第6章 鏡の巫女(ミ・ルラ)(1)

「仕留め損ねただと?」

 不機嫌極まりない声が重く響く。

「この役立たずどもが!」

 がしゃん、と。振り回した拳が傍らの小卓に置いてあった酒瓶を叩き落とし、流れ出した液体が絨毯を赤く染めていった。

 きっと彼は本当は、この首をはねて、同じ色を床一面にまき散らしたいに違い無い。

「面目次第もございません」

 黒服の男――家でデュルケンを襲った毒蛇――は、ひざまずき深く頭を垂れて謝罪の言葉を述べた。

 だが、目を合わせず端的にしか詫びなかったのが相手の癪に障ったらしい。頭に衝撃を感じたと思った瞬間、ぱりんと硝子の割れる音がして、こめかみから血が流れ落ちた。

 三白眼の視線を下ろせば、粉々に砕け散ったワイングラスの破片が床に散乱している。

 まったく、癇癪持ちのこの男らしい。素直に詫びようが言い訳を並べ連ねようが、結果は同じだったろう。毒蛇は蛇らしからぬ溜息をつくと、流れる血も拭わぬまま面を上げた。

 苦虫でも噛み潰したかのように髭面をしかめこちらを睥睨するこの男こそが、ミナ・トリアの現王にして悪政の元凶、ベルギウス・フォードである。

 息子に似ていない、と毒蛇は思う。外見の話ではない。生への渇望に満ちた光を鋭い瞳にたたえた、あの少年とは決定的に違う。この王は無駄に悪意をまき散らし、その実他人からの敵愾心に対して小物じみた怯えを隠しきれず、血走った目をぎらつかせるばかりなのだ。

 ミナ・トリア王家の懐刀である毒蛇がこのような男に仕えねばならぬ不遇の身を、何度呪わしく思っただろうか。

 だが。

 毒蛇は思う。

 それもきっと、もうすぐ終わる。

「陛下、どうぞそんなにお怒りにならないで」

 毒蛇の思考を遮るかのように、妖艶な声がその場にいる者の耳をざわりと撫でた。

 王と毒蛇は声の方に揃って視線を転じる。いつの間に部屋に入って来たか、黒髪の妙齢の女がそこにいた。平民では口紅ひとつを入手するにも困難なこの時代に、艶やかな化粧を惜しげも無く施し、胸元を強調して脚ものぞく挑発的な服をまとっている。

「速効性の毒を持たない役立たずの毒蛇達などおらずとも、もうすぐ、陛下もきっと満足される結果をお届けいたしますわ」

 女は豊満な胸をことさら揺らして王に近づくと、父娘のような年齢差のベルギウスに熱い口づけを落とす。毒蛇の存在など微塵も気にかけていない、平然とした様子だった。

「……メティラ」

 唇が離れると、王は熱に浮かされたように甘美な感触の名残を惜しみ、寵妃の名を呼ぶ。

「やってくれるか。お前が、あの忌まわしい子を」

「やってみせますとも」

 メティラと呼ばれた女の漆黒の瞳が、いたずらの種を見つけた子供のごとくきらりと光った。

「我らの世を脅かす者には、相応の報いを」

 そう、終わるのだ。

 女は思う。

 忌々しい風詠士の血脈は。

 そして毒蛇も思う。

 愚かな王ではなく、我々の真の主に仕える時代が。

 始まるのだと。


 泥のようにねばついた眠りから目を覚ますのは一苦労だった。恐ろしく重いまぶたを持ち上げれば、藍色の瞳が心配そうにこちらを見つめている。

 前にもこんな事があった、と思考し、いや違う、と否定する。あの時はぬいぐるみの赤いガラス玉だった。

 それを思い出すと、デュルケンの意識は急速に現実に引き戻された。

「……よかった」

 至近距離に顔を近づけ、心底安堵した様子でパルテナが息をつく。

「デュー、もう起きないかと思った」

 たちまち少女の瞳が潤む。この少女に泣かれると心が落ち着かなくて困る。デュルケンは、まだ自分のものではないかのようにぎこちなく震える腕を持ち上げて、パルテナの目の端にたまった涙を拭った。

