第8話 経験と自信
まゆみとの恋愛は、それは刺激的だった。
まゆみに出会うまで、もちろん僕は童貞で、それどころか恋愛と言う物を経験した事が無かった。好きな人はいた。でも、恋人になりたいとか、話をしたいとか、そんなレベルにも達しておらず、見ているだけで……一瞬だけすれ違うだけでも、とても幸せな気分になれた。そんな僕にとって、まゆみは刺激の塊だった。
始めて出会った日に深い関係になれたのは、間違いなく魔法のおかげだろう。僕は何の経験も無かったが、上手にこなす事ができた。いや、それ以上に、まゆみを満足を通り越して彼女の知らない世界にまでも到達させる事もできた。それは、まゆみの理想の男性像が、雄雄しく、猛々しく、他の男どもをことごとく凌駕して余りあるような野生的な男だからだ。僕は、彼に変身した。自分ではなく、彼になったのだ。
ただ、僕は彼の全てを受け入れる事ができなかった、あまりにも違いすぎたからだ。だから、僕は彼にタカシと言う名前を付けた。タカシと呼ぶ事で、自分ではない自分を、何とか認める事ができた。まゆみにもタカシと名乗った。タカシと自分を同じ人間として受け入れられる日が、もしかしたら来るのかもしれないが、今はそうでは無い。
まゆみの部屋から出て一人になると、また、元の自分に戻る。しかし、タカシは完全には消えてしまわないで、僕の心に影響を与えてくる。彼に引きずられてしまう。僕はその後も、何度も何度もまゆみを求め、まゆみも同じように僕を――タカシを求めた。
そんな日々を繰り返すうちに、だんだんと、他の女性も目に入るようになって来た。まゆみとの成功体験は、僕に男性としての自信を付けさせた。タカシの経験は、同時に僕の経験であり、何から何まで手取り足取り女性の扱い方の手ほどきをされているようなものだ。やがて、女性に対しての抵抗感は薄くなり、いつしか他の女性にも声をかける様になった。もちろん、他の女性に声を掛けた途端に、僕は、その女性の理想の男性に変身してしまうので、まゆみと一緒にいる時のタカシは現れない。しかし、完全には消えてしまわない。タカシはそれほど強力で、魅力的な男――オスだった。
それから、数人の男に変身して、数人の女性と恋に落ちた。その時の僕の心の中は、とても複雑だった。人格は変わらず僕のままだが、その言動は別の人間になる。頭の中には自分がいて、それをやっては駄目だ、それは出来ないと叫んでいるが、その時の彼は僕を無視して、どんどん自分がやりたいように行動し、話す。そして、それは、ことごとく相手の女性を喜ばせ、相手の心をどんどんと奪っていく。沢山の女性と恋に落ち、彼女達にとっての、沢山の理想の男になった僕の心の中には、タカシの様に消えきらずに、僕に影響を与えるやつらが何人も増え初め、僕は一体誰なのか自分でも分からなくなって来ていた。
「私……タカシに初めて会った時、あなたの事が金色に輝いて見えたの……きっとこの人だって、何故だか思えたのよ……どうかしたの? タカシ……何だか上の空だわ」
「いや……まゆみには関係ない……」
「何か困っている事があったら、何でも言ってね。私……あなたのためなら、何だってするわ」
「じゃあ、死ねと言ったら、死ねるかい」
「……死ぬわ。でも、できれば、あなたも一緒に死んで欲しい……」
もう、行きつけと言って良いぐらいに足しげく通っているカウンターバーで、まゆみはタカシの肩にもたれて、嬉しそうに話した。まゆみはタカシに心酔していて、最近は部屋を出ようとしても、帰らないでとわがままを言う事も多い。しかし、タカシは気にも留めていないかのように、何も言わずに部屋を出て行く。
僕は、その時のまゆみが可哀想でたまらない。僕ならば、もう少し一緒にいるよと言ってあげるだろうが、タカシの言動は、まゆみをいじめて楽しんでいるとしか思えない。しかし、タカシはあくまでも、まゆみの理想の男性像だ。僕には理解不能だが、タカシに冷たくされて、うち捨てられた人形の様に動かなくなってしまうあのまゆみも、実は、彼女が望んだ姿だとでも言うのだろうか――あの時の白濱薫の凍りついた笑顔を思いだした。やはり、僕には理解できない。もっと、大人になれば杜生としての僕にも理解できる時が来るのかもしれないが……。
急にバーの入口が開き、客が入ってきた。強面で図体の大きなその男が入り口近くの席に座ると、狭い店がより狭く見える。茶色いスーツが、木目を基調とした店の内装にマッチしていて、まるで、はじめからそこに置いてあったオブジェの様だ。
「じゃあ、もう行く。今日は、ある男と会う約束があるんでね」
「そう……じゃあ、私も部屋へ帰るわ。だけど、約束してね。あんまり危険な事はしないでね」
「ああ、分かっているさ。でも、俺がヤラレル事なんてありはしない。そんな奴がいたら会って見たいぐらいだね」
「きっと……きっとよ? 何があっても、必ず私のところへ、元気な姿で返ってきてね」
そう言って、二人は立ち上がると、さっきの客の背中と壁の間の、狭い隙間を通り抜けて外へ出た。タカシは、見つめるまゆみに何の残心も無いかのように、背中を向けて歩き出した。しかし、僕には分かっている。振り向けば、まゆみがこちらを見つめ続けている事を。
僕は、振り向いて駆けだして彼女を抱き締めたい。でも、タカシはそうしない。もしかしたら、僕がしたいように、まゆみを抱きしめたら、まゆみは僕の事を嫌いになるのだろうか。
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