第5話 かわるものとかわらないもの2
「いらっしゃいませ、ご注文は何に致しましょうか」
アルバイトを始めて一週間が経った。まさかこんな展開になるとは思わなかったがトントン拍子に話が進んだ。と言うのも、面接のためにマックの店の奥へ連れて行かれた後、三十六歳独身女性店長が僕の事を一目で気に入ったと言って、履歴書は後で良いから、明日から働いてくれと言われたのだ。僕は断る事もできないまま、ただ、はい、はい、と返事をするばかりで、本意ではないが働く事になってしまった。アルバイトなんて全く自信が無く、その日の夜は、明け方までほとんど眠れなかったが、ユーマに無理やり連れて来られ、なし崩し的に働きだした。
しかし、久しぶりに体を動かす事は、程よい疲労感が心地良く、悪い気はしなかった。職場の人もみんな良くしてくれる。良くし過ぎてくれて、怖いぐらいだ。二十六歳バツイチ子持ち女性アルバイトと、三十六歳女性店長が僕を取りあって、しばしば揉めるのだ。
ユーマの話を鵜呑みにするわけではないが、魔法は何かしらの効力はあるらしい。でなければ、ずっと引きこもっていた様な僕が、一目で気に入られて採用になる事なんてありえない。もしかしたら、催眠術的な何かかもしれない。魔法と言って僕を信じ込ませ、暗示をかけられているのかもしれない。ともかく、このまま様子を見るしかない。物事はどちらかと言うと、良い方へ動き出しているのだから……。
「杜生君、この後レジに入ってね」
「は、はい!」
「返事が良いわねぇ……とっても良い感じよ」
人と話す事ができなくなっていた僕だが、何も言わなくても、相手の方が勝手に話しかけてくれて勝手に好きになってくれる。仕組みかはわからないが、彼女達には、僕が理想の男性にでも見えるかのようだ……と思っていたが、あながち間違いでも無いらしい。彼女達と話している時に気が付いたのだが、僕を褒める言葉が、人それぞれに違うのだ。つまり、それぞれにとっての理想の男性像に『見える』らしいと言う事だ。会話の端々に、外見についての感想がちょくちょく混ざってくるのだが、背が高くてカッコ良いとか、太い腕がたくましいとか……。僕は中肉中背で、背が高い方でも、筋肉質でもない。彼女達の目には、僕とは違う、別人が映っているかの様だった。
僕にとっては、僕には全く当てはまらない褒め言葉を言われても、正直ピンと来ないのだが、ちやほやしてくれる分には悪い気はしない――数日前まではそう思っていたのだが、慣れと言うのは怖いもので、今では、ちやほやされるのが当たり前で、普通の事の様に感じ始めていた。自分が生まれた時から、本当に彼女達にとっての理想の男であったかの様に……。
「いらっしゃいませ、何に……なんだ、ユーマか」
「なんだはないだろ、お客様だぞ」
「はいはい、何に致しましょうか、お客様」
「ふむ、ではいつものやつを」
「かしこまりましたお客様、では、この番号札を持って席でお待ち下さい。もうすぐ上がりだから待ってなよ」
「りょーかい!」ユーマは何だか最近楽しそうだ。何か良い事があったのだろう。ニコニコ微笑みながら窓際の席につき、頬杖を付いてこちらを眺めている。
ユーマの笑顔を目の端に感じながら、僕は厨房を振り返り、オーダーを出した。さて、これで今日の仕事は終わりだ――と思った時、背に回したレジから声がかかった。どうやら、もう少し仕事をしなければならないらしい。
振り向きざまに「いらっしゃいませ、何に致しましょうか」と声を掛けると、かすかに甘ったるい香りが鼻をくすぐった。
「じゃあ、Aセットを下さい。コーラでね……」
艶っぽい声の主に、つい、見入ってしまった。ボディーラインにぴったりと吸いつく、明るいグリーンのワンピース。「――はい、少々お待ち下さい」と、言ったまま、僕は彼女の、大きく開いた胸の谷間から目が離せなかった。鮮やかなグリーンと、やわらかそうな白い肌の、淡いコントラストがまぶしい……。
「やっぱり、チキンを追加してもらえるかしら」はっとして、急いでレジを打ち直した。これが女の色香と言うものだろうか、僕は頭がくらくらしながら、厨房へ注文を伝え終わると、そのまま、店の奥のロッカーに直行した。ちょうど上がりの時間だったのを理由に逃げてきたのかもしれない。着替えようとロッカーを開けると、扉裏の鏡に、真っ赤な顔をした自分を見つけた。
