第2話 ツインテールの恋心

 

 今日の授業でまともに集中できた授業といえば、男女別の授業である体育のみだった。他の授業――例えば一時間目の数学では、わからないところがあるとか適当な理由をつけて千臣に近寄るもの多数。しかもその女子同士がポジションの取り合いを始め、仕舞いには所々で喧嘩をする始末。教師は教師で気にもせず勝手に授業を継続するものだから、萌黄はただノートに板書を写すしかできなかった。ただ、唯一幸運だったのは千臣が廊下側の席で、萌黄の席とはかなり遠かったことだ。そのおかげで席の移動まではせずに済んだ。

 ホームルームが終わるなり脱兎のごとく教室から脱出した萌黄たちだったが、放課後三年一組の教室がどうなっているかは、想像するだけで寒気が走る。

「あ、あたしここで紫苑待たなきゃ行けないから」

「じゃあまた明日、萌ちゃん」

 白樹園中学校門の前でリッちゃんと別れ、萌黄は門番のようにその場で腕を組んだ。

 珍しいことだったのだ。大抵なら紫苑のほうが先にこの場に立っていて、何分何秒待ったとか恩着せがましく言うのに。超特急であのハーレム教室を抜け出したからだろうか。厚い曇り空を仰ぎながら、この珍しい状況の理由を考え直す。

 そう言えば父さんの就職はうまくいったのだろうか。

――無理だろうなあ。奇跡的にうまくいったとしても、職場に入った日のうちに解雇だろうなあ。

「ごめん、萌黄、遅れた!」

 首を下ろすと、息を切らした紫苑が頭を下げていた。

「そんな焦らなくてもいいじゃない、落ち着きなさいよ」

「い、いや、落ち着けないってこの状況! 逃げるので精一杯なんだから……じゃあ萌黄、先に帰ってるから!」

 ものも言わせず紫苑は全速力で帰路を辿っていった。

 止めることさえもできずに、萌黄はただ一人校門の前に立ち尽くしていた。わざわざ待ってやったのにという怒りと「逃げている」という不可解な言葉が頭の中を渦巻いている。今すぐ紫苑を追いかけたいが、何から逃げているのか知るためにこの場で待ち伏せもしたい。結局勝ったのは待ち伏せで、校内を覗き込んだ。

 と、ツインテールが萌黄の前で立ち止まった。セーラー服からして同じ中学の生徒らしい。

「稲妻紫苑さま~~~~っ!」

 獲物を求める獣のごとく、現れた少女は咆哮を繰り返しだした。この小学生のような姿からは裏腹に、千臣を囲い込む女子顔負けの叫び声を何度も何度も発している。脇を通り抜けていく生徒たちも見てみぬふりをして通り過ぎていく。それでも彼らの視線を感じないのか、彼女は黙ろうとはしない。

 弟の名を叫び続けられて無視できる姉ではない萌黄は彼女の肩を鷲づかみにし、黙らない口を押さえつけた。

「黙りなさい」

 一喝したというのに少女は萌黄の手をすり抜けて、再び叫びに入ろうとする。

「紫苑さ……」

「これ以上紫苑のプライベートを傷つけるなら、あたしが許さないわよ」

 さらに一喝すると、少女は眼力を効かせて睨みに入ってきた。まるで敵を見つけた獣のように、鋭い目つきをしている。

「何よ、あなた、紫苑さまのなんなのよ!」

「姉よ、あんたこそ紫苑のなんなのよ!」

 額を突き出す少女に、顎を突き出して抵抗してみる。これでおとなしくならないなら素直に校内に戻って彼女を捕まえてもらう予定だった。しかし予定に反して彼女は空気が抜けたみたいにへなへなとアスファルトの上に膝をついた。そしてそのまま正座して、突き出していた額を地面にこすり付けだしてしまった。

「申し訳ありませんでした、お姉さま!」

「…………は?」

「まさかお姉さまとは露知らず……お姉さまを怒らせてしまうなんて、本当に、本当に申し訳ありません!」

「だから、あんたは紫苑のなんなのよ」

「あっ、申し遅れました、私は金馬かねうま嬢子じょうこと申します。紫苑さまの同級生で、あの……申しにくいのですが、恋人です」

 こいびとです。コイビトデス。恋人です。

 嬢子の高い声がぐいぐいと心の奥底に入り込んで、それが反響しているようだった。

 紫苑に恋人ができたというのは、話にすら聞いたことはなかった。むしろ恋愛なんてまだ考えられる年頃ではないと思っていたのだ。それなのに、目の前の少女は顔を赤らめて、円らな眼差しを向けて萌黄の言葉を待っている。返事を期待しているような様子だった。姉からよい返事が得られることすなわち、恋人家族に認められることとでも思っているのだろうか。いや、そう思っているからこそそんな瞳を向けるのだ。

「恋人、ねえ」

「はい。お願いします……」

「本当に恋人なら、なんで紫苑は逃げていったのかしらね」

「彼、一緒に手をつないで帰ろうって言ったら照れちゃったんです」

「ふうん……」

 紫苑が逃げ去っていった方向を二人で眺めていたが、萌黄はもうこの少女に付き合うことすら面倒になっていた。しかも他の何も知らない生徒からの視線が萌黄にまで向かっているし、その一部からは萌黄がいたいけな少女を正座させていじめているとまで思われているらしいし、その勘違いもされたくない。

「もういいわ。好きにしなさいよ。その代わり、さっきみたいに紫苑を追い立てるのはやめてやってちょうだい」

「は、はい! ありがとうございます!」

 その返事と待ってましたと言わんばかりに、少女は許可なく立ち上がって、紫苑が去っていった街道を辿るように走り出していった。まるで、オスの匂いに反応するメスの蝶のようにひらりひらりと曲がり角を曲がっていき、そこからの行方はもう見えなくなってしまった。

 嬢子とか言う少女のことははっきり言って百パーセント好きになれそうになかった。これが昼ドラにありがちな、嫁に反発する姑の心の内なのかな。

「すいません、嬢子にからまれてましたよね……」

 ようやく帰宅への一歩を踏み出そうとした萌黄の背後にすっと深い影が差した。振り返らなくてもなぜか相手が誰なのか、直感的にわかった。だから振り返って千臣が立っていたとしても、それほど驚きはしなかったのだ。

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