第四章 神崎未菜

第26話 神崎 未菜

 明日の仕事の準備はオッケー。課長の来客向けプレゼン資料の印刷も終わったし、三木本さんから頼まれていた、飛行機とホテルの予約もオッケー、ついでに出張旅程のまとめもメールしたし、抜かりはない。ポットやカップは洗い終わっているし、後は……机の上も綺麗に片付いている――問題なし……かな? 大丈夫かな? やっぱり気になるから、もう一度、初めから確認しなおしてから帰ることにしよう……。


 美菜は今の仕事に満足していた。バリバリのキャリアウーマンと言うわけではく、営業事務のОLだが、自分には、誰かをサポートする仕事が向いていると感じていた。表に出て矢面に立つよりも、サポート役はいつも誰かの役に立つ事が出来る。役に立っている間は嫌われる事は無い。受付の仕事は、頑張れば頑張るほど、同僚から嫌われる。表に出る仕事だからだ。

 十八歳の時に高校を卒業してすぐに就職した。市内でも、偏差値の高くない女子高出身だが、そのおかげで、推薦枠を労せず手に入れる事が出来た。

 美菜はルックスにも恵まれていた為、受付として採用された。所属は秘書課だが、秘書業務には携わることなく、受付だけが未菜の業務だった。受付の仕事は来客が多い時は良いが、そうでない時にはほとんどする事が無く、退屈なものだったので、暇な時間に、営業部の事務仕事を手伝わせて欲しいと申し出たのだが、丁度、産休で欠員が出たこともあり、昨年から営業部のアシスタントとして正式に営業三課へ配属となった。

 人当たりも良く、気が利く美菜は営業部でも高評価で、最近では客先への営業活動に同行する事も多くなった。清楚な出で立ちで、出過ぎない性格は、営業職としては物足りなさを感じさせるが、アシスタントとして同行させるには、うってつけだった。

 美菜は明日の準備を終えると会社を出た。退社時刻はいつも午後七時ぐらいになる。会社の最寄の駅から乗り換えの新宿駅まで十五分、満員に近い電車に揺られながら、携帯電話で今日のニュースをチェックするのが日課だ。美菜は最近、日本のニュースよりも、海外ニュースを見る事が多い。海外ニュースを見ていると、より、日本の事が分かるようになってくる。

 佐賀県が日本から独立して、もう半年程経った。美菜には、大事件だと思うのだが、日本のメディアではあまり大きく取り上げない。中国のメディアでは、日本神話の崩壊、九州は中国になびいていると言う見出しが並ぶし、アメリカのメディアは、起こった出来事を淡々と伝えている。どうやら、沖縄を除く九州全県は佐賀に賛同して、それぞれ日本から独立し、連邦制に近い形をとるというのが有力の様だ――美菜は政治には興味が無いが、あまり、このところ、よくない方向へ向かっている気はしていた。しかし、どうすれば良いかという答えを持っているわけではないので、ネットでの論争に加わるような事もなかった。この、佐賀の独立報道は、美菜にとっては、あまり関心の高い物ではなかった、遠い九州の、良く知らない佐賀県が、日本からいなくなったところで毎日の生活にはさほど影響しない――そうは思いながらも、佐賀関連のニュースチェックは欠かさなかった。閉塞気味な日本に、何か新しい事が起こる、そんな期待感も持っていた。あらかたニュースを見終わった時に速報が入った。


『今生天皇が、佐賀国政府を日本正統政府と認める。東京が日本ではなくなる?』

 美菜は一瞬思考が停止した。東京が日本ではなくなる……そんな事があるのだろうか……。


 思考が動き出す前に、ラインが入ってきた。美菜はスマホに促されるまま、ニュースを閉じてラインの画面を開いた。


(今どこにいる?)

(もうすぐ新宿です)


(よかった、ポスト前で待っていてください。食事に行こう)

(了解です)


 美菜は新宿で乗り換えて自宅に帰る予定だったが、新宿西口の待ち合わせ場所へ向かった。また、いつものパターンになるのは分かっている。食事をしてカウンターバーで飲んだ後、ホテルへ行く。タクシー代を受け取って、明け方に自宅へ帰る事になるだろう。美菜は、呼び出されて嬉しいと思う気持ちもあるが、ずっとこのままでいる事もできないと憂鬱な気分にもなった。


 ポスト前では福田専務が既に待っていた。専務は次期社長の呼び声が高い、やり手の四十七歳で、社内では敵も味方も多い人だ。元々、営業部出身で営業本部長を経験した後、専務執行取締役と社長室室長を兼任する事になった。社長の末娘と結婚した事は、もちろん、出世に影響しただろうが、ほとんどの人が納得できる、実力と実績に見合ったポジションだ。


「福田専務、お待たせしました」

「ああ、そんなに待っていないよ。店もさっき席が空いたところらしいから、丁度良かった」


 二人は最近の営業部の動向について話をしながらいつもの店へと歩いて行った。

 店は、いつもの様に賑わっていた。創作フレンチと銘打ってはいるが、刺身からチジミまで、店主の気まぐれでいろいろなメニューを出している。最近テレビに出たらしく、客が多くて、このところ足が遠のいていた。

