秀吉の危機! 常村勇作ふたたび


 学校を出る頃にはすっかり深夜になっていた。もう結局酔ったOLが終電を気にするような時刻だ。

 まったく、こんな夜道に生徒を送り出して何かあったらどうするんだ。

 憤慨しながら真っ暗な校庭を抜けて校門へ駆ける。そこで、あたりを注意深く見回しながらそろそろと歩く人影を見つけた。

「あれ、秀吉?」

 暗闇の中であろうと、肩で切りそろえたあの細やかな髪を僕が見間違えるはずがない。

 声を掛けると、秀吉はびくりと身体を震わせて、ゆっくりとこちらを振り向いた。

「な、なんじゃ明久か」

 僕だと判ると、秀吉は未来を嘱望される薄い胸を撫で下ろして、ほっと安堵の息をついた。驚かせてしまってちょっと申し訳ない。

「どうしたのさ秀吉。もしかして夜道が怖いの?」

 秀吉は幽霊関係に滅法強いはずだ。

 前に学園祭で、僕らはお化け屋敷を巡って上級生と肝試し大会を開いたことがある。互いのお化け屋敷に入り、悲鳴が一定値を越えたらアウトというルールだったのだけれど、秀吉は少なくともホラーな演出には一切反応しなかった気がする。

「怖いわけではないのじゃが! ……ないのじゃが、周囲を警戒しておった」

「どういうこと?」

「……夜道は危ないからのう」

 秀吉が言いよどむ。確かに秀吉なら、僕とは違って夜道の危険度が高そうだ。何せ外見は絶世の美少女なのだから。

「じゃあ、送っていくよ」

 秀吉の隣に並ぶ。相変わらず秀吉は小柄で華奢だ。僕も身長が高いほうではないけれど、目線一つ分秀吉のほうが低い。髪の匂いが漂ってきて、なんともいけない気分になってしまう。

「明久よ、その言葉を向けるべきはわしではない――いや、何も言うまい。今は甘えるとするかの」

 秀吉と帰るのはこれで二日連続だ。補習も受けるものだな、人間万事塞翁が馬とはよく言ったもの――と僕は星のめぐり合わせに嬉しくなる。

「それにしてもずいぶんと遅い時間だね。僕は補習だったんだけど……」

「久々に部活に顔を出したのじゃ」

 昨日も思ったことだけれど、やっぱり秀吉はここ数日部活に出ていなかったらしい。演劇バカの秀吉にはまずありえないことだから、何か悩み事でもあるのかもしれない。

「秀吉、あのさ――」

「なんじゃ?」

 問いただそうとして、止めた。無理に聞き出すことでもないし、もし部活の話なら僕はあまり力になれない。それに、助けが必要なら秀吉自ら相談してくれるはずだ。そう確信を抱けるだけの友情くらい、僕らの間にはある。

「いや、なんでもないよ。で、部活の練習が長引いて?」

「そこまで根は詰めんよ。ただ、部長決済の書類が溜まっておっての」

 それを処理している間につい一眠りしてしまったのじゃ、不覚じゃ、と秀吉は口を尖らせた。

「しかし、こうして並んでおるとまたぞろ生徒会が出てこんかの?」

 辺りを見回して秀吉は冗談交じりに言った。

 いつの間にか寝静まりつつある住宅街に差し掛かっていた。立ち並ぶ家々の灯りは殆ど落ちていて、頼りない街灯だけが点々と続いている。

 この先を進めば広い公園に突き当たる。そこが僕と秀吉の分岐点だ。

「大丈夫だと思うよ。だって、時間が時間だもの」

「流石にあやつらもそこまでヒマではない、か」

「ううん。あんなの、警察はおろか一般住民にさえ、深夜に見つかったら言い逃れできないレベルでだからね。学校が威信に掛けて押し留めてるはずだよ」

「おぬしら本当にシャレにならないことしとるんじゃの……」

 文月学園の実態が外に漏れれば逮捕者を出しかねない。学校という場所が閉ざされた空間で本当に良かった。

 つらつら話しているうちに、公園の入り口まで来てしまった。楽しかった秀吉との夜の散歩もここまでだ。僕は住宅街を抜けていく道。秀吉は公園を突っ切ったほうが近道になる。

「それじゃあ秀吉、また明日」

 手を振ってきびすを返す。一歩を踏み出したところで、背中を引っ張られた。

 秀吉が俯いて、僕の制服の裾を掴んでいた。

 この状況はどうしたことだ――と僕は混乱する。頼りない街灯の下でもじもじする秀吉は、まるで少女マンガのヒロインのような愛らしさだ。全ての倫理と道理に背きかねない魅力を放っている。

 秀吉は目を逸らし、俯き、そうやって長いこと躊躇った後に、最後にじっと僕の顔を見つめてきた。

「の、のう明久よ。もう夜も遅い、いっそ今日はわしの家に泊まっていくのはどうじゃ……?」


  ・ 僕には姫路さんがいるから……

 ニア 欲望のままに抱き締める


 いけない、選択肢が表示されている。このままでは低学年向け少女マンガを一足飛びに追い越して、R-18のギャルゲー展開に分岐しかねない。僕はかつてない懸命さで頭を回転させる。ここは大事な局面だ、判断を誤るな吉井明久――!

