アランはできるだけ、マリア・ブラウンと関わりのある人達に連絡をとり、事情を説明していた。否定的な意見を出されることをアランは身構えていたが、みながみな、二つ返事で協力すると言ってくれた。アランたちの叔父にあたるジムおじさんが、いまからそちらに向かうと口にしてくれた。

 リビングでは、マイクと一緒にシェリーがホームビデオを眺めている。電話機から離れたアランをマイクは見る。

「どうだった?」

「みんな、協力してくれるって」

 マイクが吐息をもらす。

「兄さんの話を、なんでみんな鵜呑みにするんだろう」

「きっと、アランの一生懸命な思いに、みんな胸をうたれたのよ」

 私もそうだったから、とシェリーが付け加えて、テレビに目線を戻す。

「それにしても、本当に似てるわね。自分で言うのも、何だけれど」

 シェリーの言葉にアランは同意した。マリアが死んでいなければ、母親がリビングにいるとアランは勘違いしていただろう。マイクも同じ思いだったのかシェリーの言葉に「本当に似てる」と口にした。

「シェリーさんを見て、ドッペルゲンガーを思い出した」

「ドッペルゲンガーって確か、自分の寿命が尽きるときに見える、って聞いたことがあるけど」

「ドッペルゲンガーについて詳しいことは知らないけど、でも、そっくりな人間は本当にいるんだなって、そう思いました。いまもこうして喋っていると、母さんと喋ってるみたいで、……」

 喋っていたマイクが口を噤み、俯いた。シェリーは心配そうにマイクの様子を窺っている。マイクの気持ちはアランにも分かっていたし、シェリーも察したことだろう。そっとしておこうと、二人は暫くの間、マイクに話を振らないでいた。

 暫くして、インターホンが聞こえた。アランが一人玄関に向かえば、そこにはジムおじさんが立っていた。

「久しぶり、おじさん」

「久しぶりだな、アラン。元気だったか」

「それなりには」

「マイクと、あとさっき話していた、」

「シェリーさんのこと? 二人ともリビングにいるよ」

 ジムとアランはリビングに踏みこむ。踏みこんだところで、ジムは言葉を失う。いまやジムの視線はシェリーだけに向けられている。立ち上がったシェリーがジムと向き合い、頭を下げた。

「初めまして。シェリー・ローズと言います」

「あ、ああ」

 困惑に満ちた言葉を発して、つぎにジムは「信じられない」と口にした。「本当に、マリアさんにそっくりじゃないか」

「電話で言ってたこと、信じてもらえた?」

 驚いているジムがアランの言葉に頷きを返す。マイクが立ち上がって「久しぶり」と言ったところで、我に返ったかのようにジムが「久しぶりだな」と快活に答えた。

「元気にやってたか」

「それなりに」

「兄弟揃って、同じ返事だ」

 マイクに促されて、食卓の席に座るジム。その向かい側にアランは座り、テレビ前のソファーにはマイクとシェリーが腰をかけていた。

 座った途端に、ジムが大きなため息を洩らす。渋い顔で額に手をあてていた。

「まさか、こんなことになっているとはな……辛かっただろう、二人とも。どうして相談しなかったんだ」

 返答に窮するアランとマイク。そこで何かを察したように、ジムが微笑みをみせる。

「お前たちのことだ、周りに迷惑をかけたくないという思いがあったのだろう? だがな、アラン、マイク。子供はな、そういったことを気にするものではない。いざとなったら、ちゃんと頼りなさい。それが無駄だと分かっていてもだ」

「うん。ありがとう、おじさん」

「それにしても、あの馬鹿息子はどうして立ち直れないんだ。マリアさんが死んで、一体何日経ったと思っておる」

 またもやため息を洩らすジム。そこでジムの視線は、シェリーに注がれた。リビングに足を踏みいれてから、落ち着かない様子でシェリーのことを窺うジム。改めて、ジムはシェリーと向き合った。

「本当に、そっくりだ。マリアさんと血の繋がりはないんだろう?」

「はい。私自身も、マリアさんが映っているこのビデオを見て驚きました」

「さぞ驚いたことだろう、無理もない。マリアさんを知っている人があなたを見たら、みんな驚くと思う。私と同じように」

 何かを懐かしむかのような、どこか遠い目でジムは庭の方に視線を移す。

「私もまた、寄り添っていた妻が亡くなって辛い思いをした。それでも、生きている以上、立ち上がって前を見なければならない。いつまでも私が俯いたままでいれば、天国の母さんもずっと、下を向いたままだ」

 言葉の節々に、どこか重みがあった。ジムの言う通りだとアランは思う。自分が死んだあと、家族が悲しい顔をしていたら、とても笑顔にはなれない。

「アドルフがどれだけマリアさんを愛していたのか、分かっていたつもりだったが、もしかしたら誰一人、分かっていなかったのかもしれない。いま、アドルフにはアランたちの声も私の声も届かない。けれど、マリアさんなら」

 窓からシェリーと向き合うジム。その碧い瞳にはアランと同じように、希望の光が宿っていた。

「最初、電話で聞いたときはとんでもない考えだと思ったが、いまのあいつにはそれしかないようにも思える。シェリーさん」

 急に立ち上がったジムが、誠意をこめて頭をさげた。

「私からもお願いしたい。息子の目を醒ますために、どうか、力を貸してほしい」

「はい、是非」

 シェリーは二つ返事でそう答えた。ジムは「ありがとう」と答えて、もう一回頭をさげる。アランの考えをジムが受け容れたのは、それが冗談ではないと分かったからだろう。マリアとあまりに瓜二つなシェリー。アランたちと同じように、ジムもまた、そっくりなことに驚き、あの案は嘘でも何でもないことを知った。

