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アドルフが家を出てから三日が経つ。朝食をとってから、アランとマイクの二人は通学路でもある川沿いを歩き、ヘブデンブリッジの名前の由来でもある橋のもとまで向かう。
天候は曇り。きょうは休日のため、二人は私服姿で歩いていた。シャツの上に薄いベージュのショートコートを羽織ったアランと、鼠色のパーカーのフードを被ったマイク。隣りを歩くマイクの表情を覗きこめば、機嫌が悪いことが分かる。
そして川の流れる音に紛れて聞こえてきた溜息。
立ち止まったマイクに合わせてアランも足を止めた。マイクは、どこか諦めたような表情をしている。
「言いたいことは分かるよ、マイク」
アランが、マイクの肩を静かに叩いた。
「それでも行こう。母さんがいつも言ってただろ。やらないで後悔するよりも、やって後悔した方が良いって」
「結局どっちも後悔するじゃないか」
「気持ちの問題さ。やらないで後悔したら、明日もずるずると悔しい気持ちを引き摺るかもしれない。でも、やって後悔したなら、多分すっきりとした気分で明日を迎えられる。母さんが言いたかったのは、そういうことだよ。マイクだって分かってるだろ」
「分かってるけど……」
マイクは分かっているからこそ、こうしてアランに付いてきている。いつも素直ではない弟にアランは微笑み、二人揃って立ち止まっていた足を前に動かす。
ブラウン兄弟が川沿いを歩いていると、途中で親戚のクリスティおばあさんと擦れ違った。そこで二人は再び立ち止まる。クリスティは優しい声色でアドルフは大丈夫なのかどうかを訊いてきた。アランが「大丈夫です、おばあさん」と返事したが、それはクリスティを心配させないための嘘だった。
「何かあったら頼ってね、こんど、ケーキ持って行くから」
そんな言葉を残し、ブラウン兄弟の横をクリスティは通り過ぎる。クリスティの優しさに、胸の内で感謝したアランとマイク。二人とも、幼い頃からクリスティの作るケーキが大好きだった。
ヘブデンブリッジに住む人たちはみんな優しい。マリアが死んでから、アランとマイクはそのことを実感した。たくさんの人たちに心配の声をかけてもらい、何かあったら言いなさい、頼りなさい、と、みんな声を揃えて言ってくれる。しかし、そんな人たちの言葉をもってしても、父には届かなかった。アドルフの職場仲間の人たちが訪れても、アドルフは反応しない。アドルフの父親でもあり、マイクとアランの祖父でもあるジムおじさんが「父親のお前がいましっかりしなくてどうする!」と怒鳴っても、アドルフは一言も返さなかった。
病院に行かせようという意見も周囲から出た。だが、まだマリアが死んでからそんなに日は経っていない。いまは落ち着かせて、この状況が長引いてしまうようであれば、そのときは考えようということで意見は纏まった。
そうして、アドルフは家に帰ってこなくなった。
事態は思っていたよりも深刻かもしれない、と、アランは不安になる。その不安を掻き消すようにして、マイクに何でもない話題を持ち出すアラン。弟もまた、両親の話題を避けている辺り、悲しみが晴れていないことは明らかだ。長男として自分がしっかりしなければ、と、アランは使命感にも似た思いで自分自身にそう言い聞かせる。
二人がいつものように会話を交わしながら歩いていると、橋が見えてきた。曲線を描いたその橋を渡れば、向こう側には緑がいっぱいに広がっている。橋を渡るアランとマイク。顔をあげれば、目と鼻の先で木の葉が風に揺れ、川の流れる音と一緒になってアランたちの耳に響きわたっていた。橋を渡りきって森の中に踏みこめば、幼い頃、この森で友人たちと追いかけっこをした懐かしい記憶が鮮明に蘇る。あれから幾つもの年月が過ぎ、自分は大人に近付いていた。いまはもう、この森で友人たちと追いかけっこはしていない。何だか不思議だった、毎日のようにこの森で遊ぶのがアランにとっては当たり前だったというのに。大人になるというのはそういうことだろうかとアランが思っていると、森から開けた場所に出た。
