第8章 トル・メダの歌(1)
死すら覚悟していたデュルケンは、自分の命がいまだに続いている事を自覚し、のろのろと顔を上げた。
「……デュー」
涙をこらえているかのようなか細い声が鼓膜を震わせる。腕の中に視線を向ければ、守りたいと思った少女は、潤みきった瞳でしっかりとこちらを見つめていた。その色はもう、先程までの感情の無い漆黒ではない。意志の光の宿った藍色だ。
「ごめ……っなさ……」パルテナがしゃくりあげる。「パリィのせいで、こんな……ごめんなさ……っ!」
「パリィのせいじゃない、俺の力不足のせいだ」
いつものような突き放す口調ではなく、努めて安心させようという穏やかな声色で言い、少女を抱く腕に一層の力を込めた。
「恐い思いをさせてすまなかった」
その一言で、パルテナの緊張の糸はぷっつりと切れたらしい。少女はがばりとデュルケンにしがみつくと、声をあげてわんわん泣いた。
腕の中の熱が、自分も彼女も生きているのだという実感を与えてくれる。安堵の息をついた時、ひんやりとした手が頬を撫でている感覚に気づいた。家が襲撃された時に感じたあの感覚だ。
そしてデュルケンは、その正体を経験や伝聞ではなく風詠士としての直感で知った。辺りを見回して呼びかける。
「トル・メダ?」
『やっと我らに気づいてくれましたね、イルザの末裔よ』
静かに答えるその声が、デュルケンの勘が正しいと証明してくれた。
『我らはずっとあなたの傍にいた』
『あなたが生まれた時から、ずっと、ずっと』
『あなたは怒りの感情を我らにぶつけるばかりで、我らは我らの力を正しく用いる事がかなわなかった』
『だが、我らはあなたと対話する事を覚えた』
『そのミ・ルラのおかげで』
トル・メダの声は輪唱のように脳内に響く。デュルケン以外の人間には聞こえていないのだろうか。パルテナを見下ろすと、少女はきょとんとした表情を見せた。
『あなたはミ・ルラを救おうとした。人を慈しむ事を覚えた』
『それこそ風詠士の本質。誰かを思いやる心』
『その感情を覚えたあなたに、我らの声はやっと届いた』
デュルケンはさっと顔を赤くしてうつむく。自分が目の前の少女をどう思っているのか、風の精霊達には筒抜けだったという事か。パルテナ自身に聞こえていなくて本当に良かった。
『風詠士』
トル・メダがおごそかに呼びかける。
『風を詠む事を覚えたあなたに、今こそ我らの力を託そう』
『共にオズ・クルの王を討とう』
「リガ・ゲルニカを?」
デュルケンは思わず声に出していた。リガ・ゲルニカは、パルテナ――ミ・ルラの身体から追い出される事で消滅したのではなかったのか。
『リガ・ゲルニカは、遙か過去から蓄積されたオズ・クルの怨念の塊』
『その意志は、ミ・ルラから退けただけで浄化する事はかなわない』
すると、トル・メダが言い終わるのを待っていたかのような頃合いで、空がごうと啼いた。みるみるうちに王城の上空に暗雲が立ち込め、黒い稲光が走る。
『風詠士、許さぬぞ、イルザの末裔』
腹の底に響くような、それだけで生きとし生けるものを押し潰してしまうのではないかという重々しい声が、一帯に響く。
『風詠士もそれに従う愚かな人間も、全てを焼き払い、この都を地獄に変えてみせようぞ!』
黒雲から、黒い雷がこの王城を目がけてまっしぐらに降って来た。
デュルケンは反射的に右腕を空に向かって掲げる。風詠士の意図を受け、周囲のトル・メダが即座に反応する。風が障壁となって、王城に到達する前に雷を受け止め拡散させた。
あれだけ酷く身を打ったリガ・ゲルニカの黒い雷を四散させたトル・メダの力に、デュルケンは表面上こそ冷静を装いながらも、内心舌を巻かずにいられなかった。
ただ怒りを振り撒くのではなく、守りたいと願えば、トル・メダはこれだけの力を貸してくれたのだ。もっと早く気づいていればカシダの命も救えたかも知れない。
