第52話 歩道橋1
年始の箱根駅伝。
皆さん、ご覧になられました?
私は箱根駅伝を見ると六年前のことをいつも思い出します。――
六年前の年の瀬。
その秋に長男を出産した私は、実家に帰らず横浜におりました。
いえ、帰省したかったんですがそのとき鳥インフルエンザが流行っておりまして人ごみは避けた方がいいと皆からいわれておりましたから、帰省しなかったのです。でも、そんなのは無視して帰省するべきでした。ええ、帰省するべきでしたよ! はい。
一人で慣れない月齢一か月の子の育児(授乳姿勢が悪魔の姿勢だと思うのです)を朝晩繰り返した結果、ギックリ背中を起こしました。年末だから病院は救急病院だけ。顔面蒼白で揺れるタクシーに乗り、痛み止めの注射を二日間続けて打ってもらいましたが、気休め程度にしか効かない。
移動はほぼほふく前進、もしくは能のようにゆっくりした動作でしかできない。(そのゆっくりした動きが面白いのか、子供は私を見て笑います。それがまた切ない)
トイレが地獄でした。便座に座って立ち上がるあの動作に疲労の限界を超えた背中の筋肉がビキビキッと悲鳴を上げます。常に涙目。
はっきり言って、出産より痛い。ええ、確実に出産より痛かったです。あの苦痛に比べれば、陣痛なんて屁です。(まあ、陣痛は波がありますから、間に休めますからね。ですから男性の皆さん、ぎゃーぎゃー言われる出産の痛みとははたしてどのようなものなのか? と気になられるでしょうが、相当ひどいギックリ腰の痛みにくらべれば出産のほうが全然マシなんだな、と思ってくださってよろしいかと思います)
じっとしているのが一番ですが、それでも子供はオムツやミルクと泣きますし、動かねばならない。まさにこの世の地獄。
こんなときぐらい、主人緊急下船しろよ! いや、育児休暇とれるんだからとれよ!
(転職してその会社に入職したばっかりなので気が引ける、と主人はとらなかったのです。でも最近の新人さんは入職早々、育児休暇とったそうで。……見習え!)
散々、心の中で呪いの言葉を吐いておりました。もうこの時のうらみだけは絶対に忘れますまい。
(だから、長男が主人に最初、なかなか懐かなかったのはこのせいだと思っております。ざまあみやがれ!)
その痛みが徐々に緩和した一月二日。
冷蔵庫の食材が少なくなってきました。買い出しに行かねば。
えーん、背中が痛いよーと、子供をベビーカーに乗せてスーパーに行って、さて家に戻ろうとしましたら。
なんだか帰り道に人がものすごく集まっていました。
え? 何事?
私は育児に頭がいっぱいでそれに気が付かなかったのです。
そうです。今日は箱根駅伝の往路の日!
私のいたマンションはその中継地点のすぐそばにあったのですよ。
鶴見市場中継地点!
旗を持って待機している皆さんを見ながら、あー、駅伝か、と全く興味なく私は歩道橋へと向かいました。歩道橋を通って道を渡れるものだとばかり。
すると。
おまわりさんが、歩道橋の階段の下で立っていました。
「すみませーん、通っていいですか」
声をかけた私に、おまわりさんはきっぱりと首を振ります。
「駅伝のランナーが全員通り過ぎるまでここは閉鎖です」
なんと!
私は頭がぐらぐらしました。
「す、すぐそこが家で帰るところなんですけど」
「……あと、40分以上はかかりますね」
なんと!
すぐそこに我が家のマンションが見えているのに!
帰れないなんて!
私は駅伝というものを甘くみておりました。
こんな幼子をかかえたママですよ。妨害行為なんかしませんよ。心配なら、いっしょに向こう側までついてきてくださったらいいんじゃないか、と。
ちらりと考えましたが、やっぱり駄目なんでしょうね。私みたいなのを一人許すと、他にも同じような人が出てくるでしょうからね。
えーん、えーん、背中が痛いよー。
寒空の中40分もいるわけにはいかず、コンビニに入ったりスーパーに戻ったりして、痛みに耐えておりました。誰に向けるわけでもない呪いの言葉を心の中でつぶやきながら。
そのとき、ちょうど『風が強く吹いている』が流行っていたときだったかもしれません。
駅伝がいつも以上に盛り上がっていたのかもしれません。
そんなの、育児中のママにとってはどうでもいいんじゃ!
相当、心が荒れておりました。
痛みというものは人の心を変えるのです。
そういうわけでして。
箱根駅伝を見ると、あの時の痛みと情景がフラッシュバックし、切ない気持ちになるのです。
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