第5章 還らぬ命(2)

 家の前まで辿り着いた時、建物はごうごう音を立てて燃えていた。街の心ある者達が駆けつけ、井戸から桶に水を汲んで必死の消火活動にあたっているが、焼け石に水である。

「パリィ、デュルケン、無事だったのね!」

 唖然として見入るしかなかったデュルケンとパルテナに声をかける者がいて、二人同時に声の主を振り返る。

 レジーナが駆けて来るところだった。その腕には小さい子供が抱かれ、びいびい泣き声をあげている。避難する途中に転んだのか、膝が派手にすりむけ血がにじんでいた。

 彼女の後ろから家の者達が続いた。誰も彼もが呆然としている。流石の悪ガキサムさえ震えのあまりにがちがち歯を鳴らして、足取りがおぼつかない。

 デュルケンは面子を見渡し、欠けた者がいない事を確認して安堵の息をつく。が。

「……サティは?」

 パルテナがぽそりとこぼし、身をよじってデュルケンの腕を振り切った。地面に飛び降り、炎に包まれる家へ向けて走り出そうとする少女の肩を、デュルケンは咄嗟につかみ止める。

「何する気だ」

「サティが」少女が切羽詰まった表情で振り返った。「サティが死んじゃう!」

「馬鹿か、ぬいぐるみごときに!」

 デュルケンは怒鳴りつけていた。この少女に罵声を浴びせるのは一体何度目だろう。

「死んだら会えないんでしょ、サティに会えなくなるのはいや!」

「サティは人間じゃない、死なない! だがお前は火にまかれたら死ぬんだぞ!」

 その言葉に、乾きかけていた少女の瞳が再び岸水寄せる。

「わかんないよ! 何でパリィは死んで、サティは死なないの!?」

「わかれ!」

 あまりのきつい物言いに、レジーナが顔をしかめて「やめて頂戴」と低くたしなめたが、デュルケンの感情の噴出は止まらなかった。パルテナに死の事実を突きつけてしまった事まで知ったら、彼女は更に怒りをあらわにするだろう。だが。

「だって、だって、サティはパパがくれた……」

 涙に混じるパルテナの一言が、デュルケンをはっとさせた。

 理解する。サティは、両親を殺され独りぼっちになった少女に残された唯一にとって、親との繋がりを感じる存在だったのだ。

 そして同時に思い出す。カシダが自分に残してくれた物は何も無い。デュルケンの生、それ以外には。

 それを寂しく感じた事など無かった。だが、今改めて考えると、何も残らずに忘れ去られるのは何て悲しい事だろう。

 忘れたくない。忘れ去られたくない。絆の証が残らないのは、嫌だ。

 そんな事で、目の前の少女が深く嘆くのも。

「――デュルケン?」

 レジーナが不審そうに名を呼んで来た時には、デュルケンは行動に移していた。桶をひとつ、ひっさらうようにつかむと、ざばりと頭から水をかぶる。

「ちょっと、待ちなさい! やめなさい!」

 そして、彼女の制止の言葉も聞かないまま、いまだ火の勢い衰えぬ家の中へと飛び込んでいた。


 じりじりと炎の熱が肌を刺す。ずぶ濡れの状態でも、熱さを感じる事には変わりが無い。

 火の勢いの激しい所を避けながら進む途中、デュルケンは、パルテナにサティの置き場所を訊かなかった事を今更ながら思い出した。後先を考えなかった浅はかさを悔いたが、今から戻る暇など無い。

 己の直感だけを頼りに家の中を走り、子供部屋へたどり着いた時、炎の照り返しを受けてきらりと赤く光るガラス玉と視線が合った。

 赤いチェック柄の布を使ったくまのぬいぐるみを認識して、手を伸ばそうとした、その瞬間。

 背後から高速で迫って来た強烈な敵意を感じ、デュルケンは身を沈める。一瞬後、最前までデュルケンの頭があった位置を、びゅんと薙ぐ刃の気配が通り過ぎて行った。

 即座に振り返り、敵意の主を確かめる。

 不意打ちの一撃をかわされても動じる事無く悠然とたたずむのは、全身黒ずくめの男だった。男、というのは、細身と見せかけて無駄の無い筋肉のつき方をしている身体で判断できる。