 レーティングは大丈夫か? 克明かつ特濃な筆致でベッドの中の秀吉を描いて許されるか? いや、問題があるというならいっそ朝チュンですっ飛ばせば――。

「何故アクセル全開な選択肢を選ぶ前提なんじゃ……」

「思考が読まれてる!?」

 秀吉が冷たい目で睨んでくる。

「いい加減、明久の考えてることなんぞお見通しじゃ」

 腕を腰に回し、呆れたような物言いで秀吉が薄い胸を逸らせる。仕草の一つ一つが愛らしくて仕方がない――。


 ニア もう我慢できない!

 ・  もう我慢ならない!


「くそっ、もはや選択肢に分岐させるつもりがない!」

 煩悶する僕に、秀吉がため息をつく。

「やっぱり止めておくべきかのう」

「そ、そんなことないよ! 僕ほどの安牌は他にはいない!」

 秀吉と一夜を共にする。僕の青春史上類を見ないこのビッグチャンス、みすみすフイにしてたまるものか。

 それに僕と秀吉は掛け替えのない友人だ。異性間で友情は成り立つのかという難解な命題に、僕は今日こそ結論を出してみせよう。

「秀吉は友達、秀吉は友達、秀吉は友達……」

「その葛藤の意味が何となく判るのが嫌じゃのう……」

 ともあれ、僕は秀吉に連れられて薄暗い公園に入っていった。

 ずいぶんと広い公園だ。灯りなんて殆どない。茂みの向こうは完全な闇だ。辛うじて零れ落ちてくる月明かりを頼りに歩を進める。

 がさり、と茂みが揺れた。僕らは咄嗟に身を固くする。けれど、すぐににゃあと可愛らしい鳴き声と鈴の音が聞こえてきた。

「びっくりした、ただの猫だよ、秀吉。――って、どうしたの!?」

「い、いや、ちょっと驚いただけじゃ……」

 見れば、秀吉は僕の腕に取りすがって青い顔をしていた。薄い胸が僕の肘に当たっている。朝方の、姫路さんのソレと比べてしまえばささやかなものだけれど――。

 これはこれで、いいものだ。

「じゃなくって。本当に大丈夫?」

 ここがお化け屋敷とかのデートスポットなら天にも昇る気持ちになれただろうけど、秀吉の怯え方は尋常じゃない。部活に出なくなった秀吉、校門の時からの怯えよう、そしてお泊りの誘い。何かあるのは間違いない。

 やっぱり問い質すべきだろうか――と僕が考えていると、秀吉も隠しきれないと悟ったのか、声を潜めて話し出した。

「実は最近、ストーカーに付きまとわれておるのじゃ……」

 ストーカー。

 思いがけずシリアスな展開に僕は息を飲んだ。秀吉の美貌は人を狂わすと雄二が言っていた。実際僕も危うかった。けれど、本当に狂っちゃった人間が出てくるとは。

 同時に、ここ最近の秀吉の様子にも納得がいった。

 極力明るい間に下校しようとしていたのだろう。部活には出られない。

 僕を泊まりに誘ったのだって、きっと家までのボディガードが欲しかったに違いない。それはちょっとだけ残念だったけれど、頼りにしてくれる分にはありがたいことだ。

「何か被害を受けたの?」

「いや、まだじゃ。ちらちらと視界の隅に映るだけで、直接的には何もしてこん」

 物理的被害がなければそこに罪はない――と断じてはいけない。恐怖だって暴力だ。人を追い詰めるには充分すぎる。

 僕は注意深く辺りを見回した。

 茂みの向こう、何も見えない暗がりの中。こちらを伺うような息遣いが聞こえてくるような気がした。

 ごくりと唾を飲み込む。はっきり言って僕も怖い。でも、恐怖より怒りが勝った。僕は秀吉の手を握り締めて胸を張る。傍らで震える秀吉は、この何倍もの恐怖にここ数日晒されてきたのだ。僕が怖がってどうするんだ。

