第五章 伊都奈

第34話 忘れられない男

 つかれた――。


 物事はうまく進んでいる。辛いけど、大変だけれども仕事はうまくいっている。

 言い寄ってくる男も多い。友人からはうらやましがられるが、伊都奈の目にはちっとも良い男には映らない。


 こんな男のどこが良いのだろう――。


 こんな事を言えば非難が集中する、それは分かっている。自称恋少なき女子達には、いろいろ言われる事は分かっているのだが、なぜこの子達には、伊都奈の気持ちが理解できないのかが、毛頭わからない。

 そして、つい言ってしまう。そして、みんなに非難される。


 いつからだろう。恋愛に対して周りの女の子と違う気持ちを抱え始めたのは。



「お電話ありがとうございます。ネイルサロン イトナズです。いつもありがとうございます――そうですか、本日のご予約はキャンセルされると言う事で――」


 伊都奈は、笑顔のまま電話を切った後、ため息をついた。立て続けにキャンセルが入った――ここまで続くのは、店が始まって以来初めてだ。今日は朝から夜遅くまで七件の予約が入っていたのだが、三つ掛け持ちしている仕事のうち、別の二つを完全にシャットアウトし、気合を入れて出勤してきた。

 しかし、忙しいはずの月曜日は、まったくの的外れに終わってしまった。とうとう七件目になってしまったキャンセルの電話を切りながら、こんな事があるのかと、段々おかしく思えてきた。

 キャンセルが入る事はたまにあった。彼氏に会う予定に合わせてネイルを変える女の子は、デートがキャンセルされると、ネイルの予約もキャンセルする。しかし、一日の予定が全てなくなるなんて事は一度も無かった。


(まあ、いっかぁ)


 伊都奈は、深く考えるのをやめた。いつもとは違う日だから、いつもと違う事を考えようと思った。本当ならば、何故みんなキャンセルしたのだろうかと原因を追究したくなるところだが……。伊都奈はちょっとした疑問も放っては置けず、知らない言葉があればすぐにネットで検索したり、答えが出るまでだれかれかまわず質問を続ける癖があった。そのために周りから迷惑がられている事も分かっていたが、どうしてもそうせずにはいられない性格なのだ。『まあ、いっか』などと言うセリフは、ついぞ伊都奈の口から聞かれる事は無かったが、今日はいつもと違っていた。あの事が気になっていたせいかもしれなかった。


 伊都奈はこのところ、時間が空くと、ふと同じ事を考える様になっていた。


 (恋愛って、何だかよくわからない。自分のため? 相手のため? 周りの友達に胸を張るため? こんな時、みんな彼氏に会いに行ったりするのだろうか。恋多き友人の琴子なら、『今日は仕事全部キャンセルして会いに来ちゃった! えへ!』なんて事を平気で彼氏に言うのだろう)


 考えただけで恥ずかしくなる。そして、ちょっぴり寂しくなった。例え、これほどまでに空々しい事を言わないまでも、こんなふうに会いにいく相手は伊都奈にはいない。


 ざっくばらんな性格の伊都奈は、前の彼氏と別れてからどれぐらい経ったかも、わざわざ思い出そうと努力しなければ出てこない。特に今は彼氏を必要としていない。だから、いなくて良いのだが、こんな日は、男を切らす事ができない琴子の事が何だかうらやましく思えた。


 伊都奈と琴子は、高校時代、二人でよく、きゃっきゃうふふとサッカー部の先輩の話で放課後遅くまで盛り上がったものだった。


 (変わってしまった。きっとこの仕事を始めてから――)


 伊都奈には自覚があった。自分で仕事を立ち上げて、苦労と、やりがいと、収益を得て行くうちに、物事の考え方が一変してしまった。しかし、知らな言うちに恋愛感まで変わってしまったのだと改めて気付いて、もともと大きなその瞳を、さらに大きく見開いた。


(会いに行きたい男――って誰だろう?)


 細く尖ったあごを、細くしなやかな指でそっと触る。今月いち押しデザインの真っ赤なバラをモチーフにしたネイルをぼんやり眺め、改めて考えた。


 (そうね、例えば、バーを経営してたあの男……。それとも、付き合ってる時に仕事を辞めてぷータローしていた元同級生……。あと、思いつくのは、散々しつこく口説いてきて、めんどくさいから付き合ってみた、二十歳年上のあいつぐらいか……。いやいや無いな。会いたくないって事はないが、会いに行きたいと言うほどではない……)