三叉路の、大きな面積をとった道路に二人は立つ。道路の真ん中から辺りを見渡せば、車は見当たらず、目の前には一面に広がる野原があった。野原には遊具があって、小さな子供たちがブランコを軋ませている。
車も人も滅多に通らない道路を歩いた先に、目的地の聖堂が見えてきた。そのまま進むと、アランとマイクの背よりも高い鉄格子の門が見えてくる。いつも中途半端に開いているその門を通って、そこから一本道を進むと二人は聖堂に辿り着く。古い、という印象を第一に持たせる聖堂は、長方形を縦に象るようにして建てられていて、天井の四隅が槍のように突き上げられているのが特長だ。ここでアランはマイクに隠れて一息吐き、「行こう」と声を掛けた。
二人は聖堂の裏に回ろうと、砂利が敷かれた地面を踏みしめる。辿り着いた聖堂の裏には、整然と並ぶ墓碑がいっぱいに建てられていた。たくさんの人たちが眠るこの場所で、果たしてアドルフは其処に座りこんでいた。その容貌はマリアが死んでから依然として変わらず、瞳は虚ろで、衣服も薄汚いままだ。薄暗い天候と相俟って、不気味な雰囲気の墓地。アランたちの足音にも気付いていないのか、一つの墓石を見詰めたまま、父は微動だにしなかった。
マリア・ブラウン、ここに眠る。
そう刻まれた墓碑をずっと見詰めているアドルフの背後にそっと、近付く。手を伸ばせばアドルフの背中に届く距離だというのに、父は振り向かなかった。
「父さん」
哀愁漂う父の背中に向かって声を掛けたアラン。しかし、アドルフは反応を見せない。
アドルフが家に帰って来なくなった翌日に、ここの神父からブラウン家に連絡があった。昨夜から、墓の前でじっとアドルフが座っている、と。警察に連絡するよりも先にこちら側に連絡してくれたのは、アランにとって有り難かった。神父も分かっていたのだろう、いまのアドルフが町の人たちに注目を浴び続けるのは、アドルフの尊厳と、その家族を傷付けるだけだと。とにかく大きい騒ぎにはならないでほしいとアランは願っていた。アドルフが心をとり戻した先のことをアランは考えていた。
神父から連絡を受けてすぐさまアドルフを連れ戻そうと、アランとマイクの二人は一度ここに出向いたが、やはり父は返事一つ寄越さず、墓碑を前にただ母の名前をしきりに呟き、そこに母がいるかのように何かを語りかけていた。その様子を見て連れ戻すのを断念し、そして二回目の今日。気持ちを改めて二人は父の背中と向き合う。
もう一度、「父さん」とアランが声を掛けるが、やはりアドルフは振り向かない。昨日に続いて父は墓石を前に何かを喋っているようではあった。口籠もっているためか、アドルフの声はあまり聞きとれない。
「父さん、家に帰ろう。最近、寒いんだから、ここにいると風邪をひくよ」
アランの言葉に、アドルフはいつまで経っても無反応だ。そこで、アランの隣りに立っていたマイクが舌打ちをして、兄の隣りから一歩、前へと踏み出す。
「いい加減にしろよ、父さん」
マイクの声は、いつも以上に尖っていた。マイクは一呼吸間を置いて、口を開いた。
「母さんが死んで辛いのは分かる。僕たちだって、父さんと同じ気持ちだ。それでも、前を向かないといけないんだ。いつまでも落ちこんでじゃ駄目なんだよ」
子供に諭すかのような物言いのマイク。その肩は僅かに震えている。そんなマイクを見て、アランが口を開いた。
「マイクも僕も父さんを心配してたんだ。だからここに来た。ねえ、父さん。母さんはいまの父さんを見たら、きっと悲しむよ」
幾ら二人が声をかけても、口の中で何かをぼそぼそと呟いているアドルフは一向に振り向かない。その虚ろな瞳は、マリアの名が刻まれた墓石だけを見詰めていた。
「いい加減に、」
マイクの、大きな声。
「いい加減にしろって、言ってるだろ! 悲しい気持ちは分かるよ、だからって、このままじゃ駄目なことくらい父さんだって分かってるだろ!」
アドルフに対し、おそらくいままで溜まっていた不満をぶつけたマイク。目を見開いてマイクが発した怒声に、アランはさほど驚かなかった。いつかこうなるかもしれないことを、アランは予想していた。
マイクは限界だったのだ。せいいっぱいの気持ちで声をかけても言葉一つ返ってこない。父のこんな悲しい姿を見ることが、マイクには辛かったのだ。
