3
駅のベンチに座り、ブラッドフォード行きの電車を待つブラウン兄弟。平日の昼前、開放的な駅は無人に近い。そんな中で、学校があるにも関わらず二人はベンチに座っていた。
時季に合わせた衣服を着こなしている二人。鼠色のズボンにチェック柄のシャツ、その上にブルーのデニムジャケットを羽織ったアランと、白のデニムに赤色のフードパーカーを着たマイク。先程からパーカーの首もとに垂れ下がっている紐をマイクは指先で弄っていた。
「本当にいいのかよ、兄さん」
そう言って、前のめりになって兄の顔を窺うマイク。昨日、学校を休んで遊びに行こうとアランはマイクに提案した。突然の誘いに弟は驚いていたものの、鬱々とした気分を晴らしたいというのもあったのだろう。兄の誘いに二つ返事で乗った。しかし、実際きょうを迎えてみてマイクは不安そうな表情をしている。
「たまには息抜きしないと」
「そうかもしれないけど、別に休日でも良かっただろ?」
「きょうが良かったんだ。ほら、いま話題の映画を観に行きたかったし。平日だから、映画館にはそんなに人もいないと思う」
「そんな理由でブラッドフォードに、」
「ほら、電車きたよマイク」
車輪の音が聞こえたと同時に、立ち上がったアラン。
「折角、ブラッドフォードまで遊びに行くんだから、楽しんでいこう」
そう言ったアランの口元には笑みが浮かんでいて、マイクに向かって手を伸ばしていた。兄の笑みにつられて、しかめ面をしていたマイクも笑みをこぼし、差し伸べられたその手を静かにとって立ち上がる。ブラッドフォード行きの電車が、二人の視界に映った。
電車から降りてブラッドフォードの通りに出たアランとマイク。ヘブデンブリッジと比較すれば人通りは多いと言えたが、それでも平日のためか人影は疎らだ。赤銅色の石畳の通路を歩きながら、自分たちを取り囲むようにして建てられた建造物を見上げたり、道路で車が行き交うのを眺める二人。人工湖が設置されたシティパークを通り過ぎ、二人は無料で利用可能なフリーシティバスに乗ることにした。
バス亭のベンチに辿り着いたところで、ちょうどバスが到着した。二人が乗り上げたバスの中は広々としていて、そこに腰をおろしている人は少ない。適当に席を選んだアランとマイク。ゆっくりと、バスが発車した。
「久し振りだ、ここに来るのは」
窓側の席。マイクが外の景色を眺めながら、小さな声でそう言葉にした。マリアが死んで以来、二人はブラッドフォードに足を運んではいなかった。
「小さい頃、あの辺りを歩いてたらマイクがはぐれたんだよ」
アランが窓越しに指を差した先の通路を見て、マイクがかぶりをふる。
「覚えてない」
「だろうね、マイクまだ小さかったから。その日は祭りで人混みがすごかったんだ。母さんが僕の手を繋いでて、父さんがマイクの手を繋いでたはずだったんだけど、気付いたら父さんの隣りにマイクはいなかった。人混みに流されたんだろうね」
「初めてそんな話、聞いた」
「父さんが母さんに口止めしてたかも」
「何でだよ」
「多分、恥ずかしかったからかな? 話を最後まで聞けば分かるよ」
「何でいまになって兄さんがそのことを話すの?」
「いま思い出したからね。それで話の続きだけど、マイクがいないことに気付いた父さんが慌ててマイクの名前を呼んで探したんだ。もちろん母さんと僕も、マイクを探した」
アランは不思議に思う。母が死んでから、どうして忘れてしまいそうだった昔の思い出が、いまとなって頭の中で蘇るのか。でも、それはアランにとって心地よかった。母が生きていた証を、実感できるから。
「それで、兄さん? 幼い僕は結局、無事に見つかったんだろ? こうして兄さんの隣りにいるんだからさ」
「うん、父さんが真っ先に見付けた。マイクを抱き締めて、通路の真ん中で泣いてた」
「は?」
「僕と母さんも驚いたよ。きっと、不安で仕方なかったんだろうね。事故に遭ってたらどうしよう、って、父さんは自分に責任を感じてたんだ」
「…………」
「マイクを見付けたのに、どうして父さんが泣いたのか、あのときの僕には分からなかった。でも、いまなら分かる。小さな頃に分からなったことも、いまになると分かることもある。それはきっといまも同じで、見えなかったものが、大人になると見えてくるかもしれない」
