第三章 柚木 有里香

第19話 柚木 有里香

 ――柚木ゆずき 有里香ゆりか


 自分の名前を書いただけで手が止まる。

 涙があふれて、履歴書をぬらしてしまう。これが三枚目だ。なぜ、自分が履歴書を書かなくてはならないのだろう。なぜ、自分が会社を辞めて、新しい仕事を探さなければならないのだろう。

 悔しいやら情けないやら、いろいろな感情が心を支配して、一向に履歴書は仕上がらない。部長に、今回の事は懲戒対象だが、今後の就職活動に響くだろうから、自己都合退職としてあげようと言われた時、なんて都合の言い事を言うのだろうと思った。従業員を解雇する事は会社としてマイナスになるから、自己都合で辞めろと言えば良いではないか、でも、そんな事言われなくてもこっちから辞めてやる。こんな会社にいてやるものか、と息巻いた事もあったが、今は、ただ悲しい。いつも相談に乗ってくれていた先輩から、俺の口利きで採用してもらえる所を紹介するから、履歴書だけ持って来いといわれたけれど、履歴書を書くのがこんなに大変な事だとは思わなかった。

 気持ちの整理が付いていないからだと客観的な自分が言っている。でも、整理なんか、つかせようがない。こんな理不尽な事にどうやって整理をつければ良いと言うのだろう。


 全部あの人――いや、あの男のせいだ。出世が決まると簡単に私を捨てた。誕生日の夜、今人気のフレンチレストランを予約してくれて、楽しい夜を過ごす筈だった。今日も、これからも、私だけに向けられている笑顔だと信じていた、それを信じて疑わせない、いつものように優しい笑顔だった。いつものように楽しい話をしてくれた。でも、最後にその口から出た話は、耳を疑うどころか、自分の頭がおかしくなったのかと思うほど醜い内容だった。

(部長職に昇進が決まったんだ。ただ、昇進には条件があって、身の回りをきれいにして来いと言われたんだ。会社は俺達の関係を知っていた。社則に社内恋愛は禁止されているのだから、いつまでも火遊びはまずいだろうと言われたんだ。実は取引先のお嬢さんと縁談話があってね――その会社と資本関係を結んで、営業力を強化していく方針となったのは君も知っているよね? 君も僕の昇進を願っていてくれたじゃないか。喜んでくれるよね)

 社内恋愛禁止の社則は私だって知っている。しかし、でも、それは名ばかりで、社内恋愛の末に結ばれたカップルは何組もいる。それなのに、なぜ私だけが解雇で、あの男が昇進するなんて納得がいかない。だって、私が他に何をしたと言うのだろう。優秀ではなかったかもしれないが、あの使えない仲良しOLグループに比べれば、よっぽど仕事はできたはずだ。もう、会社なんて信用できない。男なんて信用できない。就職なんかやめだ。男も一生いらない。どうせ頑張ったって何にもならない。これまで、どんなに辛くても頑張ってきた、でも、こんな結果しか待っていないのだ、あの人に好きになって欲しくて、望む事は何でもしてあげた。あの人が好きな服を買って、あの人の好みに合わせて髪も伸ばした。


 それでもあの男は私を捨てた。そして私は、また『ゼロ』になった。

 なぜだかわかならい。どこがどういけなかったのか、二人で一緒にいる時は、本当に幸せだった。この時間がずっと続けば良いと二人で話した。あの人もそう言っていた。


 私は履歴書を書いていた筆を止め、部屋の片付けを始めた。引越しの荷物をほどき、新しいクローゼットにしまい込んだ。自暴自棄になりつつも、部屋の片付けや家事などは生来嫌いではなく、気分に左右されずに淡々とこなす事が出来る。

 通勤に便利な様に、会社の近くで独り暮らしをしていたのだが、退職後は、元同僚に出くわすのが嫌で引越しをした。引っ越しの手配も、部屋の片付けも、さらさらと日常業務の様にこなす自分を、本当に傷心の身であるのだろうかと疑いさえしたが、いつかはやらなければならないのは間違いないのだから、こんな時には都合が良いと思った。

 就職も同じように、いつか必ずしなくてはならないのだが、どうしても、前向きに向き合う事はできなかった。それは、やめてしまった仕事と、そこで一緒に働いていた彼との別れを決定的にしてしまう様な気がしたから……。


結局、紹介された会社への面接には行かず、その後、何社もの面接を失敗し続ける後悔の日々を過ごす事になった。


 チャンスのある時に、ちゃんとして置くべきだった……。

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