エピソード 3


 毛布に身を包んだアドルフは、回顧していた。それは、マリアとの出逢いから現在に至るまでの出来事。走馬灯のように、頭の中のテレビが過去を再生し、一つ一つの場面をはっきりと映し出す。その画面には、互いに初対面でいたマリアとアドルフが立っている。もう二十年前のことだ。

 当時、友人のジョセフに「会わせたい女の子がいる」と言われたのが、全ての始まりだった。大学生だったジョセフと、そのとき既にいまの仕事を始めていたアドルフ。最初、アドルフはその提案を断ろうと思っていた。

 アドルフは、女性と話をするのが苦手だった。男連中と遊んでばかりいた彼に、女性と遊ぶ機会はほとんどなかった。いや、なかった、というよりも、自らそれを避けていたのだとアドルフは思い返す。幾ら友人から女の子を紹介すると言われても、アドルフは頑なに断っていた。何故なら彼には結果が見えていたからだ。

 女性と会話をすることはおろか目を合わせることもできない。こんな腑甲斐無い男と一緒にいて、女性が楽しい思いをするわけがない。アドルフは大人になっても、女性に対する姿勢は小学校のときの心持ちと変わらないままだった。だからジョセフの言葉に首をふろうとしたが、その日のジョセフはしつこかった。曰く「アドルフと似ている」と、どこが似ているのかも告げぬまま、その勢いにおされてアドルフはいやいや「分かった」と答えた。迷惑な計らいだと心底思った。

 そうして翌日。アドルフが赴いた先はブラッドフォードのカフェだった。そこで待ち合わせていたはずの友人のジョセフはまだいない。仕方なしに席についたアドルフは、うしろから誰かに声をかけられた。それは聞き覚えのない、とても綺麗な声。振り向けば、そこには美しい女性が立っていた。

 それが、マリア。

 携帯電話を片手に持ったマリアは、どこか落ち着きがない様子だった。

「ジョセフから連絡があって、用事があって来られないと、アドルフさんにそう伝えてほしい、って」

 マリアが言うにはジョセフから無理矢理、話を押し付けられ、きょう此処に来たのだと言う。結局マリアは足を運んでしまったわけだが、当のジョセフは直前になって「来られない」と断りをいれてきた。そこからジョセフに電話でアドルフの特徴を教えられて、喋りかけろと強く言われたらしい。アドルフは一先ず、友人に代わってマリアに謝罪をした。そして、立ったままでいるマリアに座るよう促す。

 話を聞いてみれば、マリアとジョセフの関係は、大学の講義でたまたま席が隣りだったという、ただそれだけのことだった。少し喋る程度であったジョセフから「君と同じような人がいる、紹介したい」と言われたそうだ。一体どこが似ているのだろう、と二人は話しはじめ、やがてマリアが「あなたはあまり人の目を見て話さないのね」とアドルフに言う。

「私と同じ」

 そう口にしたマリアが微笑む。その微笑が素敵だった。

 ジョセフの言いたかったことが、二人で話し合う内に分かってきていた。マリアとアドルフの心境はどこまでも似ていたのだ。この年頃になって恋愛の一つもできず、あまつさえ異性と喋ることすらままならない。恋に臆病な二人は、まるで写し鏡のようだった。

 そんなマリアとアドルフの息は合っていた。悩みを共有し、互いの考えに共感し、初めて逢ったあの日から、逢う回数も増えていった。自然と目を合わせる回数も。

 ジョセフは見抜いていたのだ。二人なら必ず気が合うと。最初は迷惑だと思っていたアドルフも心から友人に感謝をした。

 マリアと一緒にいると、アドルフは世界が輝いて見えた。心臓の鼓動は、マリアと一緒にいるときだけ速まっていた。彼は、マリアに恋をしていたのだ。

 マリアと出逢って、二年が経とうとしていた。マリアに告白しようと決心したとき、自ら退路を塞ごうと、「明日、大事な話がある」とアドルフは電話でマリアに告げる。その時点でアドルフの声は震えていた。情けない男だと自分自身に呆れたが、行動に移しただけでも彼は己を讃えたかった。

 その日、アドルフは告白の練習を鏡に向かってしていた。自分に向かって愛を告白してどうするのだという考えは、アドルフには微塵もない。人間、本気になると自分の行動が如何に馬鹿らしいのかも分からなくなってしまうのだと、彼はその身を以って知った。

 マリアに告白する日。意気込みすぎて、彼は一睡もできなかった。鏡に映る自分の顔を見れば、隠しようもない隈が目の下にできている。大事な日だというのに、このありさまだ。しかしアドルフに眠気などなかった。頭の中で反芻するは、彼女に伝える大切な言葉のみ。産まれてからこの方、これほど緊張したことはアドルフにはなかった。