何かを考えこむようにして口を閉ざしたマイク。もしかしたら、幼い頃の自分を思い返しているのかもしれない。
アランは言う。
「過去を思い返すたびにどうして母さんや父さんがあのとき、あんなことを言ったのか、年を重ねるごとに分かってくると僕は嬉しい。マイクもそう思わない?」
「……そんなの、分からないよ」
アランから目を逸らし、マイクは口を噤む。そこから暫くしてバスが停まり、二人は降りる。思っていたよりも時間を掛けずに、目的地の映画館に辿り着いた。周囲の建物と変わらない高さの映画館で、人の出入りはそこそこだ。
「そもそも、この時間で学生が映画を観るなんて、不審に思われない?」
「大丈夫。心配ならフードでも被る?」
マイクのパーカーについたフードをうしろから持ち上げて笑うアランに、弟は目付きを細めた。
「僕一人だけならまだしも、兄さんは顔を隠せないだろ。だからいいよ、別に」
フードを掴んでいた手をそっと弟に払われて静かに笑うアランと、ふてくされたかのような表情をするマイク。二人は並んで映画館の扉を潜った。マイクの予想通り受け付けの店員に「学校の方は?」と訊かれたのに対し「休校日です」と返事したアラン。さらっと答えたアランに、マイクはねめつけるようにして横から睨む。
「はい、チケット」
お金を払い終わったアランが笑顔でマイクにチケットを手渡す。そこで我慢していたかのように、マイクは小さな笑みをこぼした。
「悪い兄をもって、弟は心配だよ」
「反面教師として見た方がいいね」
「自分で言うなよ」
笑うマイクを見て、安心した表情のアラン。先生に嘘を吐いて学校を休んだことに罪悪感はあったけれども、息抜きに連れてきて良かったとアランは心底思う。
「それよりもお金、いいの? 自分の分は払うけど」
何げなしに、アランが自分の分の代金まで支払っていたことについて言うマイクに「きょうは奢りだ」と兄は笑う。
「気前がいいね、良い兄を持って僕は幸せだよ」
「調子のいいことを言うね、うちの弟は」
そうしてブラウン兄弟は、いつものように笑いあう。弟の笑顔が見られるのであれば、自分のお小遣いから払う映画の代金はアランにとって安いものだった。
映画を鑑賞し終えた二人が次に向かったのは、大きなビルに挟まれた小さな喫茶店だ。赤色の煉瓦で造られた喫茶店は、家族四人で食事を摂った思い出の場所でもある。先程見た映画の話を中断して玄関の扉を開ければ来店を報せる鈴が鳴り、コーヒーの香りが漂ってきた。キッチンから駆け付けてきたウェイトレスがはきはきとした声で「いらっしゃいませ」と二人を迎え容れる。
窓側の席に案内された二人。店内に流れるジャズが店の雰囲気と合っていて、自然と快い気持ちになる。ブラウン兄弟が腰をおろした席は、店内の様子が窺える大きな窓ガラスと面していて、外の様子がはっきりと見える。長方形を象った木目のテーブルに、ウェイトレスが運んできた飲み水がそっと置かれた。ウェイトレスに日替わりランチを頼み、アランとマイクは再び映画の話に戻る。穏やかな時間を過ごしていた二人だったが、急にマイクの表情が暗いものになった。
「どうかした?」
すかさずアランが尋ねると、マイクは目を合わさずに口を開いた。
「父さんのことを考えてた」
そう言ったマイクの声はか細い。いままでアドルフのことから目を背けていた弟が、現状と向き合っている。アランは真剣な表情で、マイクの言葉をじっと待つ。店内に流れるジャズは、もうアランの耳にはあまり聞こえていなかった。
「セシルさんから連絡あったんだろ? 駄目だった、って。結局のところ、いまの父さんに誰が何を言っても無駄だよ。父さんは、母さんが死んだってことを分かってはいるんだ。だから墓の前に居座ってる。でも、母さんが死んだことを父さんは受け容れずにいる。現実から逃げてるんだ」
マイクの言葉にアランは相槌を打つ。マイクの言う通りだと彼は思った。
