雄二の幻惑! 怒れ吉井明久


 三日が経った。僕はまだ生きている。腕も無事だ。こんな報告で始めなければいけないことが切ない。

 ともかく、休日を跨いだ月曜日を、僕はことのほか平穏に迎えることが出来ていた。

 もちろんあの夜の顛末は学校中に知れ渡っている。僕と秀吉は今や学校中の注目を集めるカップルだ。おかげで脅迫状は毎日下駄箱を埋め尽くしているし、男子生徒からは白い目で見られるし、女子生徒――特に下級生が多い――からは好奇の入り混じった黄色い声が飛んでくる。

 それでも平穏と呼べるのは、直接的な暴力には晒されずに済んでいるからだろう。治安維持生徒会の覆面連中はここ数日不気味なほど大人しくしている。姫路さんも暴走していない。唯一美波に、指の関節を柔らかくするマッサージを受けたこと以外は大過なかった。

 ただ、だからといって暇になったわけではない。

 むしろ忙しさは増していた。対生徒会戦線の規模がこの数日で倍近くに膨れ上がり、僕は管理運営に大わらわになっているのだ。

 原動力はなんと言っても木下優子さんの加入だ。

「――C班、すぐに1-Bへ急行して。護衛任務よ。そこにいる二人を自宅まで守りなさい。A班とB班は陽動に動いて。駅前でハニートラップしかけて、生徒会の連中を一本釣りするわよ。やれるなら殲滅してもいい。――そうよ、交戦は各自の判断で許可する。じゃあ頼んだわよ清水さん」

 今も、彼女はスマホを片手に総指揮を執っている。

 文月学園の旧校舎、三階の空き教室。新校舎に拠点を置く生徒会本部と、校庭を挟んでちょうど真反対に位置するここは、規模の拡大に伴って新たにムッツリーニが設えたゲリラ戦線本部だ。今は木下さんを中心とした女子会員が、高級官僚もかくやという勤勉さで情報の収集と分析に努めている。

 この数日で、僕は木下さんの驚くべき才覚をまざまざと見せ付けられた。

 宣伝し、説得し、勧誘し、組織し、編成し、動員する。それら全てを、木下さんは鮮やかな手並みでやってのけた。蔑ろにしていた書類整理や、疎かにしていた綱紀に手を加え、今や生徒会と並びうる組織力を持ち得るに至っている。人数こそまだまだ足元にも及ばないが、結束力の高さは比肩するだろう。

 もっとも――。

「はい、本部。ええそうよ。どうしたの? ……シンジが愛を受け入れてくれない? 名前は? ユウイチ君ね。任せなさい、脅してでも殴ってでもあなたの恋を叶えてみせるから」

 いささか、いき過ぎな気もするのだけれど。

「あのう、木下さん……?」

 やることがなくてぼんやり見ているだけだった僕は、血気盛んな木下さんにそろそろと問いかける。

「いくらキューピットでも、無理やりは良くないんじゃ……」

「ダメよ、吉井」

 木下さんは握りこぶしを作って力説する。

「良いかしら。今必要なのは、ひとつでも多くのカップルを作り、讃える空気を醸造することよ。恋愛は良いものだ、私たちもああなりたい――そう思わせることで、学校そのものの流れを変えていくの」

「でも今は放課後だし、おおっぴらに校則違反を繰り返すのは危険だと思うんだ」

 それじゃ甘いわ、と木下さんは首を振る。

「押し付けられた決まりごとに逆らうなら――いえ、それだけに限らない。浸透しきってしまった条理や慣習に立ち向かおうとするなら、それらを真正面から破壊するようなアクションがどこかで必要なの。そういう存在がいるんだと広く知らしめるためにね。だから、なるべく大きく、そして誰もが身近に感じるようにコトを起こすべき。そうね、良い例があるわ。例えば中東の――」

「この話は終わりにしよう木下さん!」

 悪の道を突っ走りかねない話題だ! 僕は時事問題に疎いから何も判らないぞ!

