事件記者久美子・二十三才6-7

 直撃すれば、待っているのは確実な「死」

 そう思わざるを得ない一撃を前に、しかし雷牙は動く素振りさえ見せなかった。

 「何やってるのよッ!」と、心の中でシーラが叫ぶのも、まったくもって無理はない。

 豪拳が、青年の眼前三十センチに到達する。

 いまさら何をやったところで、すべてが無駄な足掻きとなる距離だ。

 駄目だッ! 当たるッ!

 そんな未来を素早く察して、シーラも久美子も首をすくめて目をつむった。

 無残に顔面を粉砕され後方に仰け反る、そんな雷牙を思わず想像したからだった。

 だが訪れた現実は、彼女らの予想を完全無欠に裏切った。

 来るべきはずの命中音がない。

 そのことに気付いたふたりが、ほとんど同時にまぶたを開ける。

 そして、彼女たちは目撃した。

 なんということだろう。あの凶雄範勇が、命中寸前の拳を自ら止めているのである!

 寸……止め?

 シーラは初め、範勇が威嚇の拳を突き出したものと判断した。

 おのれの実力、その優勢に絶対の自信を持つ者は、それを相手に知らしめるため左様な児戯を試みることがある。

 だが彼女の見立てが誤りであることは、たちまちのうちに明らかとなった。

 急に表情を険しくした範勇が、その巨体を勢いよく後方へ飛び退かせたからだ。

 眉間に深くしわをよせ、ぜいぜいと息を荒げる人型の野獣。

 それは次の瞬間、高々と左脚を振り上げつつ、真正面から雷牙に迫った。

 かかと落としだ!

 おそらくは鋼のように鍛えられているであろう巨漢の足が、わずかの小細工もなく振り下ろされる。

 狙いはもちろん、宇宙刑事の顔面だ。

 骨と肉とで構成された天然素材のまさかりが、青年めがけて襲いかかる。

 しかし雷牙は、この後に及んでなお指一本すら動かそうとはしなかった。

 致命の攻撃を避けようとも受けようともせず、直立したまま顔色ひとつ変えない。

 そんな状況を現認し、久美子はふたたび首をすくめた。

 その一方でシーラのほうは、あえてその目を背けなかった。

 間違いなくいま起きている何事かを、是が非でもこの眼で確認しておきたくなったからだ。

 動かない目標に対する必中の攻め。

 容赦も躊躇も、その中身には欠片もない。

 されど範勇は、寸前のところでまたもや攻撃をストップさせた。

 その様子はまるで、雷牙の間近に見えないバリヤーが存在するかのごときである。

 一連の流れをじっと見詰めていたシーラであったが、残念なことにその原因を見極めることはできなかった。

 ただし、そんな彼女であっても、このことだけははっきりとわかった。

 あの巨漢は、決して遊んでいるわけではない。

 確実に、当てるつもりで攻撃しているのだ──と。

 そしてそれゆえにこそ、シーラは強い疑念を消せなかった。

 では、なぜあの男はその望みを自分から放棄しているんだろう?

 その疑いに答えられる人物は、戦いの当事者たるふたりの男だけだった。

 およそ達人の枠に加えてもいい範勇の倅・刃ですらが、彼らの間に交わされた無言のやりとりをまったく把握できずにいたのであるから。

 そう。

 そこで展開した出来事は、余人にとってはまるで想像もできないほどのものであった。

 必殺の一撃を放ったその瞬間、いや放たれた打撃がまさに相手の肉体を抉らんとしたその刹那、攻撃者である範勇は、その代物をまざまざと見せ付けられたのである。

 それは、我が身に向かって突き付けられた一本の拳打であった。

 眼前数ミリの距離に佇まう、力強い縦拳。

 それによって、巨漢の闘志は真正面から威圧されたのだ。

 そのタイミングは、当てる気になればいつでも先に当てることができた、と相手が宣言しているに等しいレベルのものであった。

 直接打撃制を採用していない伝統派の武術なら、紛れもなくこれで一本を取られていたことだろう。

 だが次の瞬間、範勇は思わず我が目を疑った。

 自身にあてがわれたはずのその縦拳が、実は空虚な幻であることに気付いてしまったからだ。

 莫迦な……

 鬼面の巨漢が冷や汗を流す。

 一度ならず二度までも……俺は、いったい何を見たのだ!?