 そして、またインターホンが鳴る。

 アランの電話に応じでブラウン家に続々と訪れるひとたち。リビングに集まったのはアランたちを含めて十人にも及んだ。

 マリアの両親でもあり、アランたちの祖父母にあたるダニーとハンナ。シェリーを前にして倒れそうになったハンナは、ダニーを支えにして立っていて、いまにも泣きそうな表情をしていた。しきりに「そっくりだわ」と呟くハンナ。

「でも、そうね。そっくりでも、自分の娘と違うことは分かるわ」

「倒れそうになるほど、君は戸惑っていたのに?」

「もう、ダニー、いじわるしないで」

 リビングに集まったひとびとが朗らかに笑いあう。口元に笑みを浮かべたまま、ハンナは再び口を開いた。

「マリアは、みんなが集まる場所ではあまり顔をあげないのよ。自分から話を持ち出すこともなかったわ、お喋りがあまり得意な子でもなかった。誰に対しても恥ずかしがり屋さんなのよ」

「そうなんですか? そんなこと、なかったような気が……」

「いや、でも思い返してみれば、マリアはよく聞き手に回っていたような」

 マリアの友人でもあり、花屋を勤めているヘンリエッタと、ケーキ屋に勤めているジュディが話し合う。

「そうね。マリアはあまり、人の目を見て話さなかったわ。でも、アドルフと出逢ってから、マリアは変わりましたよ、おばあちゃん。まず、明るくなったし、恥ずかしがり屋さんでもなくなりました」

「俺もそう思います。マリアだけでなく、アドルフもなかなかな恥ずかしがり屋さんでしたが、マリアと時間を過ごす内に変わりました」

 学生の頃からマリアと友達であるエドウィンの母親のステラと、マリアとアドルフの二人を引き合わせたジョセフがハンナに向かって言う。ハンナはどこか嬉しそうな表情で、みんなの言葉に聞き入っていた。

「確かに。あの子、アドルフさんと出逢ってから明るくなったわ」

「どうやら私たちは娘の成長を見過ごしていたようだね」

「あら、ダニー。一緒にしないでちょうだい。でも、確かにアドルフと出逢ってから、あの子は変わったわ。そう思うと、何だか嬉しいわね。こうしたいまでも、娘の知らなかった部分を、知ることができるのは」

 しみじみとした空気が漂う。でも、それは決して悪いものではなかった。

 ここにいるみんなが、両親のことを思って足を運んでくれた。仕事が休みだったこともあるが、平日での呼び掛けにも関わらず、これだけ集まってくれたことに、アランはとても感謝していた。

 窓から覗ける外は薄暗いまま。いつの間にか時計の針は、夕刻に差し掛かっていた。そこでアランは自分を見ていたジョセフの視線に気付き、そちらの方へと体を向ける。

「大胆な作戦を思い付いたな、アラン」

 リビングのカーペットに腰をおろしているジョセフが口を開いた。黒が混じった短い金髪に、細い両目。父親と同年代のジョセフは、いつも子供っぽい笑みをブラウン兄弟に見せていたが、いまは違う。アランたちの知らない、真剣な表情がそこにはあった。

「良心は傷まないのか」

「え?」

「言ってしまえば、父親を騙すってわけだろ。シェリーさんを使って」

「ちょっとジョセフ、その言い方はないでしょ」

「だが事実だ、ステラ。なあ、アラン。その辺りはどう考えてるんだ?」

 みんなの視線がアランに集まる。そんな状況におかれても、アランが取り乱すことはなかった。膝に手を置いたままで、みんなの顔を眺めてから、アランはゆっくりと口を開く。

「この場に集まってもらったのは、これからのことについて協力してもらいたかったのが理由です。長年、母さんと付き合いのある方たちに、母さんの口調や仕種を、シェリーさんに教えてほしかったんです。でも、その前にもう一つ。僕たちの知らない母さんを教えてほしい」

 マリアがアドルフと出逢う前、恥ずかしがり屋だったなんてことをアランたちは知らなかった。そういった母親の知らなかったことを知ることができるのは、大切なことだとアランは思う。

「僕とマイクはずっと母さんの傍にいたわけではありません。僕たちが学校に出掛けている間に、母さんが周りとどのような会話をして、何を思っていたのか、僕たちには分かりません」

 自分たちが学校で授業を受けている間、マリアは家で掃除をしていただけではない。買い物にも行き、道で擦れ違うひとたちと会話を交わし、沢山の親交を深めていた。母親の葬式にどれだけのひとたちが集まっていたかを思い返す。どれだけのひとたちが母の死に涙したのかを、はっきりと思い出す。

「だから、僕たちの知らない母さんを教えてもらいたいんです。いまの母さんならいまの父さんに何を言うのか、みんなで話し合いたい。僕たちの心にある、本物の母さんの言葉なら、父さんを騙したことにはならないと思うから」

 それが正しい考えなのかどうかアランには分からない。それでもアランは一つの確信を懐いていた。きっとマリアは、自分の考えを否定しない。自分の心にいるマリアなら、この考えを受け容れてくれるとアランは信じていた。

