一番星に願いを


 一緒に居ると胸の奥があったかくなって、まあるい優しい気持ちになれる人。

 それが、あたしにとって、ちぃちゃん–––篠宮千紘(しのみやちひろ)という存在だった。




「鷺沢(さぎさわ)先輩、ちょっといいですか?」


 金曜日の放課後。階段の踊り場で、気味が悪いほどにんまり笑う名前も知らない下級生に、あたしは不意に呼び止められた。


「先輩ですよね、篠宮先輩に付きまとってるのって」

「付きまとって、る?」


 栗色の髪をくるくる指先に巻き付けながら、目元や唇にこれでもかとお化粧した彼女が頷く。香水の甘ったるい匂いがつんと鼻を突き抜けて、あたしは辟易しながらその場を離れようとした。

 人を見た目で判断してはいけません、と、確か幼稚園か小学校で教わった気はするけれど、それとこれとは別の話だ。彼女と一秒でも長くお喋りしていたくはない。一緒に帰る約束をしたちぃちゃん–––そう、彼女が言うところの篠宮先輩が、教室で待ってくれている。


 しかし彼女は、あたしの背中を有無を言わせぬ速さで壁に押し付けると、苛立ったように言葉を重ねた。


「知らないんですか? 鷺沢先輩は篠宮先輩の金魚のフンだって、女子はみーんな言ってますよ? ホント、こんな暗そうな人に四六時中くっつかれて、篠宮先輩かわいそう。この真っ黒で重たそうな髪も見るからにウザいし」


 スッと伸びてきた手で髪を掴まれて、あたしは思わず身体を強張らせた。今、いったい何が起きてるんだろう。あたしはどうしてこの子にこんな事をされてるんだろう。怖いはずなのに、あたしは妙に冷静に目の前の彼女を見つめていた。


「あたし篠宮先輩みたいなタイプってまだ試した事なくて。だから、ちょっと味見したいなー、なんて?」

「それであたしが邪魔って訳か。……でも、あたしが手を引けばちぃちゃんがあなたと一瞬でも付き合うなんて可能性が万が一にでもあると思ってるの? 自信過剰って言うのよ、そういうの」

「はぁ!?」


 ぐッ、と頭がもげそうなほど髪を引っ張られて、あたしは背筋が粟肌立つほどの嫌悪感を覚えた。彼女の望みが何かは知らない、けど、あたしにも譲れないものはある。それは伸ばし続けた髪なんかじゃなく、もっともっと大切なもの。だから。


「ちょ、な、何してんのよ!」


 あたしは筆箱から鋏を取り出すと、それを使ってじょきんと髪を切り落とした。彼女の手のひらで、ついさっきまであたしと繋がっていた黒髪がはらはら滑って床に零れる。


「マジ意味わかんない! いきなり何やってんのキモいし!!」

「長くてウザい髪を切っただけよ。どうしてあなたが狼狽えてるの?」


 あたしはするりと彼女の横をすり抜けると、ちぃちゃんの待つ教室に足早に向かった。心臓が痛い。怖かったから、それもある。だけど、だけど、それだけじゃなく、心臓が破裂したみたいにあたしの胸の奥が痛む。手足ががくがく震えていた。




「ちぃちゃん!」

「花織……、」


 教室に着くや否やなだれ込むようにちぃちゃんにしがみつくと、ちぃちゃんはすぐに一部だけ短くなったあたしの髪を見咎めた。


「何があった? どうしたんだよこの髪、誰がこんな事」

「ううん、あたしが自分でしたの」

「まさか違うだろ? だって何で花織が自分で」

「あたしは平気。それよりちぃちゃん」


 本当は平気なんかじゃなかった。だけど、そんな事よりどうしても確かめておきたい事があったのだ。


「ねえ、もし他の女の子から付き合って下さいって言われたら、ちぃちゃんどうする?」

「へ」


 何で今そんな質問、と言いたげなちぃちゃんを、あたしはじっと見上げる。


「……それは勿論、丁重にお断りする。僕には心に決めた人がいますので、って」


 言ってしまってから頬を紅潮させるちぃちゃんが可愛くて、あたしはちぃちゃんの袖口をきゅっと握りしめた。黙ったまんま見つめていると、ゆらり、顔が近付いて、ちぃちゃんの唇があたしの唇に重なった。背の高いちぃちゃんは、背の低いあたしとキスする時うんと屈んで猫背になる。

