第7話 夜
今日はアルバイトに身が入らない。ずっと、白濱薫に自分が言い放った言葉を気にしていた。ユーマは、彼女が望んだ言葉だと言うが、僕には信じられなかった。
(好きな人に冷たくされたいなんて……それって、マゾ? いやいや、そんな風には見えやしない。本当は僕に何と言って欲しかったのだろうか……僕は何と声をかけるべきだったんだろうか……ああ、そうだ、僕に分る筈がない。そんなに臨機応変に気の利いた言葉が出る様だったら、僕は決して引きこもったりなんかしなかったろう。あの場面で僕がかけられる言葉は何もなかったんだ)
僕は自虐的な答えに辿り着いた。あれが最上の答えだった、なぜなら、その他には選択肢を持っていなかったのだから……。
アルバイトに身が入らなくても、誰かに叱られる事は無い。誰もが僕を好きだから、良いように解釈してくれる。ぼうっとしていても(風邪を引いたんじゃない?)とか(疲れたろうから休憩していいよ)なんて言葉をかけてくれる。そんな事を言われてしまうと逆に休めない。僕は、両手で頬を叩いて集中しようとした。しかし、その集中力をかき乱す香りが漂ってきた。甘ったるいこの香り……これは確か……。
「Aセットを下さい。コーラでね……」
艶っぽい声の主には見覚えがあった。相変わらず大きく胸元の開いたワンピースだ。僕はどうにか目線がそこに行かないようにと努力したが、それは必要のない事だった。なぜなら、彼女と目があった瞬間、僕の心は平静を取り戻し、赤くなりかけたほっぺたからも熱が冷めて行くのを感じた。白濱薫と話した時の感覚を思い出していた。
「チキンはどうなさいますか?」これが最上の答えなのだろう……きっと。
「あら、あなた、この前の店員さん? ごめんなさい、顔を見ていなかったと思うの……覚えていなくて……そうね、チキンも頂くわ」
「チキンだけで良いんですか?」
「そうね、じゃあ、あなたも頂こうかしら」
エントランスのセキュリティーは鍵一本で解除できる。指紋認証と、暗証番号を打ち込むパネルがあるけれど、住人が使うのは昔と変わらず鍵一本だ。結局鍵さえ手に入れば、セキュリティーが有っても無くても意味が無い。何だか不思議に感じながら、濃い茶色の木材を基調とした、落ち着いたエレベーターホールで、数字がカウントダウンするのを数えていると、ぴったりと寄り添って来た彼女がコーラを差し出した。ドキドキしながら、ストローを咥えた。彼女は僕の唇から目を離さずに、近くにマックがあるから便利だと言った。
エレベーターの扉が静かに開く「初めてなんだ……アルバイトって」と、彼女の反応を見るために、僕は冗談ぽく言ってみた。彼女は、ぷっと吹き出すと、あなたみたいな人がカウンターにいたら、怖がって誰も並ばないんじゃない? と笑った。どうやら、カウンターの向こう側でスマイルを売っていたつもりの僕と、今エレベーターの中で、この白くて柔らかい頬を左肩に摺り寄せられている僕とは、別の人間の様だ。この魔法は相手が意識している時だけに発動するのかもしれない『そう言う目』で見た時だけ、『そう言う風』に見える……。しかし、マックの店員は、普段は路傍の石ころ程度にしか見られていないのだろうか……そんな事は無い――と、考える間もなく、エレベーターは十階に到着した。
「散らかっているけど……ごめんなさい」
彼女はそうは言うが、きちんと並べられたハイヒール達が、そんな事あり得ないよと言っているようだ。差し出された清潔そうなスリッパを履いて顔を上げると、薄暗い廊下を先に歩いて行く彼女が別の世界の人間の様に見えた。暫くそのまま立ち尽くして、改めて彼女を眺めた。
肢体をしならせる彼女の一歩一歩が、生々しい実感を深めていった。女性の部屋で二人きりなんだと思うと、唾液が口の中に溢れた。左右にたわむワンピースのライン――派手な化粧をしているが、部屋の中は落ち着いている。彼女が、ゆっくりと入って行った突き当たりのドアの向こう側は暗くてよくは見えないが、整然としていて、まさか、僕の部屋の様に自分の居場所を忘れたマンガやゴミ達が、大きな顔をして部屋の真ん中に居座っている様な事はなさそうだ。
ゆっくりと振り返って肩越しに視線を投げる彼女を追ってリビングに入ると、彼女は毎日そうしているかの様な自然な手つきで僕を抱きしめ、キスをした。僕は、体を硬直させたまま、まだ名前も聞いていない――と抵抗すると、まゆみと呼んで……とだけ言い、絡みついた冷たい腕を解かずに、そのまま、ゆっくりとソファへ倒れた。
何度も何度もキスをしながら、まゆみは、短いスカートを自分でたくしあげ、僕のベルトを乱暴に抜き取った。まるで台本に書かれた様な見事な段取りで、僕とまゆみは、この夜が明けてしまうのを惜しんで、何度も何度も繰り返した。
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