だが今は死した人を想う時間ではない。まだ生きている人間、自分を信じて戦ってくれている人々、そして腕の中のこの温もり。彼らを守る為に、デュルケン自身が戦う時なのだ。
「――デュルケン!」
背後から飛んで来た声に振り返る。レジーナがゾラ・イグと並んで駆けて来る所だった。
「レジーナ?」
「パリィも無事なのね。良かったわ」
レジーナはパルテナが正気である事に安堵の吐息を洩らし、少女が少し身を硬くしたのに気づいて、「……ああ」と自分の格好をあらためた。武装して、返り血とケヴィンの手当てをした時についた血で汚れた姿は、少女がいつも知っているレジーナの姿ではない。
「ごめんね」彼女は肩をすくめた。「恐いよね」
だが、少女はふるふると首を横に振る事でレジーナの言葉を否定した。
「デューも、レジーナも、みんなみんな、パリィよりもっと恐い思いをしてきたんでしょ。頑張ってるみんなを、恐いなんて言えない」
レジーナが虚を突かれたように口を開き、ゾラさえ三白眼をみはる。少女なりにこの戦いを理解して恐怖を克服しようとしている事実に、デュルケンも胸を打たれた。
だからこそこの戦いを終わらせよう、自分の風詠士の力で。
デュルケンはパルテナを抱いていた腕をそっと離すと、無言で少女をレジーナの方へ押しやった。
「デュー?」
藍色の瞳が戸惑い混じりに問いかけて来る。真正面からその視線に見つめられると、喉の奥からこみ上げて来るものがあったが、少年は意識してそれを飲み込んだ。
代わりに、ほんの少しだけ口元を持ち上げて笑み返すと、それきり少女から目を逸らし、上空を見上げる。
空にはどろどろとした黒い雲が、呪詛のように低い唸りを発しながら渦巻いている。
「……行こう、トル・メダ」
最早身近にいるのを常に感じられるようになった風の精霊達へ呼びかける。風詠士の一声に反応し、トル・メダがぶわりとデュルケンを取り巻く。たん、と軽く床を蹴るだけで、少年の身体は空中へと高く、跳躍よりも軽やかに飛翔した。
パルテナが自分の名前を力一杯に呼んだ気がする。
彼女の笑顔を守る為に戦おう。
今まではただ、死にたくない、死ねない、という一辺倒な我欲だけで生きて来た。カシダの命を犠牲にした事に後悔ばかりを覚えて時間を費やした。
だが今は、生き永らえた命が、今この時の為にあったのだと思える。
パルテナの為に、彼女が笑って暮らせる未来の為に、この命を費やそう。強い決意と共に、デュルケンはリガ・ゲルニカの黒い意志と向かい合った。
『……イルザ』
オズ・クルの王が憎々しげに風詠士の祖の名を呼ぶ。
『イルザ、イルザ、イルザ!!』
狂ったような連呼の後、黒の雷が何本もの腕を伸ばして来た。
「防げ、トル・メダ!」
デュルケンの声に、トル・メダは手足のごとく忠実な反応を示した。敵と同じだけの数の旋風を巻き起こし、雷が地上に届く前にことごとくかき消す。
風に乗って、まるで翼が生えたかのごとく宙を飛ぶデュルケン目がけて、雷の雨が降り注ぐ。トル・メダは受け止められるものは風の壁で受け止め、できぬものはデュルケン自身の飛翔針路を逸らす事でかわした。
「どうすればいい」
『あの雲がリガ・ゲルニカの意志』
『あの雲に接近して我らの力を叩き込みなさい』
『我らの力でリガ・ゲルニカの意志を切り裂く』
リガ・ゲルニカを止める方法を問いただすと、トル・メダは即座に答えた。
しかし、彼らはさも簡単そうに言ってくれたが、雷の嵐をかいくぐってあの雲まで肉薄するのは、かなり困難な芸当のような気がする。
躊躇したその一瞬がつけいる隙を敵に与えてしまった。爆音が空に響き、ひときわ強烈な稲妻がデュルケン目がけて降り注ぐ。咄嗟にトル・メダに念じて障壁を作ったが防ぎきれず、雷撃が全身を殴りつけた。