「悲しいのは父さんだけじゃない。僕と兄さんだって、母さんが死んですごい辛いんだ。父さん。ここにいたって、母さんは帰ってこない」
そう言い切ったマイクの声は落ち着きをとり戻したようにも聞こえるが、握った両の拳は怒りが滲み出ていることを表すように震えている。そのとき、いままでまともな反応を見せていなかったアドルフが一際大きい声で、「おお」と獣のような唸り声をあげた。喉の奥から掠れた声を搾り出しているアドルフを見てマイクは黙る。もしかしたら、やっと自分に向けて言葉が返ってくるのではないか。辛そうな顔で父の言葉を待つ弟がそんな希望を抱いていたとしたら──そう考えただけで、アランは胸が苦しかった。
もしアドルフが言葉を発したとしても、きっとそれはアランたちに向けられたものではない。
アドルフが、再び「おお」と声に出す。
「おお、マリア、マリアよ。お前は一体、わたしを置いて何処に行ったのだ」
その反応はアランの予想していたものであって、弟のマイクは父の言葉を前に面食らっていた。
アランとマイクが此処に訪れてから、アドルフが見ていたものはマリアの名前が刻まれた墓石だけだ。アランは思う。父には、自分たちが此処に来たことも分からないのではないかと。アドルフの瞳にはマリアの名前だけが映っている。その虚ろな瞳に、アランとマイクは映っていない。
ここで我慢の限界に達したのだろう。マイクが一歩前に踏み出してアドルフの襟を掴み、こちらに振り向かせた。「マイク」とアランが制止の声をかけるも、マイクは止まらない。
「僕を見ろよ父さん! 一体いつまでここにいて、いつまで兄さんと母さんに心配させるんた!」
アランがマイクの肩に手を置いても、それは乱暴に振り払われてしまい、激怒したマイクを止めるには至らなかった。
「母さんはもういない。いないんだ! ここにいたって、母さんが目を醒ますわけでもないだろ! だから僕たち家族は受け容れるしかないんだよ! 母さんはもう、」
「マリア。マリア。どうしてわたしの隣りにいない……わたしは寂しい。アランとマイクも、お前がいなきゃ寂しいんだ。お前がいないと駄目なんだ、生きていけないんだ……マリア……」
目を瞑りたいほどの悲愴な面持ちで、言葉を吐き出すアドルフ。マイクの顔が目の前にあるというのに、その瞳はどこまでも虚ろだった。そんなアドルフを見て、襟を掴んでいたマイクの手が弛み、突然離される。アドルフはそのまま地面に尻餅をついても、何も言わない。父を見下ろすマイクの目は、涙ぐんでいるようにも見えた。
「……母さんは、もう、帰ってこないんだよ。寂しくても、僕たち三人で生きていかなきゃいけない。だから、父さん。帰るしかないんだ。もう帰ろう。僕たちの家に、帰ろうよ」
「マリア、マリアよ。お前の作る温かい料理を口にしたい。お前の体温が恋しい。どうして、わたしたちのもとに帰ってこないんだ」
「やめろよ、父さん」
「お前の声が聞きたい。一回だけでもいい。また、名前を呼んで欲しい。一回だけでもいいんだ。言葉を交わしたい。わたしはただ、お前と喋るだけで一番幸せだったというのに。おお、マリア……」
「もうやめろよっ! 母さんはもう死んだんだよっ! どうしてそれが分からないんだ!?」
「マイク!」
マイクの名を叫んだアランは、弟の腕を掴み、アドルフと距離をとらせる。マイクが抵抗しようと腕を振るうが、アランは離れない。
「もう帰ろう、マイク。落ち着いてから、また別の日に来よう」
「放せよ兄さん! ここで父さんに現実を教えなきゃ、一体いつ父さんは帰ってくるんだよ!?」
「マイク」
腕から手を離さず、マイクの目をじっと見るアラン。
「父さんに僕たちは見えてない。父さんの目に映っているのは、いまは母さんだけだ」
「だからってここで退くわけには」
「諦めるわけじゃない。マイク、僕の言いたいことは分かるだろ? きょうは一先ず帰って、冷静になって、落ち着いたら二人でまたここに来よう」
「……っ」
マイクが声を呑み、苦い顔をした。
マイクから、アドルフを見遣るアラン。父は再び墓石の方に向き直って、何かをぼそぼそと呟いていた。それはきっと、そこに眠る母に向けたものに違いない。