「それに、吉井のペースじゃ一年経っても生徒会は打倒できないわ」

 これまで僕は、草の根活動で賛同者を増やしてきた。やっていることは変わらないけれど、今ほど組織的に、かつ迅速には対応できなかったから、木下さんの指摘通り人員の増加はスローペースだった。

 一方で、木下さんのやり方はその増加ペースを飛躍的に加速させた。全校生徒の二割ほどが僕らの賛同者になりつつある。仮に政治の舞台であれば、決して無視できない政党と目されることだろう。もう僕たちはただのマイノリティではない。

「吉井、自信を持って。私たち――いえ、あなたは正しいことをしてる!」

 木下さんは僕の肩を力強く握って、双子の弟とそっくりな薄い胸を叩いた。

「私たちは全ての愛の擁護者よ!」

 違うんだよ、最後の部分のニュアンスが……。

「ちょっと邪魔するのじゃ」

 と、僕と同じ渦中の人物の片割れ、秀吉が扉を開けて入ってきた。白い肌はますます白さを増していたけれど、前より幾分やつれたように見えて、実に不健康そうだ。文月学園の男子連中をのべつまくなし熱狂させた無垢な輝きが少しくすんでしまっている。

「明久、報告があるのじゃが……」

 女子会員たちが一様に作業の手を止めて、鼻息荒く僕らを見つめている。その期待の篭った眼差し、本当に止めてほしい。

 が、秀吉はもはや気にする様子もない。慣れか諦めか、どちらにせよ良い精神状態ではないだろう。姫路さんを袖にしたと流布された僕と一緒だ。

「いつぞやの話の続きじゃ。――演劇部は全面的に明久に協力することにした。無論わしも含めて、総勢25名じゃ」

 きゃあ、と女子連中が黄色い声を上げる。多分彼女たちは意味を取り違えているだろうけど。

「秀吉……! ようやく自分に素直になれたのね! 姉として誇らしいわ!」

 木下さんもだ。

 でも、演劇部の加勢は確かに大きな戦力だ。秀吉を筆頭に、演劇部は何かと一芸に優れた人が多い。彼らが味方になってくれるのは嬉しいのだけれど――。

「大丈夫なの、秀吉?」

 騒ぎ立てる女の子たちには聞こえないよう、僕は小声で囁く。

「もう諦めたのじゃ。ああなった姉上ふじょしはもう止められん」

 秀吉の瞳が――あんなにもきらきらと透き通っていた美しい秀吉の瞳が、すっかりドブ川のように濁ってしまっている。

「じゃから、わしも考えを変えることにした。さっさとこの学校の恋愛を解禁させて、わしも彼女を作る」

「彼女って……当てはあるの?」

 色恋沙汰とは距離を置いていた秀吉から、こんな言葉が出るなんて。

 でも、秀吉なら引く手あまただろう。イケメン――とはタイプが違うけれど、その美貌に嘘偽りはない。変な女の子に引っかからない事だけを願うばかりだ。

 が、僕の心配を一切斟酌せずに、秀吉は冷たい目で言い放つ。

「この際、生物学的にヒト科のメスならなんでもいいのじゃ」

 冥府魔道に堕ちてしまったか……。

 涙を禁じえない。秀吉だけは違うと信じていたのに。これで秀吉も異端審問会の連中に勝るとも劣らないクズの仲間入りだ。

 この戦い、勝たなければいけない。勝って秀吉にあの純粋さを取り戻させなければ、僕らにはきっと何も残らない。

「秀吉、吉井。あなたたちは私たちの象徴よ」

 木下さんが僕と秀吉の肩を掴んで近づけ、

「人目憚らずいちゃいちゃしなさい。なるべく二人一緒にいるの。それだけでいい。あ、でも――」

 耳に口を寄せて囁いてきた。

「我慢できなかったら、シちゃってもいいんだからね? その時は隠れるのよ」

 ぎりっ、と秀吉の歯軋りが聞こえた。女子はエグいエグいと聞くけれど、確かにデリカシーの無さや恥じらいの欠如という意味では男子のそれを凌ぐだろう。生々しすぎる。

「あれはとりわけ特殊な人種じゃ」

 再び仕事に戻った姉を冷めた目で見やって、秀吉が毒づく。

姉上ふじょしのモラルを信じてはいかん、気をつけるのじゃぞ明久」

「判ってるよ……」

 木下さんの有能さは誰もが認めるところだ。ただ、振り切れてしまったときは一番手綱の付けられない人物なのかもしれない。生まれてずっと一緒だった秀吉は、深くそれを理解しているのだろう。