 伊都奈は彼氏が欲しくないとは言うものの、決して男嫌いではない。今までにも人並みに恋愛してきた。どの恋愛も、ある時は幸せで、ある時は不幸せだった。周りから羨ましがられる事もあったし、何でこんな男と、と言われる事もあった。いつしか、夢中になる対象は男性では無く仕事になった。初めから仕事は好きだったが、より一層加速させる出来事があった。起業に目覚めたのだ。当時働いていた職場では、上司にも同僚にも認められ、充実した社会人生活を送っていたが、逆に、周りの人たちは、なぜ、こんなにも働く事を嫌がるのだろうと言う不満が芽生え、どうにか職場改善をしようと、旗を振って奮闘したが、誰からも理解されず、転職を考えるようになった。やがて、理想の職場を探しても、結局は存在しないと言う事に気が付き、自分で作るしかないんだと決意した。


 そうして、暫らく恋愛から遠ざかっているうちに、自分にとって、恋愛なんて必要がないのでは、と言う疑問が湧いてきた。ぼんやりとそんな事を感じているうちに、自分でも良く理解はしていないが、ある段階の恋愛からは卒業してしまったのだと言う結論に達した。卒業と言う言葉を使うのは、ある段階の恋愛からは卒業したが、次の段階の恋愛に入学する日がくると信じたいからでもある。きっと来ると、そう信じたい。


 過去の恋愛を振り返っているうちに、とうとう辿り着いたのは、初恋の相手だった。伊都奈が小学校二年生の時、沢山笑わせてくれた楽しい男の子だった。見た目は正直お粗末の部類に入るのだが、彼が伊都奈の心に引っかかったままだと言う事に気が付いた。


(あのこ、同じ中学校にはいなかった。きっと、転校して行ってしまったんだ。あのこ……今はどうしているんだろう)


 いつもとは違う日に、いつもとは違う事をしてみようと、伊都奈の中ではかなり大胆な思いが急に湧き出してきた。


(あのこを探そう)


 そう思い出すと、もうじっとしてはいられない。やり始めると止まらないのは、自他ともに認める伊都奈の長所であり、短所だった。イトナズが二年で軌道に乗るまでになったのは、間違いなくこの性格のおかげだろう。しかし、友人は、急にとっぴょうしもない事を始めるから、一緒にいるとハラハラすると口を揃えて言う、お願いだからじっとして置いてと。伊都奈は口では『はーい』と言うが、その生返事は、返って相手を苛つかせ、そして、実際に、ちっとも悪いとは思っていない。


(なぜみんな自分の思ったとおりに行動しないのだろう。不思議だ。人生は一度しかないなんて、誰でも知っている事なのに……)


 とりあえず、自宅へ向かいながら、連絡のつく小学校時代からの友達に片っ端から電話してみた。でも、誰も覚えていない。かえって来る返事は、『そんなこ』はいなかったと思うよ。お前の妄想じゃねえか? そんな言葉ばかりが戻ってきた。

 もしかしたら本当に自分の思い違いなのだろうか。自信をなくしかけた頃、やっとマンションの九階にエレベーターが到着した。やはり、エレベータの昇降スピードの速さでマンションを選んだのは正解だった。勢いよくドアを開けて、飛び込んだ。思いのほかすんなりブーツが脱げた事に気を良くしていたら、右足が部屋履きのスリッパをうまく捕まえられずに、返っていらいらする。

 リビングに入るなり、右手に持ったルイヴィトンの白いキーケースを無造作に白いソファーへ投げつけ、押入れのアルバムに向かった。真っ白な日本猫が足元にまとわりついてきた。伊都奈は無類な猫好きで、長い事、猫のチャーリーと一緒に暮らしている。


「ごめんね、チャーリー、ママは探し物があるから……夜にはいっぱい遊んであげるからね」


 チャーリーを左手に抱きかかえて、押入れを開け、奥にしまいこんであるダンボールを苦労して取り出すと、アルバムに整理されていなかった写真の束を取り出した。写真がデジタルになってから、アルバムの整理をする事が無くなってしまったので、そのまま忘れ去られてしまった思い出たちだ。

(いた……)やっぱりあのこは写真の中で微笑んでいた。なぜ誰も覚えていないのだろうか、目立たないタイプじゃなかった。どちらかと言うと人気を集める様な闊達な男の子だった。(どうして――)伊都奈は、いよいよ落ち着かなくなってきた。自分が変わってしまったら、過去の思い出も変わってしまうのだろうか。今の自分の思い通りに、なんでも都合よく考えてしまうのだろうか。

 ページを進めるとクラスごとの集合写真に突き当たった。確かにいない。転校したはずなので、三年生の集合写真には、やはり写っていないが、二年生の時の写真にも写っていない。右隅にも左隅にも丸く囲われた欠席者の写真も無い。

 (なぜだろう。どうやったらわかるだろう。誰に聞けばわかるだろう。手がかりは、このこが写っているスナップ写真だけ。校庭の遊具で、みんなそろって撮った写真の一番前で微笑んでいるこの写真だけ)


(行ってみよう。この場所へ。小学校へ――)

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