僅かな間を置いて、不承不承といった様子でマイクは小さな頷きを見せた。弟の碧い瞳に浮かぶ不安の色を払拭しようと、アランはゆっくりと口を開いた。
「必ず、連れ戻そう」
兄の決意を汲み取ったかのように、マイクはもう一度頷いて、アランもまた頷きを返した。未だに自分たちを視界に映さないアドルフと向き合う。
「僕たちはもう行くよ、父さん」
アドルフが自分から帰って来ることを、アランたちはもう待たない。
アランは誓う。
「また、ここに来る」
必ず、アドルフを連れ戻す。
そう言って、父に背中を向ける二人。聖堂に向かって、墓地を跡にしようと歩き出す。
寒い風が一瞬だけ吹いたあと、アドルフの声がアランの耳に届いた。
「お前が恋しい、お前が愛しい。お前がいなければ呼吸さえままならない。歩けないのだ。だから一緒に歩こう。どうか、わたしの手を引いておくれ」
マリア。
嘆きが聞こえても、アランたちは振り返らずに歩を進める。聖堂に向かって歩むアランとマイク。ふと、アランは空を見上げた。灰色の空。陽光が射さないこの墓地で、空の上から母は父を見ているのだろうか。マリアの笑顔を思い出すアラン。頭の中に浮かんでいたその笑顔が、途端に悲しい表情になった。ここ最近、天気が悪いのは、いまの父を見て母が悲しんでいるからではないのか。そんなことを想像しながら、マイクと一緒になって聖堂の出入口に回ろうと角を曲がる。その角の先に人が立っていて、二人は驚き、声をあげそうになった。二人が顔をあげれば、そこには神父のウィルバーが、柔和な目付きでアランたちを見詰めていた。
「二人に、話したいことが。どうぞこちらへ」
聖堂に繋がる両開きの扉を開け、そう口にした神父。促されたアランとマイクは、お互いの顔を見てから頷きあい、神父のあとに続き、聖堂に踏みこむことにした。
聖堂の出入口から祭壇まで伸びる赤い絨毯を歩む神父とブラウン兄弟。照明で明るい聖堂内に、祭壇の向こう側に見えるステンドグラス。その色ガラスは独特の色合いをしていて、照明の光が及ぶステンドグラスはどこか神秘的だ。赤い絨毯の両側には、膝の辺りまでの高さしかない横幅が長い椅子が均等に並んでいた。見たところ、アランたち以外に人はいないようだ。神父が振り向きざまに「適当にどうぞ」とマイクたちを促す。アランたち二人は「失礼します」と一言断ってから、祭壇に近い距離で席につこうとしたが、その前にアランは神父に向かって頭をさげた。突然のことに、少しだけ驚いた神父。
「父の件について、本当にありがとうございます。迷惑をかけてごめんなさい」
まずアランが頭をさげ、つぎにマイクが頭をさげた。墓の前で一日座りこんでいたアドルフを発見し、そのまま警察に連絡せず、ブラウン家に連絡をした神父にアランは感謝していた。神父の計らいはそれだけではない。アドルフが落ち着きをとり戻すまで食事の提供や寝床の提供もしているという。アドルフは墓の前から離れないため、食事はプレートに載せて墓石まで運び、就寝は毛布を貸せば寝るということを電話で教えてもらっていた。
「お礼の言葉はもう充分です」
「いえ、こちらからしてみればとても足りません。父の面倒や、挙げ句の果てに食事まで……感謝しても、しきれません。本当に、ありがとうございます」
アランとマイクは一緒に頭をさげた。そして「顔をあげてください」と、ゆっくりとした口調で神父に言われる。言われた通りに顔をあげれば、祭壇前に毅然と立つ神父の口元は弛み、その穏やかな表情は二人を安心させようという優しさが感じられた。
「どうでしたか。お父さんとの会話は」
「……まるで駄目でした。心ここにあらずといった様子で」
「やはり、そうでしたか。それでもどうか、アドルフを責めないでください。あれだけお互い愛しあっていた。あの悲しみは、マリアに対する愛なのです」
おしどり夫婦として有名だったアドルフとマリア。その風評はどうやらこの聖堂にまで届いていたようだ。
神父の言葉に不満そうな表情を見せたマイクは、それでも何も言わなかった。先程のアドルフとの遣り取りで疲れたのかもしれない。アランの隣りに座るマイクの肩は沈んでいた。