 一番奥の半個室になった、いつもの席に座ることができた。この席は、店主が自分の趣味のために作ったらしく、他の席には素っ気ないテーブルが並んでいるが、ここにはフカフカのソファーが置いてあり、壁には白磁のイヤープレートが一面にディスプレイされている。未菜はこの席が好きだった。自分だけが特別扱いされているように感じるのだ。


 職場の話をしながら食事を終え、デザートにバニラアイスとコーヒーが運ばれて来た頃、福田が急に改まって話を始めた。


「僕たち、いつまでもこのままという訳には行かないと思うんだ……」


 未菜は、やっぱりと思った。自分も同じように考えている。専務の事はもちろん好きだが、結婚したいと思ったことはなかった。男性的に魅力があるし、人付き合いも、仕事も申し分ない人だ。しかし、福田が社長の娘と結婚してしまった後には、出来るだけ早くこの関係を終わらせた方がいいと思っていた。しかし、はいそうですか、ではサヨナラと言うのもシャクだったし、終わらせる事自体に強い抵抗感があった。


「別に別れる必要もないと思うんです。ご結婚されたので、ご迷惑はおかけしたくはないですが、でしたら、会わなければいいと思うんですよね。そしたら、何の問題もないんじゃないでしょうか」

「しかし、それって、別れる事と何が違うんだい?」

「そうですね……別れていないから付き合っている。会わないから、付き合っていると分からないって事です」

「よく分からないな……君は相変わらず面白い人だね……まあ、いいよ、ちょっと、試してみよう。でも、気が変わったら連絡くれよ」

「専務、連絡をしたら、付き合っていると疑われてしまいますよ」

「ふっ、そうだね。でも、また連絡するよ。僕は賢い女性は嫌いじゃない」


 福田とは食事だけで別れて帰路につくことになった。

 まだ、電車も動いているので、タクシー代を突き返し、家についたのは、まだ、午後十一時を回ったところだった。スマホを充電器に刺し、シャワーを浴びて着替えを済ませると、ベッドにバッタリと倒れこんで、お気に入りのクマのぬいぐるみに抱きついた。

 未菜はこのクマが大好きだ、自宅に帰ると、いつも抱きついて匂いをかぐのが習慣だった。とても気持ちが安らいで、自分のテリトリーに戻ってきた事を感じるのだ。

 しばらくそのまま癒されていたかったが、ラインの着信があり、クマのぬいぐるみを抱き締めたまま、枕元で充電していたスマホを手に取った。


(仕事で近くまで来たんだけど、行ってもいいかな?)

(どうぞ)


 未菜は、自分ではよく分からないが、年上の男性に気に入られて、かわいがってもらえる。そして、大概の場合、いつしか深い関係になってしまう。決して貞操観念がない訳ではない。初めの内はちゃんと断るのだが、最後の最後で突き放すことが出来ない。幸か不幸か未菜に誘いをかけてくる男たちは、皆、一様に男性的な魅力に溢れ、仕事もできる、それぞれ尊敬できる何かを持っていた。未菜にとって、尊敬できるという事は重要な要素だった。尊敬の念は憧れの気持ちでもあり、恋愛感情に似て、相手に好意を持っている事には変わりない。そうした相手を拒絶する事が、辛くなったり、可哀想になったり、そうしていつしか男女の関係になってしまうのだ。山崎は数分で美菜の部屋のインターホンを押した。断られる事はないと当て込んでいたのだろう。


「山崎部長、今日の出張は、夕方まで茨城でしたよね?」

「流石、営業部アシスタント、部所内の事は何でも把握していますって?」

「営業の人のそういうところが嫌いです。なぜ、皆さん、つかなくていい、細かい嘘をつくんですか?」

「三課で、君の上司だった頃からよく言っていただろう、『責任は外に、手柄は内に』責任を取ることが美徳だと思っている輩が多いが、責任を取ると言うことは、会社を潰すことにもなりかねない重要な事だ。仲間を守るためには、取らなくていい責任はとってはならないんだ」


 山崎は、専務に昇進する事が事実上決まっていた福田の後任としてヘッドハントされ、二年の営業三課課長を経て本部長となった。当時は、未菜の直属の上司であり、仕事について親身に指導をしてもらった。

 もちろん、今の話は覚えているが、夕方まで出張で茨城にいたはずの人が、仕事で近くに来たからここへ来たと言う……。この嘘が何を守っているかは未菜には毛頭分からない。


「そんな事より、久し振りなんだから、細かい事を言うな。会いたいから会いに来たとでも言えばいいのか?」

「それでいいと思いますけど……」

「そんなことが言えるか、じゃあ、もう来なくてもいいと?」

「それは……嫌です」


 山崎は、翌日、未菜よりも一時間早く会社へ出かけた。いつも未菜が起きる時間よりも早く起きて朝食の支度をしなければならない。余った時間は特にすることもなく、手持ち無沙汰に余計な考えが頭を巡る。このような関係をいつまでも続けているわけには行かない。しかし、いざ、関係を切ってしまうとなると、急に不安が襲ってくる。そんな事はないと分かってはいるが、世界中から、ただ一人孤立させられてしまうような、手を離せば奈落の底へ落ちてしまうような、言い知れない恐怖が未菜を支配し、最後の一歩を踏み出せない。


 一時間の苦痛の時間を経て、未菜はいつもの様に会社へ出かけた。

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