 木下さんはまた精力的に指示を飛ばしている。仕事の手を止めていた下級生たちを叱咤すると、また鳴り始めたスマホを耳にあてがう。

 その顔が、怪訝そうに曇った。

「土屋? どうしたの、慌てて」

 ムッツリーニから連絡が入ったらしい。木下さんの指示を受けて、今は生徒会の内偵を行っているはずだ。木下さんの参入で、幹部からむしろ一兵隊に降格した形のムッツリーニだけど、文句も言わず従っている。相変わらず職人気質な性格だ。

「ええ、判ったわ。――ちょっと待って、吉井にも伝えてくれる?」

 木下さんにスマホを渡された。直接連絡が取れないのは不便だ。まだ僕は壊れたスマホを買い換えていない。お金が足りないばかりでなく、姉さんが許してくれないのだ。

「…………」

 木下さんのスマホに目を落として、僕は考え込む。この小さな機械の中に、あの夜仕出かしてしまった僕と秀吉の過ちが収められている。叩き壊せば――。

「クラウドコンピューティングって便利よね」

 ダメか。もう全てネットの海に格納されたらしい。ハードコアなエロ漫画ですら、そのラインはなかなか超えないというのに。

「…………明久?」

「ごめんムッツリーニ、物思いに耽ってたんだ」

「…………耽って……いた……!?」

「うん、そういうのとりあえず良いから、話して?」

 スルースキルって大切だ。

「…………むぅ。生徒会が動いた。雄二が学園長と話をつけて、明日、大々的に全校集会を開くらしい」

「内容は?」

「…………判らない。が、要警戒」

 雄二が何を考えているかは判らない。が、恋愛解禁令以降始めてとなる生徒会の応手だ。警戒しないわけが無い。

 木下さんと目を合わせる。彼女は頷いて――

「急だけど、手は打つわ。秀吉、さっそくだけど演劇部員を集めてくれる? カウンター、キメてやるんだから」

 自信ありげに、恐ろしい微笑を浮かべた。




 翌日の朝、ムッツリーニの報告通り、体育館で臨時の全校集会が開かれた。

 いつもは壁際で生徒を取り囲むようにして立つはずの教師陣の姿が、今回は見えなかった。あくまでも生徒会主導の集会であると印象付ける狙いが雄二にはあるのだろう。

 冴えたやり方とは言えないだろう。全校集会なんて、大半の生徒が面倒くさく思っている。実際、早朝から集められた生徒たちは、口々に不平不満を漏らしていた。早くしろ、面倒くさい、ムカつく――中には、生徒会引っ込め、坂本雄二退陣しろと罵声も上がっている。

「とりあえず形にはなったかしら」

 列を無視して僕の隣に立つ木下さんが、不適に笑う。野次の幾つかが彼女の仕込みなのだろう。昨日応急的に施した作戦がすでに始まっているらしい。

「演劇部に協力をお願いしてね。声を出すことを恥ずかしがらないし、良く通る」

 大きく騒ぎ立てて、集会そのものを成り立たなくさせてしまう計画だった。木下さんは周到に人員を散らしたようで、表現するなら「方々から」非難の声が上がっている。幾人かノリの良い人間を巻き込んで、思惑通り野次は合唱に近づきつつあった。

 集会を開いた。しかし、形にすらならなかった。もしそんな展開になれば、生徒会の求心力は地に堕ちるだろう。勢力図はこの瞬間逆転するかもしれない。

 怨嗟を一身に集めながら、雄二が壇上に現れた。ほんの少し肩を落としていて、いつもの威圧感が感じられない。

「見てなさい、吉井」

 途端に、数人が音頭をとって、手拍子と共に帰れコールが始まった。帰れ、帰れ、帰れ……たちまち周囲の不満を巻き込んで、体育館に大合唱が巻き起こる。

 満足げに成り行きを見守る木下さんに、なんと悪辣なと僕は顔を青くする。こんなことされたら僕なら泣いてしまう。

 マイクの前に立つ雄二は、俯き加減のままじっとコールを受け止めていた。残虐非道を絵に描いたような雄二も、流石にこのいじめのような集団心理には心折れるか。

 ――いや。

 そんなはずはない、と僕は楽観を捨て去った。こういう場面でもっとも力を発揮するのが雄二だ。今回も何かしら大きな手を打ってくるに違いない。

 帰れコールは長く続いた。雄二はその間、一切の反応を返さなかった。いつもの雄二なら激怒するような罵声も飛んだけど、睨み返すことすらしない。ただ殊勝に頭を垂れて、会場が静まるのを待っていた。