「はあ……刺激が強いな」
胸の谷間以外にも覚えている事があった。くっきりとした二重瞼に、きりっとしたアイライン、化粧は派手だったが整った顔立ちは、素顔を見てみたいと言う欲求を掻き立てる。この魔法は彼女にも有効なのだろうか……。つい、良からぬ妄想をしてしまう。
◇
着替えを済ませて外に出ると、ユーマが、薄暗い電灯の下で待っていた。ご機嫌なユーマが、どこに遊びに行こうかと目を輝かせている。
中学のころから変わらない少年のままのユーマを見ていると、閉じこもったまま、何の刺激もなく暮らしていた僕と何が違うのだろうかと考えてしまう。ずっと外の世界にいたユーマは、いろいろな人に会い、いろいろなものを見て、聞いて、きっと、僕の何倍も成長したはずなのに、変わらないその笑顔が皮肉に感じられた。
僕は何ももせず、変わっていないはずなのに、何もかもが変わってしまった気がする……ユーマの笑顔を見るのがなんだか辛くなり、顔を伏せたまま歩きだした。ユーマは知ってか知らずか、黙ったまま並んで歩く。
なんとなく、繁華街の方へ向かいながら沈黙の時間を二人で歩いた。とにかく、ユーマのお陰で、僕は何かが変わり始めた。もう、元の引きこもりの生活へ戻ろうとは思わない、しかし……。なんだか、釈然としない思いをどう表現して良いかも分からないけれど、何か話さなければと、口を開いた時だった。僕の声がのどを振るわせる前に、聞き覚えのある声が鼓膜を振るわせた。
「も……杜生君、ユーマ君、こんばんは、これからどこへ行くの?」
白濱薫は唐突に僕らの前に現れた。また、鼓動が高鳴る。僕の心臓はこんなに忙しく動いていたら、随分と早く寿命を全うしてしまうかもしれない。僕は背の高いユーマの顔を見上げた。ユーマはにやりと笑い、彼女の方へ首を少し傾け、眼で合図した。
(呼ばれているのは君だぜ、杜生君)
そう心の声が聞こえたような気がした。僕は、真っ直ぐに彼女の方を向いて、まじまじと眺めた。
白濱薫――間違いなく本人だ。僕がかつて恋い焦がれたあの頃の頬笑みが、今この瞬間、ユーマではなく僕に注がれている。
あの頃と同じように、僕は彼女になんのアプローチもできない。きっと、このまま立ち尽くすだけなんだ……そう思っていたが、目が合ったその瞬間、僕の鼓動はなだらかに平静を取り戻し、また駆けだしそうになった恋心は唐突に影を潜め、僕の口は平然と話を始めた。
「薫、悪いな、これからユーマとダーツバーへ行くんだ。付いて来ても構わないけれど、相手はできないよ」
(え? 今のは僕が話した言葉なのか? まさか、そんな事少しも思っていない。何も話せないままはまずいけど、よりによってこんなセリフをこの場面で言う必要がどこにあるのだろう――僕はおかしくなってしまったのかもしれない……)
白濱薫は笑顔を凍りつかせて、立ちすくんでいる。僕とユーマは、気にも留めずに彼女の横を通り過ぎ、そのままダーツバーへ向かった。
「よし! 連続ブルゲットォ!」
「北司伊馬君……ずいぶん楽しそうだねぇ」僕は皮肉をこめてユーマに声をかけた。ダーツーバーへなんて来るつもりもなかったのに、あれからぶっ続けで八ゲーム目に突入した。
「杜生は楽しくないのかよ、俺、楽しいけど」
「はあ、なんで僕はあんなこと言っちゃったんだろう……」
「ああ、白濱の事か、いいんじゃない?」
「良くないだろ! だって、きっと傷ついているよ、白濱さん……」
「傷つけたのは……君だ!」ユーマはダーツを僕の胸めがけて投げつけるそぶりを見せて楽しそうに笑った。ユーマは本当に楽しい時には、ウキャキャと笑う。
「はあ、そうなんだよなあ、なんであんなこと言っちゃったんだろう……」
「あれ? 気が付いていないの? 魔法だよ、魔法――相手の理想の男性像に変身したのさ、杜生君」
「は? どういう事だよ」
「どういう事もないさ、その言葉の通り、白濱自信が君からそう言って欲しいと思ったのさ。白濱の理想の男性は、あの場面で、そう言う男なんだよ」
「そんなわけ無いじゃん、誰が好き好んで、好きな相手に傷つけられたいんだよ」
「そうだよねぇ、まったく、女ってもんはよくわからないねぇ、ウキャキャキャキャ」
相変わらずユーマは楽しそうに笑い、僕は混乱の中で右手のダーツを睨んだ。
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