「墓地で父さんと逢ったとき、父さんは母さんの名前を何度も呼んでた。返事なんてあるわけないのに、あの墓に向かって母さんに呼びかけてた。僕はあのとき怖かった。もしかしたら父さんはこのまま、母さんの声を求めて、母さんの跡を追うんじゃないかって」
それは決してあり得ない話ではなかった。死んだ母のことを未だに想い続けているアドルフ。マイクの話はどこまでも現実味を帯びていて、アランはそれを否定できない。グラスの氷が、独りでに音をたてる。
「もう病院に連れて行こう、兄さん。父さんは、おかしいんだよ。母さんが死んで、そうなったんだ」
「……確かに。これ以上、神父さんやセシルさんたちには迷惑をかけられないし、うん、マイクの言うことは正しいと思う」
それでも、何か他に方法はないものか。頬杖をついていたマイクに「どこか不満そうだね」と言われるアラン。
「兄さんには何か他に考えがあるの?」
マイクの言葉に口を閉ざし、アランは考えこむ。いまのところは何も思い付かない。
長年連れ添っていたマリアが死んで数週間。アドルフはうわごとのようにマリアを呼ぶようになってしまった。そんなアドルフを見て、マイクは病院に行かせようと決断した。本当にそれで父の笑顔がとり戻せるのか。アランには、病院から帰ってきた父が笑顔でいる、そのイメージが全く湧かなかった。
この問題は時間が解決すると思っていた、と、そう口にしたセシルの言葉をアランは思い出す。しかし、時間が経つごとにアドルフが遠ざかってゆくのをアランは感じていた。マリアが死んで以降、周囲の大人たちは頼ってもいいということをブラウン兄弟に教えてくれている。やはり自分は思い上がっていたのではないか──自分たちの力だけで解決できると、心の奥底では思っていたのではないか。知らない内に、アランはマイクと同じように頬杖をついていた。
「周りの人達に相談は……」
「セシルさんは駄目だった、って、さっきも言ったろ?」
アランの呟きに、即座に反応したマイク。
「他の人達に話したところで、どうせ結果は同じだよ。それに、あんな父さんを周囲の目に晒すような真似は、僕はしたくない。僕たちが病院に連れていけば、それでいいだろ」
言葉を返せないアラン。結局、自分たちの力では何も解決できなかった。ふがいない気持ちが、彼の胸の内に湧いていた。
まるで逃げるようにマイクから目を逸らし、アランは窓の方を向いた。通路で擦れ違うひとびと、その中で、通路に置かれたゴミ箱に何かを捨てる男性がアランの目に映った。男性はゴミを捨てたつもりだろうが、そのゴミは縁に当たって、そのまま地面に転がっていた。転がっていたのは紙コップで、それを捨てた男性は気付かず、そのまま振り向かない。だが、男性のうしろを歩いていた女性が立ち止まって、その場に屈んで紙コップを拾っていた。
立ち上がった女性は紙コップをゴミ箱にしっかりと棄てる。女性の髪は、金色で、そしてアランの視界に女性の顔が映った。そこで彼は驚きのあまり言葉を失う。
「一回、ジムおじさんに現状を話して父さんを病院に連れて行ってもらおう。……僕だって、こんな方法は嫌だ。それでも手遅れになる前に、早い内に何とかしないと父さんが……兄さん?」
無反応でいるアランにマイクは首を傾げる。当のアランはそんなマイクの思いを意に介さず、急に立ち上がっては勢いのまま店内を駆け、店の出口へと向かう。
「兄さん!? どこに行くんだよ!」
弟の言葉に振り返らず、アランは店を出た。
勢いよく開けられた扉。鈴の音がアランの耳に響き渡る。辺りを見回し、先程ゴミを拾って棄てていた女性の背中を見つけた。女性の方に向かって、アランは全力で走る。
見間違いではない。こんなことはありえないと頭の中で分かっていながらも、アランは人目を気にせず必死に走った。
女性の背中に追い付く。
「待ってください!」
自分が思っていた以上に大きな声をアランは発していた。いきなりの叫びに、通りを歩いていたひとたちがアランの方へと振り向き、そして女性もまた彼の方へと振り向いた。
目が合い、アランは再び、言葉を失う。
目の前に、マリア・ブラウンが立っていた。
