狙われた明久! 殺し屋ファイターの必殺弁当②


 お昼休みがこんなに待ち遠しかったことは今までなかった。

 チャイムが鳴り、いつもどおりビニール袋を下げてやってきた秀吉とムッツリーニに、僕は姫路さんから頂いたお弁当をでんと見せびらかすように机の上に乗せた。

「今日はちゃんとした弁当じゃのう。明久が自分で?」

「まさか。なかなかそんな時間は取れないよ」

 早起きして数百円のお昼代を浮かせるより、五分でもいいから長く眠っていたい。料理は数少ない僕の特技のひとつだけれど、あまり生活に活用できているとは言いがたい。

「…………お姉さん?」

 ちなみに僕の姉は料理が下手だ。最近はそこそこ食べられるものを作れるようになってはきているけれど、お弁当となると勝手が違うのか、大分苦戦している。それに姉さんだって仕事をしているから、朝の忙しい時間に負担をかけたくはなかった。

 僕は自慢げに胸を逸らせて、このお弁当の出所を高らかに宣言する。

「姫路さんから貰ったんだ」

「なるほど、姫路も頑張っているみたいでなによりじゃ(しゅー……ごー……)」

「…………そんなに想われる明久が羨ましい(コー……ホー……)」

「防護服を脱いでから言うんだ二人とも」

 いくら姫路さんでも常温で気化するようなお弁当は作らないよ。多分。

「それに、姫路さんもいい加減気付いてるしね」

 今朝方のことを二人に話す。今までごめんなさいということや、美波や霧島さんの協力を得ていることなどを。

「それならご相伴に預かろうかのう。明久が食べてからじゃが」

「…………卵焼きがあれば欲しい。明久が食べてからなら」

 これまでがこれまでなだけに、二人の警戒心がすっきりなくなるというわけではないけれど、とりあえず防護服を脱がせることには成功した。

 ワクワクしながら蓋を開ける。

「「「おおっ!」」」

 僕らの声が揃った。

 卵焼き。ハンバーグ。ウインナー。ご飯に梅干。

 オーソドックスなお弁当そのものといった食材が綺麗に区画整理されている。

 小ぶりだけど形のいい食べ物たちは、まさに輝いているように見えた。

 ――困ったことに、

「……これはっ……黄金……!」

 卵焼き。ハンバーグ。ウインナー。ご飯に梅干……。

 その全てが金属質な黄金色のきらめきを放っているのだ。箸でつついてみると、とてもじゃないが食べ物の感触ではないカツンカツンという音が響く。

 ――今までは失敗作でした――いろんな料理本を研究――今回はちゃんと成功――伝統料理、です――。

「そうか、錬金術!」

 姫路さんの言葉を反芻し、ようやく僕は結論に至る。たしかにこれはだ。

 こんな話を知っているだろうか。化学は台所から生まれた、というたとえ話だ。

 中世、最先端の「科学」とされたものが錬金術だ。科学者――錬金術師は文字通り金を生み出す術を捜し求め、あらゆる素材や鉱物を加熱し、冷却し、混ぜ合わせた。今でこそ迷信やオカルトチックに語られ、もはや物語の中にしか登場しないジャンルだけれど、当時の錬金術師たちの試みは僕たちに「化学」の基礎を残した。

 それらの工程が調理に似ているさまから、化学は台所から生まれた、と表現されるのだ。

 ちなみに、錬金術が過分に神秘的な色合いを帯びているのは、当時の学問全体を覆っていた世相のせいにあると僕は思う。当時の学問は全学的で、そもそもが精神世界に大きく切り込む手段として発展していった経緯を持つ。今のジャンル分けでは自然哲学と呼ばれているけれど、数学や物理、天文学や医学、そしてもちろん化学は、それらから分派していった一ジャンルに過ぎない。

 ともあれ。

 どうやら姫路さんは、その自然科学のジャンルにおいて成しえなかった超常現象を、現代に実現してしまった可能性がある。でも……。

「何故だ、むしろ食べ物からは遠ざかっている……」

 そもそも原料はなんだろう。卵焼きに見えるこの輝く板金に、果たして鶏卵は用いられているのだろうか。

「…………売って銭に替えたほうが良いのでは」

 ムッツリーニが酷いことを言う。乙女心の詰まったお弁当がお金に換えられるわけがないじゃないか。まさか本当に金塊一山いくらと比べることになり、心が揺れないわけではないが。

