♯2 佐倉家の離婚と再婚
「はぁ……」
あふれ出した湯が音を立てて排水溝に吸い込まれていく。このざばーっという音が何より幸せだ。温かいお風呂に入っていることを実感させてくれる。
お湯加減もよく気持ちいい。
今日一日でしっかり一年分は凝ってしまった肩をゆっくりもみほぐす。乾いた笑顔で固まってしまっているであろう頬も両手でしっかりマッサージ。お風呂は命の洗濯だ。
浴槽の中で身体を伸ばし、手足をさする。
やや控えめな胸は置いておいて、手も脚も細くしなやかに伸びている。十六歳の女の子としてはなかなか上出来なのではないか、とひとりこっそり思う。
いい感じに体が温まって、ぼんやりとしてしまう。
今日は本当に大変だった。新生活の一日目がこんなに大変だとは思わなかった。
新しい家族を迎えることが、いや、
再婚前の穏やかな日々が早くも懐かしく思えた。
父の様子が変わったことに気づいたのは半年くらい前だったろうか。
とくべつ何が変わったか、と問われると答えに詰まるけれど、とにかくなんとなく雰囲気が変わった。
それからだんだん、朝の
いままでそんなことはなかったから、郁美は多少驚きはしたものの、意外と冷静に「これは気になる女でもできたな」と推測できた。父だってまだまだ若いのだし、妻にほとんど出ていかれたような形になった離婚は父の心に大きな隙間を空けてしまっていたのだろう。
それを考えれば遅いくらいだった。
郁美がまだ小学生のころに母は家を出た。
それまでなんの不満もなさそうに主婦業をこなしていた母は、近所でも評判の「すてきな奥さん」だった。父と母の仲は良好に見えたし、郁美も両親の愛を受けて幸せに暮らしていた。
でも、それは表面的なものでしかなかったらしい。母は彼女自身にしかわからない苦悩を抱えていたのか、父と郁美はそれに気づくことができなかった。
母が突然出ていって、何度かの話し合いがもたれ、離婚はあっさり決まった。
郁美が事態を理解できずただ困惑している間に、おさまるところにおさまってしまった。
悲しむ暇すらなかった。
もしかして自分は母に捨てられたのだろうか、と思うことがないわけではなかったが、決して口にはしなかった。
それよりも、知らず知らずのうちに母を狭いカゴに押し込めてしまっていたのではないかという後悔のほうが大きかった。父がときおりそういったことを口にするのを耳にしていたし、なによりあんなに優しかった母が自分を捨てるなんて思いたくはなかった。
これは捨てるとかそういうのとはちがう、もっとべつの何かなのだ。
お互いが不幸にならないために選んだ、ひとつの方法なのだ。
父子家庭になってから、家事はもっぱら郁美の役割となった。
父には仕事があったし、突然の別れに動揺しているであろう父を支えたいという気持ちもあった。そしてなにより、母が毎日こなしていた家事をすることで母が何を考えていたのか知りたいと思った。
やってみると家事は思っていたよりずっと大変だった。
母はつらそうな顔なんて一度も見せなかったけれど、手伝いもせずに家事すべてを母にまかせきりにしていたことをいまさらながら後悔した。
それでも完璧にこなしていた母に近付きたくて、炊事洗濯掃除すべてを一生懸命学んだ。父もそんな郁美をいたわりながら応援してくれた。
そうやって二人で支え合って(と表現するのは美しすぎるけれど、とにかくなんとか)やってきたから、父に好きなひとができたならそれは郁美にとっても喜ぶべきことのはずだった。
べつに家事はいまやお手の物になっていたから負担になんてなっていなかったけれど、それよりも父を「ただひとりの父としての役割」に押し込めてしまってはいないかと少しだけ心配だったのだ。
かつて自分たちが母をそうしていたかもしれないように。
数ヶ月前に紹介された
控えめに言ってチャーミングだし、気さくで自分の意見を言うことに慣れているように思えた。
これなら万が一出ていくような事態になっても、事前に何が不満かを訴えてくれる。それは大げさにしても、話した感じでは距離の取り方が上手だという印象を受けた。
悪くない。
二度目の対面では彼女の娘だという少女を紹介された。
谷千尋。郁美と同じ高校一年生。
ふわふわとうっすらウェーブのかかった柔らかそうな髪は肩まで伸びて、光を受けて栗色に輝いている。色素が薄いのだろう、それは髪だけでなく惚れ惚れするようなきめ細かい白い肌にも現れていた。
垂れ気味の目はぱっちりと大きく、長いまつ毛は下までびっしり。おまけに上品な白のニットをなだらかな双丘が押し上げてしっかり主張している。
ザ・美少女!
喫茶店のテーブル席の向かいに座った千尋は、好奇心いっぱいに瞳を輝かせて郁美を見つめていた。郁美が美少女オーラに
東京弁でぐいぐいくる美少女に戸惑わないではなかった。
しかし、愛想はもう抜群によかったし、何より郁美に多大な好意を抱いてくれているようだったから、正直言って悪い気はしなかった。
父と尋子さんは早くも娘同士が打ち解けている様子に上機嫌だったし、仲良くなれそうでよかったな、なんてのんきに考えもした。
が、しかし。
「郁美ちゃーん、お湯加減どーおー? ちゃんとあったまってるかなー?」
「わひっ!?」
回想にひたっていたところにいきなり声をかけられ、郁美は形容しがたい声を発してしまった。
浴室のガラス扉ごしに落ち着きのない人影が見える。
千尋。ザ・ウザ美少女。
「えっと、大丈夫。ありがとうね」
「えへへ。あ、バスタオル置いてくね。ごゆっくりー」
そんなん言われんでもゆーっくりしたるわ。言うたらあんたのせいでゆっくりできひんのやないか。
郁美は
そう。千尋は過剰なくらいに郁美にまとわりつく超ウザ美少女だったのだ。
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