 アランの目をまっすぐに見つめていたジョセフ。その細い両目は、アランの心情を探っているようでもあった。やがて、いつものように子供っぽい笑みをジョセフは見せる。

「あの小さかった赤ちゃんが、こんなことを言うようになるとはね。想像もしなかったよ」

 頭を掻いて言うジョセフに、みんなが微笑む。続いて「協力するぜ、アラン、マイク」と、ジョセフは口に出してくれた。ジョセフの言葉に、続いてみんなが同意の言葉をあげる。その光景を見て「ありがとうございます」と礼を言うアラン。彼の胸の内は先程からずっと、感謝の気持ちで溢れていた。――きっと連れ戻せるよ、母さん。アランは胸の内で、天国の母にそう語り掛けた。


 シェリーたちが帰ったあとに、大きな電子音がリビングに響きわたる。先程、協力をお願いした誰かからの電話だとアランは思い、電話機に向かう。

 電話の相手はセシルだった。話は、昨日のマイクとクリスの喧嘩について触れている。

『済まなかった。クリスには思い遣りを持ってほしいと思って、アランたちの事情について話してしまったんだが、まさかこんなことになるとは……マイクは大丈夫か? 傷付いた様子は?』

「大丈夫です、心配ないですよ」

『本当か? それなら良かったんだが……ところで、クリスはそっちに来たか?』

「いいえ。多分、来てないですけど、どうかしたんですか」

『いいや、なんでもない。大丈夫だ』

 セシルの言葉には、何かしらの意図があるように思えたアランだったが、それを読むことはできなかった。そこから一言二言交わして、セシルとの電話は終わった。アランは食卓の席に腰を掛け直す。目の前に座るマイクに「誰からだった?」と尋ねられた。

「セシルさんだった。昨日のことについてすごく心配してた」

「大袈裟だな」

「心配性なんだよ、セシルさんは優しいから」

「見た目は怖いのに」

 失礼だと思いながらも二人で笑い声をあげる。

 夜中の食卓で向き合っているアランとマイク。夕飯の食事はハンナが作ってくれて、既にお腹はいっぱいに満たされていた。ふと、アランがリビングを見ると、どうしようもない寂しさを感じた。つい先程まで沢山のひとがいたからだろう。それ以前に、数週間前まではリビングに家族四人集まって賑わっていたのだ。二人では、あまりにこのリビングは広かった。

「意外に沢山のひとが集まったね」

 寂しさを紛らわすように小さな声で発したアランの言葉に、マイクが相槌を打つ。

「兄さんが沢山、電話をしたから」

「それもそうだけど。でも、あんなとんでもない話を鵜呑みにして集まってくるなんて想像しなかっただろ?」

「それはそうだよ。大体、あの話は誰だって胡散臭いと思う。だからみんなわざわざ確かめに来たんだろ?」

「そうかもしれない。それでも、みんな協力してくれた」

 つい先程まで、みんな真剣にアドルフに対してどのような言葉をシェリーに言ってもらうか意見を出しあっていた。『マリアならこう言う』『いや、そんなことは思っても言わない』『もっと優しさをこめて言う』など、みんながみんな、自分の記憶から母との思い出を引き出し、話しあっていた。ときどき話しあっている途中で、思い出話に花を咲かせ、みんなで笑いあう場面も多かった。完璧だと思っていた母は最初、料理が苦手だったことをハンナとダニーから教わり、数学が嫌いだったことをステラから教えてもらった。ジュディからは、母はチューリップが好きだったことを教えてもらい、ヘンリエッタからはショートケーキが好きだったことも教えてもらった。母親の知らなかった一面を知ることができて、アランは嬉しかった。

「休日にはもっと沢山のひとが集まると思う。それだけ、みんな協力をしてくれるって何だかすごいことだと思ったよ。さっきマイクも言ってたように、どう考えても胡散臭い話だと思うのに、二つ返事でみんな協力するって言うんだ。母さんと父さんはどれだけ人付き合いが良かったんだろう、って素直に驚いた」

「思い返せば、うちにはいろんなひとたちが遊びに来てたね」

「本当にね。ああ、それと。神父さんにも電話しておいた」

「なんて電話したの?」

「近い内に父さんを連れ戻すから、もう少しだけ時間を下さいってお願いした。神父さんも二つ返事で、喜んで、って言ってくれた。僕たちはいま沢山のひとに支えられてるよ、マイク」

「その分、自分の父親が情けないと思うよ。……ねえ、兄さん。きょう、母さんのことを話してて、思っていたことなんだけど」

 テーブルに腕をのせていたマイクの言葉に「なに?」とアランは相槌を打つ。

「母さんが死んでから、その、母さんの話題を持ち出すことはとても辛いことだと僕は思ってた。母さんはこの世にいない。だから、小さな思い出も僕には苦痛だった。いまさら思い出したって、何の意味もない。そう、思ってた」

「うん」

「でも、みんな、楽しそうに母さんとの思い出を振り返ってた。僕たちの知らない母さんが、みんなの記憶には確かにいて。それでも、みんな笑ってた。悲しそうな顔を見せなかった。死んだひとの思い出は、ただ、辛いものだと思ってたのに」

「そうだね。母さんとの思い出を振り返って、みんな楽しそうに笑ってた」

「自分の考えは簡単に変わらないと思ってたけど、何だかみんなの楽しそうな表情を見てたら、何で自分が悲しい顔をしているのか分からなくなってさ。少しだけ、見方が変わったよ。思い返してみれば、母さんとの思い出は楽しいものばかりだ」

 微かに笑うマイクを見て、アランは笑みをこぼす。死んだひとの思い出と向き合うのは、確かに辛いことかもしれない。けれども、その思い出を忘れるなんてことはできないのだ。思い出の中の母は常に笑っていた。マイクがその思い出と向き合って、きょうやっと笑みをこぼす。それはきっと、死んだ母が望んでいる姿でもあった。

