はなのいろは

遊月

花の色は


 ぎい、と軋ませながら蓋を持ち上げると、僕は人差し指でピアノの鍵盤に触れてみた。ぽーん。静かな音楽室に、波紋のように音が響く。僕は人差し指を黒鍵に移して再び音を鳴らした。

 次の時間、この教室では授業は無いらしい。誰も来ない音楽室で予鈴が鳴り響くのをぼんやり聞きながら、僕は窓の外を眺めた。憎らしいほどきれいに透き徹った、青い空。校庭では、咲き誇る桜の花が吹雪のように舞い散ってゆく。




「ちぃちゃん」


 見いつけたっ、と、不意に背後から聞き慣れた声が響いて、僕ははたと我に返った。


「……花織かおる

「もうすぐお昼休み終わっちゃうよ? またサボる気?」


 無邪気に笑うと、花織はピアノの前の僕の隣に並んで立った。花織の、腰の辺りまで伸びた黒髪がしゃんと揺れて、甘いような懐かしいような香りが僕の鼻孔を擽った。初めて出会った頃から変わらない、花織の匂い。


「ね、ちぃちゃん、弾いて」

「え?」

「ランゲの『花の歌』がいいな。ちぃちゃんが弾くと、可愛いっていうより優しくなる曲だよね」


 早く早く、と、尚も花織が笑いながら言う。


「でも花織、もう午後の授業始まるよ。次は花織の好きな古典だろ」

「遅れていけばいいよ。ちぃちゃんも一緒に、ね」


 百花繚乱、というのは、花織が見せる笑顔を形容する為の言葉なんじゃないかと僕は真剣に思う。乾いて、干涸らびてしまった僕の上にも、恵みの雨のように降る笑顔だ。



 一年前、第一志望の高校に不合格となった僕が滑り止め受験して合格していたのが、今通っているこの高校だ。志望校不合格、という事実に対して、落胆とか絶望とかそういうものを全部通り越してしまった僕は、ただ無気力に、淡々と入学式の日を迎えた。

 あの日の空は、今日みたいに憎らしいくらい見事な快晴だった。桜吹雪の中、僕以外の新入生から放たれる不安と期待がい混ぜになって今にも爆発しそうな空気。浮かれた喧騒。

 『入学おめでとう』と書かれたピラピラした花飾りを否応なしに胸ポケットに付けられた僕は、黙したまま教室に入り、誰とも触れようとせずに席に着いた。

 その隣の席にやって来たのが花織だった。花織は席順が印刷されたプリント片手に席に着くと、


「えーと、隣の席は……篠宮千紘……、シノミヤチヒロくん、だよね? チヒロだから『ちぃちゃん』ね! あたしは鷺沢さぎさわ花織。よろしくね」


 と、初対面にも関わらず男子高校生にはまるで似つかわしくないあだ名を付けて寄越したのだった。



「ちぃちゃん、どしたの? 弾いて」

「ああ、うん」


 僕は回想を遮断すると、ほんの少しだけ緊張しながら、ピアノの前に座り直して指を鍵盤にそっと乗せた。花織がこくんと息を呑むのが聞こえた気がした。



 その後、揃って授業に遅参した僕らにクラスメイトは「またお前らか」と呆れた視線をぶつけ、古典教師は「君達にはペナルティとして特別に課題を追加してあげよう」としたり顔で放言した。




「ちぃちゃん、これ終わらせてから帰ろう。一緒にやればすぐ済んじゃうよ」


 放課後、古典教師から受け取った課題のプリントをひらひらはためかせて花織が言う。ふたりしか居ない教室は、ばかみたいに広々と、閑散としている。開け放たれた窓から吹き込む柔らかな春風。ふわり、花織の黒髪が揺れた。


「『次の短歌を現代語訳せよ』かぁ。じゃああたしは前半の5問ね。で、ちぃちゃんは後半の7問」

「ええ? 分け方おかしくない? 普通は6問ずつでしょ。しかも花織のが古典は得意なのに」

「こらー! そもそもちぃちゃんを探してたせいであたしも授業遅刻したんだよ? だからいいの」

「……ピアノ弾けって言ったのはお」

「ほら、早くやんないと終わんないよ」


 それきり、お互いふつりと黙って問題に臨んだ。シャーペンの芯が文字を刻む音だけが、静まり返った教室に響く。

 向かい合わせにした机、時折ぶつかる膝、花織の伏せた睫毛、風にそよぐ長い髪。


「出来たっ」


 花織がにっこり笑う。ふと覗いた八重歯が子供っぽくて可愛くて、思わず僕も笑ってしまう。


「ちぃちゃん何問終わった? よしよし、あと2問ね。……あ、あたしその歌好き」

「どれ?」

「『はなのいろは』」

「小野小町か」


 淋しい、よね。頷いて、ぽつり、花織が呟いた。百花繚乱の笑顔とは程遠い、胸が軋みそうになるくらいかなしい眼差しで。僕は返事も出来ずに花織を見つめた。

 何だろう、何なんだろう。胸が軋んでざわついて、それから鼓動が速まって。

 僕は動けずに花織を見つめ続けた。窓から、さあっと風が舞い込む。


「あたし、淋しいの嫌いなのにな」


 なのにこの歌だけは不思議と嫌いじゃないの、と言って、花織は視線を上げて僕を見た。


「……花織」

「ちぃちゃん、」


 花織が何かを言うのを拒むように、気付けば僕は花織の唇にキスをしていた。花織の髪の甘い香りに目眩を起こしそうになる。手が震える。


「……ばか、ちぃちゃんのばーか!」


 あたしキスなんて初めてだよ、と、花織が耳まで赤く染めて小声で言う。


「ごめん花織」

「どうして謝るの」

「嫌だったかなと思って」


 僕はまともに花織の顔を見られずに、もじもじとシャーペンを弄る花織の指先を見つめて呟いた。心臓が壊れそうだ。痛い。痛い。唇が甘くて、痺れて、もうなんだか全部が痛い。


「……ちぃちゃん、は?」

「え」

「ちぃちゃんは、嫌じゃなかった?」


 消え入りそうに微かな声で尋ねられて、僕はふっと面を上げた。


「嫌ならあんな事しない。いや……何て言うか、その、僕は花織の事が、」

「ちぃちゃん、だいすき」

「はあ!?」

「……ひどっ」

「違っ、完全に僕が言うタイミングだったでしょ今のは! 何で花織が先越しちゃうかな!」

「だって、あたしのがちぃちゃんの事もっとずっと好きだもん。初めて会った時からずっとずっと好きだったんだから」


 ふふふ、と照れくさそうに花織が笑った。細めたその瞳が柔らかで、ああ僕だって初めから君しかいなかったんだ、なんて思いながら息を落とした。


「で、でもでもちぃちゃん、あたしお嫁に行くまではダメなんだから! あの、その、キス以上のあれこれは無理だからね! だって鷺沢家の家訓なんだからっ!」


 焦ったように叫ぶと、花織は僕から逃れるみたいガタンと派手に椅子を蹴倒して立ち上がった。


 僕が堪えきれずに爆笑してしまったのは、きっと誰の想像にも難くない事だと思う。




 -END-

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