「秀吉をこんなに怯えさせるだなんて……そんな男、絶対に許せない!」

「なぜ男と断言するのじゃ」

「違うの?」

 ぎりっと秀吉が歯噛みする。犯人は男で間違いないようだ。

「ちなみに、姉上と間違えられているといったこともなさそうなのじゃ」

「その発想はなかった」

「その発想を最初にしてくれんかの、頼むから……」

 うなだれる秀吉を引っ張るようにして僕は歩き出した。

 警戒は怠らない。いつ何時、何が飛び出してきてもいいように、身体と心の準備を整える。そういうことは得意だ。Fクラスに所属していれば、脈絡のない暴力が飛んでくることには慣れてくる。

「でも、もっと早く言ってくれればいいのに」

 僕の腕にしがみついてよたよたと歩く秀吉に、僕はちょっとだけ意地悪を言った。

 もっと早く教えてくれていれば、いろいろな対策を講じられただろう。ムッツリーニも協力を惜しまないだろうし、敵対関係にあってなお雄二も知恵を貸してくれるに違いない。友達の危機に何もしない、そんな人間ではないことだけが僕たちの誇りだ。

 それに僕一人では難しいことも、みんなの力を合わせれば可能になる。例えばストーカーをおびき寄せて、カウンターで血祭りにあげるとか……。

「それも考えたのじゃが、しかし」

 申し訳なさそうに秀吉が弁解する。

「おぬしら、シリアスな展開だと役にたたんのではと思って……」

 ……酷い言われようだ。

 僕らはやるときはやる人間だ。本当だよ?

 じゃが、と秀吉はやっと肩の力を抜いて言った。

「すまんかったの。打ち明けて良かったのじゃ。ほんの少しじゃが、心が楽になった」

「今日だけじゃなく、皆で秀吉を守るよ。雄二ならストーカーを釣りだす良い方法を思いつくだろうし、ムッツリーニなら万全の警戒網も敷ける」

 ……待てよ。

 あれ、僕の出番がないぞ?

「で、明久は傍にいてくれるわけじゃの」

 見透かしたように、秀吉は僕の顔を覗きこんで笑った。

 どきっとした。ちょっと……いや、かなり。

「――もちろん!」

 胸を叩いて言い切って、それから、僕らは慎重な足取りで公園を突っ切った。

 幸い人の気配は感じなかった。

 秀吉も幾分足取りが軽くなって、公園を出てからすぐそこに自宅――というところまで来ると、いつも通りの柔らかな声音で、手間を掛けさせたの、と別れの挨拶を切り出した。

 泊まりだ何だとゴネるつもりは毛頭ない。確かに少し回り道をしたけれど、しがみ付いてくる秀吉と一緒に歩けたとなればむしろ役得だろう。

 けれど。

 そこで終わりとはいかなかった。

 家の門前。薄暗い電柱の影から、ソイツはぬっと姿を現した。

「……遅かったじゃねぇか、秀吉」

 秀吉が小さく息を飲んだのが判った。確かめるまでもない。こいつが件のストーカーだ。

 僕は暗がりに佇む男をつぶさに観察した。

 大柄な身体を、だらしなく着崩したトレーナーやジーンズで包んでいる。目を引くのはツンツン頭の金髪で、見るからにそう――。

 変質者のいでたちだった。



「今の描写のどこに変質者の要素があるよ!?」

 僕の寸感に、男は激昂して声を荒げた。

「家の前で待ち伏せだなんて、ずいぶん堂にいった変態ですね――っと」

 その男に僕は見覚えがある。

 確か上級生だ。雄二と二人で散々コケにした記憶がある。金髪ではなかったはずだけれど、逆立てた髪や下品な顔つき、恫喝するような声音。薄汚れた記憶のドブをさらえば引っかかるだろう。