 あれは間違いなく迎撃の一打だった。

 そこに殺意はないものの、紛れもなく俺の急所を狙ってきた一発だった。

 だが、その一撃を放ったはずの男は、実際には身動きひとつしていない。

 では、俺はいまいったい何を見たのだ!?

 怖じけたあまりに、偽りの拳打を想像したとでもいうのか!?

 そんな範勇に対し、轟雷牙が反応を示した。

 ふっと口元を綻ばせ、まなじりを下げる。

 それは、なんとも明白な嘲笑であった。

 巨漢の両目に火花が散った。

 憤怒の情が、炎となって顔から噴き出る。

 彼の上半身が一気に膨れあがったのは、それに続く出来事だった。

 体積を増した上体の筋肉が、漆黒のシャツを内側から破裂させる。

 左右の腕を大きく広げ、歯を剥き出しにする凶雄。

 その姿は、もはや人類の持つべきものではない。

 紛れもなく、野獣が持つべき装いだ。

「親父が……本気になった」

 半ば呆然と展開を眺めていた範刃が、父親の豹変をそのように評した。

 「地上最強の人類」の異名を戴く天下無双の格闘家。

 その滅多に見られぬ全力を、いま目の当たりにするのだとはっきり悟る。

 かつて少年がいまのような父親を目撃した際、このおとこは、体重七百キロ級のホッキョクグマを、ただおのが四肢だけを用いて仕留めていた。

 そう。

 およそ世界最強級と考えられる巨獣を、である。

 その漲る「闘気」が、波動となって周囲を震わす。

 殺気などという生易しい言葉でそれを表現することはできない。

 シーラも久美子も、いや血を分けた息子である範刃でさえもが、戦慄を覚えて石のごとくその身を固めた。

 次の瞬間、鬼面の男がゆらりと動く。

 牽制も欺瞞もへちまもない。

 ただ相手を倒す、いや殺傷するためだけに、おのが肉体を動作させる。

 人間の反射神経を凌駕する速度で、彼の両掌が内側に振られた。

 青年の両耳を、同時に強打するためだ。

 気圧差をもってする内耳の破壊。

 それは、被弾者に平衡感覚の喪失をもたらすだけでなく、時として大脳に対する深刻なダメージをも引き起こす。

 それは到底、躱せるようなタイミングではなかった。

 範刃は父の勝利を確信し、シーラと久美子は呼吸を止めて目を見開く。

 しかしその三人は、刹那ののち、またしても信じられない状況を目の当たりとした。

 なんということか。

 攻撃した側の範勇が、その全身をたちまちのうちに硬直させたのである。

 呆けたように脱力し、どしゃっと膝から崩れ落ちる鬼面の巨漢。

 その双眸からはいっさいの光が消え、たるんだ口元からは、多量の唾液が流れ落ちている。

 何が起こったのかは、この時、誰にもわからなかった。

 ひとつだけはっきりしていることは、轟雷牙が今回もまたなんら反撃の挙動を見せていないという歴然たる事実だけだ。

「雷牙ッ!」

 その名を呼びながら駆け寄ってくる金髪の美少女に向け、青年はなんともさわやかな笑顔でこれを迎えた。

 さらりとした口調で彼は告げる。

「終わりました。帰るとしましょう」

「いったいあの男に何をしたの?」

「別にたいしたことはしていません」

 訝るシーラに雷牙は答えた。

「あの人物に対して、あの時の僕ができることをそのままイメージにして叩き込んだだけです。正中線が、まあがらあきでしたので。眉間に一発、鳩尾に一発、そして股間の急所に一発──と。どれもこれも、思いっきり深く入りましたよ。実のところ、もう少し手加減してあげたほうがよかったのかもしれません。いまはやり過ぎたと反省してます」