 ……さっきの彼女はそんなちぃちゃんを知らない。あたしにこんな幸せな優越感をくれるのは、世界中探してもちぃちゃんしか居ないのだ。


 ちぃちゃんに促されて全部を話すと、案の定ちぃちゃんは彼女に会ってくる、先生にも訴えてくる、と怒り心頭で言ってくれたんだけど。明らかに興味本位だった彼女が今後あたしにちょっかいを出してくる事はないだろうと踏んで、あたしはやんわりとちぃちゃんを諌めた。


「それより、ね。髪切って欲しいんだ。この長さに合わせて」

「ええ? 僕が? む……無理だよそんなの! こんな普通の鋏しかないし、そもそも人の髪なんて切った事ないし」

「いいの、下手くそでも。ちぃちゃんに切って欲しいの。……ほんとはちぃちゃん以外の人にあんな風に触られるのも死ぬほど嫌だったんだから」


 拗ねるようにあたしが言うと、渋々ながら頷いて、ちぃちゃんはあたしを椅子に座らせた。

 真冬に比べてずいぶん日がのびた気がする。夕暮れの光はあたたかな橙色で、あたしは雲間で溶けてゆく夕陽をぼんやりと眺めた。

 さっきの彼女はどうしただろう。今頃あたしの突拍子もないキモい行動を、誰彼構わず言いふらしているのかも知れない。


「えーと、じゃあ、とりあえず此処に合わせて切るよ? ……まったくもって自信ないけど」


 あたしの一部だけ短くなってしまった髪を慎重な手付きで摘まんでちぃちゃんが言う。


「ん、お願いします」


 腰まであった髪が、肩までの長さになるだけ。それだけだ。


 しゃきん、しゃきん。


 ちぃちゃんが鋏を動かすたび、あたしの髪が床に落ちていく。


「……花織、明日にでもちゃんと美容室行きなよ」

「うん」

「あと、また同じような事があったら絶対に話す事。僕が本人に会うから。会って、ちゃんと話をする。それから必要であれば学校にも報告する」

「んー」

「何その気のない返事」

「大丈夫だってば」

「花織って意外と無茶するトコあるからなあ。でも、やっぱり女の子なんだからちゃんと僕も頼ってよ」

「はーい」


 困ったように微笑んで、ちぃちゃんはまたあたしの髪に鋏を入れる。


「ちぃちゃん」

「ん?」

「見て、一番星」


 薄紫のインクを流したような空の端を指さしてあたしは言った。きらりと優しく光るそれは、まるでちぃちゃんの笑顔みたいだ。あたしの胸の奥をあったかく灯す、柔らかな光。


「花織の髪が、早く元の長さに戻りますように」


 ぽつり、背中越しにちぃちゃんが呟く。なあに、と聞き返すあたしに、ちぃちゃんは照れくさそうに答えた。


「いや、一番星に願い事したら叶うって子供の頃に聞いた記憶が、」

「ちぃちゃん」

「あ、え、何?」

「だいすきよ」

「ええっ、あ、うわ、突然言うから手元狂ったじゃん」

「じゃあ、あたしは」


 ずっとずっと、ちぃちゃんと一緒にいられますように。今日みたいな事が起こらないように、ちぃちゃんに相応しい女の子になれますように。一番星を見つめて、あたしは心の中で、こっそり願い事を唱えた。



 -END-

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