 ただ名前が出てこない。すぐそこまで出掛かってはいるのだけれど。

「あっ、常夏コンビの!」

「喧嘩売ってんのか! 常村勇作だ! 自分の先輩を忘れてんじゃねぇよ……」

 フルネームなんて意識したことがない。多分今日もすぐ忘れるだろう。

「ちっ、何でお前までいるんだか……。相変わらずムカつくヤツだな、吉井」

 舌打ちひとつ、常村は憎々しげに僕を睨みつけてくる。

 相手は卒業生で、つまりは先輩だ。僕はなるべく敬意を持って返答することにした。

「そっちこそ相変わらずですね。流石のストーカー道です」

「したことねえよ!?」

「秀吉、すぐに警察を呼ぼう。こんなのもう二度と外に出しちゃいけない……!」

「待て、待ってくれ! ストーカーなんかじゃない!」

 相手に付きまとい、幾日も恐怖を与える。これがストーカーでなくてなんだというのか。

 懇願するように常村が両手を挙げる。降参のポーズだろうか、それとも武器は所持していないという意思表示だろうか。

「ストーカーは皆そう言うんだ」

 どちらにせよそんな懇願に耳を貸すわけがない。

 秀吉は僕の手を強く握り締めて、背中に隠れるように身体を小さくしてしまっている。可哀想に、よっぽどのこの先輩が気持ち悪いらしい。

「おおい! 先輩だぞ!? お前たちの! 最近ちょっと大学で上手く行かなくて、思わず昔が懐かしくなったっつーか! ストーカーなわきゃねーだろうが!」

「完全な赤の他人より、かつて面識があった人間こそストーカーになりうるんだ!」

「何でそんなに詳しいんだよお前はっ! ――くそっ!」

 身じろぎした秀吉が通報しているかのように見えたのだろう、常村が慌てたように近寄ってきた。僕は秀吉を守るように、その眼前に立ちはだかる。

 相手は追い詰められている。殴り飛ばされるかも――とも思ったけれど、常村はぐっと唇を噛んで引き下がった。意外な分別だ。人も大学生になれば、ちょっとは理性的になるのかもしれない。

 ――実のところ、今現在の僕らに警察を呼ぶ力はなかった。つまりハッタリだ。僕のスマホは壊れたままだし、秀吉はそもそもケータイすら持っていない。ムッツリーニと同じ絶滅危惧種なのだけれど、仕事のために仕方なくという彼とは違って、単に面倒くさいからというやや自由人気風な理由だったりする。

「話を聞いてくれ、頼む」

 常村が土下座しかねいないほど必死になって拝んでくる。よくよく見れば顔色が少し悪かった。頬は扱けているし、目に生気がない。

 どうする、と僕は背後の様子を伺った。

 秀吉にとっては、とりわけ嫌な記憶しかない先輩のはずだ。告白から始まって、愛のポエムを奉げられたり、恋愛相談の投書を応募したりと、想いを寄せてくる男連中の中でも頭ひとつ抜けて気持ち悪い行動を取っていた。

 ようやく秀吉が顔を上げる。常村に負けず劣らず酷い顔色だ。真っ青で見ていられない。ただ、秀吉の警戒心を解くためなのか、数歩後ろに下がった常村を見て、意を決したように僕の隣に並んだ。

 手は繋いだままだ。指を絡ませて痛いくらいに握ってくる。正気を保つためには必要なのだろう。

「ありがとよ――顔だけでも見れて嬉しいぜ、秀吉」

 ぐすっと鼻を啜り上げて、常村は涙声で言った。

 弱々しさも気障な台詞回しも、やっぱりとことん気持ち悪い先輩だと僕は吐き気を覚える。秀吉も、哀れむより先に拒否感が強いのだろう、繋いだ手にさらに力が込められる。

 どんな代物を繰り出してくるのか、僕らは警戒心を強めた。告白、ポエムと来たから今度は歌でも作ってきたか。その時はすかさず殴ろう、と身構える。

 けれど、それ以上常村は何も言ってこなかった。感極まったのか目じりを拭い、声こそ上げないがさめざめと泣いているようだった。

「あの、常夏先輩……?」

 気持ち悪い先輩の気持ち悪い姿を延々見守り続けるのも気持ち悪い。仕方なく、僕から話を促した。

「常夏じゃねぇ、常村だ。……夏川はいねえよ」

 高校時代、常に常村と一緒にいたのが夏川という先輩だ。坊主頭のインパクトだけは良く覚えている。いつも一緒に行動していたから、てっきり今日も一緒なのかと思っていた。

「今はきっと、サークルの友達とよろしくやってんだろう。……俺とは違ってな」

 自嘲気味に笑う常村の姿に、いつぞやの雄二の言葉が蘇ってきた。

 大学デビュー失敗だ――。

 何があったか僕は容易に想像できた。確かこの先輩は、高校時代には理数系ではトップクラスの実力者だったはずだ。文月学園は中々の進学校で、天下に名を馳せる有名大学へ進む人も珍しくはない。

 ちゃんと追いかけたわけではないけれど、きっと常村も偏差値の良い理数系大学に進んだはずだ。そしてその場所で、何を間違ったかまるで一昔前のヤンキーみたいな格好をしてしまった。金髪に染め、さらにレイヤーなんかを入れて。本人はオシャレに気を使ったつもりなのだろうけど、もともと強面の顔でそんなことをすればどうなるかは目に見えている。

 良いとこの大学で、しかも理数系と来れば、気風は比較的おとなしいものになるはずだ。ヤンキーのパチモンが距離を置かれるのは当然の帰結といえた。

「常夏――夏川先輩は別の大学に?」

「ああ。俺のほうが大学の偏差値が高いって、ちょっと見下してたんだけどな」

「ゲスだ……」

 偏差値だけでモノを語る人間にはなりたくない、と僕は目の前のゲスを反面教師にしようと心に誓う。

「でも今じゃ、俺より夏川の方が楽しい青春送ってやがる。今になって思うんだ、アイツはすげぇって。空気を読んで、あいつは恥を捨てられるからな。俺はあそこまでは堕ちれない……」