 毒蛇。

 年齢のうかがい知れない、感情も乗らない三白眼が覆面の下からのぞいて、うっすらとした不気味さを与えて来た。

 先程襲撃して来た四人とは更に格が違う。熱さ以外の理由でじっとりと汗をかくのを感じながら、デュルケンは敵との間合いを取った。

 炎の中、先に床を蹴ったのは毒蛇の方だった。北の大陸ノル・テバで主流だという大型の半月刀を振りかざして、素早く踏み込んで来る。

 降り下ろされた剣をかわし、武器を弾き上げようと振り向きざまに蹴りを放つ。だが、デュルケンの足は毒蛇をとらえる事無く空を切った。

 即座に前方へ転がる。背後で、がん! と半月刀が床を割る音が聞こえた。回避していなければ、頭から真っ二つにされていただろう。

 毒蛇の手は休む事を知らなかった。びゅんびゅんと空気を裂く音を立てて襲い来る刃を、デュルケンは最小限の動きで避けて、後退を余儀無くされる。

 半月刀の重さにも関わらず、持ち手は疲弊する様子を全く見せない。デュルケンが瞬発力に長けた豹だとしたら、この男は持久力のある狼といった所か。

 この対峙が長引けば自分の方が圧倒的に不利だ。いつかは圧される。

 こんな時、トル・メダの力を自由に使いこなす事ができれば、目の前の敵を倒すだけでなく炎ごと吹き飛ばす事が可能だろうに。

 だが実際はデュルケンはトル・メダを制御できず、ましてや思い通りに風を操るなど到底かなわない。焦燥で足さばきを誤り体勢を崩した所へ、毒蛇が半月刀を振り払って来た。

 何とか身をよじり致命的な傷を受けるのは避けたが、左腕に熱が走った。服の袖が裂けたちまち流れ出した血で赤く染まってゆく。

『生きろ』

 出血のせいか、炎の中で酸素が欠乏し始めたか、刃に毒蛇らしく毒でも塗られていたのか。ぼうっとする頭の中で、カシダの声が繰り返される。

『血まみれになっても、泥水すすってでも、生き続けろ』

 そうだ。デュルケンの中で、消えかけた決意の火が再度燃え上がる。

 こんな所で倒れる訳にはいかない。カシダがくれた命を繋ぐのだ。

 デュルケンは折れかけた膝を叱咤して床を踏み締め、猫目石の瞳を細めて毒蛇をぎんと見据える。

 火は風を呼び、風は更なる炎を巻き起こす。デュルケンの中の火も、家を燃やす炎の勢いも増す中、蒼の少年と黒の男は対峙し、互いに次の攻撃のきっかけを探して、相手の一挙動を見落とすまいと視線を戦わせる。

 そこに、ぴしり、と音がした。

 見上げれば、いよいよ強度を失った梁がデュルケンの頭上から落ちて来ようとしている。そちらに気を取られた隙を、毒蛇が見逃すはずが無かった。

 火に包まれた梁が直撃するのが先か、半月刀に切り裂かれるのが先か。何とか両方をかわそうとしたデュルケンの耳に、

「デュー!」

 切実な叫び声が届くと同時、がしりと腰に飛びつかれた。

 その瞬間、ざわりと耳を撫でる慣れぬ感覚がデュルケンを襲う。いや、襲うというのは語弊があったかも知れない。

『呼びなさい』

 その感覚は、やけに穏やかにデュルケンへ語りかけたのだから。

『我らを呼びなさい、風詠士』

 一体誰なのか。考えるより先にデュルケンはその声に応えていた。

(――力を貸せ、いや、貸してくれ!)

 途端、ひんやりとした手が右の頬から肩、腕を伝って指先までを撫でてゆく感触が通り過ぎたかと思うと、デュルケンを中心に強烈な風が吹き荒れた。

 毒蛇が覆面の下で驚愕に目を見開く。しかし、風が刃となって黒服をずたずたに切り裂く直前、彼は咄嗟に身を翻し視界から消えた。

 倒すべき相手を見失っても、風の勢いはそこで止まらなかった。どん、と爆発のような音を立てて、家の屋根ごと炎が吹き飛ぶ。

 見えざる手が、炎と戦いで熱を持ったデュルケンの頬を再度撫で、冷たさの余韻を残して去ると、何事も無かったかのように風も止む。後には、鎮火したぼろぼろの家と、デュルケンと、彼の腰にしっかりとしがみつく少女とが残された。

 のろのろと視線を下ろす。ふわふわの赤毛がかすむ視界に映る。

「……何でだ」

 自分の声が当惑を帯びているのを自覚しながら、デュルケンは少女に問いかけた。

「何でこんな危険な場所へ来た。死んだ命は還らないと言ったばかりだろう」

「同じだよ」

 パルテナの声には恐怖の色が宿っていた。しがみつく手も、隠しようもなくぶるぶると震えている。

 だが少女が、戦いの場に飛び込むのを恐れてそうなったのではないと、続けられた台詞で知る事となった。

「同じだもの。デューだって、危ない目にあったら死んじゃうかもしれないんだもの。サティを助ける為でも、デューに会えなくなるのはいや。パリィのせいでデューが死ぬのは、もっといや!」

 その言葉に、デュルケンは横面をはたかれた気分になった。

 少女は死を覚え、それに恐怖する事を覚えた。それはデュルケンが、自分のせいで少女が死ぬ事を恐れたからだ。

 パルテナも同じ思いを抱いたのだ。己の為にデュルケンが死に至る可能性を思い、恐れたのだ。

 今までそんな考えを抱いた事は無かった。誰かの死が自分の心を傷つける事はあっても、自分の死が誰かを悲しませるなど無いと思っていた。そこまで親しい人間を得る資格も無いと思っていたのだから。

 胸がじわりと温まるのを感じた。こんな気持ちになったのは初めてだ。この気持ちを抱かせてくれた人間がパルテナである事を嬉しいと感じている自分がいるのも、驚嘆すべき事実であった。

 だが、そんな気分を抱いているなどと少女本人に知られるのは気恥ずかしい。デュルケンは視線をさまよわせ、床に転がっている赤いぬいぐるみをみとめる。それに手を伸ばそうとした瞬間、酷い目眩がデュルケンを襲い、彼はその場に倒れ込んだ。

 やはり、毒蛇の半月刀に毒が仕込まれていたのだろう。視界がぶれて、周囲の光景がよく見えなくなる。

「デュー? デュー!?」

 パルテナがすがりつき身体を揺さぶる感触がした。焦げ臭さの中でも香る花の匂いに、心配するな、と返そうと目線を上げて、そして、驚愕に金緑の瞳を極限まで見開いた。

 同色の瞳が、デュルケンを見つめていた。

 風詠士しか持てない猫目石の瞳。それが、藍色のはずのパルテナの瞳に成り代わっている。

 何故だ。意識が朦朧としている故に、幻覚を見ているのだろうか。

 答えは出ないまま、必死にこちらの名を呼ぶ少女の声を聞きながら、デュルケンは暗闇の腕に身を委ねた。

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