「で、でも大丈夫。これならイケるよ!」

 僕は覚悟を決める。固形物というのがギリギリの救いだ。飲み込むことは不可能ではない。翌日のトイレが不安ではあるけども。

「勇者じゃの、明久」

「…………流石にその発想はない」

 僕の愛の深さに恐れおののく二人を尻目に、水筒を開けて中身をカップに注ぐ。要はでっかい錠剤だと思えばいい。楽勝、楽勝――。

 が、水筒から零れてきた液体を見て僕は絶句する。粘性を帯びた真っ赤な物質が、固まるでもなく、溶けるでもなく、ぽとりとカップに落ちてきたからだ。

「ほう、賢者の石エリクサーか。姫路も粋なことをするのう」

「…………HPだけでなくMPも回復できる」

「素材はきっと硫化水銀だよ畜生!」

 硫化水銀は真っ赤な鉱物だ。辰砂とも呼ばれ、赤を尊いものとする古代中国ではまさしく不老不死の霊薬として用いられた。超高温で加熱すれば、とても簡単な化学式の通り、二酸化硫黄と水銀とに分離する。水銀からは酸素の発見に繋がる研究がなされたり、物理の分野では水銀柱から真空の存在を明らかにしたりと、人類の科学に大きな貢献を果たしている。

 ちなみに超ド級の神経毒だ。主に中枢神経、つまり脳脊髄目掛けてアグレッシブに攻撃を仕掛けてくる。有名どころでは秦の始皇帝がこれを飲んで寿命を縮めた。日本ではメチル水銀による公害が二つ、熊本と新潟で起こっている。いわゆる水俣病だ。

 長々と語ったけれど、つまり。

「いけない、これはいけないよ姫路さん……」

 こればっかりは飲む勇気が湧かない。コメディの域を超えてしまう。

「せめてお弁当だけに絞ろう……」

「まだ攻めるのか!? もう良いのじゃ明久、箸を離せ! いまここで死ぬ必要はないのじゃ……!」

 流石に秀吉が色をなして止めてくる。

「そうだ秀吉! 豊臣秀吉は金箔を食べていたらしいよ! 秀吉もどうかな!」

「金箔と金塊はモノが違いすぎるじゃろう!?」

「ムッツリーニ! おいしそうな卵焼きがあるよ!」

(御用の方は発信音の後にメッセージを……)