肩まである綺麗な金色の髪に、綺麗な碧眼、しわの少ない整った顔立ち。白のカーディガンと藍色のデニムを綺麗に着こなしている母親が、アランの目の前に立っていた。しかし、そんなことはあり得ない。マリア・ブラウンは死んだ、葬式も行った、だからもうこの世にはいない――
「あの、何か……?」
それに母親は、このような目で自分を見ない。まるで初対面であるかのような、戸惑いの浮かんだ表情を見て、マリアとは違うんだと、そんな当たり前の考えに辿り着いた。慌てふためいて「ごめんなさい」とアランは謝罪の言葉を口にする。
「本当に、ごめんなさい、急に。その、あまりに母さんと、似ていたから」
「ああ、そういうことですか」
声まで、マリアと同じ。
まだ頭の隅では、目の前の女性が自分の母親ではないかと疑っている。でも、違う。
このひとは、マリア・ブラウンではない。
「それじゃあ、私はこれで」
女性が背を向け歩き出すのを見て「あ」とアランは呆けた声を出す。
このまま、ただ見送るだけでいいのか。母親と瓜二つの女性に出逢った。この出逢いを、ただの偶然で終わらせていいのか。いま、自分たちの力では解決できない問題に直面している──このとき既に、混乱に陥りながらもアランの頭の中では一つの考えが浮かんでいた。
なら、自分が取るべき行動は──
やらないで後悔するよりも、やって後悔した方がいい。
母親の言葉を思い出し、葛藤を振り切ってアランは再び、女性のもとへと駆けた。
「すみません」
振り向いた女性と向き合う。アランの碧い瞳に、もう迷いはなかった。
「少しだけ、時間をいただいてもいいですか?」
マリア・ブラウンと瓜二つな彼女の名前はシェリー・ローズという。互いに自己紹介を済ませたブラウン兄弟とシェリー。兄が突然、立ち上がっては言葉も残さず店を出て行ったことに憤慨しつつあったマイクだったが、アランがシェリーを店内に連れてきたときには、マイクの怒りは驚きに変わり、その開いた口は塞がらないままでいた。それほどまでに、マリアとシェリーの容姿は似ていた。
戻ってきたときには既に運ばれていた日替わりランチに目もくれず、アランはシェリーにブラウン家の事情を説明した。他人に母親と間違えられ、それでいて詳しい事情を説明しないまま喫茶店に連れてこられても、シェリーはいやな顔一つしない。いまもそう。シェリーは真剣な表情で、アランの言葉一つ一つをしっかりと聞いていた。まるで、母親に悩みを打ち明けているかのような心境にアランは陥る。
正直に言ってしまえば、アランは泣いてしまいそうだった。マリアは蘇って、自分たちのことが心配で戻ってきてくれたのではないか。死んだことなんて、何もかもが嘘で、母は最初から自分たちの隣りにいたのではないか。そんな希望を、彼は懐いていた。
でも、違う。目の前にいるのは、マリア・ブラウンとは違う人生を歩む、一人の人間だ。自分たちの母親では、決してない。目元を腕で擦るアラン。ここで涙を堪えられたのは、目の前に弟がいたからだ。たったそれだけの、理由だった。
現状を説明し終えたアランに向かって「どうして、シェリーさんを連れてきたんだ」とマイクから追及を受ける。
「シェリーさんは、母さんとは違う。母さんは死んだんだ」
「分かってる。何でシェリーさんを連れてきて、父さんのことを教えたのか、いまからそれを話そうと思う。ごめんなさい、シェリーさん。いきなり連れ出してきて、こんな話を聞いてもらって」
「ううん、私なら大丈夫。買い物の途中だったし、夕食をつくるまでにはまだ時間があるから。それで、アラン? 私をここに連れてきたのは、何か考えがあってのことでしょう?」
マイクとシェリーの視線に対し、アランは頷きを返す。
「シェリーさんにお願いがあります」
シェリーとの出逢いを偶然で片付けないために、アランは自分の思い付いた考えを切り出す。
「父さんの前で、母さんを演じてほしいんです」
三人の間に、沈黙が流れた。
最初に反応したのはマイクで、嘲笑うかのように声を洩らす。
「一体、何を言ってるんだ。少し落ち着いたほうがいい」
「僕は冷静だよ、マイク」
「冷静な人間がそんなことを言うわけないだろ」
頭痛がしてきた、とでもいうように、側頭部に掌をあてるマイク。しかし、アランは真剣な表情で二人に向き合う。
