【番外編】がんばれ!吉野くん!


 窓の向こうの重く垂れ込めた曇り空のせいで、教室の空気が生ぬるく倦んでいるような気がする。黒板に書いては消し書いては消しを繰り返しながら英語教師が教科書の設問を解くのを、俺はぼんやり、聞くともなく聞き流していた。時々、席ふたつ分向こうに座って真面目に黒板を見つめるタカハシをちらりと盗み見る。

 ……何だかなぁ。こういうのを恋って言うんだとしたら、恋ってのは本当に不可思議だ。タカハシじゃなくても可愛い子はいっぱいいるのに、何で敢えてタカハシ? でも、気になるんだからしょうがない。

 俺が胸の内で「はあああああ」と盛大にため息をついた、その、時。


「おーい、ちぃちゃーん、ちぃちゃんは何処ですかー」


 低く不機嫌そうな声と共に、教室のドアがピシャッと勢いよく開いた。


「あ、おじいちゃん。ちぃちゃんのいるクラスはココ? ココ2Aだよね?」


 突然の侵入者にポカンとした表情で硬直する英語教師に軽い口調で尋ねて、入ってきた男は教室を見渡した。2mくらいあるんじゃないかと思われる身長、それからサラサラの金髪、それでいて何処のホストクラブからおいでですかと問いたくなるような艶っぽく整った顔立ち。


「き、君、何事かね! 第一私はおじいちゃんではなくて英語の授業をだね、いや、その前に君は入校許可を事務室できちんと、」


 にっこり。英語教師の抵抗虚しく(定年前のじいさん教師だから致し方ない)花が綻ぶように艶然と笑いながら、男は教卓を占拠した。突然の出来事に呆然としていたのは男子のみで、女子は俄然色めき立ち、「誰あれ」「何なに何しに来たの」「つか超格好いいんだけど」「え? モデルか何か?」などと抑えきれない様子で黄色い声を挙げる。

 そんなクラスの動揺とざわめきを一切無視して、男は再び不機嫌そうな声で尋ねた。


「ちぃちゃーん、シ・ノ・ミ・ヤ・チ・ヒ・ロ、くーん?」

「……篠宮は僕ですけど」


 そう言って俺の斜め後ろの席のシノミヤが立ち上がる。我が2Aでちぃちゃんとあだ名される男子と言えばコイツしかいない。シノミヤチヒロだ。たっぷり時間をかけてシノミヤを舐めるように観察すると、男はまたにっこりと笑った。


「へぇー、君がちぃちゃん、か。うちの大事な花織の髪をあんなに上手に切ってくれてどうもありがとう。……という訳で、お礼に君の髪も切らせて貰っていいよねえ?」


 しゃきん、銀色の鋏が男の手で光る。口角を持ち上げてくっきりと笑う顔が般若に見えて、俺は思わずハイッ! と挙手していた。


「ちょ、ちょ、ちょっと待った! おにいさん何者なんすか? つかカオルってサギサワカオルでしょ? サギサワは今日は欠席ですけど!」


 椅子を蹴って立ち上がると、俺はばか正直に男の前で突っ立っているシノミヤを背に庇いながら咄嗟に言い募った。


「で、シノミヤの髪と何の関係があんのか俺はよく知らないっすけど、とりあえずハサミは危険っしょ! 危険危険! 暴力反対!!」


 おろおろしつつもどうにか割って入ろうとする英語教師、唖然としたまま事の成り行きを見つめる外野、何故か必死な俺。いやマジで何で俺がこんな事を? 自分でも訳がわかっていない俺に、当のシノミヤが小声で言った。


「吉野、危ないよ。僕は平気だから」

「平気ったって、シノミヤお前この人に髪切られてもいい訳? ……つーかサギサワの髪がどうしたって?」

「うん、ちょっとね」


 そう呟いて、シノミヤは僅かに表情を翳らせた。それを受けてか、嬉々として男は言う。


「さあちぃちゃん、そう言うなら黙って髪を切らせて頂きましょうか。ほらほらチビっこは席に着きなさい」


 俺は男に頭をよしよしと撫でられシノミヤにも視線で促され、かなり不本意ながら席に戻った。俺に捧げられた『チビっこ』という単語に、クラスのあちこちでクスクスと笑い声が漏れる。そりゃそうだ、俺は160前半であの男は雲を突くような(言い過ぎか)巨人なんだから。くそ。

 そんな俺を余所に、男の手の中で、再びしゃきんと鋏が鈍い光を放つ。シノミヤが男に尋ねた。


「もしかして花織のお兄さんですか」

「そうですが何か」

「いえ別に。とにかく今は授業中なんで、終わるまでそこにでも座って待ってて下さい」


 潔い、ピシャリと音がしそうなくらいテキパキとしたシノミヤの言葉に、クラスじゅうが「おおーっ」と感心した声を挙げる。なんなんだ一体。自称サギサワカオルの兄であるところの男は、シノミヤの隣(つまりサギサワカオルの席)にドカッと腰を下ろした。


「–––鷺沢サンのお兄さん」


 事態が収束に向かおうとしていた矢先、その自称サギサワカオルの兄に向かって呼び掛けた強者がいた。タカハシだ。自称サギサワカオルの兄は、気怠げながらやけに優雅にその強者に応えた。