 ちぃ、ムッツリーニは逃げたか。

「南無三……!」

 意を決して、卵焼きのような金色の物質を口内に入れる。ひんやりつるつる、もう食感とはいえない舌触りだ。

「ど、どうじゃ?」

「舌の上で――大トロのようにすぅっと溶けて――これは――痛い――」

「明久ッ! いかん、瞳がぴるぴるし始めとるのじゃ! 誰か……!」

「أكره الخطيئة لا إثم」

「アラビア語では判らんのじゃ! 水か!? 賢者の石か!? 今すぐ練成してやるから気を確かに持つのじゃ……!」

 違うよ秀吉。これは呻き声だよ。それと今すぐその賢者の石から手を離すんだ。人類にはまだ早すぎる……。

 最後にそう伝えたかった。でも伝えられなかった。

 激痛の中で僕の意識は遠のいていったから。

 二日連続、秀吉の声を聞きながら、僕は瞼を閉じた。



「補習室へようこそ」

 目覚めると鉄人と二人っきりだった。

 咄嗟にダッシュを試みて、しかし手足が電気椅子に座る死刑囚みたいに鉄輪で拘束されていることに気付く。

「くっ、これでは……!」

「いきなり逃げようとするなバカモノ。三日連続で補習をサボりおって、今日という今日は利子をたっぷりつけてお前に勉強を叩き込んでやる」

 周囲を見回す。補習室だ。窓からは赤い光が差し込んでいた。もう夕暮れ時になってしまったらしい。

 どうやら昼休みに気絶して、そのままここに運ばれたようだった。保健室じゃない辺りにこの学校の闇を感じずにはいられない。

「観念して俺の授業を受けろ。まずは数学から――」

「その前に、鉄じ――いえ、西村先生」

 逃げ出すにはまずこの拘束を解かなければ始まらない。

 放課後、僕には予定があるのだ。生徒会の妨害を撥ね退けて、姫路さんに朝の続きを伝えるという大事な予定が。

「ちょっと尿意を催してしまいまして。まずはトイレですっきりしてから、集中して勉強すべきなんじゃないかと僕は思うのです」

 そのためなら何でもする。這い蹲って靴を舐めてでも、鉄人に媚を売らなくてはいけない。どんな厳しい人間だって生理現象を咎めるのは気が引けるはずだ。脱獄に散々用いられてきたであろう古典的な手法だけど、その分成功率は高い。

「なんだ、そんなことか。ちゃんと配慮はしてある」

 ドン、と目の前に置かれたのは空のペットボトルだった。

「この配慮はいやだよ鉄人! せめて500mlにしてよ! なんで275mlサイズなのさ!」

「安心しろ。――手が使えない分は俺が介助してやる」

「その優しさは不要だっ! 人間の尊厳を失いたくない……!」

「どうしてもというならオムツを履かせてやる。こら暴れるな、パンツが脱がせにくいだろう」

「ペットボトルで良いです! 僕は生まれて以来ボトラーです!」

 鉄人の目が据わっている。四肢が絶対に自由にならないことを僕は悟った。僕の介助すら辞さない覚悟でこの補習を貫徹するつもりらしい。

「……なあ吉井」

 ふとした拍子で外れてくれないかと椅子をガタガタ揺らしていると、鉄人が大きなため息をついて、いつになく真剣な顔つきを寄せてきた。威圧感がすごい。

「お前、そんなに勉強が嫌か? 何かを知り、学んでいくことが、逃げ出したいほど嫌いか?」

 嫌だ――と答えかけて、言葉に詰まる。

 最近はそれほどでもない。じっと静かに教科書を読んだり、同じ文字を繰り返し繰り返し覚えたり、暗号みたいな計算を続けたりといったことが苦手なだけで、好奇心自体は去年より増しているとは思う。

「……今は、前よりかはマシ、です」

 でも、それは雄二を打倒せねばならないという義務感に突き動かされてのことだ。断じて鉄人が行う強制補習が好きになったわけではない。

 その辺のニュアンスを察したのか、鉄人は僕の目の前に腰を下ろし、まるで生徒指導の時のような長期戦の構えを見せた。

「お前が今、校則を変えようと動いているのは知っている。そのおかげで、多少成績が伸びたこともな。悪いことじゃない」

「だったら鉄人からも学園長に言ってください! あの校則は現代日本にあるべき代物じゃないでしょう!」

「俺は、あの校則自体はあっても良いと思っている。もちろん程度によるがな」

 ショックを隠せず、思わず僕は鉄人を睨みつけてしまった。

 鉄人は生徒指導も時折担当する。問題児である僕から見ればただ怖いだけの先生だけれど、ごくごく一般生徒からは「大らかだ」と評判なのだ。生徒側に道理があればちゃんとそれを尊重してくれる。鉄人とはそんな教師だったはずだ。

「そんな怖い目をするな」

 珍しく傷ついたように眉を顰めて、鉄人は腕を組む。

「学生恋愛の禁止、か。確かに今時分の学校教育ではありえんな」

「だったら!」

「まあ聞け。恋愛は確かに、学生にとっては必須かもしれん。同じ大学に入りたいとか、そういう方向でモチベーションになることもあるだろう」

 鉄人は言葉を濁すけれど、恋愛は間違いなく力の源になると僕は信じている。そりゃあ、たまにはヨコシマな感情が入ってしまって問題になることもあるだろうけれど、だからといって恋愛要素の全てが悪いとは絶対にいえないはずだ。