 テレビの真上にある壁時計を見たアランが立ち上がる。そろそろ寝ようと思っていたところで「兄さん」とマイクに呼ばれ、アランは静止した。

「きょうはありがとう」

 テレビを点けていたら、その小さな声は聞こえなかったのかもしれない。きょう、気分晴らしに映画館に連れて行ったことを言っているのだろう。アランは笑って「また遊びに行こうか」と言った。「こんどは、休日に」


 予定していた授業は全て終わり、帰りのホームルームが開かれていた。教室の窓から見える外は相変わらずのねずみ色だ。

 きょうも平日であるにも関わらず、シェリーを始め、マリアやアドルフと親交が深いひとたちが家に訪れる。本当に、有り難い気持ちでいっぱいだ。

 先生の話が意識から遠ざかっていく中、まだ窓の方を見続けているアラン。こうしているいまも、父は母の墓の前で嘆いているのだろうか。父親の弱々しい背中が幻覚となって目の前の窓に映し出される。その父を果たしてあのような考えで救えるのだろうかと、急に不安になる。シェリーがアドルフに掛ける言葉は単純に、家に戻ってきてほしいことを伝えるものだ。シェリーの言葉に対し、アドルフがどのような反応をとるかも分からない。母は数分間だけ蘇る──この設定は、昨日、あの場で決めたことだ。

 アドルフの考える力は確かに弱まっている。それでも、シェリーの言葉を聞いていて疑問に思うところは思うだろう。本当にマリアなのかどうか疑ってかかるかもしれない、いや、疑って当然だ、母は既に死んでいる。それにアドルフとマリアの、二人の間にしか分からない話を持ち出されたらどうすればいいというのだろう。発案したのはアラン自身だった、だからこそアランは不安になる。

 沢山のひとたちが集まって、アランの考えに協力してくれる。無償で力を貸してくれる。その優しさが全て無駄にならないか、アランは一人、不安を通り越して恐怖した。

 気付けば、ホームルームは終わっていた。のろのろとした動作で椅子から立ち上がり、アランは教室を出ようとする。

「アラン」

 名前を呼ばれて振り返れば、親友のエドウィンが立っていた。その横には友達のハリーとエレナもいる。

「どうしたの、みんな」

 雰囲気からして、いつもとは何だか違うことをアランは感じていた。教室の出入り口から少し離れた場所で、アランは同級生三人と向き合う。

「母さんから話は聞いたよ、アラン」

 エドウィンからの言葉を聞いても然程、驚きはしなかった。昨日、家に訪れた彼の母親、ステラから話を聞いたのだろう。

「正直、俺たちだとあまり役に立たないと思う。でも、それでもアランの気が沈んでたら、楽しませられる自信がある」

「エド……」

「こういったことを改まって言うのは恥ずかしいけどさ、俺たち友達だろ? だから、何かあったら遠慮せずに言えよ」

「アラン。思い詰めてるようだったら、いつでもサッカーに誘うぜ。何ならいまからでもやろう」

「ハリー。アランはいまから大事な集まりがある、って、さっきエドに教えてもらったじゃない。ね、アラン。さっきエドが言ったように、遠慮せずに頼って」

 友人の言葉を前にし、アランを支配していた恐怖は一瞬にして拭われた。何を一人で悩んでいたのだろう。自分は一人ではない。それは、目の前にいる友達がそのことを証明してくれた。

「ありがとう、みんな」

 陰鬱とした気分から晴れやかな気持ちになったアラン。やらないで後悔するよりも、やって後悔したほうがいい。幼い頃からそうマリアに教わっていたではないか。結果が悲惨なものになろうとも、何もやらないよりかは良い。

 友人と少しの遣り取りを交わしてからアランは教室を出た。自分がどれだけ周りに支えられていたのかを実感していた頃、廊下でマイクと出逢う。

「遅いよ」

「ごめん」

 待ち合わせに遅れたから教室まで迎えに来たのだろう。いつものように二人並んで学校を跡にするブラウン兄弟。帰り道の川沿いを歩いていると「クリスがさ」と平坦な口調でマイクが話し始めた。

「すごい静かだった。いつもは誰かと一緒にいるのに、きょうは一人でさ、何だか思い詰めてる様子だった」

「心配してたんだ」

「まさか。何で僕があいつの心配なんかするんだよ」

 素直じゃないな、と口には出さずアランは胸の内で呟いた。

「シェリーさんたち、もう来てるかも」

「なら、急ごう」

「あ、待てよ兄さんっ」

 川沿いを駆けるアランとマイク。この両脚は何て軽いのだろう、と、走りながらアランは思う。怖いことなんて何もない、失敗してもまた前を向けばいい。アランとマイクは二人並んで、ヘブデンブリッジの街中を走る。二人を阻むものは、何もなかった。


 休日には、二十人ものひとたちがブラウン家の庭に集まっていた。庭に通じるリビングの窓を開け放ち、そこに腰をかけるアランとシェリー。昨日以上に沢山のひとたちがブラウン家に集まったものだから急遽、庭で話し合うことにした。バーベキューの際に使用したテーブルを小部屋から取り出し、そこに飲み物を置いては各自、立ったまま話し合うことになっていた。

