第31話 イレギュラー

 新井は、珍しく定時で会社を出る事が出来た。

 外が明るいうちに帰宅していると、何だか悪い事をしているような気がして、思わず頭を低くして歩いてしまう。かといって、予定があるわけでもない。急な予定変更で出来た時間だからだ。

 山崎本部長が病欠の為、予定されていた会議が急遽中止になった。この会議はいつも三時間を越える長丁場なのに、定時の一時間前に開始される。嫌がらせとしか思えない。

 そう言うわけで、この会議の後には予定を入れない事にしている。このまま自宅へ直行するのももったいない気がしたので、何かして帰りたいと思っていた。


 会社の最寄の駅の前まで来た時、新井は神崎未菜を見つけた。たくさんの人が行きかう改札の前で、携帯電話を片手に、ぼうっと一人で立っている。なにやら、ただ事ではない気配を感じ、新井は未菜に声を掛けた。


「どうしたんですか? 神崎さん、こんなところに立っていては危ないですよ、ちょっと移動しましょう」


 未菜は返事をしないし、新井の顔を見る事もない。仕方がないので、肩に手を添えて、未菜を通路の脇へと誘導した。未菜は放心状態と言ってもいい程、新井に対して全く反応しなかった。どこかに怪我をしているとか、病気で元気がないと言うわけではない。ただ、何か、大きなショックを受けたまま、表情も体も固まってしまっている、そんな様子だった。


 とにかく家まで送り届ける事に決め、タクシーに乗り込んだ。未菜の家には父親がいるはずだ。新井は、未菜が最寄の駅まで数分の所に済んでいると言う話をしていた事を覚えていた。駅前まで行けば、後は迎えに来てもらうなり、最悪、おぶって連れて行く事も出来るだろう。車中で落ち着いてくれるかもしれないと言う期待もあった。


『普通の人』の帰宅時間とあって、渋滞する事を覚悟していたが、予想よりも早く到着できそうだ。新井は、改めて未菜の様子を伺った。放心状態は緩和しているように見えた。こわばったような表情は消え去り、今目覚めたばかりの様に、ぼうっとして窓の外の景色が流れているのを見ている。


「もうすぐ、着きますよ。お父さんに連絡を取りたいのですが」

「父は……おりません。いないんです……」


 新井は、返事は返ってこないと思っていながら話しかけたが、未菜が思いのほかしっかりと答えた事に驚いた。


「ご不在ですか、連絡は付きますか?」

「連絡は……つきません、つくはずがないんです。いないんですから」


 新井は質問に窮した。未菜は返事はするが、この答えはそのままに受取ってもいいのだろうかと悩んだ。さっきまで、固まっていた人物が、やっと話し始めた事だ、ああ、そうですかと信じてしまうのはどうかと考えたが、あまり刺激しないためにも、話を合わせながら、必要な情報を聞きだす事に決めた。


「いらっしゃらないのならば、連絡はできませんよね。でも、よわったな、実は、私は神崎さんの事を心配していまして、できれば信頼の置ける方にお預けしたいなと思っているんですがね」

「いないんです……信頼できる人は誰もいません」


 信頼できる人と現在連絡がつかないと言う事か、それとも、この世の中の誰も信用していないと言う事か――新井は出来れば前者で会って欲しいと思っていた。これほどのショックを受ける出来事とは何だろうと考えた時、身近な人にアクシデントが起こったという仮説が頭に浮かぶ。いるはずの父親がいない――さっき言った未菜のセリフが思い出された。


「そうですか……では、どうでしょう、多分、お腹がいっぱいになれば、ちょっと元気になると思うんです。実は、僕もおなかがすいていましてね。お昼ご飯を食べ損ねてしまったので……。よかったら、ご一緒に食事でもいかがですか?」


 未菜は返事をしなかった。新井は、次はどう質問しようかと考えたが、どれもあまり良い思い付きとは言えず、うなっている間に目的地へ到着した。取り敢えず車を降りて、やはり、もうしばらく様子を見るために何処かの店にでも入ろうかと辺りを伺っていると、未菜が黙って歩き出した。おそらく、自宅へ向かっているのだろうが、その足取りは弱々しく、いつ、しゃがみ込んでしまうかわからないと言った様子だった。

 普段の神崎未菜であれば、送ってくれたお礼と、タクシー代は自分で払うなどと新井の事を気遣うだろう。タクシー代は痛かったが、もちろん、それが惜しくて言っているわけではなかった。新井は、家にたどり着くところまで見届けて帰る事にしようと、少々居心地悪くも感じながら、少し離れて後ろを歩いた。


 歩き始めて五分ほどが経過した。新井は、そろそろ未菜の自宅付近に来ているのではないかと思っていた。数分の場所に住んでいると言うのが本当であれば、そろそろ到着しても良い頃だ。駅前の喧騒を抜け、住宅地に入ると、歩く人も減ってきた。このまま後を付けていれば、不審者と間違われてしまうかもしれないと、そろそろ引き返そうとしたときだった。


 未菜が自動販売機の脇を通り抜けたとき、その陰から男が現れ、未菜に掴みかかった。未菜は悲鳴を上げ、その場に倒れこんだ。

 新井は驚き、一瞬身じろぎしたが、思いなおして男の後ろから腰元にタックルをかけた。男は、完全に不意を突かれた様で、うっと低い声を立てて、全体重をかけた新井とともに、そのままうつぶせに倒れこんだ。その時、手に持っていたらしき数枚の写真が、しゃがみこんだ未菜の手元辺りにばら撒かれた。写真には、未菜が写っていた。若い男にぴったり寄り添って歩いている……見た事もないような笑顔の未菜が、そこにはいた。


 新井が写真に目を奪われている隙に、男は新井の腕をするりと抜け出て、立ち上がると、くるりと振り向き、倒れた新井の方を向いた。新井は、男が、這いつくばったままの自分の顔面を、蹴り上げようとしている気配を感じ、身構えたが、予想を反して攻撃は繰り出される事はなかった。新井は体勢を立て直そうと、素早く這いずって男から離れて立ち上がり、ファイティングポーズを取った。格闘技の経験はなかったが、見よう見真似で、とにかく気持ちで負けていないところを見せなければと、必死だった。


「新井……」


 新井は男から名前を呼ばれてのけぞりそうになった。

 男の正体は、自分の上司である、山崎本部長だった。

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