「もしかして仲悪い……?」

 僕も何とか夏川の記憶を掘り起こす。澱みのほうにおぞましい映像が引っかかって、ああ確かに、と合点がいった。

 夏川は坊主頭にブラを乗せたり、ゴスロリ服を着込んで登場したりと、僕ら下級生に甚大なトラウマを植え付けた伝説の先輩だ。人間として最低限の恥を捨てられるあの先輩を僕らは心の底から軽蔑していたけれど、高校より広い世界に出るとそうした恥の捨てっぷりは大きな武器になるらしい。

「お前たちの想像通りさ。俺は大学で友達がいねぇ。ぼっちだよ、ぼっち」

「便所メシ……ですか」

「そこまでじゃねえけど! メシくらい学食で食うけど!」

 学食で一人というのも哀愁を誘うけれど。

「それで、秀吉……ですか」

「――学校行くのも嫌になっちまってな。このままじゃ良くねえよなとか、何でこんなことになっちまったんだとか考えてるうちに……足がこっちに向いてたんだよ」

 高校時代は良かった、と常村は懐かしむ目で僕らを見つめた。

 散々喧嘩した。友達もいた。恋もした。少なくともぼっちではなかった。

 だから、その中でももっとも輝かしい青春――秀吉を求めて彷徨っていたらしい。

「悪くねぇ思い出だよ。ムカつくが、お前達とのことも含めてな」

 秀吉が冷えた声で「迷惑なのじゃ」と呟いたのは、あえて伝えないでおこう。

 知ってか知らずか、常村は深々と頭を下げて、秀吉に謝罪した。

「悪かった、秀吉。怖がらせちまったみたいで……」

 秀吉は困ったように僕を見て、それから常村を見て、そして、観念したかのようにほうと吐息を吐いた。

「そういうことなら、仕方あるまい。あまり付きまとわれるのは迷惑じゃし、告白などというのも金輪際辞めて欲しいが……演劇部の公演を見に来る程度なら、よいぞ」

 ぐすっ、と大きく常村が鼻を啜り上げる。

 良い話だ。道に迷った亡者が、懺悔の先に許しを得る物語。一大巨編じゃないかと、僕までもらい泣きしてしまいそうだ。常村先輩――ちゃんと先輩をつけるべきだろう――の未来に幸あれかしと僕は祈った。

「ありがとうよ……必ず見に行く。バラの花束を抱えて、な」

 ほんとに判っているのだろうか、このストーカーは。

「っと、悪い、また怯えさせちまったか……? 安心してくれ。もう言い寄ったりはしない。――今日お前たちを見て、諦めもついたからな」

「へ?」

 つき物が落ちたかのような朗らかな笑顔で、常村は僕たちの繋いだ手を指差した。

「――付き合ってるんだろ、お前達」

 まずい、また秀吉の体温が下がっていく。でも、これはチャンスだと僕は咄嗟に判断し、口を開きかけた秀吉を遮るように身体を割りいれた。

「その通りです。誰にも言わないでくださいね」

「明久っ!?」

 不満顔の秀吉に僕は目配せをする。ちゃんと考えがあるんだというのが伝わってくれたのか、秀吉は渋々ながら引き下がった。

 そう、これはチャンスだ。秀吉に恋人がいると理解すれば、常村先輩も言葉通り一切の付きまといをやめるだろう。再び道に迷ったとしても、秀吉には戻ってこなくなる。

 誤解も使い道次第だ。

「へっ、やっぱりそうかよ……。これで俺も、ようやく失恋できたってわけか」

 何度も断ってたと思うんじゃが、と秀吉がぶつくさ言っている。なんだかんだ、やっぱり気持ち悪い先輩だ。

「用は済んだ。帰るとするわ。――秀吉を大事にしろよ、吉井」

 くるりと背を向けて、どこか身軽な足取りで先輩は遠ざかっていった。

 その途中で、先輩はふと何かを思い出したかのように僕らを振り返る。

「そうだ――これは先輩からの忠告だ。ありがたく聞けよ」

 常村先輩は、ごほんと気恥ずかしそうに咳払いをして、どことなく気障っぽく、僕らを指差して声を張り上げた。

「お前ら、勉強ばっかりしてんじゃねえぞ。一生のじゃなくていいから、友達作れ。全国大会とまでは言わないが、部活頑張れ。フラれてもいいから、恋愛しろ。人生にはそっちのほうがよっぽど大事だ。きっとな」

