第130話 酔っ払い

 横浜時代。

 風呂上がりに私と息子は猛烈にガリガリさまが食べたくなりました。

 コンビニまで買いに行こう! と外に出ました。夜の九時前ぐらいだったと思います。夏の終わり。生温い湿った夜風の中、珍しく夜の散歩に息子ははしゃいでいます。

 徒歩五分程のコンビニでガリガリさまを購入し、近くのベンチで食べた後、帰路につきました。

 あれ? と思いました。

 道に置いてある自転車が、ことごとく倒れているのです。来るときにはちゃんと立っていたのに。

 倒れてるねえ、と息子と自転車を立てなおしながら帰りました。

 そしてしばらく歩いた後、前方に人影が立っているのが見えました。暗くて顔は見えませんが、なにやらこっちを見て喋っている様子。

 ふと、隣を見たら息子が居ませんでした。あれ、と後ろを見ると息子は立ち止まったまま、こっちを見ています。私も立ち止まり息子に言いました。


「こっち、来いや」


 その時また、前方の人物が何か言ったので私はちらり、とそちらに顔を向けてから息子に顔を戻しました。

 実はその相手は酔っ払いで、私のこの行動がカンに触ったようなのです。おそらく、先ほどの自転車も彼が倒したのだろうと思います。彼がなにかわめいているのだということは分かりました。

 息子は立ち止まったままです。


「はよ、きい。どうしたん」

「ママ、足痛い」


 私はああ、と気がつきました。息子は新品のつっかけを履いてきたのです。それで、足が痛くなったのです。


「歩けへん?」

「痛い」

「バカ女!」


 私はびっくりして振り返りました。


「バカ女!」


 え? なに、あの人、ウチに言うてんの?

 やっと、相手は私たちに向かって言葉を発しているのだと気づきました。

 こっちに近づいてくるのが見えました。


「バカ女!」


 私は急いで息子のもとに戻りました。抱き上げて、車道を挟んだ反対側の歩道へと渡ります。


「バカ女!」


 彼は反対側の歩道からわめいて追いかけてきました。自動販売機の明かりで彼の姿が一瞬、見えました。メガネをかけ作業服を着たヒョロッとした青年。新卒のような印象。


 なんやねん、あの兄ちゃん!


 私一人なら無視して歩いたでしょうが、子供がいます。何かされたらどうしよう、と私は恐怖を覚えました。


「バカ女!」


 広めの車道に出ました。これを渡るともう私の住んでるマンションの前です。赤信号だったので躊躇しました。


「早く、こっち!」


 向かいの歩道から二組の自転車に乗った夫婦(カップル?)が私たちの方を見て、手招きしていました。異変に気付いて、止まってくれたようです。

 私は車を確認して、あわてて車道を子供を抱っこして渡りました。


「大丈夫ですか?」


 一人の女性の言葉に、はい、と私は答えます。すると、グループのうちの一人の男性がわめき散らしている彼に向かって大きな声で発しました。


「おい、なんやねんお前! 兄ちゃん!」


 関西弁……!


 私はホッとしました。

 こういう時、同郷の言葉というのは不思議なほど心強く感じるものなのです。

 このグループのうちの一人の男性が関西人だったようです。

 酔っ払いの彼は一気に大人しくなりました。


「お家はどこですか?」

「あ、ここです」

「早く、中に」


 お礼もそこそこに、私はあわててマンションに入りました。心臓がドクドクしてました。


 通りすがりで私たちのことを気にかけてくださった男女二組の方にはお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。



 その夜は少し怖くてなかなか寝付けませんでした。酔っ払いの彼にマンションに入るところを見られて、何かされたらどうしよう、などと考えたりしました。

 主人からちょうど電話がかかってきて、詳細を話しました。


「メガネかけてて、一見真面目でおとなしそうな若い人やったけど」

「そういうタイプが一番フラストレーションたまっていて、酔うとやらかすんだよ」


 そうかもしれません。


 ドキドキしながら子供を抱きしめて寝ました。

 珍しく、主人がここにいてくれればいいのに、と思った心細い夜でした。

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