第12話 神か悪魔か――牛か?
「よく考えたらさ……」
「なんだい? 杜夫……こんな時に……オリャ!」
「ウッ、ちょっと……お尻が痛いよ、ユーマ」
「我慢しろ! えいっ!」
僕は、ユーマの力を借りて、どうにかこの小さな空間に押し込まれた。
「ありがとう、手伝ってくれて……でもさ、もし、まゆみの時みたいになったら、僕は佐賀国の国民全員を路頭に迷わせる事になるんじゃないかと思ってさぁ……」
「知ったことか! 杜夫のためなら佐賀なんか知ったこっちゃない! 何も考えずに行って来い!」
「……いってきます」
――確かに、ここまで来ておいて、引き返すのもどうかと思う……バイト先から制服を借り出して、スタッフに紛れて大帝都ホテルに宿泊しているリサに会う計画だ。警備は思った通りに厳しくて、SPが守っているリサがいる会議中のホールへは正面から入る事はできない。
僕が今、まるで脱出トリックの演者の様に窮屈な姿勢で収まっているこの業務用エレベーターは、最大積載量六十キログラムで、恐らく配膳用のものだろうが、リサに会うためには、これを使うしかなさそうだ。
しばらく、窮屈な箱のなかで、大きな揺れに怯えながら息を殺していると、配膳用エレベーターがガコンと止まった。そして自動で扉が開いた。もし、向こう側からしか開けられないのならば完全にアウトだった。もちろん、中には『開くボタン』はない。料理が自分で扉を開けることはないので当然だ。ここへきて始めて、閉じ込められるというリスクに気が付いた。もともと無鉄砲な計画だ。気にせず先へ進むしかない。
エレベーターから降りると、ホールの脇にある厨房だった。厨房には誰もおらず、薄暗かった。広さは6畳程度で、おそらく、立食パーティーなんかを催す時に簡易的に使われるサブ的な厨房なのではないかと思わせた。
うってつけに、飲料水とトレーが置いてある。スタッフと思わせて、リサの近くに行けさえすればきっとうまくいく、その時にはリサは僕に夢中のはずだ。悪いようにはしないだろう。
僕は高そうな外国製の飲料水をコップに注ぎ、トレーに乗せた。鏡の前で表情と服装を整える、成功か失敗か……勝負は一瞬で決まる。しかし、よくここまでマックの制服でばれなかったものだ。案外違和感がないのかな……と思いつつ、意を決してホールへ向かった。
しかし、ホールへの続くと思われるドアのノブに手をかけた時、ふいに後ろから声をかけられた。僕は恐怖に感電したかのように、一瞬にして全身に鳥肌が立ち、髪が逆立つのを感じた。
「困ったねえ、うちの子に手を出されちゃ……」
僕はゆっくりと振り返った。誰もいない厨房で声を掛けられ、驚きのあまり息もできずに耳を澄ました。高鳴った鼓動だけが静寂に響いている。僕は、心臓は何とか動いているということに少し安堵した。
「最近、君の様なヤカラが増えてね……迷惑しているんだよ」
またしても声が聞こえた。僕は一層目を凝らして声のする方向へゆっくりと足を踏み出した。声の主はまだ見つからない。
恐る恐る足を進めると、さっき飲料水が置いてあったテーブルのテーブルクロスの一部が不自然に盛り上がっているのを見つけた。テーブルクロスの下にハムスターでもいるかのような小さな膨らみだった。今まではこんな膨らみはなかったはずだ。
その膨らみに手を伸ばすと、息苦しさが増していき、空気が重く、どこか冷たくて、もともと薄暗かった厨房が、一層暗くなったような気がした。まるでこの場所だけが世界から切り離されたかのようだった。そして、その異様な雰囲気の中心にあるのが、白いテーブルクロスの小さな膨らみだ。何かがそこに隠れている。そう直感したが、まだ現実にそれが本当にいるという実感はまるでなかった。
僕は、何をしているんだろう? リサに会いたい一心でここまで来たけど、こんな恐ろしい状況が待っているなんて想像もしていなかった。足が震えて、逃げ出したい衝動に駆られる。でも、なぜかその場から動けない。恐怖が足を地面に釘付けにしているようだ。
気がつけば、僕はテーブルクロスに手を伸ばしていた。なぜこんなことをしているのか、理由なんてどこかへ飛んでいってしまった。ただ、とにかく、テーブルクロスを取り除くことが自分の使命のように思えた。この行動力は、きっとタカシが僕にもたらしたものだろう。良くも悪くも、とんでもない影響をもたらしてくれたものだ。
テーブルクロスを引っ張る手は、自分のものとは思えないほどに震えていた。布が床に落ちると、そこには小さな黒い霧の塊のようなものがあった。
僕は息を呑んでまじまじとそれを見つめると、明らかにそれが声の主であったことが判明した。
「――いったい何の用だい?」
また声をかけられたのだ。僕は心の中で叫んだ。これは、悪魔だ……! 間違いない! そうに違いない! その瞬間、小さかった黒い霧は形を変え、天井まで高く伸び上がった。そのまま、幾度もその姿を伸び縮みさせながら、形を整えていく。僕は、子供の頃に感じた、夜中にトイレに行けないほどの恐怖を思い出した。今すぐ布団を頭からかぶりたい! こんなはずじゃなかった。リサに会いたいだけなのに、なぜ僕はこんな恐怖と向き合わなければならないのか。