 意外なほど――そう、いがみ合っていた先輩からの言葉とは思えないほど素直な気持ちで、僕は常村先輩の言葉をかみ締めた。いろんな金言が含まれているような気がしたから。

 補習室で鉄人は力説していた。恋愛なんて卒業後でも出来る、と。それはきっと、恋愛に限らない。部活に打ち込むことも、友情を育むことも、卒業後にいくらでも出来る。そう考えてしまえば、高校時代にしか出来ないのは高校の勉強だけだ。

 でも、他でもないその高校時代に、部活に打ち込み、友情を育み、恋愛する――その経験こそが大事なんじゃないか。拙いままに、不器用なままに、試して、失敗して、時には成功することが、僕らには必要なんじゃないか。

 常村先輩はきっと、高校時代にその経験をしたのだ。だからあんなにも意気揚々と歩いていける。

「先輩……! 今後はどうするんですか!」

 思わず、僕は歩き出した常村先輩の後姿に問いかけていた。優しくも逞しい姿に、僕は初めて心から先輩、と呼んでいた。

 先輩のぼっちが消えたわけじゃない。先輩の悩みが無くなったわけじゃない。自分の気持ちに決着をつけたところで、周囲の環境が変わるわけでもない。そんな場所に戻って、先輩はどうしようというのだろう。不安はないのだろうか。

「そうだな、まずは髪を黒に戻して……」

 けれど、常村先輩は来たときとは明らかに違う軽妙さで、不恰好な金髪を撫でて笑った。

「ブラでも被って、登校するさ」

 やめてください。




「ともあれ、一件落着……じゃな」

 常村先輩が見えなくなってから、秀吉は大きく息を吐くと、僕に咎めるような視線を向けてきた。

「まったく、わしが明久と付き合っておるなどと……」

「あの時は押しきっちゃったほうがベストだと思ったんだよ」

 秀吉がやれやれと肩を竦めて、

「仕方ないのう。まあ、言いふらすとも思えんし、今回は見逃すとするか。それに、なんだかんだ助かったのじゃ。感謝する、明久」

 その後はちょっとだけ押し問答が続いた。

 気にしなくていいよとか、いやそれではわしの気がすまんとか、そんな微笑ましいやり取りだ。

「それはそれとして……」

 それらの会話を棚上げにして、僕は手に視線を落とす。

 ひとつだけ問題が残っていた。秀吉が、まだ僕の手に指を絡ませたままだったのだ。

「それがのう……」

 困ったように笑って、秀吉は自分の前腕を揉んだ。

「緊張で力が入りすぎてしまっての……指が動かんのじゃ」

 ためしに人差し指をつまんで開こうと試みる。まったく動かない。まるで石か鉄で出来ているみたいだ。

 手が剥がれなければ家に入ることも出来ない。僕らは秀吉の家の塀に背中を預けて、しばらく休むことにした。

「しかしアレじゃな、こんなところを人に見られたら、常村ではないが誤解されそうじゃのう」

 その誤解はちょっとだけ嬉しかったりもする。だって隣に秀吉だよ? 大概の男ならむしろ誇らしく感じるだろう。

「姫路などに見られたり……でもかの?」

「やめてよ秀吉。シャレになってない」

「これはスマンかった」

 意地悪そうに秀吉は頬を緩ませた。その仕草はとても可愛くて、僕は全世界に向けて自慢したい気持ちで一杯になるのだけれど――今夜のことは二人だけの秘密だ。

「折角綺麗なお話で終わるんだからさ。いつもドタバタなんてしてられないよ」

「まったくじゃ。わしらには珍しいほど――そうじゃな、ハートフルじゃった。わしとしては少々胆が冷えたが」

 いつもはここで、異端審問会が現れたり、美波や姫路さんに目撃されたりしてしっちゃかめっちゃかになる。

 けれど、もう深夜だ。日付を跨ぐ時間帯。余計な闖入者はありえない。このまま今日を終えよう。常村先輩の言葉と秀吉のぬくもりをかみ締めて今日は寝よう――。

「ずいぶん遅かったじゃない、秀吉――と吉……井……?」

 ――そうきたか。

 わが身を呪いながら、僕は恐る恐る声のした方向に首を回した。

 玄関から姿を見せたのは、秀吉のお姉さん――木下優子さんだった。家の前が騒がしいので、不審に思って見に来たのだろう。

 木下さんのオフ姿を見るのは初めてだった。学校で見かけるような、ちゃんとアイロンの掛かった制服姿とは正反対に、今は中学時代のヤツと直感できる少し寸詰まりの緑色のジャージに身を包んで、ずいぶんとリラックスした格好をしていた。

 木下さんは僕らを見咎めると、目を見開いてわなわな震えだした。

「な、なんなのあんたたち……」

「――! 木下さんストップ! ゆっくりとそのスマホから手を離すんだ……!」

 怯え、竦みながらも、木下さんの右手がポケットに伸びる。それを許すわけにはいかない。こんなことが前にもあった。そのときは酷い目に遭ったものだ。同じ過ちを繰り返してなるものか。