 いまはみな休憩を挟み、思い出話や近況を持ち出すことで互いに盛り上がっていた。それを眺めるアランとシェリー。隣りを窺えば少しばかり、シェリーは疲れた様子だった。

「お疲れ様です、シェリーさん。大丈夫ですか?」

「ん、大丈夫よ。心配の言葉をありがとう、アラン」

「やっぱり、みんな驚いてましたね。シェリーさんが母さんにそっくりだって」

「本当にそうね。あれだけ沢山のひとに押し掛けられたの、私、初めてよ。でも、マリアさんとそっくりだと言っても、みんなどこか違うような、って首を傾げてたわ。そうした些細なところを、本番前には改善しなきゃ」

「ありがとうございます、シェリーさん」

 誠意をこめて、感謝の言葉を口にしたアラン。背筋を伸ばして、横に座るシェリーを見る。

「すごい感謝してるんです、本当に。あのとき、もしシェリーさんが僕の考えに耳を傾けて協力してくれなかったら、いまのこの光景は、なかったから」

「もう。私がここに来てから何回も同じことを言ってるわよ?」

「だって、本当に感謝してるんです。それこそ何回ありがとうって言っても足りないくらい」

「もう充分」

 シェリーは微笑んで、アランの髪をぐしゃぐしゃに掻いた。それはマリアがアランにしたことのない、シェリーだけの動作だ。

「あのときのアランね、すごい表情をしてたのよ?」

「あのときって、初めて逢ったときですか?」

「そう。泣きそうで、でも、必死さが見えて、とにかくすごい表情してた。だからね、真剣に話を聞かないとって思ったわ。あなたの必死な思いに私は突き動かされたの。前に言ったでしょ?」

 シェリーが、アランから庭の方に目を向けた。それにつられて、アランも庭の方に目を向ける。

「みんな、あなたの必死な思いが伝わったから、此処に来たの。きっと、天国にいるマリアさんも誇らしい気持ちだと思う」

 目の前にある光景を、シェリーと一緒に見るアラン。そこには、沢山の見知ったひとが笑顔で話し合っていた。いつまでも沈黙が訪れない賑やかな庭を眺めるだけで、アランの気持ちは満たされる。

「連れ戻せるわ、必ず」

「はい、必ず」

 そこでまた髪をぐしゃぐしゃとやられたアラン。

 シェリーは気さくで、話していてとても楽しい。そんなシェリーがわざとらしいため息を一つこぼす。

「さっき、村長さんにマリアさんとそっくりだね、って言われたんだけど。酷いのよ。いや、もう少し痩せてたな、って言われちゃった」

「そんなに変わらないと思いますけど」

「優しいのね、アラン。でも、旦那からも最近、太ってきたんじゃないかと言われてるし。マリアさんに近付くために、少し痩せようかしら」

 自虐的な笑みを見せるシェリーに苦笑するアラン。

 シェリーには家庭があった。そのことに狼狽えない辺り、アランはマリアとシェリーとの間にはっきりと区別の線を引いていた。

「それよりも、マイクのことなんだけと」

 ささめごとのように小さな声で、話題を切り替えたシェリー。

「マイクのこと?」

「うん。マイクって、アドルフさんのことをどこか見下した発言が多い気がするんだけど、このままだといけないと思うの」

 シェリーの言う通り、ここ最近、アドルフに対するマイクの言葉には厳しいものがあった。

 アランは頷きを返す。

「確かにここ最近、多い気がします。父さんがあの墓場に座りこんでから、少し言葉がきつくなってる」

「やっぱりそうよね。このままだと、アドルフさんが戻ってきても、マイクは反抗的な態度で父親に接するだろうなって、想像したの。状況が状況なだけに、マイクが苛立ってしまうのは仕方ないのかもしれない。でも、自分の父親なんだから、もっと優しくしてもいいと思う。いまのアランたちがここまで育ってこれたのは、お母さんの愛情と、お父さんの頑張りがあってこそなんだから」

 そこで、口を噤むアラン。いまのシェリーの言葉で、一つの考えが思い付いた。庭でマイクを見ると、笑ってはいるものの、あまり楽しそうには見えない。

 弟のマイクは物事を楽観的に見ない。のどかとも言えるこの場所で、人一倍に焦っているのはマイクだろう。父親が母親の跡を追って自殺する可能性を、マイクは考慮していたのだ。そんな危うい考えを懐かせるアドルフを、マイクは嫌悪していた。アドルフが弱い人間であることを断定しているからこそ、マイクは自分の父親を見下している。

 不思議なものだと思う。見下していながら、内心、マイクは父親のことを誰よりも心配しているはずなのに、それを表に出さない。きっとマイクの胸の内は、心配する気持ちと見下す心が混ざって、矛盾の体を表している。シェリーの言う通り、このままではアドルフが戻ってきたとしても、マイクは父親と上手にコミュニケーションがとれないかもしれない。

「弟のことは任せてください、シェリーさん」

 素直ではない弟に、少しでも父親の見方を変えてもらうにはどうすればいいのか。アランは、思い付いた考えを行動に移そうと決断した。

「気分転換に、良い場所に連れて行きますから」

 シェリーを安心させようと、静かに微笑むアラン。そうしてアランはセシルに連絡しようと、そのままリビングに上がった。


 翌日。セシルに頼んで、仕事の現場に連れてきてもらったアランとマイク。休日のためか、アランたち以外に人はいなかった。セシルから渡された黄色いヘルメットを二人は被る。