「お父さんのことは任せてください」
そう言った神父の言葉に「ありがとうございます」と頷きを返すアラン。けれども、いつまでも任せているわけにはいかなかった。
聖堂を跡にしたアランとマイクは、商店街の通りを歩いていた。あれから二人は無言で自宅までの道を辿っている。石畳を鳴らす無数の足音、休日のため商店街は朝から結構な賑わいを見せていた。この通りをたまに歩いていると外国人に擦れ違う。紡績業が栄え、衣服を扱う店が多いヘブデンブリッジは隠れた観光地でもあった。
二人並んで歩いてる最中、アランはマイクの様子をこっそりと窺う。いつにもましてやはり元気がない。最後まで父にはマイクの言葉が届かなかったのだから当然だろう。その気持ちは痛いほど分かったけれど、アランが落ちこむわけにもいかなかった。
一体どうしたら、連れ戻せるというのか。もう警察や病院に頼ってしまうほかないだろうか。それで父は社会に復帰でき、自分たちのもとに笑顔で帰ってくるのだろうか。
まだマリアが死んで半月だ。しかし、半月といえどアドルフがあの状態では、そう楽観的にはいられない。
父を連れ戻す。そのためには、子供の自分たちだけでは力が足りないのだろうか。
商店街を通り過ぎたブラウン兄弟。自宅までの傾斜を上っているときにふと、そこから見下ろせる町の風景をアランは眺めた。高いところから見下ろすヘブデンブリッジの町並みは、幾つ年を重ねても感慨深いものがあった。重いものを背負っていた体が軽くなったような、そんな気分をアランは味わう。
「兄さん」
マイクの一声で立ち止まっていたことに気付き、相槌を打ってから足を動かすアラン――声をかけてくれたことで会話を始める切っ掛けとなった。「マイク」とアランは弟の名を呼ぶ。
「なに?」
「夕飯、どうしようか」
「ハンバーグ」
「また?」
「前、ちゃんと味わえなかったから」
「そうか。なら、今日もハンバーグにしよう」
「うん」
マイクが僅かに笑みを見せたことで、アランは安心感を覚えた。これから父を連れ戻すために、きょう以上に辛い気持ちが訪れるかもしれない。そのためには少しでも前向きになろうとアランは思った。弟が笑顔になるのであれば、幾らでもハンバーグを作ろう。
自宅の前に差し掛かったところで、見覚えのある赤い自動車が自宅の前で停まっていた。アランとマイクが自宅の庭に足を踏みいれたら、玄関のところにアドルフの仕事仲間、セシルの姿が見えた。
「アラン、マイク」
セシルがアランとマイクに手を振り、近寄ってきた。「セシルさん」と二人は声をあげ、こちらからも近寄る。
アドルフと同じ仕事をしているだけあって、セシルの両腕は太い。アドルフの仕事をアランが見学したとき、セシルが沢山の木材を肩に担いでいたのが印象的だった。高い身長、刈り上げた茶髪に細い目付きは、一見すれば怖いと思われがちだがセシル本人はとても優しい。その優しさは、アランとマイクに向ける笑みにも表れていた。
「久しぶりだね、二人とも」
「どうしてきょうはここに?」
「ちょっと、アドルフの様子を見に。そうか、二人がいないならインターホンを押しても出ないか」
返事に詰まるアランとマイク。そんな二人の表情を見て、セシルは何かを察したのだろう。黙ったままでいる二人と目線が合うように屈み、柔和な顔から真剣な顔になっていた。
「アラン、マイク。何か悩みがあったら、おじさんに話しなさい。子供はね、大人に遠慮はしなくていいんだよ」
そう言って、再び笑うセシル。
子供の自分たちだけでは力が足りない。つい先程そう実感したアラン。周囲に迷惑をかけてしまうことを恐れていた。いつもとは違う、父のあのような姿を、みんなに晒したくなかった。それでも、いまのままではどうにもならないことを自分が一番に分かっていた。
二人に対し、真摯に向き合うセシル。どうして大人とはこんなにも頼りになるのだろう。目の前にいるだけで、こんなにも力強い。
決意したアランが、ゆっくりと口を開いた。それはマリアが死んでからの、アドルフの様子についての話だった。
「大変だったな、二人とも」