(助けて……)
声にならない叫びが、心の中で渦巻く。僕はこの場から逃げ出したい。でも、足は動かない。この黒い霧、この悪魔の前に立っている自分が、なぜか信じられない。こんなはずじゃなかった。僕はただ、普通の人間で、普通の生活を送りたいだけなのに。
恐怖が心を支配して、僕は何も考えられなくなった。ただ、この場から逃れたい。それだけが、心の中を埋め尽くす。僕はどうすればいいのだろう。こんなにも怖い思いをするなんて……僕はただ、逃げ出したい。それだけだ。
「まさか、こんなみっともない姿にされてしまうなんてね、全く心外だよ」
黒い霧が何度も伸び縮みを繰り返した結果、やっとその形を定め終わった。背中を伸ばせば五メートルはありそうな巨大な黒牛の様な巨大な生物だ――いや、生物なのかはわからない、何せ今初めて見たばかりの異様なものが、天井に肩と頭の角を窮屈そうに押し当てて……角があって、鼻に輪っかを付けていて……背中には真っ黒なコウモリの様な翼が生えている。
「あ、悪魔!?」
「はん! どっちが! 悪魔とはご挨拶だねえ、しかし、妙な姿にされてしまったものだよ。僕はこの世界にいるときには定まった姿は持っていなくてね、君の頭の中から姿を借りて出てくるんだが――そうそう、ちょうど君にかかった小賢しい魔法のようにね、相手の想う姿にされてしまうのさ、まったく……」
(魔法の事を知っている!?)僕の心臓はもう動いていないのかも知れない……声が出なかった。魔法を知っているなんて……やはり、本物の悪魔に違いない。
僕はトレーに乗せていたリサのために用意した水を一気に飲み干した。カラカラに乾いた喉に、じんわり染み渡って行く、どうやら、まだ僕は生きているようだ。
「悪魔が僕に何の用ですか? ま、まさか、リサは悪魔に魂を売って大統領の地位を手に入れたのか!」
しっくりくる……魔法の力を目の当たりにしてきた僕ならば、容易に信じる事ができる。
「だから、悪魔はそっち、僕は神」
「神? そんな姿をした神様なんか見たことがない!」
「ほう……他の姿をした神ならば、見た事があるとでも言うのかね」
「そ、そんなことはないけど、聞いたこともない」
「まあ、落ち着けよ、何も取って食おうなんて話じゃない、ただ、理沙ちゃんにちょっかいを出すなと言うだけのことだ」
「やっぱり、悪魔はリサを操っているんだな! リサを――日本をどうするつもりなんだ!」
「どっちが神で、どっちが悪魔かなんて、そんなに重要な話じゃない……そもそも、そんなに違いはしない、ただ、どっち側から見ているかだけの違いなのさ、君からみれば私は悪魔に見えるかもしれないが、私から見れば、君は悪魔の手先に見える……そう言う事だ」
「僕が? 悪魔の手先? なぜ? そんな事あるはずがない!」
「だって、魔法を掛けられているでしょ? 魔法って、悪魔の法術だろう……その力、どこから来た? 悪魔からだろ?」
「これはユーマから……ユーマが悪魔なはずがない!」
「はあ、まあいいよ、とにかく、本来は願い事っていうのは大義のために叶えるものなんだ……まあ、僕も少々逸脱している方だがね、それは置いておいて、“悪魔” や “もののけ” って奴は簡単に欲望という力を現実にしてしまうんだ。全く迷惑な話だよ、欲望同士がぶつかれば、必ず争いになるのにさ、多分、それを望んでいるんだろうがね……。さて、君はなぜ魔法の力を手に入れた? その力で何をするつもりだい?」
「そ、それは……」
僕は言葉に詰まった。そもそも、なぜ、魔法を掛けられることになったのか……欲望と言われても、そんな対した欲望なんて背負っていない、ただ……ただ、ユーマが魔法を掛けると言うから……ユーマが信じて欲しいと言ったから……じゃあ、なぜ、ユーマは僕に魔法を掛けたのだろう、ユーマはどこからこの力を持って来たのだろう、自分には損する事が一つもないと言っていた……それは本当なのだろうか。ユーマは悪魔と取引をしたとでも……いや、まさか……。
僕はユーマの事が心配になってきた。そして、きっと、理由は分からないが、全ては僕のためなのだろう。僕はきっと、何も気が付かずに、周りの人に迷惑を――心配をかけてきたんだ。
「――分かったよ、いや、分かったかどうかは分からないけれど、何となく、僕は間違った事をしている様な気がしてきた。それも本当かどうかは分からない、でも、こんな気持ちのまま、闇雲に突っ走るわけにはいかない……おとなしく帰るよ。だから、見逃して……食べたりしないで下さい」
「だから、食べないって……でも、まあ、悪魔の手先にしては殊勝な心掛けだ……よし、君、理沙ちゃんに会って来いよ」
「え? でも、そんなことしたら……」
「いや、大丈夫だろう、君に掛けられている魔法もあらかた検討がついたしね、変な事にはならないだろう」
そう言うと悪魔なのか、神なのか、はたまた牛なのかは分からないが、僕の肩を大きな
僕は大きくバランスを崩して倒れそうになったが、促されるまま、ホールへと足を向けた。
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