 パルテナは驚いたようにぱちぱちと瞬きをし、それから、まだ半泣きの顔をへにゃっと緩ませて、

「サティを助けてくれてありがとう」

 と、くまのぬいぐるみをデュルケンの眼前に掲げてみせた。

 炎に呑まれかけたサティは、左の耳が少しばかり焼け焦げて中の綿がのぞいていたが、それ以上の目に見える被害は無い。自分から探しに行っておいてこう思うのも何だが、あれだけの火事の中でよくここまで無事だったものだ。

 頭がそれなりに働くようになって来たところで、視線を巡らせる。

 どこかの部屋の、ベッドの上だった。勿論、家ではない。

 物置を急ごしらえの寝室にしたのではと思うくらいの、窓も無い狭い部屋で、ランプの灯りがちろちろと揺れて、デュルケンとパルテナの影を石の壁に映し出している。

 とはいえ、手入れがなされていない訳ではないようだ。こぢんまりとして古ぼけてはいるが、埃の臭いが鼻につく事は無かった。

 身じろぎして、左腕に走る痛みに顔をしかめる。それで毒蛇の半月刀で斬られた事を思い出した。前に矢に撃たれた時も目覚めた直後に同じ失態を犯したのに、自分は学習能力が無いのだろうか。

「デュー、痛い?」パルテナが不安そうに訊ねて来る。「死なない?」

「大丈夫だ」

 デュルケンは傷に障らぬよう左腕をかばって起き上がると、少女の頭を右手でぽんぽんと軽く叩いた。

「これくらいで死にはしない」

「……うん」

 パルテナはおもはゆそうに微笑して、サティをきつく抱き締め顔をうずめる。それから、「あっ」と思い出したように再度顔を上げた。

「レジーナが、デューが起きたら知らせなさいって言ってたの」

 少女はぱたぱたと部屋を出て行き、程無くして、レジーナを連れて戻って来た。

 彼女はシナモンの香りのする茶をベッドそばの小卓に載せると、

「起き抜けで悪いけれど、会って欲しい人がいるの」

 と許可を求める。デュルケンが頷くと彼女は部屋の外へ視線を投げ、出入り口で待っていた人物の入室を促した。

「失礼するよ」

 その声と、入って来た人物の顔に覚えがあって、デュルケンは息を呑み、そして相手を真正面から睨みつけた。

「そう警戒をしないでくれるかな……と言っても、きっと無理だね」

 敵意の針を向けられて降参とばかりに両手を掲げてみせたのは、街の食堂で会った若い金髪碧眼の騎士だった。

「ケヴィン・オルタナだ」

 名前を思い出そうと思案に耽りかけたこちらの表情を読んだのだろう。ケヴィン青年は先んじて自ら名乗り、右手を差し出して来る。だがデュルケンは半眼でその手を見下ろすばかりで、握り返す事をしなかった。

 ベルギウスの下僕とも言えるミナ・トリア正騎士が、何故、王家に関係深い毒蛇の襲撃を受けた家の者と共にいるのか。

 一旦抱いた疑念は、雪だるまのごとく転がって体積を増やした。レジーナがケヴィンを紹介したという事は、二人は知り合いなのだろう。レジーナはデュルケンをかくまった。ケヴィンがデュルケンと接触した直後に毒蛇が襲撃して来た。その点を線で結ぶ事は可能なのではないか。家の人間に誰も死者が出なかったのは、意図的なものではないのだろうか。

 不信感を丸出しにして睨むデュルケンに対し、大人達は困り顔を見合わせ、

「まあ、飲みながら事情を聞いて頂戴」

 と、レジーナがデュルケンに茶をすすめながら口を開いた。

「あなたは今そう考えているだろうけど、私とケヴィンは知り合いよ。古くからの」


 レジーナとケヴィンは、幼なじみ、というものらしい。父親同士が同じ部隊に所属するミナ・トリアの騎士だったという。

 だが十三年程前、ミナ・トリアが隣国ダル・ベックとの小競り合いを起こした際、彼らの運命は変転した。

 レジーナの父達は国境の最前線で善戦していたが、戦果による戦利品だけに飽き足らなかった隊長が卑劣な欲を出した。近郊の村を襲うように部下達に命令を下したのだ。

 二人はすぐさま上官に異を唱えたが、隊長はその意見を受け入れなかった。

『ならば、命令に逆らったとして貴様らを処分するぞ。王都にいる貴様らの家族にも塁が及ぶが、それで良いんだな?』

 そう脅しをかけられては屈するしか無かった。部隊は無抵抗の村を襲い、火をかけ物品を奪い、女を攫った。

 だが、上官にかみついた部下に対する隊長の腹の虫はおさまらなかった。村を襲った事実が明るみに出た時、彼はそれを部下による身勝手な行動の結果として、レジーナの父達を告発したのである。