これまでのことを話し終えてから、セシルが間を置いてそう口にした。セシルに向き合うかたちで、二人並んで腰をおろすアランとマイク。
話に一区切りつけたところで、三人はブラウン家に上がっていた。食卓の席についた三人の間に漂う空気は、少し重いものがあった。
「あれから、まるで回復していなかったのか。前に一度、訪れたときはマリアさんが死んでまだ間もなかったから、仕方ないと思っていたが……迂闊だった、二人とも済まない」
「そんな、何でセシルさんが謝るんですか」
「そうですよ、顔をあげてください」
「いや、責任は俺達にもある。俺達は、アドルフの仲間だ。正直な話、この問題は時間が解決すると思っていた。でも、そうではなかった。俺達は、アドルフの苦悩を理解していなかったんだ」
「だからって、謝らないでください、セシルさん。前にセシルさんたちはお父さんのことを心配して、ここに足を運んでくれた。それだけでも充分ですから」
「兄さん、飲み物とってくるよ。セシルさんはコーヒーでいい?」
「あ、ああ。ありがとう」
マイクが重い空気を断ち切るようにして立ち上がり、キッチンに向かう。マイクが向かった先を見て「家事はどうしてる」とセシルはアランに尋ねた。
「マイクと二人でやってます」
「洗濯も、料理も、全部か?」
「はい。母さんが、家事を教えてくれたから」
「そうか、マリアさんが……」
カップにコーヒーを注いでいたマイクの動作を眺めるセシルの目付きは穏やかだ。
「この年で家事ができるのはすごいな。うちのクリスも見習ってほしいものだ」
クリスというのは、マイクの同級生だ。
「クリスにも、少しは家事を手伝えと言っているんだが、」
「はいはい、コーヒーお待たせ」
「おお、ありがとう、マイク」
見計らったかのように、マイクがセシルの目の前にカップを置いた。いまは仲の悪いクリスの話題をこれ以上聞きたくなかったのかもしれない。そんなマイクにアランは笑みをこぼす。
テーブルに置かれたカップを手にとって口まで運び、一口飲んでから「さて」とセシルは呟いた。
「これからどうしようかという話だが、一先ず、職場の仲間に連絡してその墓場に向かうよ」
「向かって、どうするんですか?」
「家に帰れと説得させる。アランとマイクの言葉に耳を傾けなかったんだから、俺達の声もあいつには聞こえないのかもしれない。それでも、やるだけやってみるさ」
「わざわざ、ありがとうございます」
「いいよ礼なんて。実際、アドルフには早く戻ってきてほしいんだ。いまの現場にはあいつが必要だし、みんな、あいつを頼りにしてる。お前たちの親父さんはな、すごいんだぞ」
「いまはあんな状態ですけどね」
「マイク」
「事実だろ、兄さん。それよりもセシルさん、父さんがこれだけ休んでいて、その、仕事を辞めさせたりはしないんですか?」
アランの言葉に対し、大袈裟に両手を振るセシル。
「辞めさせる? とんでもない。アドルフを辞めさせようなんて考え、誰一人持ってないさ。──そうか、あいつから何も聞いてないのか」
「どういうことですか?」
「仕事を休む、って連絡を、葬式の日にアドルフから貰ったんだが」
その言葉に驚いたアランとマイク。葬式の日を思い返してみても、もうそのときには既にアドルフの様子はいま現在と変わりなかった。そんなアドルフが自らの意志で行動を起こし、仕事先に連絡をしたことがアランたちには驚きだった。
そこでマイクの視線が自分の方に向けられているのを気にせず、アランは口を開いた。
「それで父さんは、他に何か言ってました?」
「休暇をとりたい、って、そう口にして、ちゃんとその分の給料を振りこんでほしいって言ってたな。アドルフは十年以上も働いておきながら休みをとらないし、本来なら一ヶ月以上の休暇をとっても構わないんだが、いまの現場にはアドルフがいないと困る」
「すみません、父が迷惑をかけて」
「いや、大丈夫だ。アランが謝る必要なんてない。それに、アドルフがまだ帰ってこないことに対しては、みんな納得しているんだ」
「納得ですか?」
