一の段其の幕間 親心と家族の絆と仙人と
吉凶。
そんなものなどありゃしない。それがこの世の常識だ。
科学の発展や技術の進歩と共に、かつては信じられていたそれらの存在は、唯物論と機械文明の下に当然のごとく否定されていった。
今では子供まで、そんなものを信じる人間を馬鹿よばわりする始末だ。
だが、人知の届かぬ場所に恐怖や欲望以外の感情を託した時代が、かつて確かにあったのだ。
時は戦国、未だ、世界が人知の及ばぬものだと誰もが心の底から信じられた時代。
小春日和というには少し遅い、天文五年もあと僅かとなった日。
柔らかな日差しに照らされた
「久遠は何しているんでしょうね~」
美亜が来て以来、急速に成長して自分達のもとから離れていった息子を想って、その息子がつくったという緑茶を飲みながら、さやは縁側で寝ていた猫をなぜながら、ぽつりとつぶやいた。
「久遠さまは、
どんなに寂しくてもとは口に出さず、久遠のもう一人の母りつが、娘に乳を飲ませながら、息子愛しさにひたる妹分を
「
さやは、さみしげというには、どこか明るいやわらかさを失わない
「もうすぐ、帰って来るでしょうに」
さやの寂しさが、息子がそばにいないことから来たものでないと知りながらも、りつは、いつも明るく自分を支えてきた
「あなたが、そんな調子だと
大恩のある夫、国光のことを持ち出され、さやは、ようやくこうしてもいられないというように大きく息をついて立ち上がり、縁側から部屋へと戻ってくる。
国光は年老いた熊のような外見とは裏腹に細かく気を遣う人間であった。
特に歳の離れた妻二人が、自分のせいで不仲にならぬかと、いつも気にかけている。
それは、離れ離れになりたくないと二人が願ったためだというのに、国光は自分たちを気遣い続けている。
そんな国光に心配をかけるわけにはいかない。
りつも、さやもそれだけは肝に銘じていた。
戦国の世にあっても、いや戦国の世だからこそ、命の軽さゆえに命を
それは夫婦の情愛ではないかもしれないが、確かな絆であり、ないがしろにしてはいけないものだと彼女達は知っていた。
「久遠様。さや様とりつ様が寂しがっておられるようです」
縁側の猫の目と耳を通じて二人の様子を見ていた美亜は、同時に幾つもの作業を並列して行いながら、
「そうか。あの娘達には、あまり母らしいことをさせてやれなかったからな」
美亜ほどではないが並列して作業を行える久遠だったが、さすがにミクロン単位の加工が必要な精密作業を複数こなしながら話はできず、簡単な紙の作成を行いながら話をすることにした。
「できれば、今日はこれくらいにして早めに御帰りになっては?」
自分のような生体アンドロイドとは違い、
「そうだな。帰って二人には甘えてやるとしようか」
その美亜の気遣いに、久遠は穏やかな笑みを浮かべて、
既に成長を加速された肉体は七歳近い年齢になっているとはいえ、その声は声変わり前の子供のものだ。
しかし声に含まれる落ち着いた響きは、決して子供に出せるものではなかった。
幼子が、母に甘えてやる事で、母の想いに報いてやる。
何も知らぬ人間からすれば奇妙な会話だったが、久遠が何者かを知るものにとっては、如何にも久遠らしいと感じさせる台詞だ。
仙人とて感情に溺れぬだけで、人としての感情を捨てているわけではない。
例え、どれほど愛する者であっても、道を違えれば容赦をしない久遠ではあるが、それは非情ゆえではなく、そのことで心を痛めないわけではないことを美亜は知っていた。
現に、久遠は金兵衛を初めとする盗賊達の墓を村の外れに作らせている。
そして、己が手にかけた彼らの名を知らずとも、久遠がその事を忘れないだろうという事も美亜は胸に刻んでいた。
三百年を生き、転生した久遠にとって、現世の母は頼り甘える存在ではなく、庇護し
彼女達が、久遠を
これは、ただそれだけのことでしかない。
奇妙ではあるが、優しい言葉だった。
豊前では、彼女達の親族を討った大内氏が、龍造寺氏とともに少弐氏を滅亡に追い込み、北九州地方をほぼ平定し、龍造寺は現在の長崎県、肥前を手にして久遠の知る歴史とほぼ同じ道を歩んでいる。
それも、武家の常と悲しみはすれど恨みを抱かぬ彼女達の心根を愛し、久遠は彼女達が少しでも幸福にすごせるように、幼子の笑みを浮かべ、ふたりの母の元へと帰っていった。
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