしらえるのだが、引っ越し後初のお弁当とあって千尋は張り切った。どっちが作ろうかとか相談する隙すら与えず素早く弁当を作りはじめた千尋の横顔は、それはもう幸せそうだった。

 言いたくはないがやはり想像してしまう、まさに新妻の風格。


 そんな記念すべきお弁当タイムに千尋がハシャがないわけがない。

 どこから情報を入手したのか、クラスの一部では四時限終了の鐘から一組到達までのタイム記録更新トトカルチョなども催されているようだった。仮にも他人の家庭のことを賭けの対象にしないでほしい。


「あはは……。嬉しいのはわかるけど、ちょお落ち着いてほしい、かな」


 不満度九〇パーセントオフの不平を漏らしてみるが、気に留める者はいない。

 あれだけの美少女がわんこのように慕ってくるのである。うらやましがりこそすれ、郁美に同情の念を向ける者は皆無だった。

 姫子もべつにうらやむ様子こそないものの、内心面白がっているのは見え見えだ。


「ああ、うちを捨てて千尋ちゃんを嫁にしてしもたんやね! お幸せにぃオヨヨヨ……草葉の陰でアナタの幸せを見守っているわ~」


 というかアホな小芝居を挟んできたりして面白がっているのを隠そうともしていない。


「うちの子をもてあそんで、東京から来た超新星のモダンガールに乗り換えるなんてひどひ! ひどひわ!」


 斜め前の席の大槻おおつきさんまでなぜか乗っかってくる。メタルフレームの眼鏡が似合う図書委員は案外ノリがいい。しかし「ひどひ」というのはいかがなものか。ていうかモダンガールて。


 一年一組の教室は郁美の席を舞台に愛憎渦巻く、さながら宝塚歌劇。興が乗った姫子は机の上に乗って派手な身ぶりで「ザ・耐える女」を演じ始め、郁美はいっそう疲れがたまっていくのを感じるのだった。




 問題の昼休み。


 三限、四限を犠牲にして千尋対策を考え続けた郁美は、ウルトラC的解決法で熱いラブラブランチタイムからの逃避をやってのけた。四限目の途中で腹痛と称して保健室行きをキメたのである。


 一部の生徒は「こいつゼッタイ仮病やろ」という視線を送ったが、ここ一週間の狂騒で鍛えられた郁美の面の皮は厚く、また千尋の突撃に怯えるあまりちょっと真剣に具合悪くなってきていた郁美の顔色の悪さに、教師は疑うことなく保健室行きを許した。


 思いなしかいつもとちがう響き方をする四限終了の鐘を保健室の清潔なベッドの上で聞きながら、郁美は早くも罪悪感を覚え始めていた。


 仮病自体もさることながら、千尋の純粋な好意を裏切ったのがうしろめたくなってきたのだ。空の机を見てあの子はどんな顔をするのだろう。これだって場当たり的な逃避だ、二度使えるものではない。


 わたしはあの子の好意をきちんと受け止めてあげなあかん。


 そう改めて思い直した瞬間、ガラッと保健室の引き戸が開けられる音で体が震える。


 千尋かと思ったがちがった。入ってきたのは生徒らしく、なにやら保健教諭と話している。じゃあちょっとお願いね、と保健教諭が言って一人分の足音が保健室を出ていく。

 どうやら保健委員が留守番を命じられたらしい。ベッドの周りを囲った白いカーテンで姿は見えなかったが、委員は静かに丸椅子に腰掛けたようだった。


 間を置かず、聞き覚えのある足音とともに再び戸が開かれる。


「あのっ!」


 千尋だ。


「あのっ、郁美ちゃん……一年一組の佐倉さんは」

「静かに」


 留守番の保険委員のものらしい、落ち着いた低音が千尋をたしなめる。さほど大きくないのに不思議とよく響く声だ。耳を心地好ここちよくくすぐる綺麗なアルト。


「あっ、ごめんなさい。あの、佐倉郁美さんが保健室にいるって聞いて、あたし……」


 考えてみれば当たり前だった。


 郁美が保健室にいると聞けば千尋は飛んでくるに決まっている。逃げるだけでなく、自分はあの子に余計な心配までかけてしまったのだ、と自己嫌悪が加速する。


「……佐倉さんは眠ってます。特に異常があるわけではないみたいやけど、疲れてるんかも。起こさないであげてください」

「えっと、でも、あたし……」

「あなた、そばにいたらじっとしてられへんでしょう? 心配ないですから。あんまり先生いないときに騒いだり溜まったりすると叱られるし」


 保健委員は柔らかくも有無を言わさない声で千尋を押しとどめる。何度かの攻防の後、千尋は不承不承すごすごと保健室を後にしていった。


 千尋には悪いと思ったが、郁美は正直ホッとしてしまった。


 安堵した拍子にうっかり出てしまったため息が思いがけず大きく響いてしまい、身を縮める。少し間が空いて、くすりと控えめな笑い声がした。カーテンがそっと開けられ、見覚えのある顔がこちらをうかがう。


「追い返してしまったけど、よかった? そうしたほうがええかなと思ったから」

「山田……さん?」


 艶のある黒髪を左に流したショートボブ。切れ長の目が涼しげで、一見すると冷たい印象を与える美人。


 顔をのぞかせたのは同じ一年一組の山田やまだ果歩かほだった。

 ほとんど話したことはないし、あまり誰かと仲良くしている様子はなかったけれど、その雰囲気からクラスでも独特の存在感を示していた。


「名前、覚えてくれてたんやね。佐倉さんと話したこと、なかったから」

「そんなん、覚えてるに決まってるやん。もう十月やし」


 不快に思われるかもしれないから、「それでなくても山田さん目立つし」という言葉は呑み込んだ。果歩は端正な顔を少しだけ歪め(たぶん笑ったのだろう)聞こえるか聞こえないかの小さな声でぼそり「嬉しい」とつぶやいた、気がした。


 ちょっと、どきどきする。


「えっと、あの、正直ちょっと助かった。ありがとう。その、落ち着きたかったし」


 取り繕うように意味もなく慌てて体を起こす郁美に、果歩は今度こそ確かに笑った。山田さんのこんな顔見たのはたぶんこの学校でわたしが初めてやろな、と郁美は思う。


「佐倉さん……千尋さん、でよかったかな。あの子、ずっとうちのクラスに通ってた子やんね。一生懸命でええ子やけど……」


 果歩はみなまで言わず、代わりに少しだけ眉根を寄せ困ったような微笑みをたたえてベッドのそばに立つ。


 同い年とは思えない大人びた表情だった。

 あんまり大人びて見えるので、郁美はついつい余計なことまで口走ってしまう。目を伏せ、無意識に掛け布団を引いて口元を隠してしまったのは葛藤の表れだったかもしれない。


「わたし、ずるいかな。いけずなこと、してしまったやろか」

「私には、わからへん」


 果歩の答えが遠回しな肯定に思えて、少しだけ落ち込んでしまう。それを察してか、「でも」と続けた声に郁美はふっと目を上げた。


「あの子は、この程度でへこたれたりしいひんと思う」


 あまりに核心を衝いたひと言に、二人は思わず目を合わせて笑った。

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