「ああ。あいつが心の底からマリアさんを愛してることを、町のみんなが知ってる。だから、みんな思ったんだよ。自分の大切な人が事故や病気であの世に先立ってしまったら、自分もアドルフのようになるんじゃないかって、そう思ったんだ。だから、みんながこの状況について仕方がないなって納得してる」
「また〝仕方ない〟かよ」
マイクの言葉には苛立ちがこもっていた。
アランとセシルはマイクの方を見る。
「それで息子が見えなくなる父親に、納得なんて……父さんは、母さんを心の底から愛してたけど、僕たちや周りの人たちを何とも思ってなかった。これってそういうことだろ?」
マイクの言葉にかぶりをふるセシル。
「それは違う」
「どこがどう違うんですか」
「アドルフ自身もきっといまは、何が何だか分からない状態なんだ。現実を受け容れられず、周りが見えてない。アドルフはお前たちを愛している、そのことは、アラン、マイク、お前たちが一番に知っているだろう」
「はい」
頷きを返すアラン。しかし、マイクは返事をしなかった。
そんなマイクを優しい目付きで見ていたセシルが、ふいに席を立つ。
「そろそろお邪魔するとしよう。コーヒー、美味しかったよ、マイク」
「インスタントだけど」
「そうとは思えないほど、美味だった」
席を立って、リビングを離れ玄関に向かうセシルのあとにアラン一人が続いた。玄関まで見送ろうとアランはセシルと廊下を歩む。
玄関についたところで振り返ったセシルが「アラン」と小さな声で呼ぶ。セシルの声が小さかったのはまだリビングで椅子に腰をかけている弟に聞こえないための配慮だろう。
「マイクを頼む」
真剣な表情でセシルが言う。
「きっとマイクは、アドルフを許せないんだろう。苛立ちがおさまらないのも無理はない。だからアラン。マイクの傍には君がいて支えてほしいんだ」
「はい、分かりました」
その言葉に安心したようにセシルが笑う。「強いな、アランは」
「そんなことはないと思います。僕だって辛いですから。でも、もしそう見えるなら、きっと弟がいるからでしょうね」
アランもまた、自然と笑みをこぼす。
「うちのクリスにもマイクのことは言っておく。思い遣りの気持ちは大切だからな」
「ありがとうございます、セシルさん」
「またこっちから連絡するよ。そのときにまた」
「はい」
遣り取りを終えた二人。セシルを見送ってから、アランはリビングに戻る。見れば、マイクはまだ椅子に腰をおろしたままで、両腕をテーブルの上に載せては枕のようにして顔を埋めていた。そのままの態勢で、マイクは「何かセシルさんと話してた?」とアランに尋ねる。
「またこっちから連絡するって、そう言ってた」
「そう。それよりも兄さん、何で嬉しそうだったんだよ」
「嬉しそう?」
腕枕に顔を半分埋めたマイクと目が合う。
「セシルさんが話してるとき、途中で口元が弛んでた」
「それか」
セシルの話を聞いているときに途中でマイクの視線を感じていたアラン。マイクの視線に気付いたのは、アドルフが葬式の日に行動を起こしていたという事実を聞いたときだ。
「マイクは聞いてて嬉しいと思わなかった? 父さんが葬式の日に、休暇をとったっていう話」
「有給だろ。休みをとっても、お金は振りこまれるっていう」
「うん。あれを聞いて、僕は嬉しかった。母さんが死んで父さんは、魂が抜けたみたいに見えたけれど、ちゃんと僕たちのことも考えてたんだ、って。僕たちの生活を心配してたんだってそう思った」
「……都合のいい捉え方だよ、それは」
「そうかな」
「そうだよ」
「でも、これで父さんは自分の意志で動けることが分かった。魂が抜けたわけじゃない。ちゃんと自分の意志で、父さんは動いたんだ。なら、まだ間に合う。僕たちは父さんを連れ戻せるよ」
そう、いつまでもこの状況が続くわけではない。マリアが空の上でも安心して過ごせるように、家族三人で笑いあっていたい。朝の出来事がまだ尾を引いているのだろう、マイクはそれ以上返事をしなかった。
ヘブデンブリッジの天候は相変わらず曇りだ。ホームルーム前の早朝、アランは窓の方を見詰めていた。教室の窓は全て閉められていて、廊下側の窓も閉められている。ここ最近、外が寒いことは教室にいるクラスメイトの格好で分かる。マフラーや手袋をつけている同級生も多い。
