第28話 理想の父親
未菜は、いつもと同じ様に、メンバーの明日の予定と、必要な書類を何回もチェックし、準備万端整えて会社を後にした。
いつもと同じ駅までの道を、いつもと同じ足取りで歩く。変わった事は何もない。ただ平凡な一日だった。
しかし、未菜にとって、大きくその心を揺さぶる出会いが、すぐそこまで来ていた。あと、十歩進めばその出会いが待っている。まだ何も気がつけない未菜にとって、この出会いは、必要なのかもしれないが、そうでなくても良いのかもしれなかった。
駅の改札を通ろうと、パスをカバンから取り出し、改めて前を向き直った時に彼は現れた。白髪交じりの初老の男性、自信に満ちた穏やかな表情で、未菜の方へ向かって歩いて来る。
未菜は、取り出したカードを握った手から力が抜けるのを感じ、慌てて握り直した。
「お父さん……」
彼は優しく未菜に微笑むと、彼女を優しく抱きしめた。昔と変わらない父親の香りを感じて、未菜の心には懐かしさと、安心感が広がった。
「お父さん、どうしてこんなところにいるの? 私……未菜はお父さんに話したい事が沢山あるのよ。今日は沢山話をするからね。覚悟して置いて、朝まで離さないんだから……いいえ、明日はお休みだから、明日も付き合ってね、時間はあるんでしょう? ないとは言わせないよ……」
未菜は、彼にありったけの話を浴びせかけながら、彼の腕にしがみついて歩いた。電車の中でも周りの迷惑にも気が付かず夢中になって話をした。仕事の話、小さかった頃の話……いつも、淡々として通勤する未菜の姿は、そこにはいなかった――まるで小さな子供に戻ったようにさえ見えた。
それこそ、木川や、新井がその場面を見れば、本人とは気が付けなかったかもしれない。美菜は、はしゃいで飛び跳ねんばかりに足取りも軽やかだった。未菜が住んでいるマンションの近くでコンビニに寄った。未菜が好きなワインと父親が好きなブランデー、そして、たくさんのお菓子をカゴに入れ、レジに並んだ。その時、ラインの着信が入った。
(これから行ってもいいかな)
(今日は父が来ているので……すみません)
山崎からだった。
その後も毎日、未菜は定時になるとそそくさと会社を後にし、自宅で待っている、白髪交じりの初老の男性を連れ出して回った。一緒に食事をし、飲みに出かけ、潰れておぶって帰ってもらったりもした。休日にはディズニーランドへ出かけ、ぬいぐるみも買ってもらった。自宅で待つ、クマのぬいぐるみのお友達に、ダッフィーに来てもらうことにした。毎日が楽しく、夢のようだった。雨の日には、ずっと部屋にいた。右と左で違う靴下を履いているのを見つけて大笑いした。嫌がるのを無理矢理脱がせて、履き直すのを手伝った。未菜は、毎日少しずつ、何かが満たされて行くのを感じていた。まるで、小さな穴だらけの軽石に、じわじわと水が沁み渡る様だった。
「じゃあ、お父さん行ってくるね」
彼は、もう、ずいぶん長い間、未菜の部屋に滞在している。月曜日にも関わらず、職場へ向かう未菜の足取りは軽かった。自宅へ戻れば、父親が待っていると思うと早く帰りたくてしょうがない、しかし、仕事には手を抜くことなく、そつなくこなした。顧客への電話対応では、今日は何だか、いつもよりも声にはりがあるね、だとか、同僚からは、今日は笑顔がいいですね、と、声をかけてもらった。未菜はより一層やる気を出して頑張った。
「神崎さん、これ、三課の書類なんだけど……」
「あ、新井さん、久し振りですね、本部の主力がこんな仕事をしていて大丈夫なんですか?」
「いや、いや、これも大事な仕事ですよ。本部のアシスタントさんが、仕事が混んでてきゅうきゅうなんでね、お手伝い……と言うよりも、実は、自分の仕事を優先して進めたいだけなんだけどさ」
「なるほど、では、私の方で早急に処理しておきますね、この案件なら、二課の高田課長にも話を通しておいた方が話が早そうです。クライアントがかぶっているので、後で横槍を入れられるかもしれませんからね」
「さすが、いつもながら、気が利きますね。本部でも話題になる事がありますよ。神崎さんは気が利いて、仕事も出来て……これはセクハラになるかもしれませんが、見た目もかわいらしいと……」
「お上手ですね、セクハラにはしないで置いて上げますよ。でも、そんなんじゃないんです。私の場合は、気が利くと言うより、気が気ではないと言ったほうが……私でお手伝いできる事があればなんでもしますからね、お声がけ下さいな」
「ありがとう……」
新井は、やはり、木川が言っていたような邪悪な気配を未菜から感じる事はなかった。むしろ、それとは正反対の誠実さが溢れていた。やはり、杞憂かと、本部へ戻りながら、もう一度振り返り未菜を見た。すると、そこに、山崎本部長が未菜を連れ出す様子が目に入った。
(いや、まさか……)
一度拭われた疑念がまた芽生えた。しかし、後をつけて盗みききするようなゲスな真似はできない。新井は、また未菜の事を考え続けなければならなくなった。
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