涙、ひと雫


 憶えていたのは、わたしだけなのだろうか。あの日見たのは、もしかしたら夢か幻だったのかも知れない。



 彼らは目立っていた。篠宮千紘(しのみやちひろ)と鷺沢花織(さぎさわかおる)。本人たちはそうは思っていなかったかも知れない、が、ふたりの醸し出す甘やかで柔らかい蜂蜜みたいな雰囲気は、クラスじゅうの誰であっても、口を出す事も、冷やかす事すらも許されない特別な何かに守られていた。



「篠宮、委員会だよ」


 帰り支度をしていた篠宮に声をかけると、篠宮は一瞬きょとんとした顔をわたしに向けた。い・い・ん・か・い、と、もう一度わたしが言ったところでようやく思い至ったらしい。


「え、ああ、そっか。今日は委員会があるんだったっけ。ごめん高橋さん、先に行ってて貰っていいかな」


 わたしが頷くのを見届けて、篠宮は教室の端に佇んでいた女子に声をかけた。クラスメイトの鷺沢花織。ふたりが付き合っているのかは定かではないけれど、少なくとも想い合っているのだけは確実だ。お互いに向ける優しい眼差し、手をつなぐでも腕を組むでもないのに漂う連帯感。ひとつの檻に閉じ込められた番(つがい)の小鳥みたいだ、と、わたしは思う。


 わたしは、ふたりが何事かを話し合う横をすり抜けて教室を出た。廊下の空気は、放課後の解放感に満ちて破裂しそうだ。部活に行く生徒、気怠げに補習に臨む生徒、教室で騒ぐ生徒。放課後になるや否やイチャつくバカップルも多い。


「高橋さん」


 後ろから呼ばれて、わたしはふと振り返った。篠宮だ。ごめんね、と呟いて篠宮はわたしの隣に並んで歩き出した。篠宮は背が高い。166cmあるわたしがそう思うのだから確かだ。花織は150あるのかないのかわからないくらい背が低いから、ふたりが並ぶところを見ていかにも騎士と姫君のようだと思った事もある。


「雨、降りだしたね」


 篠宮が窓の外を見て呟いた。柔らかな声。わたしは無言で立ち止まり、雨に濡れた窓ガラスを見つめた。今朝の予報では曇としか言っていなかった。だから傘は持って来なかったのに。


「高橋さん?」

「……あ、いや」


 でも置き傘してあったような気もするしいざとなったら誰かのをパクってやろう、などとぼんやり考えながら、わたしは篠宮の横顔をちらりと盗み見た。睫毛が長い。肌だってわたしより遥かにすべっこい。

 あの頃と変わらない。わたしの記憶に棲むシノミヤチヒロのまんまだ。



 わたしは小学五年の夏休み、ピアノ教室に通っていた。母親に押し付けられただけで、好きでも嫌いでもない(つまりはちっとも上達しない)ピアノを夏休みいっぱい続けられたのには理由がある。


 シノミヤチヒロ、だ。


 彼とは担当の先生が違ったけれど、レッスンの時間が同じで待合室で時々顔を合わせた。華奢で、可愛らしくって、いかにもピアノの似合うお坊っちゃんだった。

 男の子がピアノだなんて、しかも名前がチヒロだなんて女の子みたい、と好奇心半分で盗み聞きした彼のピアノは、わたしの弾くそれとはまるで違っていた。きらきら光る音符が空気に浮かぶような旋律。シャボン玉を吹くみたいに楽しくて、思わずはしゃぎたくなる演奏。

 夏の夕暮れの明かりがブラインドの隙間から零れて、チヒロの頬に影を落とす。我に返った時には、わたしはチヒロの教室に入り込んで立ち尽くし、ぱちぱちと拍手をしていた。


「……だれ?」

「あ、うわ、ごめんなさいっ」


 チヒロの柔らかな誰何の声に、わたしはダッシュで退散したのだった。


 それから、新学期が来てわたしがピアノ教室を辞めてしまうまで、チヒロとは待合室で話をするようになった。夏休みの宿題の進み具合だとか、あの練習曲が苦手だとか発表会が嫌だとか些細な事ばかりだけど。チヒロは優しくて、学校の男子と同じ生き物とは思えないくらい物腰が穏やかだった。


 初恋、だった。きっと、夕日の差す教室で、鍵盤に落とす眼差しや流れるように動く指先を見た瞬間、わたしはチヒロに恋をしていたんだと思う。勿論それは、言い出せないまま立ち消えてしまった想いだけれど。


 そんなチヒロと、まさか高校に入って再会出来るなんて。クラス替えで名前を見つけた時、夢みたいだ、と思った。漫画みたいだ、とも。此処から何かが始まっちゃったりして、とも。でも、その時には既に彼の隣には彼女が佇んでいた。


「–––……あの、高橋さん。僕の顔、何か付いてる……かな?」


 盗み見、のはずが、気付けばじろじろと眺めてしまっていたらしい。篠宮が困惑した面持ちでわたしを見つめ返すので、わたしはシカトして足早に委員会へと向かった。



 雨脚は強まるばかりで、頼みの綱の置き傘も有りはしなかった。わたしは傘立てをまさぐると、名前の書かれていない安っぽいビニール傘をそっと抜き取った。開いてみると、放置されすぎて劣化したのか所々ビニールに穴が空いている。ため息をつきながら傘を閉じると、わたしは鼠色した重たい雨空を見上げた。


「あ、高橋さん」


 ギクリと肩を震わせて振り向くと、委員会を終えて別れたばかりの篠宮が立っていた。傍らには姫君、……否、鷺沢花織。花織は、傘を乱雑に傘立てに戻すわたしを不思議そうに見ながら、にっこり笑った。春を待ち侘びた蕾が開いたような笑顔。


「高橋さん傘無いの? ……あ、もし良かったらこれ使って」


 はい、と花織に手渡されたのは、桜模様の描かれた淡い朱鷺(とき)色の傘だった。それはそれは彼女に似合いの、可愛らしい優しげな風合いの傘。


「ありがとう、あの、でも鷺沢サンは傘どうするの」

「あたしはちぃちゃ……篠宮くんに入れて貰うから大丈夫。ね、いいでしょ、ちぃちゃん」

「いいよ」


 そっか、そうだよね、姫君を送り届けるのは騎士の役目だもんね。「花織ちっちゃいから一緒の傘に入るの難しいんだよなぁ」なんてわざと悪戯っぽく花織に笑いかける篠宮を見て納得する。なのに、なのに、何だろう。心臓が、どくん、と疼く。


 ねえチヒロ、本当にわたしの事、憶えてないの?


「……チヒロ」

「高橋さん?」

「ピアノ、まだ弾けるんでしょう?」


 何で知ってるのと言わんばかりに目をまんまるに見開いて、篠宮がわたしを凝視した。


「わたしはもう弾けない。頼まれたって二度と弾かないよピアノなんか!」


 手にしていた朱鷺色の傘を篠宮に押し付けて、どしゃ降りの雨の中わたしは走り出していた。雨だ、雨だ雨だ雨だ。睫毛を濡らすのも目尻や頬を伝うのも全部、涙なんかじゃなく雨だ。


 あの記憶は鮮明で、昨日の事のようにすぐに甦るのに。でもそれは、わたしだけの記憶。もうチヒロはチヒロじゃない、『ちぃちゃん』なんだ。


 やがて雨は上がり、ほのかに明るくなった空に虹が架かった。柔らかに放物線を描く虹。息を切らせて立ち止まったわたしの瞳からは、ひと雫、はたりと涙が零れ落ちていた。




 -END-

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