 学生は学校の偏差値や合格率を上げるための勉強マシーンではない。鉄人だけはそれを理解してくれていると思ったのに。

「だがな、吉井。恋愛はコントロールが効かん。プラスに働きもすれば、マイナスに働くこともある。――そうだな、実名は出さんが、幾名か成績が落ちたものもいる」

 自己責任で片付けるほど、我々は無責任ではいられないのだ、と鉄人は付け加えた。

「ならば、学校教育の場として、出来ればそういう不確定要素は排除したいと思うのは当然だと思わないか? 恋愛は卒業してからでも出来る。今は勉強に打ち込んで欲しい、と俺たち教師は思うんだ」

「理屈は……わかりますけど」

「判るなら、まあいいだろう」

 ふっと笑って、鉄人は立ち上がった。この話はこれで終わりにしよう、という意味だろう。

 でも、僕は反論を止められなかった。

「僕たちは良い点を取るために学校に来ているわけじゃないはずです……!」

「……せめて良い点を取るために、と表現してくれないか。何のために授業しているかわからなくなる」

 即座に注釈を入れられてしまった。

「良い点を取るためだけに、学校に来ているわけじゃないはずです……!」

 テイク2は上手く行った。

「もっと学校では、いろんなことを学ぶべきだと思うんです」

 それは恋愛に限らない。努力とか友情とか勝利とか、そういうものだって大切なはずだ。

 烈火のごとく怒られるかと思ったけれど、鉄人はこくりと大きく頷いてくれた。

「吉井の言うとおりかもしれんな。生徒が良い点を取れるようにするだけが教育ではない。そうだな、その言い方なら俺は――学ぶことを楽しめるように、生徒を導いてやりたいと思う」

 言ってから、鉄人は珍しくそっぽを向く。照れているらしい。

「あんまり人に言うんじゃないぞ。こういう夢を語るのは、いくつになっても恥ずかしいからな」

 勉強が好きだなんて、そんなヤツ本当にいるのだろうか。姫路さんや霧島さんの顔が思い浮かんだけれど、彼女たちは勉強が大好き、といったタイプではなさそうだ。そもそも頭が良い。頭が良いから勉強が苦にならない、というのが本当のところではないだろうか。

「頭が悪いから勉強が苦手だ――と、そんな風に考えているんだろう」

 見透かしたように鉄人が肩を竦めた。

「違うぞ、吉井。学ぶことに、頭の良さなんぞ関係ない。お前は確かにバカだが、頭の良し悪しとは別の意味なんだ」

 そうなのか。てっきり成績が圧倒的に悪いからバカにされているのかとずっと思っていた。

 鉄人は優しげに微笑んで、僕の肩をぽんぽん叩く。

「お前のバカは人間性だ」

「それもっと酷いよね!?」

 壮絶なディスられ方だ。

「そうだな、学ぶことを楽しむ実例か……。吉井、お前は歴史がそこそこ得意だったろう?」

 一切のフォローを入れないまま、鉄人は話を先に進める。

 確かに僕は歴史を得意科目にしつつある。年号をそっくり覚えるのは未だに苦手なのだけれど、一方で人物の逸話やエピソードは頭に入りやすいし、それ自体が面白い話も多いから読むのが苦にならない。あれとこれがこう繋がるのかといった驚きが得られるのは歴史だけだと思う。