「木下さんはきっと誤解してる! 説明させて欲しい!」

「そうじゃ姉上、わしと明久はその――姉上が想像するような関係ではない!」

 僕らは冷たいアスファルトに正座して、決死の懇願を試みる。

 救いなのは、木下さんは決して怒っているわけじゃないということだ。むしろ幾分、いつもよりは柔らかい表情を讃えていて、僕たちのどんな弁解だって受け入れてくれそうだ。

 目尻を拭って、木下さんは微笑む。

「いいのよ、秀吉。私たちは姉弟じゃない。安心して、私――そういうのには理解があるから」

「じゃからその理解が間違っておるのじゃ!」

 だめだ、その受け入れ幅じゃ広すぎる。

「秀吉……いえ、秀松とアキ松……これはウケるかも! いける、一万PV!」

「小説化はならんのじゃ! パクりは良くないとかそういう以前に、わしらをそのカテゴリに入れるのは……!」

 木下さんはどこか嬉しそうだ。僕と秀吉と――

「だって、秀吉。この期に及んでまだ手を離さないなんて」

 二人の間の恋人つなぎを見て顔を赤らめる。

「そんなのもう、じゃない!」

「あんまりなのじゃあ!」

 秀吉が絶叫した。

「指があるからいかんのじゃ……こんな指などあるから……」

「もうやめて秀吉! そこは関節じゃない!」

 秀吉の指からバキリバキリと恐ろしい音が響いてくる。もはや痛みすら感じていないのかもしれない。

 でも、そんな僕らの尋常でない様子が辛うじて伝わったのか、木下さんはスマホに指を置きながらも情報の拡散だけは思いとどまってくれた。LINEでもツイッターでも……こんな姿が暴露されれば、僕らは炎上してしまう。物理的に。

 さて――。

 深夜零時、午前様。手を繋いで帰宅。見咎められても解けない指と指。

 問題は、この状況にどう理解を求めるべきか、なのだけれど。

「…………くっ!」

「確定ね……」

「諦めるでない、明久――姉上も! 後生じゃから撮影は止めて欲しいのじゃ!」

 フラッシュが瞬く。木下さんが恐るべき親指の速さでフリックを始める。みるみるうちに僕らの誤った既成事実が文章化されていく。

 だって無理だよ。こんな決定的な現場を押さえられて逃げられる社会なら、ヤ〇チもベ〇キーもあんな可哀想なことにはなってないよ!

「待つのじゃ姉上! 最初から順を追って説明する! じゃからどうか、LINEもツイッターも止めてくれまいか……!」

「秀吉……」

 姉弟の絆、というやつだろうか。哀れすら誘う秀吉の土下座に、ギリギリのタイミングで木下さんはみたびスマホから指を離した。

「姉上。落ち着いて良く聞くのじゃ」

 誤解を解く時は、とにかく冷静に、相手の目を見て、丁寧かつ根気強く語りかけることが大事だ。秀吉はそれを知っている。

「わしが明久を家に泊めようとしたのは――」

 ピッ!

「わしとしたことが!?」

「秀吉のバカァ!」

 本音の部分では、最後までストーカーの存在を隠したかったのかもしれない。自分と容姿を同じくする姉よりも、自分のほうが男に人気があるというのを秀吉は気にしていたから。

 すでに木下さんのスマホからは、ピコーンピコーンと僕たちの絶望を告げる返信の音が鳴り始めている。木下さんの交友範囲は広い。どんな媒体にしろ――明日から僕たちは謂れのない迫害を受けることになるだろう。

「あ、瑞樹? うん、そうなの――」

 僕の身体が、今一番聞きたく名前にびくりと震えた。

「――そうよ吉井とうちの秀吉が――これはもう事後――でも私は応援――悪いけど瑞樹――」

 零れ落ちてくる会話から、事態はすでに取り返しのつかない所まで進んだと判断する。なんとか割り込んで、せめて姫路さんの誤解だけは晴らしたい。

「吉井と? 話したい?」

 願いが届いたのか、その機会は早々に訪れた。木下さんが渋々といった様子でこちらにスマホを向けてくる。ビデオ通話だ。ありがたい、言葉では説明しきれないから、ちゃんと顔を見て話したかったのだ。

「姫路さん。いろいろ間違った情報が伝わってると思うけど――」

『明久……君……』

「…………。うん」

 底冷えのする声に僕は押し黙った。こちらの様子も相手に伝わっている。つまり僕たちの恋人つなぎも見られてしまったことになる。これでは木下さんの情報に裏づけを与えるだけだ。