 住宅街に建つその一軒は鉄の棒に囲まれており、家としての様相を表してはいるものの、壁がところどころ張り付けられていないためか一階は吹き抜けのようになっていた。

 セシルに許可をもらって家の内側を見学するアランとマイク。二階建ての一軒家、見上げれば家の高さが縦半分辺りのところで大きな壁に仕切られている。

「無茶を言ってごめんなさい、セシルさん」

 改めて、アランはセシルに頭を下げる。

 当然ながら、アランたち二人がここに踏みこむ権利なんてものはない。しかしそうだと分かっていても、どうしてもアドルフが携わっていたこの仕事場に、マイクを連れていきたかった。その意図を汲んで、セシルはこの件に頷いてくれた。

「気にするな、アラン。ただし二人とも、周りのものには触るなよ」

 セシルの言葉に頷いたブラウン兄弟。

 マイクはどうして自分がここに連れて来られたのか、まだ分かっていない様子だ。時折、ここに連れてきた理由をアランに尋ねるが、兄はそのことについてはぐらかすかのように、別の話題を持ち出す。

「こうして見ると、これが家になるなんて信じられないね。自分たちが住んでいる家も一から造られてるって思うと何だか感動する」

「一つの建物を自分たちの手で造り上げた感動もまた、すごいものだ。だからこの仕事はやめられないんだろうな。それと、この仕事は家を造る前が大変なんだ」

 整然と並ぶ木の柱を背に、腰に手をあてたセシルが熱のこもった口調で語り出す。

「肉体労働ではあるが、着工前の打ち合わせにはすごい時間を掛ける。家造りはとても複雑だからな。その上、クライアントの要望にも一つ一つ答えていかないといけない。その分、打ち合わせには時間がかかる」

「聞いただけでも、すごい大変そうですね」

「その中でも、アランたちのお父さんはすごい仕事ができた。周りからも慕われていて、みんなが頼りにしてたんだ」

「何だか誇らしいよ。マイクもそう思うだろ?」

 睨むような目付きでマイクがアランを見る。漸く、ここに連れて来られた理由を察したらしい。マイクから目を逸らしたアランは、中央に置かれた二階に上がるための長い脚立を見詰める。

「セシルさん。少しの間だけ、二階に上がってもいいですか?」

 マイクと二人で、と、そう付け加えたアラン。セシルとしては、自分の目の届かないところに二人を置きたくないという気持ちがあるだろう。数秒の間、アランと目が合うセシル。そこに何かしらの思いを汲み取ったのか、セシルはゆっくりと頷いた。

「ありがとう、セシルさん」

 お礼を言ってから、マイクは脚立に足をかけて、先にのぼり始める。一階で見た柱の何本かが二階にまで届いていて突き出ていた。部屋としての区画はまだできていないのか、壁などの仕切りがない。しっかりとした足場、外に面している窓がとりつけられていない枠の辺りにアランが寄ったところで、弟のマイクが一階から上がってきていた。

「どういうつもりだよ、兄さん」

 その言葉には、隠しようのない怒りが滲み出ていた。対峙する二人。辺りは沈黙に包まれ、呼吸の音が互いに聞こえていた。

「答えなくても、既に分かってるんだろ? マイク」

「いまさら、父さんを尊敬しろって言いたいのか? あんな父さんを見たあとに? 冗談言うなよ」

 身振り手振りで怒りを示す弟に対し、アランは冷静な態度でいた。その態度が気に喰わないのか、マイクはさらに表情を険しいものに変える。

「兄さんは情けないと思わないのか? あれだけ沢山のひとに、父さんがどのような状態でいるのかを教えて、恥ずかしいと思わないのか? いいや、兄さんは思ってたはずだ。だからいままで周りのひとたちに相談しなかったんだろ」

「僕は父さんのことを、情けないなんて思ったことはないし、恥ずかしいなんて思ったことはない」

「そんなの嘘だ」

「本当だよ、マイク。ねえ、マイク。僕たちは、母さんが死んでから家事が大変だということを知った。そうだろ?」

「そう、だけど。それがいまの話にどう関係あるんだよ」

「洗濯も、掃除も、料理も。買い物で家までの坂道をのぼるときのことも、僕たちは母さんがどれだけ苦労していたのかが分かった。それでも、母さんは文句をこぼさなかった。いつも笑顔で、優しかった」

 学校から帰ってきたとき、母はいつも笑顔で迎えてくれた。スポーツでどれだけ衣服が汚れていても、嫌な顔一つしなかった。

 口を閉ざしたマイクに、優しく笑いかけるアラン。

「本当はね、セシルさんたちが仕事してるところをマイクに見せたかったんだ。マイクは覚えてないかもしれないけど、僕たちは一度、父さんの仕事を見学してるんだ」

「……少しだけ、覚えてるよ。確か、その日は暑かった」

「そうだね、すごい暑い日だった」

 そう答えて、アランはヘルメットを両手で挟むようにあてる。

「父さんは、すごい汗水流して、このヘルメットを被って仕事をしてた。仕事に出掛けるとき、いつも父さんは大きな水筒を二つ持っていっただろ? 最初、仕事場のひとたちに分けてあげるのかな、って思ってたけど、違った。それだけ水分補給をしなきゃ駄目なんだ」

 逞しい父親の背中をアランは思い出す。仕事に出掛ける前、自分たちの弁当と一緒に置かれていたあの大きな水筒を、毎日のように父は持って行った。

「すごい肉体労働なんだよ、父さんの仕事は。でも父さんは仕事のことについて僕たちに文句をこぼしたことなんて一度もない。父さんもまた、いつだって僕たちに笑いかけてくれて、優しかった。そんな父さんを、僕は心から誇りに思う。──もう、素直になろうよ、マイク」