「確かに楽しいけど、歴史だから出来ることで……」

「考え方を変えてみろ。他のものも歴史だと思えばいい」

「無茶すぎるよ鉄人……」

 国語の古文ならともかく、数学科学などは文理に大きな壁がある。歴史のように面白いエピソードで覚えていく方法も通用しない。

 僕の呆れ顔に、しかし鉄人は自信ありげに言い切った。

「実はそんなに無茶ではない。高校で習う学問なんぞ、全て歴史の記述に過ぎないからな」

 今では「誤りである」とされた当時の常識が載っていないだけだ、と鉄人は続ける。

「学校教育とは要するに、人類が積み重ねてきた子供のような問いかけと、意地の悪い大人がこねくり回した解答の集積に過ぎない」

 石が下に落ち煙が空に昇るのは、物質がそうあろうという性質を持っているからだ。

 数学の始まりは幾何学だ。単純に、田畑を正確に分ける必要があったからだ。

 化学の基礎は錬金術だ。蒸発が魂の解放と思われたので、そうあろうという性質を分離して形にしようとしていたのだ――。

 そのような逸話を鉄人は幾つか披瀝した。壮大な話過ぎて目が回りそうだ。

「お前は歴史を、流れで覚えているだろう。エピソードとエピソードを繋げて、物語のように頭に入れていく」

 その通りだ。長年教師をやっている賜物なのか、鉄人には生徒がどのような勉強法をしているのかが何となく判るらしい。

「良いことだ。だから他の教科も、そうした流れの中で覚えるといい」

 それなら――と僕はちらりと思った。覚えられるかもしれない。ほんのさわりだけだったけれど、鉄人の話は面白かったから。

 勉強を、楽しいと思える……かもしれない。

「それにお前は運がいい。楽しいと少しでも思える勉強が、高校のカリキュラムの中で見つかったのだからな」

 いつ勉学の楽しさに目覚めるかは人それぞれだ、と鉄人は断言した。

 小学生の頃に溢れんばかりの好奇心を持つもの。大学生になり、専門的な分野に触れることで興味を持つもの。社会人になってから、ようやく趣味のように勉学に手を出すもの。

「いつ学ぶかに本来優劣はない。だが、こと受験と学歴がある社会である以上、早ければ早いほどよいのは当然とも言える」

 ギリギリ高校生のうちに勉学を楽しいと思えたことを幸運に思え、と鉄人は重々しく言った。

 そうではなかった生徒を、きっとたくさん見送ってきたのだろう。鉄人の言葉には苦みばしった後悔が滲んでいるように感じられた。

「俺は吉井を誇らしいと思う。勉学を楽しいと思う生徒は、俺の教師人生でも数えるほどだ。お前はこれからきっと伸びる。校則を変える運動もほどほどに続ければ良い。それがお前の力になるのであれば、俺も強いて止めはせん。まあ協力も出来んが、そこは判ってくれ」

 言って、鉄人は力強く胸を叩いた。

「――俺と、この学園を信じろ吉井。文月学園は、勉学に励む生徒を絶対に見捨てたりはしない。校則がどうであろうと、そこだけは変わらないんだからな」

「鉄人……」

 不覚にも泣いてしまいそうだった。逃げてばかりで申し訳ない、と心から思った。

 厳しくも優しく、教え導いてくれる人がいる。それがこんなにも掛け替えのない存在だったなんて、どうして僕は気付かずにいられたのだろう。

「僕が……! 間違っていました……!」

 鉄人が、まるで子供をあやすように僕の頭を撫でてくる。

「いいんだ吉井。過去のことは気にするな。お前が気にするべきは――」

 どすん、と僕の机の上に膨大な量のプリントが置かれた。

「今この時を持って始まる、吉井明久プログラムのことだけだ」

 ……おかしいな、雲行きが怪しくなってきた。

「俺が独自にカリキュラムを用意した。歴史が得意な吉井明久のために――人類の文化史・哲学史・戦史・学問史を徹底的に叩き込む」

「あのう鉄人? 人類4000年の歴史を追いかけるには時間が足りなさ過ぎる気がするんですが……!」

「俺の予想では2年あれば足りる。心配するな」

「留年確定じゃないかそれ!」

「始めるぞ。――まず宇宙でビックバンが起こった」

「いくらなんでも長すぎる! 138億年くらいあるよ! やっぱり逃げる! 四肢を切り取ってでも逃げてやるぞ鉄人!」

「ええい、しおらしくなったり暴れたりと忙しいな」

 鉄人がしかめっ面に戻って、この方法だけは使いたくなかったが……と殆ど死刑宣告染みた言葉を吐き出す。

 その懐から取り出されたのは、どこかで見覚えのある、銀色の水筒だった。

「さっき恋愛はマイナスに働く場合もあると言ったが、吉井の場合に関しては常にプラスに働くようだな。辰砂とは気が利いている。姫路に感謝するんだぞ、吉井」

 なんだろう――とても嫌な予感がする。

「実は今も辰砂は漢方薬の原料として重宝されている。高価な代物で易々とは手に入らんがな。効能は――」

 赤い液体がコップになみなみと注がれていった。これは……死ぬかもしれない。

「催眠だ」

 貴様の無意識に勉学れきしを刻み込んでやる、と鉄人は満面の笑みを浮かべた。


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