『木下君はラスボスだって思ってましたけど……予想以上に早かったですね』

「姫路よ、誤解なのじゃ! 姉上に何を言われたのかは判らんが、決してそのような――」

『手』

「…………。はい」

 秀吉が死を覚悟した潔さでうなじを差し出した。介錯を待つ罪人のようにも見えて、まるで忠臣蔵の吉良上野介だった。次の公演には参考になるかもしれない。それまで生き延びていられればの話だけど。

『――なんて。そんなに怖がらないでください。優子ちゃんはいろいろ言ってましたけど、おおよそ状況は判りました。繋いだ手が離れない、そうですね? 安心してください、いい方法があるんですよ』

 もうここで首を落としてくれといわんばかりに沙汰を待っていた僕らに、姫路さんは一転して、朗らかな声音を掛けてくれた。

 姫路さんは聡明で思慮深い人だ。決して誤謬を犯すような失敗はしない。

「姫路さんを好きになってよかった」

 だから僕は本心から言った。

『もう、何を言ってるんですか明久君! 私だって少しは怒ってるんですよ。相手が木下君だと聞いて、とっても心配したんですから』

 可愛らしく頬を膨らませる姫路さんに、僕は安堵の息を吐く。秀吉は何か言いたそうにしていたけれど、さっきの大ポカもある。ここはおとなしく、姫路さんの温情に縋ろうじゃないか。

「で、どうすればいいのかな姫路さん。秀吉、まだ関節が動かないみたいなんだけど」

『ええ。水酸化ナトリウムをかければするり、ですよ』

「「…………」」

 聞き間違いだろうか。とても猟奇的な光景が目に浮かんだ。

「あの、姫路さん? 確か水酸化ナトリウムって、強塩基だよね? それだと、骨から肉がずるり、だと思うんだけど……」

『すごいです明久君! 本当に勉強してるんですね! 実は酸性のものより、アルカリ性のもののほうがタンパク質を良く溶かすんですよ。授業で習う、加水分解ですね。だから、時間は掛かりますけど、ゆっくり丁寧に刷り込んでいけばみたいに――』

「くそっ! 動けっ……! 動くんだ……!」

「根元からじゃ! 容赦なく根元から外して構わん明久! 二人の力を合わせれば関節くらい……!」

 姫路さんのお褒めの言葉なんて聞こえない!

「――取れた!」

 何がどのように、とは言わないでおこう。ただ、秀吉だけに痛い思いをさせたわけでないことはちゃんと付記しておく。僕の指だって――うわぁ……。

 ともあれ、これで当座の危機は去った。改めて僕たちは地面に手を突き、深々と額を擦り付ける。

「姫路さん、このとおり、僕たちにやましいことなんてなにもないんだ」

『明日学校に持って行きますね』

 もう繋いでいようが離れていようが関係ないらしい。

 いっそ秀吉と二人っきりで地の果てまで逃げ出したい、と僕は思った。そういう人生もあるんじゃないだろうか。ちらりと秀吉を伺うと、秀吉も虚ろな瞳でこくりと頷いてくれた。夜逃げ、駆け落ち、逃避行。僕たちにはそれしかないのか――。

「そんなのダメよ、瑞樹」

 破滅を望むギャンブラーのごとくレーティング対象年齢をぐいぐい上げていく姫路さんに、敢然と立ち向かったのは木下さんだった。双子の弟を加水分解すると聞いて、黙っていられるはずもないだろう。

「姉上……」

「そんな顔しないの、秀吉。お姉ちゃんって呼ばれてた頃、思い出しちゃうじゃない」

 ふふ、と懐かしそうに木下さんは笑った。頼もしい。僕にも姉さんがいるけれど――そうだ、幼い頃は僕の姉さんも、こんな優しい顔をして助けてくれた。

「いい、瑞樹。秀吉には手を出させないわ。判ってくれるかしら――恋にはいろんな形があるの」

 くっそう、ここは末法の世か。行くも地獄、戻るも地獄だ。

『敵と……なるんですね、優子ちゃん』

「貴女とはもっと別の形で知り合いたかった……」

『判りました。優子ちゃんが立ちはだかるというのなら――私も全力でお相手します』

「ええ。恨みっこなしよ!」

 宣言と共に通話が打ち切られた。もう引き返せないところまで来てしまったと、僕は悟る。当事者を完全に無視する形で話は動き出したらしい。

 やり遂げた、といわんばかりに、木下さんは額の汗を拭った。

「さあ忙しくなるわよ、秀吉、吉井。――恋愛解放戦線だっけ? 私も貴方たちに力を貸すわ!」

 モウダメダ――僕の嘆きに呼応するように、秀吉が力なく胸に崩れ落ちてきた。

「もうどうにでもなれ、なのじゃ……」

 同感だった。



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