 やがて会場も疲れ始める。それとも白けたのか――コールは徐々に先細りになっていった。そして、ほんの一瞬訪れた切れ目のような静寂を見逃さず、雄二はゆっくりと語りだした。

『皆。聞いてくれ――』

 良く通る声だ、と感心する。野次を用いるならここでこそ合唱しなければならないところだ。けれど、落ち着き払った声ひとつで会場は飲まれてしまった。

『皆も知ってのとおり、最近、校則を破る生徒が増えている。俺たちはずっと、それを咎めてきた』

 ほんの二三、野次が再開された。ちらほらと。生徒会は間違っているとか、お前は間違っているとか――。

『ああ。みんなの言うとおりだ。おれは、間違っていたかもしれない』

 野次のひとつを捕まえて、返答の形で雄二は語り聞かせていく。

『皆の言うとおり、俺たちの――いや、俺のやり方は過剰すぎたかもしれない。皆の不満が表すように、一方的過ぎたかもしれない。俺は今、ひとつひとつを反省している』

 これは演説ではない。対話だ。雄二は今、僕ら全員と会話している――。

「騙されちゃだめよ、吉井」

 木下さんは舌打ちひとつ、警戒心をあらわに壇上の雄二を睨みつけている。

「これはテクニックよ。きっとあの野次だって、生徒会の仕込みに違いない。自分の流れに持って行きながら、自分にとって望ましい反対意見を『皆の』と表現する。そうやって、集団心理をひとつに纏めてしまう……」

 やるわね坂本、と木下さんが悔しそうに爪を噛む。

 雄二の対話――いや、演説は堂に入っていた。落ち着いた声音、間の置き方、一人一人の表情を覗き込むかのような目線。野次が飛ぶ、雄二が謝る。野次が飛ぶ、雄二が応える。もはやそれらが仕込みかどうかも判らない。雄二はもとより台本のない状況に強い人間だ。

 非難が収まってきた頃合を見計らうように、雄二は大きく頭を下げた。

『すまなかった。この通りだ。――俺は生徒会長として責任を取りたい。いや、取らせてくれ』

 政治家に見習わせたいくらい殊勝な態度だ。けれど――。

 。絶対に。

 すまない。責任を取る。雄二がそんな言葉、人生の中で使うはずがない。

 僕は嫌な予感がした。もしかすると窮地に追い込まれようとしているのではないか。

『皆。恋愛禁止の校則は学園長が決めたことだ。だが、俺たちの校則は俺たちが決めるべきじゃないのか? 一人一人が声を上げて、皆で決めていくべきものじゃないか? 俺は今一度、皆に問い直したい。この校則が必要かどうかを。――俺たちのことだ。自分たちのことだ。だから、俺たちのやり方で、それを決めたいと思うんだ』

 しまった、と僕はようやく雄二の真意に気付いた。

 これは完全に――やられた。

「まずいわね」

 木下さんも雄二の意図に気付いて苦渋を滲ませる。

「――早すぎる」

 そう。雄二は、僕たちの戦力が整う前に決着をつける腹積もりなのだ。いくら増えたといっても、僕らの勢力はまだ全学年の二割に満たない。

『学園長と交渉し、三日後の金曜日――この日を丸々一日確保した。金曜に授業は行われない。代わりに――』

 雄二は最初から考えていたはずだ。おそらく、屋上で恋愛解禁令をしたためた時にはすでに。

 リーダーシップを発揮しうる人材を特定し、一箇所に集め、暴発させて――駆逐する。今戦線に参加している人は特に積極的な賛意を示してくれる人たちだ。それを潰されてしまえばもう立ち直れない。

 僕はまんまと雄二の思惑に乗ってしまったわけだ。夢中になって勢力を拡大し、そして掌握し切れなかった。

 勢いは、煽るより押さえるほうが難しい――。

 壇上の雄二と目が遭った。その口元が獰猛に笑った――ように見えた。

『――全校生徒を対象に試験召喚戦争を行う! これが俺たち文月学園のやり方だ! 同時に、我々生徒会は校則の維持を改めてここに宣言する! 意見のあるもの、不満のあるものは実力を持って俺たちに向かってきてくれ!』