 隊長を務める貴族と、一介の騎士。どちらの言葉が重んじられるかなど、当時のミナ・トリアでは火を見るより明らかな事だった。

 釈明の機会も与えられぬままレジーナの父達は死刑判決を受け、公開処刑で首を落とされた。罪に対する罰の重さを知らしめる為ではなく、下々の民が貴族に逆らえばどうなるかという、完全なる見せしめだった。

 残された家族は、一握りの心ある騎士から村襲撃の真相を聞いた。だが、腐りきった政治の犠牲になった男達の家族に手を差し伸べる人間などいなかった。下手に目をつけられれば、自分達も暗愚な悪意に呑み込まれる。誰もが己の身を守る事で精一杯だったのだ。


 レジーナがそこまで一気に語り終えると、部屋の中に沈黙が落ちた。

 ケヴィンはレジーナが話している間、一切口を挟まなかった。パルテナも、話を理解しているかはともかく、騒ぎ立ててはいけない空気を察しているのだろう。デュルケンの脇でサティを抱いて縮こまっている。

 デュルケンは、すっかり冷めかけた茶を口に含んだ。ぴりりと刺すような辛味が喉を滑り落ちていったが、それくらいの刺激が無ければ聞いていられない話だった。

「それで私達は決めたのよ」

 レジーナがきゅっと唇をかみしめ、無意識の内に握り締めていたスカートをつかむ手に一層の力を込める。

「この国を変えようって。ベルギウス王を倒し、今の体制をひっくり返して、ほんの一部の傲慢な人間のせいで泣く人がいない国にしようって」

「僕は騎士団に入り、王家の様子をいつでもうかがえる立場に身を置いた。レジーナは家を作って、同じ目に遭った子供達を引き取り面倒を見ると同時に、ベレタに潜む同志の連絡役をしていてくれた」

 ケヴィンが彼女の後をうけおい、そして表情を曇らせる。

「しかし、ベルギウスの手下には、そんな僕らの意図などお見通しだったのかもしれないね」

 ベルギウスには、とはケヴィンは言わなかった。王自身は城の奥に居座って何も行動を起こさない愚の骨頂にいるのだと、暗に示していた。同時に、王より遙かに利口な連中に自分達は泳がされていたのだ、とも。

「俺がお前達に関わったせいだとでも言いたいのか」

 デュルケンが多少の嫌味を込めて詰問すると、騎士は首を横に振った。

「あくまできっかけにすぎなかったんだよ。君が現れなくても、遅かれ早かれ家は潰されていたはずだ」

 だが、とケヴィンは毅然とした顔をまっすぐにデュルケンに向ける。

「こうなった以上、残された時間は少ない。同志に連絡を送った。近日中に我々は蜂起する。現体制を打ち倒し、かつての穏やかなミナ・トリアを取り戻す為に」

 再度、右手が差し出される。

「君も協力して欲しい。正統なる風詠士の末裔である君は、ベルギウス王を倒してミナ・トリアを救う為の旗頭となる資格を充分に持っている」

「俺を利用するつもりか」

「そう思ってもらって構わない。実際、そうなのだからね」

 デュルケンの問いにケヴィンは苦笑して答える。あまりにも正直すぎる答えだったが、しかしその率直さにより、デュルケンのケヴィンに対する警戒心はそれなりに氷解する事となった。

 ケヴィンが笑みを消し真摯な表情を向ける。そもそも見目が良い分、こういう顔が良く似合う男だ。

 レジーナを見る。彼女も真剣な表情でこちらを見つめている。

 かたわらのパルテナを見下ろす。少女はやはり、事態をわかっているのかどうかはかりかねる微笑を浮かべて、ふわんと赤毛を揺らした。

 デュルケンは顔を上げ、ケヴィンに視線を戻して口を開く。

「……すまない」

 カシダ以外の人間に謝る言葉を彼は人生で初めて口にした。

「俺にはまだ、決められない」

 ケヴィンが、レジーナが、驚きに目を見開く。パルテナは相変わらず、不思議そうに首を傾げるばかりだった。

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