結局、休日が明けても父は帰ってこなかった。セシルから連絡はきたが、アドルフは仲間の声にも一切反応しなかったという。アランもまた、マイクに内緒でアドルフに逢いに行ったが、声をかけても言葉は返ってこなかった。
アドルフはいまも墓の前で、母の名前を一人、呼び続けているのだろうか。
薄暗い場所で、寒さに耐えながら、一人。
「おはよう、アラン」
いま教室にはいってきた友人のハリーに声をかけられ、「おはよう」とアランは言葉を返す。スクールバッグを自分の席に置いてから、アランの席に近付いてきたハリー。高い身長のハリー、こうしてハリーを座ったまま見上げるとその存在感はすごい。見れば、ハリーの首もとにはマフラーが巻いてあった。
「ここのところ外が寒くなってきた」
「そうだね、急に寒くなってきた」と、ハリーの言葉に頷くと、クラスメイトのエレナが「おはよう」と声を掛けてきた。マフラーで口元を覆ったエレナに挨拶を返すアランとハリー。
エレナはマフラーに指をかけては、それを首元の位置に下げる。
「何だか知らないけど、一階が賑わってたよ」
エレナの言葉に「何で?」と反応したハリー。
「何か怒鳴り声みたいなのが聞こえてたから、もしかしたら喧嘩かも」
「朝から元気だなあ。そういえばエドはまだなのか?」
ハリーがそう言ったと同時に、教室の戸が勢いよく横に引かれた。アランたち三人がそちらの方に目を向ければ、ハリーの発言を見計らっていたかのようにエドウィンがそこに立っていた。エドウィンは急いだ足取りで三人のもとへと向かい、「アラン」と声を掛ける。
「どうしたんだ、エド。そんなに急いで」
「さっき一階で、喧嘩があったんだが」
エレナが「やっぱり喧嘩だったね」と言って、ハリーが頷いた。アランが「それで?」とエドウィンに促す。
「喧嘩してたのは二人で、その内の一人がマイクだった」
驚いたアランではあったが、そこから冷静な態度でマイクの居場所をエドウィンに尋ねた。保健室、と言われてアランは席を立ち、「見に行ってくるよ」と廊下に出る。
もし事が大きいものであれば、親を呼び出される可能性もあった。その保護者がいないいま、マイクを支えられるのは自分しかいない。陽の光が射さない薄暗い廊下、同級生と擦れ違いながらアランは保健室に向かう。どっちとも怪我をしていなければいいが、と、アランは喧嘩した二人のことを考えていた。
早退を希望したマイクに連れ添って、アランもまた、授業を受けずに学校を跡にした。先生にはいま保護者がいないことを説明し、アランも仕方なしに早退を許してもらう。先生も、ブラウン家の事情はある程度知っていた。
帰り道。川沿いでいつものように隣りを歩むマイクは俯いていて、その頬にはガーゼが貼ってあった。瞼も少し腫れている。
保健室の先生から喧嘩の原因を聞いていたアラン。弟が喧嘩した相手はクラスメイトでもあり、セシルの息子でもあるクリスだった。二人が口喧嘩をしていたところ、クリスがアドルフの話を持ち出してきたところで、喧嘩が始まったらしい。きっとアドルフのことについてからかわれたのだろう。クリスがアドルフのことについて知っていたのは、マイクにとっては予想外だったかもしれない。セシルの優しさはどうやら、悪い方に向かってしまったようだ。
冷たい風が、吹いていた。そこで突然、マイクが立ち止まった。それに気付かず、マイクの隣りから数歩前に出ていたアラン。振り向いて見れば、弟の顔は下を向いていて、啜り泣きが、聞こえていた。
「マイク……」
名前を呼んで、しかしそこから動けずにいたアラン。いまのマイクにどのような言葉を掛ければいいのだろう。辛かったのだ。マリアが死んで間もない中、アドルフがあのようなことになって。耐えていたのだ。誰にも頼らず、弟は一人で悩みを抱えていた。いままで我慢してきたものを吐き出すかのように、それでも声をあげず、静かに涙をこぼすマイク。
泣き止むまで、そっと待っていよう。僅かな距離を空けたまま、アランは沈黙を選んだ。耳にはマイクの泣き声と、川の流れる音が聞こえていた。
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