 雄二の高らかな宣言に、会場がざわめいた。罵声が飛ぶ、拍手が起こる。その混乱を楽しむかのように、雄二は肩をそびやかせる。

「諦めちゃダメよ、吉井」

 まだ劣勢と決まったわけじゃない、と木下さんは思案に暮れる。

「浮動票がある。生徒会勢力は多く見積もっても四割。でも、どちらにも属さない生徒がまだ四割いるわ。それを残り三日で引き付けられれば――」

『生徒会が校則を遵守する理由を、最後に言わせてくれ』

 雄二の言葉に体育館が静まり返った。木下さんの仕込みも、予想を大きく外れた展開のせいか不発に終わりつつある。

『俺たち三年生の主席は翔子――霧島翔子というんだが』

 舞台の下に霧島さんの姿があった。唐突に名前を呼ばれて、彼女はまるでスポットライトが当たったかのように身体を震わせた。比喩としては的確かもしれない。霧島さんを知らない生徒はいない。今、全校生徒の視線が彼女に注がれている。

 付き合ってるんだろ! と誰かの声がした。雄二はそれを拾い上げて重々しく投げ返す。

『そうだ。俺は翔子が好きだ』

 信じられないことを雄二は言った。色恋沙汰にはロマンチストなところのある男だ。素直になれない性格のせいで、去年一年は散々振り回された。全校生徒の前で告白だなんて絶対にやるような人間じゃない。

 霧島さんはその言葉をずっと待ちわびていたはずだった。けれど、その顔に喜びの色はまったく見られなかった。こんな場面でなんか聞きたくなかったはずだ。こんな風に使われて欲しくはなかったはずだ。

『翔子も俺が好きだと言ってくれた。――そうだったよな、翔子』

 頷いたのか項垂れたのか――霧島さんは全校生徒の視線から逃れるように顔を伏せた。長い髪に隠れてしまって、もう表情は判らない。

 裏切り者、と罵声が飛んだ。続けざまにブーイングが巻き起こった。それは雄二に向けられたもののはずだった。生徒会長として校則違反を犯していたこと。あるいは霧島さんと恋人同士にあることへの嫉妬心。

 けれど、今や会場全体に木霊し始めたブーイングは、雄二と霧島さんの間柄そのものに向けられているかのように思えた。

『そう――俺は裏切り者だ。だが考えて欲しい。そんな俺が何故、ここまで校則に賛成の立場を取り続けるのかを』

 どんな罵声にも、雄二は一切動じた様子を見せない。計画通りなのだから当たり前だ。ただ一人霧島さんだけが辛い思いをしている。そのことに、僕は腹が立って仕方が無い。

『翔子の成績が落ちているんだ。去年の最高得点は総合科目で781点、文句なしのトップだった』

 会場のブーイングがどよめきに変わった。制限時間内であれば問題数上限なしという独特のテストだから、学内トップクラスともなれば一般生徒の及びもつかない点数を叩きだせる。学内平均が200点、成績上位者の集うAクラスでも400点の大台に乗せるのは至難の業という難易度だから、800近い点数が如何に圧倒的か判ろうというものだ。

 けれど雄二は、そんな自慢をするために霧島さんの点数を公開したわけではないだろう。

 雄二は一瞬言葉を切って、悔しそうに演台に拳を落として、一気に捲くし立てた。

『――この前の試験では421点だったんだ! それだって充分高い。だが、こんなの――翔子が、俺の好きな人が取る点数じゃない! これはきっと俺のせいだ。俺がそばにいるから、翔子は勉強に集中できないんだ!』

 いつか補習室で、鉄人が口を濁していたことを僕は思い出す。成績が落ちているものがいる。誰とは言わないが――。

 霧島さんのことだったのか。学年主席が、常に文武両道で勉強に手を抜かないあの霧島さんが、成績を落としている。一般生徒ならいざ知らず、彼女には絶対ありえないことだった。教師たちが事態を重く見るのは判る話だ。

 霧島さんがステージ階段に足をかける。ここまでされて彼女が黙っているわけがない。アイアンクロー、目潰し、チェーンデスマッチ……霧島さんの説得じつりょくこうしなら問答無用で雄二を黙らせることができる。けれど――。

