六花一片
三月半ば、涅槃会(ねはんえ)の頃に降る雪を、忘れ雪と呼ぶと言う。または、雪の果て、とも。ちらちらと舞い降りてきた春の雪を手のひらで受け止めると、それは、音もなくふわりと融けてしまった。
神様は居ない。オレは常々そう思う。神様とやらが居るのならどうしてこんな事が起こるのだ、と思わずにはいられない出来事が、世界じゅうに蔓延(はびこ)っているからだ。逆に神様が居るせいでこんな事になっちゃったんじゃねえの、と思うような出来事だってある。ただオレは他人の信教や神様や仏様や何かを冒涜したい訳じゃないから黙っている。それだけの事。
それに。
神様は居ない。が、天使なら居る。オレのすぐ近くにひとり、確実に。花が咲き零れるように笑う、妹の花織だ。オレが18、花織が11の時に両親は死んだ。交通事故だった。あまりに突然過ぎて自暴自棄になるところだったが、花織が居てくれたからこそオレは何とか持ちこたえたんだと思う。あの時から、花織はオレの天使になった。
日付が変わる寸前、花織を起こさないようにと忍び足で帰宅した筈が、花織はオレを待っていたらしくパッと弾んだ声で言った。
「あ、お兄ちゃん、おかえりなさい」
言葉を発するたびに美しい宝石や花びらが唇から零れる姫君、という童話を昔むかし読んだ事があったが、多分その姫君を現代に甦らせた姿が花織なんだと真面目に思う。オレは雑に靴を脱ぐと、大欠伸をしながら花織が居るダイニングに向かった。
「ただいま花織。今日も一日何も変わった事はなかっ………、って、何だよその髪は!!!!」
今朝、学校に送り出した時には腰まであった花織の豊かな黒髪が、肩あたりまでの長さに変わっていた。しかも、何と言うちぐはぐな切り口! いかにも工作用ハサミでちょきちょきしました、と言わんばかりの下手くそさだ。
唖然として言葉も出せないオレに、花織は、困ったように柔らかく微笑みながら言った。
「あ、あのね、ちょっとした事件というか事故があって。一部だけ短くなっちゃったから、思いきって揃えて貰ったの」
「こっち来い」
「え、」
「いいから。座れ」
オレは花織の華奢な腕をぐいぐい引っ張って浴室に連行すると、大きな鏡の前に折り畳みの丸いパイプ椅子を置いて花織を座らせた。首にタオルを巻き付け、ケープをばさりと広げる。花織の髪を切ったり整えたりするのはオレの役目だ。
オレは高校を卒業してから、美容室で働きながら通信で免許を取った。手に職を、と思ったのが第一の理由だったが、今となってはその選択はガチで正解だったと思う。コンテストだ研修だと休みが潰れたり帰りが遅かったりはするが、それを差っ引いても、花織のこの見事な黒髪を余所の美容師が好きなように切ったり染めたりするよりは、……あああ、そんな事、考えたくもない。
「お兄ちゃん明日も仕事でしょ? 今からじゃ遅くなっちゃうよ。次のお休みの日でいいから、ね?」
「ばかむすめ」
「ええー、優しさからの妹の発言にバカはないんじゃないの、バカは」
「仮にも美容師の妹が、こんな惨めな髪型でいていい訳ないだろ」
オレの言葉に、しゅんと俯いて花織は口を真一文字に結ぶ。浴室の曇った鏡越し、オレが一番見たくない表情だ。花織は泣きたい時に絶対に泣かない。ぎゅっと口元を引き締めて堪えようとする。
「……何があった?」
蛍光灯の白い明かりの下、オレの手の動きに従って花織の髪がはらはらと落ちてゆく。
「言いたくないならいい。でも花織、泣きたいならちゃんと泣け。オレは泣くのが格好悪いとか狡いとか思わない。女でも男でも、だ」
花織の柔らかな目縁と顎の線に合わせて、ゆるやかな前下げにして髪を整える。花織は肌が石膏みたいに白いから、黒髪だって綺麗に映える。……何せ天使だからな。
「違うの。この髪はね、ホントに事故なの。そんな事じゃなくてね、あたし、あたし……っ、」
ぱたぱたと涙を零しながら、花織が切れ切れに言う。震える肩。ああ、オレも花織も、両親の通夜や葬儀の時は泣かなかったんだっけ。何もかもが終わって閑散とした実家の玄関に立った瞬間、花織はオレの腕にしがみついて泣き崩れたんだった。
「でもね、ちぃちゃんは……ちぃちゃんは、ちゃんとあたしを大事だって言ってくれたの。だから」
出た。
「–––『ちぃちゃん』、ね」
オレは呟いた。"ちぃちゃん"。篠宮千紘とかいう花織の同級生。史上最大にムカつく事に、ちぃちゃんとやらは花織の彼氏……らしい。高校に入ってすぐぐらいから、花織との会話には必ずコイツが登場するようになった。「ちぃちゃんがね、」と話す時の花織は、悔しい事にこれまで見た事がないくらい愛らしくて甘やかで。兄としては、ちぃちゃんを有無を言わさずブン殴ってやりたいところだが、花織に嫌われても困るので今のところ一応静観してやっている。
「あたし、怖かったけど嬉しかったの。それにね、ちゃんとちぃちゃんに釣り合う女の子にならなきゃなあって」
「……花織お前」
ギロリ、と鏡の中の花織の瞳を睨み付ける。
「よもや鷺沢家家訓を忘れちゃいないだろうな?」
「あ……っ、当たり前でしょ! ちぃちゃんが変な事する訳ないじゃない!!」
「ふぅん」
花織が赤面しつつも少し元気を取り戻したのを感じて、オレはカットを再開した。
「ちなみにさ」
「なあに?」
浴室の掃除を終えると、肩口でしゃんと揺れる髪を軽やかな表情で見つめながら花織はオレに向き直った。こんなに短いのいつ以来かな、と、照れくさそうにはにかむのも可愛い。髪型に関係なく天使っぷりは健在だ。
「お前の髪をあんな風に切ったのは結局誰なんだよ。揃えて貰ったっつっても不器用過ぎんだろ」
「……ちぃちゃんだよ」
ああ、そう。オレはそれきりふつりと黙り込んだ。ちぃちゃんとやらにそろそろ会ってやろうか、と、無言のまま考える。
「あ、お兄ちゃん、雪! 雪だよ雪!」
カーテンの隙間から窓の外を見つめていた花織が嬉しげに声を弾ませる。
「もう三月なのに冷えると思ったら」
「忘れ雪、だな」
「え?」
「三月中頃に降る雪。名残雪とか雪の果てとか、ちょうどお寺さんの涅槃会の時季だから涅槃雪って言ったりもする」
「へぇ。お兄ちゃん物知り」
「否定はしない」
そういや母さんは雪が降ると子供みたいにはしゃぐ人だったよな、と、記憶を引き寄せて花織と二人して偲びたいような気もしたけど。
「ちょっと雪触ってくる!」
まるで母さんとそっくりな発言をして花織がベランダに出ようとするもんだから、オレはあっさり現実に手繰り寄せられてしまった。
–––ああ、そうか、こうやって花織がオレを此処に居させてくれてるのか。生きなさい、と、天使のように笑うのか。
花織と一緒にベランダに出て手を伸ばす。ちらちらと舞い降りてきた春の雪をひとひら手のひらで受け止めると、それは、音もなくふわりと融けていった。
翌日、花織が風邪を引いて熱を出したのは言うまでもない。ぐずぐずと鼻を啜る天使に、オレはいそいそとお粥を炊いてやってから出勤したのだった。
-END-
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