第8章 トル・メダの歌(2)
ミナ・トリア変革の戦いは終結した。
愚王ベルギウスは天誅を待たずに殺され、手を下したメティラ・ネフロは、満身創痍ながらも革命軍に身柄を拘束された。国を乱した元凶とも言える彼女にはいずれ、厳しい処罰が訪れる事だろう。
トル・メダと語り合える風詠士が再び現れた事で、ミナ・トリアの地はきっと、穏やかな風と、澄んだ水と、肥沃な土地を取り戻せる。人々は期待に胸を弾ませ、十数年ぶりに心からの笑顔を隣人と交わし合えたのだった。
そして、黒い雷の攻撃であちこちが崩れてしまった城から、蒼髪に金緑の瞳の少年が姿を現した時、城門前につめかけた民の興奮は最高潮に達した。
彼らは口々にデュルケンの名を叫び、我らの新たな王よ、と少年を讃えた。
「ほら、皆が君を呼んでいる」レジーナに支えられたケヴィンが笑いかける。「出て行って、手を振ると良い。風詠士の再来に皆が喜ぶ」
死の河メーテ・リオの岸辺まで落ちかけたケヴィンは、ゾラの助けによって命を繋いだ。毒に侵食されかけた足のせいで、今まで通りの騎士として立ち回る事はできなくなるだろうが、時間をかけて訓練してゆけば、日常生活に支障が無い段階までは回復する事が可能だと、ゾラが語った。
ケヴィンに促され、デュルケンは歩き始めた子供のようによたよたしながら、人々の前へ進み出てゆく。仏頂面のままだったが、言われた通りに片手を挙げて振ってみせると、更なる歓呼が辺り一帯に鳴り響いた。
こんな時どういう顔をすれば良いか、カシダは教えてくれなかった。どこまでも肝心な時に役に立たない親だ。途方に暮れたデュルケンの視界の端に、こちらへ歩み寄って来る見知らぬ人物が映ったので、彼は視線をそちらに向けた。
「我らがミナ・トリアの真なる王、デュルケン・フォード様」
その人物はデュルケンより五、六歳ばかり年上だろう男性だった。端正な顔を生真面目に引き締め、膝をついて深々と頭を垂れる。
「私はミナ・トリア先代宰相の一子、アリオス・ニコライと申します。父を殺され隠遁しておりましたが、王亡き今、正統なる継承者に再び仕えるべく、こうして馳せ参じました」
「アリオスは信用できる協力者だよ」
何故今になって現れたのかと、デュルケンが警戒心を持ったのを見抜いたのだろう、向こうからケヴィンの声が飛んで来た。
「今回の蜂起計画を立ててくれたのも彼だ。その頭脳はあてにしていい」
「口添えありがとう、ケヴィン」
同志に笑いかけて、アリオスは再びデュルケンに向き直る。
「デュルケン様、どうか我らと共にいらしてください」
気づけばアリオスの後ろには、何人もの武官、文官らしき男女が立っていた。きっとその誰もが不遇の時代を過ごしていたのだろう。そして待ち望んでいる。ミナ・トリアの新たなる王の治世を。
王に、なるのだ。
その実感がいきなりデュルケンの胸に迫って来た。
もう自分はカシダの息子ではない。行くあて無く猫目石の瞳をさまよわせる迷い猫のような身分でもない。身近に感じる風の精霊と語り合いこの国を正しい方向に導く、風詠士なのだ。
そうなれば。
ふっと視線を向けた先には少女がいた。小首を傾げて、赤毛をふわんと揺らしている。
その姿を見た途端、胸がぎゅっと締め付けられたように苦しくなり、デュルケンは走り出していた。きょとんと目をみはる少女の前で止まり、両肩に手を置く。
「パリィ」
藍色の瞳を見つめ、ゆっくりと言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「お別れだ」
唐突に告げられたその意味を理解できなかったのだろう、少女はぱちぱちとまばたきをした。それから、藍色の瞳が驚きに揺れる。
「……なんで?」
「俺はミナ・トリアの王になる。お前が安心して笑って暮らせる国を作る為に。だから」
一拍間を置いて、彼は言い切った。
「もう、一緒にはいられない」
風詠士とミ・ルラとはいえ、次代の王と身寄りの無いただの娘。世が世なら出会う事も無かったはずの二人だ。
デュルケンは父王のせいで並ならぬ人生を送って来たものの、同時に、この少女に出会えて人間らしい感情を覚える事ができた事には、感謝している。だが、こんなふうに胸を切り裂かれるような別れが訪れるなら、最初から出会わなければ良かったのではないか。そんな恨みに思う気持ちも、少なからず心の内で渦巻いていた。
パルテナは彼女なりにデュルケンの言葉を咀嚼し、理解したようだった。
「……わかった」
長い沈黙の後、少女は吐き出すように言う。声が震えていた。
「でも最後に、パリィのお願い聞いてくれる?」
「何だ」
「あのね。こうやって」
身を屈めろ、と、パルテナが仕草で示したので、言われた通りにする。一瞬後。
柔らかい唇の感触が頬に触れ、赤毛が鼻をくすぐった。
「ママに言われたの」
花の残り香を漂わせながら身を離し、少女が微笑む。
「いつかお嫁さんにして欲しい人ができたら、こうしてあげなさいって」
それを聞いた途端、デュルケンの涙腺はぶわりと決壊した。カシダが死んだ時にも流さなかった涙が、あとからあとから溢れて頬を伝う。
『男泣きなんてみっともないぜ、王様』
今この場にカシダがいたらそうやって笑い飛ばしただろう。そう想像して、自分も笑おうとすればする程、少女との別れがこんなにも悲しいのだと痛感して、水の形を取った感情は止まらなかった。
かなえたい、パルテナの願いを。
だがデュルケンは、素直に好意を表せるほど子供ではなく、かと言って、果たせない確率の高い約束を平気で口にできるほど大人でもなかった。
だからせめて、思い出を残そう。デュルケンはそう決意して、風切り刃のペンダントを取り出すと、そっとパルテナの首にかけ、そして告げた。
「キノコ、一緒に採りに行きたかったな」
パルテナが目をしばたたいた。少女も泣いていた。
「デューの分まで、採っとく」
パルテナが泣きながら笑う。くしゃくしゃになった顔はしかし、誰よりも、何よりも美しく輝いて、デュルケンの心に焼きついたのだった。
「ちゃんとニンジンと一緒に食べるよ」
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