 母親を喪って、父親を頼りにしようとしても、それができないことに弟は怒りを感じていたのだろう。自分は立ち直れているのに、父親がまだ引き摺っていることを情けないと思ったのだろう。

「僕たちの両親は、毎日、僕たちのために頑張ってた。母さんの愛情があったからこそ、父さんの頑張りがあったからこそ、僕たちは毎日を楽しく過ごせてた。二人とも、頑張り過ぎてたくらいだ」

 しかし、アドルフがマリアの死を前にして時間を掛けずに立ち直っていたとしたら、果たしてアランたちはそれを受け容れられただろうか。そんなのは非情だと、責めていなかっただろうか。アドルフだって、一人の人間だ。村長が言っていたように、当然アランたちよりもマリアとは長い時間を過ごしている。父の胸に空いた孔はきっと、長い時間培ってきた愛情と比例していた。

「父さんは、強すぎたんだよ」

 いままで、父の弱い部分を知らなかった。

 父の強い部分だけを二人は知っていた。

「だから、少し弱い一面があったっていいだろ? 父さんの弱い部分もちゃんと受け容れよう。僕たちは、家族なんだから」

 自分たちの弱い部分を両親が笑って受け容れてくれたように、父の弱い部分も受け容れよう。そう言葉にしたアランを前に、マイクは無言のままそこに佇む。アランもまた、マイクと同じように口を閉ざす。マイクに伝えたいことは全て、吐き出したつもりでいた。

 長い静寂。この沈黙の間に弟は、きっと、父との思い出を振り返っているのだろうとアランは思った。

 やがて、風の音に紛れて吐息が一つ。

「それを伝えたいためにわざわざここに連れて来るんだから、本当、兄さんには参ったよ」

 もろ手を僅かに挙げて、笑うマイク。

 それはどこか自虐的な笑みだった。

「素直になろう、か。……自覚したよ。いまの父さんを、僕は認めたくなかった。いまの父さんばかりに目を向けていて、いままで父さんがしてきた苦労や頑張りを、分かっていなかった」

 懺悔するように、ありのままの気持ちをこめて吐き出すマイク。表情が険しいのはきっと、自身に対しての苛立ちだろう。

「落ち込んでいるいまの父さんを見て、心から見下してた。でも、だからって過去の父さんの頑張りがなかったことにはならない。あれだけ父さんが頑張っていたのは、僕たち家族のためでもあったのに。いまさら、そんなことが分かった。……父さんはどれだけ格好良いか、僕はちゃんと知っていたはずなのに」

 喋っている途中で弟は俯いていた。顔をあげたときには、泣き笑いのような表情をして、兄と向き合う。

「兄さんは、ズルいな。母さんのことだってそう。いつも僕を導いてくれて。その分だけ、僕はいつも、自分が情けないよ」

「僕だって、自分のことを情けないって思うことはあるよ、マイク」

 立ち止まっていた足を動かして、さらに窓辺に寄るアラン。つられて、兄の隣りに移動するマイク。

「正直、シェリーさんを母さんに見立てるなんて、無謀なことだと思ってた。自分から言い出したことなのに僕はとても無責任だ」

 自嘲的な笑みを見せるアランの言葉に、マイクは耳を傾ける。

「すごい不安に陥ることもあった。あれだけ沢山のひとが僕たちのために集まって、力を貸してくれて。それらを裏切るような結果になったらどうしよう、って、本気で恐怖した」

 突然、その恐怖は自身を襲う。呑み込まれまい、と思っていても足が竦む。そんな暗闇の中からアランを救い出したのは、掛け換えのない大切なひとたちだった。

「僕だって弱い人間なんだよ、マイク。でも、僕は一人じゃなかった。いまも庭で沢山のひとたちが集まって、父さんを救うために、真剣に取り組んでくれてる。僕を、僕たちを支えてくれる人がいる。そして何より、僕にはお前がいたから。だから、強くあれたんだ」

「兄さん……」

 いつだってマイクの前では、強い人間であろうとしたアラン。泣いてしまいそうなときも、弟の前では自然と涙を堪えられた。

 ブラウン兄弟は、二人一緒に窓からの景色を眺める。傾斜のためか一軒家の二階でも街を見渡すには充分だった。天候が悪くてもここから見えるヘブデンブリッジの街並みは壮観だ。傾斜に建つ沢山の家、道を歩む人々、鳥が鳴き、川が流れ、たくさんの緑が見える綺麗な景色。それはアランたちが産まれたときから、そこにあった眺め。

 優しいひとたちに溢れたこの街、ヘブデンブリッジ。両親との思い出がいっぱい、この街にはちりばめられていた。これからも、この街で沢山の思い出を作っていきたい。

 そのためには、必ず──

 外の景色を眺めたまま、無言で拳をあげるアラン。それに反応して、マイクはアランと拳同士をぶつけ合う。互いに微笑む二人。確かな絆を、ブラウン兄弟は感じていた。


 セシルと一緒に三人でブラウン家に戻った頃、庭では昨日に引き続いて沢山のひとたちがシェリーを囲み、真剣な表情で話し合っていた。その輪に加わろうとアランが駆けようとしたとき、隣りにいたセシルが「クリス」と声をあげる。見れば、玄関のところにひっそりとマイクの同級生、クリスが立っていた。