「はい、そこの足の長いキミ」

「高橋里佳です」

「あー、高橋ちゃんね。で、何?」

「鷺沢サンからどう聞いたのか知りませんけど、鷺沢サンの髪がああなった根本的な原因、篠宮じゃないです。関わったのがわたしの後輩の女子だったって聞いたんで、その子についてはこってり絞っ……いえ、丁寧に指導しときました。ともかく、鷺沢サンの髪の件と篠宮の髪は直接的には無関係です」


 事務的な口調で恐ろしい事を言ってのけたタカハシに、ふぅん……と、やたら長い足を組み替えながら自称サギサワカオルの兄が頷く。それにしてもタカハシお前って奴は……! クラス全員うっすら青褪めて見えるのは、きっと俺の気のせいなんかじゃない。何がどうなってんのかは知らんが、ともかくタカハシはそういう女だ(そこが俺は好きなんだけど)。


「高橋ちゃん」

「はい」

「キミは……」


 すっと立ち上がって、男はタカハシの前に立った。女子としては平均以上に高身長のタカハシ。そしてホストみたいに綺麗な顔の巨人。妙にバランスの取れた絵面に、チビっこな俺はほんのり嫉妬する。


「うん、タカハシちゃんいい女だねぇ。これからも花織と仲良くしてやってね? ……あ、場合によっては花織からちぃちゃんとやらを引き剥がしてくれてもいいよ? うん、オレが許す」


 また花のように微笑むと、そのまま自称サギサワカオルの兄はスタスタと教室を出ていってしまった。残されたのは、何が起こったのか理解不能な俺たちクラス一同だ。


「い、今のは篠宮君の関係者かね!」


 我に返ったように口角から泡を飛ばして英語教師が詰問する。「関係者なような違うような、何せ初対面なもので」とシノミヤが曖昧に答えて、更に「不審者は撃退したんですから早く授業を再開して下さい」とタカハシが言ったところで、終業を告げるチャイムが鳴り響いた。




「で、アレは結局何だったのよ」


 翌日、タカハシはサギサワカオルが登校するや否や彼女ににじり寄った(確かに金曜日までは腰くらいまであったサギサワの黒髪が、この数日で肩の位置までの長さに変化していた。これはこれで似合ってると思うけど)。他のクラスメイトも、遠巻きながら耳をそばだてているに違いない。

 え? と戸惑うサギサワに、俺が昨日の『自称サギサワカオルの兄2A闖入事件』の一部始終を話してやると、サギサワは貧血かというくらい血の気の引いた顔つきで狼狽した。


「お、お兄ちゃんそんな事したの……? いやお兄ちゃんならやりかねないけど、でも、だって、ちぃちゃん昨夜電話した時そんな事一言も言ってなかったのに! あああどうしよう高橋さん吉野君、え、でも高橋さんどうして髪の毛の事知ってるの? あの子高橋さんの後輩だったの? 懇切丁寧な指導って何? ……あれ、あたし何から考えたらいいのかな?」


 見事に混乱するサギサワに、俺はパック入りの牛乳をストローでずずずと啜りながら聞いた。


「とりあえずサギサワ、その巨人、本当にサギサワの兄貴なんだ?」


 こくんとサギサワが頷く。顎の辺りで黒髪が揺れて、シャンプーの甘い匂いが漂った。シノミヤは、サギサワのこういうところが好きなんだろうか。なんつーか、女の子らしいというか。


「ちなみにそのタカハシの後輩って子はサギサワに何したの、」

「しっかし激しくシスコンだね鷺沢サンのお兄さん。……まあ、わたしをいい女認定したから見る目はあると思うけど」


 サギサワの前の席の椅子に座ると、タカハシは俺の問いを無視して、勝ち誇ったような、その割に語尾は照れくさそうにくぐもった声で言った。うわ、と俺は顔をしかめて見せる。


「タカハシ調子乗りすぎじゃね? ちょっと色男に褒められたからって浮かれんなっつの」

「はあ?」


 眉根を寄せるタカハシのおでこをビシッと指で弾くと、俺は、


「お前がいい女だってのはな、俺だけが知ってればいーの!」


 と、迷いなく宣言してみせた。サギサワは頬を赤らめながらちいさく息を飲み、タカハシは耳まで真っ赤に染めながら口をへの字に結んで俺を凝視する。俺がからの一方通行な愛情表現に対してタカハシが見せる照れ隠しなのか何なのか泣きそうなその顔、冗談抜きで可愛いんだよなあ。だからやめられない。


「ば、ば、馬鹿じゃないの吉野! 何を何度言われたって、あんたがわたしの身長越すまでは絶対何も信じないんだからね!」

「はいはい」


 二つ返事で答えると、俺は飲み干して空になった牛乳パックをゴミ箱に放り投げた。炭酸もコーヒーも我慢して牛乳飲むなんてさ、我ながら涙ぐましい努力。でも、そんな恋する乙女ちっくな自分が嫌いじゃなかったりする、そんな今日この頃の俺。



 -END-

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