「馬鹿げた提案だと思われても仕方ないけど、でも、僕の考えを聞いてほしい」
二人の反応を窺う。マイクは呆れた様子であったが、シェリーは真面目な顔付きでアランを見守っていた。やはり母親の面影と重なる──そのことに、意味があった。
「あの墓場で父さんと逢ったとき、父さんは繰り返し、母さんの名前を呼んでた。覚えてるだろ? マイク」
「思い出したくないけど、覚えてるよ」
「あのとき、父さんは母さんの墓の前で何か語りかけてた。父さんは、こう言っていたんだ。声が聞きたい、名前を呼んでほしい、って。父さんはそう望んでいた。なら、父さんのその願いを叶える」
「だからシェリーさんに、母さんのフリをしてもらうように頼んで父さんを連れ戻す、って?」
無茶苦茶だ、と付け加えるマイクに、アランは否定できない。それに、こんなふざけた話にブラウン家とは無縁のシェリーが付き合うとは到底思えなかった。しかし、シェリーの表情は変わらない。アランは話を続けることにした。
「いま、父さんの考える力は弱まっていると思う。そこを突く。母さんが説得すれば、父さんは従わざるをえない」
「そんなのうまくいくわけがない。シェリーさんは母さんとは違う、さっきもそう言っただろ」
「周りの人達に協力してもらう。母さんの口調や、仕種がどんなものだったのか、親戚の人達に教えてもらうんだ。ホームビデオだって、たくさん残ってる。父さんを説得させる、その日に。シェリーさんを母さんにする」
ため息をこぼし、マイクはかぶりを振る。弟はアランからシェリーに目を向けて、そこで戸惑っていた。自分と同じような反応をしていると思っていたシェリーが、まさか真剣に話を聞いていたとは思っていなかったのだろう。アランもまた真剣な眼差しで、シェリーを見詰めていた。
「僕たちは、父さんを連れ戻したい。父さんを連れ戻すにはきっと、母さんの言葉が必要なんです。ふざけたお願いだというのは、充分に分かってます。初対面のシェリーさんにこんなことを頼むのは、非常識だって分かってます。それでも、やらないで後悔するよりも、僕は、やって後悔する方を選びたい」
「そうね。でも、アラン」
ここでシェリーが真剣な表情から一転して、その口元を弛める。
それは信じられないほどの、とても優しい笑み。
「まだ、後悔するとは決まったわけじゃない。そうでしょう?」
アランとマイクが目を見開いたあとにシェリーは「協力するわ」と口にした。マイクが「どうして」とシェリーの方を見る。
「子供が困ってたら、それを助けるのが大人の役目よ」
シェリーさんの笑みを前に、マイクは言葉を返せなかった。アランは「ありがとうございます」とシェリーにお礼を告げる。
自分たちの力では無理だと思っていた矢先に、この出逢いがあった。でも、いまは無理とは思わない。母親と瓜二つなシェリーを見て、アランは確信した。きっと、連れ戻せる。自信に満ちた表情で、彼はこれからのことを二人に話そうと思った。
「それよりも、二人ともランチ食べなくていいの?」
そこで、シェリーの言葉に間抜けな声を洩らすブラウン兄弟。自分たちが何のためにこの店に訪れていたのか、いままでアランは忘れていた。残念ながらテーブルに置かれた食事はすっかり冷めている。
「兄さんが急に話を始めるから。その間に冷めちゃったじゃないか」
不満げな言葉をこぼしたマイクの方を見ずに、アランはフォークを持って、円いお皿に添えられたフィッシュ・アンド・チップスを口に運ぶ。
「新たな発見だよ、マイク。ここの料理は冷めてもおいしい」
またもやマイクはため息を吐き、シェリーが笑う。まるであの頃に戻ったみたいだと、アランは思った。マリアが生きていた頃の、あの温かい頃に。
アランは胸の内で、母さん、と呼び掛けた。どうか、安心して僕たちを見守っていてほしい。
父さんを必ず連れ戻す。そのことを、彼はマリアに誓う。そして家族三人でまた笑いあう日々が訪れることを、アランは心から望んだ。
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