 もし告白に失敗して、マリアとの関係が切れてしまったら。不安が胸の内で延々と渦巻き、どうにかなってしまいそうだった。だが、このままの関係で終わりたくないとアドルフは思う。こうした不安は異性に告白する際、誰もが懐くものではないか。みんなその不安と戦って、そして打ち勝ったからこそ、好きな人の隣りにいるのではないか。なら、自分は負けたくない。アドルフは俯いてた顔をあげる。どれだけ格好悪くても、どれだけ拙くても。必ずマリアに告白する。

 そうして昼間のブラッドフォードの、二人が初めて出逢ったあのカフェにマリアとアドルフは落ち合う。その日は、とても温かい日だった。

 この二年間、マリアと一緒にいて臆病だった自分を変えられたアドルフ。だからこそ、アドルフはここにいて、マリアと向き合っている。いまや、あの頃の臆病な自分はもういない。アドルフは勇気を出して、マリアから目を逸らさず、告白しようとした。その直前に、アドルフは気付いた。マリアの目の下に隈ができていることを。マリアもまた、自分の目元を見て笑っていた。それで、アドルフの緊張はいとも簡単に解れた。

「君を必ず幸せにする。結婚を前提に付き合ってほしい」

 マリアは口元に笑みを浮かべ、アドルフに頷いた。

「お願いします」

 嬉しそうな声で、マリアはそう答えた。


 ヘブデンブリッジで同棲を始めた二人。あれから時間が経って、マリアとアドルフは結婚した。結婚式は壮大なもので、友人からの惜しみ無い祝福をアドルフとマリアはその身に受け、皆の前で愛を誓った。まるで一日一日が夢みたいだった。アドルフとマリアの関係は周りから羨まれていた。これまで二人は喧嘩なんてしたことがない。おしどり夫婦と、周囲から持て囃されていた。

 毎日が毎日、幸せだった。

 やがて二人の子宝を授かる。アランとマイク。二人とも男の子で、面影はアドルフよりもマリアに似ている。ならきっと二人は美形だ、なんてアドルフがマリアに言うと、マリアは照れていた。子供が産まれても二人の仲は変わらない。。幸せな毎日を、家族四人は過ごしていた。

 そんな日々の中で、二人とも元気に産まれてきて良かったとマリアはアドルフに言う。マリアは、病弱だった。それは付き合っていた当時から、アドルフも知っていたことだ。それでも子供を産むことに何も問題はないと、医者は言っていた。そのときのマリアがどれだけ嬉しそうな表情をしたことか。無論、アドルフも笑みをこぼしていた。

 幸せだった。彼女と一緒に家庭を築けていることが、いまだ夢みたいだと、アドルフはマリアの前で言葉にしたことがあった。庭で、アランとマイクが遊んでいるのを二人で眺めている時だ。そしてアドルフの頬に小さな痛みが走る。隣りのマリアがいたずらな笑みを見せ、頬をつねっていた。庭から聞こえるアランとマイクの声を聞きながら、アドルフとマリアは互いに笑いあう。そう、夢ではない、確かな現実。この幸福に満ちた一時を彼は噛み締めた。そして、その数週間後にマリアは死んだ。


 回顧は唐突に終わり、目の前の墓石がアドルフに現実を教えていた。マリアは死んだ。アドルフが初めて愛したひとは、骨になった。二度と会話を交わすこともできない。自身の愛したひとは、足下の地面に埋まっていた。アドルフは、わけが分からなかった。

 家族三人を残し、この世から去ってしまったマリア。どうしてマリアは死んでしまったのだろう。アドルフは両手で頭を抱え、額を地面にくっつける。命あるものに、終わりがあることをアドルフは知っていた。だが、幾らなんでも早すぎるのではないか。どうして、と呟いたアドルフの声は、冷たい風の音に掻き消された。どうして、マリアが死んでしまったのだろう。

 こんなことなら、出逢わなければよかったのではないか。誰かを愛するなんてことを、知らなければ良かったのではないか。アドルフは一瞬だけ、そんなことを考えてしまった。でも、マリアとの出逢いを忘れるなんてことは、アドルフにはできない。だからこそ、アドルフは苦しむ。

 両の掌で頭を抱えていたアドルフが、腕をだらりと下げ顔をあげる。虚ろな瞳には、愛しいひとの名前だけが映っていた。彼は憂う。自分が独りであるように、マリアもまた独りなのではないか、と。

 自殺しよう。そう、アドルフは思った。この世にマリアはいないのだと、そんな当たり前のことに彼は気付いたのだ。自殺しようと決心したとき、しかしアドルフは抵抗を感じていた。その原因は、アドルフが一番に理解している。冷たい風が横から吹く。首に巻いたマフラーが、風で揺れていた。

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