 霧島さんの動きを目ざとく見つけて、雄二は体を向けた。

『俺は身を引く! 翔子、俺のことなんか忘れて勉強に集中してくれ! 俺は勉強に打ち込むお前が好きだったんだ!』

 会場から拍手が巻き起こった。良く言った、男の鑑だ――と、仕込みかどうかも判らない歓声も飛んでくる。好きだからこそ別れよう、と切り出した雄二は、完全に全校生徒を味方につけてしまった。美談に見えるかもしれない。いや、美談に見えるように、雄二はわざわざ全校集会なんてものを開いたのだ。

 霧島さんの足が止まっていた。一度止まってしまえば、会場を圧迫する熱気に押されて、踏み出すことなんて出来ない。

『ごめんなさい!』

 トドメとばかりに雄二の身体が直角に折れた。漫画でもドラマでもありきたりな、使い古された失恋のシーンを雄二は舞台に再現している。全校生徒に――そして霧島さんに向けて。

 霧島さんは、飲まれてしまった。きびすを返す。背中を向ける。そして、逃げるような足取りで、舞台から降りる。全校生徒が見守る中、彼女は体育館の鉄の門扉を縋りつくように開け放ち、飛び出していってしまった。

 誰の目にも、それは決定的なものに思えた。

 二人の恋は、終わったのだと。

『恋愛も大切だ』

 ドラマチックな一部始終を見せられて、会場は静まり返っていた。全校生徒を睥睨して、雄二はため息混じりに演説を再開する。

『だが、皆、考えて欲しい。俺たちにとって今一番大切なことは何かを。計算高く生きろと言ってるわけじゃない。が、学生としての分別を守って、今と将来をちゃんと天秤にかける理性は持つべきなんだ。好きだからといって、一緒にいることだけが全てじゃない。自分自身を高めて、将来その人にとって誇れる人間になることが、もっとも大切なことじゃないのか』

 以上だ、と雄二は纏めた。割れんばかりの拍手が沸き起こる。

 どこか満足げなその顔を、僕は――とにかくぶっ飛ばしてやりたかった。

 生徒会だの、勢力だの、校則だの、そんなのもうどうだっていい。好きにやればいい。

 でも、あんなふうに霧島さんをさらし者にして、彼女が一番望んでいた言葉を最悪な形で使って、想うふりをして傷つけて……。そのことだけが、そのやり口だけが許せない。

 こんなやり方がだとでも言うのか、雄二。

『――生徒会だけがマイクを使うのは不公平だろう。誰か意見のあるヤツはいるか。ここに来て、自分の考えを喋るといい』

 雄二は明らかに僕を挑発するように喋っていた。そう睨むんじゃねぇ、上がって来い、チャンスをくれてやる。ずるがしこく歪む顔が、そう告げていた。

 けれど僕には、いまさら演説なんてする気はなかった。

「どうするの、吉井。少しでも仲間を増やすなら行くべきだけど――」

 木下さんが戸惑いがちに言う。

「ごめん、木下さん。任せてもいいかな。僕は――」

 霧島さんが駆け去っていった、鉄の門扉の向こう側を僕は見つめた。会場の喧騒から忘れ去られたように、扉は開け放たれたままだった。

「今、やらなくちゃいけないことがある」




 新校舎の一階。おそらくは自分たちの教室――3-Aに戻ろうとしていたのだろう、誰もいない寂しげな廊下で、僕は霧島さんを見つけることが出来た。

「霧島さん!」

 呼びかけても、霧島さんは振り向いてくれなかった。幽鬼のような足取りで、ふらふらと歩を進めている。

 追い抜いて、僕は眼前に立ちはだかった。このままにしておけるわけ、ないじゃないか。

「……吉、井?」

 顔を上げた霧島さんを見て、僕の心はずきりと痛んだ。

 霧島さんは泣いていた。真っ赤になった目を潤ませて、それでも涙は零さないよう痛々しいくらいに無表情だ。

「……今は、ひとりにして」

 追いかけて、捕まえて、僕はどうするつもりだっただろう。霧島さんの泣き顔を見て、僕は判らなくなってしまった。霧島さんが体育館を飛び出していったとき、このままにしておけないと思ったのは確かだ。けど、辛い思いをした女の子に掛ける言葉なんて、僕は持っていない。

 雄二のヤツ本当に酷いよねとか、今から殴りに行こうとか――僕がいつもやってしまうような、底抜けのバカみたいな言葉でお茶を濁せばいいのだろうか。元気出してよと、空しい言葉で励ませばいいのか。いやだめだ。いくら僕だって空気くらい読む。辛いときにそんな風に茶化されたら、僕だったらむしろ追い詰められてしまう。

 霧島さんが僕の隣をすり抜けていく。成す術のない僕はただ呆然と見送る――。

「待って、霧島さん!」

 ――そんなわけがないじゃないか!