 父親のセシルの呼び掛けに反応して、玄関から庭の中心に移動するクリス。マイクの言っていたとおり、弟よりも少しばかり身長が高い。クリスの目はどこか潤んでいて、何故かいまにも泣き出しそうだった。アランの隣りにいたセシルが、そっと、マイクの背中を押す。セシルの意図を理解していたマイクが、アランたちから離れてクリスの前に立つ。いつの間にか、庭で集まっていたひとたちも二人の様子を眺めていた。

 クリスの言葉を待つマイク。

 俯いたまま、小さな声でクリスが「ごめん」と口にした。

「この前は、ごめん。その、からかったりして」

「……どういう心境の変化? 何で急に謝ろうと思ったんだよ」

 厳しい声で問うマイクを前にクリスは黙ってしまう。困ったようにマイクが頭を掻いていると、クリスが口を開いた。

「母さんが、帰ってこなくなったんだ」

「え?」

「マイクと喧嘩したあの日に。謝ろうとしない僕に呆れて、母さんが家を出てった」

 その言葉に惑うマイク。どう反応していいか分からないのだろう。アランもまたセシルの方を見る。そうしたら、セシルが口元に手をあてて、アランの耳元に口を近付けてきた。

 セシルの言葉に、耳を澄ます。

「クリスにも、マイクがどのような気持ちだったのか少しでも分かってほしかったんだ。だから、妻に協力してもらった」

「そういうことですか」

「ああ。それで、妻はいまも友達の家に泊まってる。全てはクリスの反省次第ということだ」

 前にセシルから電話をもらったときに、クリスが家に尋ねてきたかを訊いてきた理由がこれで分かった。再び、アランは二人の遣り取りを見守る。

「最初は冗談だと思った。でも、母さんと連絡がつかなくなって、冗談なんかじゃないってことに気付いたんだ」

 クリスの声は震えていた。みなが口を閉ざして、クリスを見守る。

「母さんがいなくなって、洗濯や料理を自分でやってみても上手にできなくて、自分がすごい情けないと思った。あと、家がすごい静かだったんだ。……寂しかった」

 その気持ちは、アランやマイクにも分かった。いままで気に掛けていなかった洗濯物や、母の料理がどれだけ大変なものだったかをブラウン兄弟は思い知った。誰に言われるまでもなく家事をこなしていた母に感謝が足りなかったのではないかと、後悔した。そして、二人でいるときにふと感じるリビングの広さ。母と父がそこにいただけで、アランたちは寂しさとは程遠い場所にいたことに気付かされた。

「母さんがいないだけで、こんなにも辛い思いをするなんて知らなかった。それで、やっと気付いたんだ。マイクが怒った理由が」

 それが、この場限りの言葉でないことはみなが察しただろう。

 クリスの肩は、震えていた。

「マイクは僕よりも、複雑な立場にいるのに、僕はそれをからかった。僕以上に辛い思いをしてるはずなのに、僕は……本当に、ごめん。いまさら謝っても、許してくれないと思う。都合がいいと、自分でも思う。でも、本当に謝りたかった。謝りたかったんだ。僕は、とんでもないことを……」

 クリスの声が詰まる。

 クリスは、泣いていた。肩を震わせたまま、手の甲で涙を拭っている。

 アランは隣りに立つセシルの横顔を窺う。とても温かい眼差しで、セシルは自分の息子を見詰めていた。アランもまた、弟の背中を見詰める。ここにいるみんなが、マイクのつぎの言葉を待っていた。

 そして、息を吸う音。

「許してほしいなら、条件がある」

 そんなことを言ったマイク。クリスは顔をあげて、不安そうな表情でマイクの言葉を待つ。

 アランからマイクの表情は見えない。だが、弟の口元が笑っていることは声の調子からして分かった。

「もう僕の背についてはからかわないこと。いずれ追い越すんだから、あとから自分が情けなくなるだろ?」

 そして、拳をつくった右手をクリスに向け、「ほら、手」とマイクが促した。おどおどとした動作で、クリスも同じように拳をつくって、マイクの拳と打ち合わせる。その瞬間、庭から歓声が沸いた。そちらの方に目を向ければ、みんなが拍手をして二人のことを祝福している。アランとセシルも互いに見合って、笑みをこぼし、二人に向かって拍手をした。

 大袈裟だよ、と笑うマイク。そこでクリスティおばさんが待ってましたと言わんばかりに「ケーキ作ってきたから一緒に食べましょう」と朗らかな声で皆に呼びかける。クリスは、不安から解放されたのか、漸く僅かな笑みをみせる。

 隣で拍手をしていたセシルが携帯電話を取り出す。きっと、奥さんに電話をするのだろうと、アランは思った。


 母さん、と。アランは胸の内側で母に語る。ここにいる優しいひとたちは、両親の掛け換えのない絆からきていた。それがどれだけ尊いものか、アランたちは分かっていた。そうしてここに集まったみんなの優しさを、ただただ感謝するブラウン兄弟。

 ──母さん。ここにいるみんなの力で、必ず父さんを連れ戻す。だからどうか、母さんも力を貸してほしい。僕たちのために、祈っていてほしい。

 ブラウン家の庭に集まったみんなの顔をアランは眺める。それだけで、アランの胸の内には沢山の勇気がわいていた。

 母の墓石の前で嘆いていた父の背中を思い出す。母の名を延々と呼び続けていた父の声が蘇る。そしてこの庭で、アランは父と遊んでいた記憶を思い起こす。

 ──待っていて、父さん。

 また家族で笑いあうために、アランは何回でも誓う。その碧い瞳にはみんなの笑顔と、希望の光が、宿っていた。

 ──必ず、迎えに行くよ。

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