風を制御し続ける事がかなわずに、真っ逆さまに墜落する。デュルケンの身体は別棟の屋根を突き崩して一室に落ちた所で、やっと止まった。
瓦礫の山からようよう身を起こす。全身が軋んで悲鳴をあげたが、風詠士の危機に反応したトル・メダが防御障壁を張って衝撃を和らげていてくれなければ、これだけでは済まなかったはずだ。骨という骨が砕けて死んでいただろう。
どろどろと暗雲が啼く。上空のリガ・ゲルニカが笑ったふうに聞こえて苛立ちを覚え、しかし、怒るな、と自制する。憤怒を原動力に戦っては今までと一緒だ。御しきれない力を持て余して、闇雲に他人を傷つけてばかりだったあの頃と。
リガ・ゲルニカはデュルケンの邪魔が入らなくなったのを良い事に、破壊の雷を城のあちこちにばら撒き始めた。イルザ王の時代から続いた建物が次々と壊れてゆく。被害はいずれ城下街にも及ぶだろう。
そうなる前に何としても奴を止めなくては。雷撃をくらい続けておぼつかなくなってきた足に力を込めて立ち上がった時。
「デュー!」
名前を呼ぶ声に振り向けば、藍色の瞳と視線が交わった。場違いな花の香りが鼻に届く。
「お前……何で!」
「できるから」
デュルケンが戸惑いながら何とか言葉を発すると、パルテナは、時折見せる十一歳という年齢にそぐわない凛々しさを備えた表情で、きっぱりと言い切った。
「パリィはミ・ルラとして、デューを助ける事ができるから。だから一緒に行こう」
駆ける足音が近づいて、手が差し出された。小さな手だ。デュルケンのそれに比べれば、まだ子供で、未熟で。なのに、デュルケンも及ばない強さを秘めた手。
デュルケンの大きな手がパルテナの小さな手を力強く握る。手を繋いだ瞬間ミ・ルラの能力が発動し、パルテナの瞳が藍色からデュルケンと同じ金緑へと変化した。
二人分になった風詠士の力を受けて、トル・メダが歌を奏でる。
それは、新たな風詠士の誕生とミ・ルラの覚醒を喜び、闇の一族を駆逐して次なる時代を築こうと願いを込めた、高らかな歌だった。
少年が床を蹴る。ぶわりと風が踊り、手を繋いだ少女と共に遙か上空へと舞い上がる。
急速に迫る風詠士を前に、リガ・ゲルニカは狼狽したようだった。無茶苦茶な雷が襲い掛かって来る。だが、増幅されたトル・メダの力は完璧な障壁を作り上げて、ことごとくの雷撃をかき消した。
『風詠士、ミ・ルラ』トル・メダが歌う。『今こそ我らの力を』
パルテナの手を通じて、今までに無い力が湧いて来るのがわかる。それを受けてデュルケンは宣言した。
「リガ・ゲルニカを砕け、トル・メダ!」
どっ、と。
圧倒的な空気の奔流が弾け、黒い雲へとぶつかってゆく。耳をつんざくような轟音が響き渡った後、雲がゆっくりと散り始めた。
『覚えておけ、風詠士』
リガ・ゲルニカの恨みを込めた声が聞こえる。
『我は決して滅びぬ。貴様らがオズ・クルを敵視し、オズ・クルが貴様らに憎悪を募らせる輪廻が続く限り、我が意志は再び形を作って、この地に災厄をもたらしてみせようぞ』
「そんな事はさせない」
デュルケンは散りゆく雲を見すえてしっかりと言い切った。
「作ってみせる、そうならない未来を」
俺が、と言いさし、首を横に振って、傍らの少女を見下ろす。
「俺達、ミナ・トリアに生きる全ての人間が」
パルテナは、最前までの大人びた様子はすっかり消え失せ、無邪気な子供の表情になっていた。瞳の色も既に金緑からいつもの藍色を取り戻している。
そんな少女に笑み返しながら、少年は少女と共にトル・メダの風に守られて、地上へと降り立つ。
その時には、リガ・ゲルニカの意志が形作っていた暗雲はすっかり消え去り、顔を覗かせた太陽の光が二人を優しく照らし出していた。
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