 言葉が見つからない? どうすればいいか判らない?

 だったら僕は喋り続ける。行動を起こし続ける。拙いし、たびたび失敗もするけど、そんなもの承知の上だ。拙さや失敗を積み重ねて、僕らは大切なものを勝ち取ってきた。

 それはこの学校に入って学んだことだ。僕や、雄二や、秀吉やムッツリーニ、姫路さんに美波、木下さんや霧島さん――この学校にいる全ての人が、去年一年掛けて、確かに学んだことのはずだ。

「あれはきっと雄二の作戦だよ。ごめん、僕たちの喧嘩に霧島さんを巻き込むようなことをして」

 僕は思いつくままに並べ立てた。霧島さんが嫌々をするように首を振る。

「……本当のこと。雄二の言うとおり。私の成績は落ちている。雄二のことばかり、考えていたから」

「成績なんてどうだっていい」

「……雄二は頭の良い人が好き。こんな点数じゃ、雄二は振り向いてくれない」

「霧島さんと雄二は二人っきりでしっかり話すべきだ。どんな気持ちでいたとしても、あんな形でお別れだなんてあんまりだよ」

「……雄二は」

 霧島さんの頬を、堪え切れなかった涙が一筋伝う。

「……もう、私とは話してくれない。きっとさっきのは、雄二の本心。好きだと言ってくれたのも、私から離れていくのも――」

 雄二の本心。霧島さんが好き。だからこそ、彼女の幸せを願って自分は身を引く。自由と普通が欲しいというのが大部分だろうけど、もしかすると、本心というのは本当かもしれない。雄二は、変に気取って、格好付けたがるヤツだから。

 それに、今やるべきことをちゃんと天秤に掛けろという言葉も、決して間違いではない。学生時代に作る財産として、何が一番将来に影響するか考えれば、学力や学歴に勝るものはないだろう。恋も友情はいつだって出来る。高校時代だから特別というわけではない。

 でも――。

 悲しいのなら、誰かが悲しんでしまうなら、それはきっと間違っている。

「……だったら」

 霧島さんの肩を強く握り締めて、僕は言い聞かせるように宣言した。はっとしたように、霧島さんが目を見開く。

「僕が届ける。伝えてみせる。霧島さんの本心を、雄二に。知ってる? 僕らはなんだ」

 木下さんの言葉を借りた。良い言葉じゃないか。愛の擁護者。キューピッド。届けたい想いがあって、でも伝えられずに苦悩する人がいるなら、僕たち対治安維持生徒会ゲリラ戦線はどんな労をも厭わず協力する。

「こんな形じゃ、終わらせない。絶対に」

 僕は近くの空き教室の戸を開いて、霧島さんを招いた。

「だから、聞かせて欲しい。霧島さんの想いを。雄二に届けたい、言葉の全てを」

 霧島さんは少し逡巡した後、目尻を拭うと、確かな足取りで僕に付いて来た。



 ――そこから先は、霧島さんと雄二の人生を物語るかのように、長い長い話になった。

 いつしか集会が終わって、ざわめきが廊下を通り過ぎていく。それでも霧島さんは話をやめなかった。僕は耳を傾け続けた。やがて一時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、そこでようやく霧島さんは話しつかれたように、ほうとため息をついた。

「――霧島さん。必ず届けるから」

「……吉井。ありがとう」

 結局、話し終えても、霧島さんに笑顔は戻ってくれなかった。仕方ないだろう。霧島さんを輝かせられるのは、雄二しかいないのだから。

 教室から霧島さんを送り出す。去り往く小さな彼女の背中を見つめながら、僕は固く拳を握り締めた。

 勝たなくちゃいけない。絶対に。

 三日後――。

 試召戦争が、始まる。





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