「本当にできるの? そんなことが……」

「相手が素人でなければ容易いことです」

 宇宙刑事は、あたりまえのようにそう語った。

 それを受け、金髪娘は改めて巨漢のほうに目を向けた。

 その視線の先で範勇は、息子範刃の呼びかけにもまったく反応することなく、いまだに膝を屈したままだ。

 肉体ではなく自尊心プライドを攻める。

 先に巨漢が口にした台詞を思い出し、シーラは一瞬身震いした。

 それがどれほど恐ろしい技なのかを、我が身に重ねて想像してしまったからだった。


 ◆◆◆


「親父が……あの『王餓地上最強の人類』が、こんなにもあっさり……」

 雷牙たちがこの場を立ち去ったのち、範勇の倅である範刃は、屍のごとく微動だにしない父親の側で、文字どおり途方に暮れて立ちすくんでいた。

 格闘家として、これまで最強の名を欲しいままにしていたおとこ

 有り余るほどの強さがゆえ、手こずることにすら手こずってきた怪物。

 その人外のモンスターを鎧袖一触する存在がいることなど、この少年にとっては思いも寄らない現実だった。

 格や次元が違うとか、そういった問題ですらもはやない。

 リベンジマッチなど、およそ考えも付かない選択だった。

 そんな範刃が背後に現れた異様な気配に気付いたのは、それから数分も経たぬうちの出来事だった。

 ざわっと背筋に怖気が走る。

 殺気や闘気の類ではない。

 それは、例えるなら大自然の猛威に直面した生物が本能的に抱くであろう、圧倒的な脅威の感触にほかならなかった。

「ふふふ……この星の住民にしては、確かによく鍛えられている」

 暗闇の向こうから響いてきたのは、艶やかな女の声だった。

「どう思う、ドクトル。実験材料としてこれほど相応しい検体も少ないのではないか?」

「仰るとおりですな、参謀閣下。この得がたい機会を逃しては、運命の振り子に背くこととなりましょう」

 しわがれた男の声がそれに続く。

 それを聞いた少年は、咄嗟に身体ごと振り向いた。

 拳を固く握り締め、ファイティングポーズを整える。

 ひと呼吸置いて彼の視界に現れ出たもの。

 それは、妖艶な雰囲気を漂わせるショートカットの美女だった。

 左肩には、大きな鴉を一羽留まらせている。

 紅く煌めく唇が、発言とともに艶めかしく動いた。

「誰だッ! あんたはッ!」

 ギン、とまなじりを険しくして範刃は言った。

 その口振りは、もはや誰何ではなく警告に近い。

 それは見るからに勇ましい態度ではあったが、同時に、彼の心理的混乱をもはっきりと表すものであった。

 女と会話するもうひとりの発言者しわがれた声の男──人語を話す鴉の存在をなんの疑問もなく受け入れてしまっているのが、その何よりの証だった。

 揺れる心情を覆い隠さんとばかりに、少年の肉体が闘気をまとう。

 だが美女は、そんな彼のことをまるっきり無視した。

 あたかもその姿が目に入らないかのごとく、ただただ無造作に歩を進めてくる。

 たじろぐ範刃が、逆に一歩を退いた。

 気を圧せられるとは、まさしくこのことにほかならない。

 どっと噴き出る多量の汗もそのままに、少年は素早く拳を突き出した。

「ジャッ!」

 掛け声一閃、パンチが飛んだ。

 目標は、眼前の美女。

 その頬骨のあたりだ。

 タイミング的に命中は確実。

 少年の積み重ねてきたこれまでが、その結末を大声で約束していた。

 されどその信頼性が十割でないことを、先ほど彼は嫌と言うほどに思い知らされていた。

 この世には、自分などが思いも寄らない世界があることを、これ以上ないほどに痛感させられていた。

 しかしその一方で範刃は、おのれがふたたびそれと遭遇する羽目になろうとまでは、思ってすらもみていなかった。

 あれほど超越した存在との直面など、二度とないものと信じ切っていた。

 だからこそこの時、彼は心の底から驚愕した。

 驚愕してしまった。

 天然石すら砕き得る自慢の拳が、美女の人差し指ただ一本によって完全に阻まれているという厳然たる事実に、だ。

 信じられない──いまにもそう呟かんばかりに、少年の目が見開かれる。

「なかなかの攻撃だ」

 その表情を嘲笑うかのように、賞賛の声を美女はあげた。

「おのれが持つ十の器。その器を見事なまでに使い切っている。およそ望んで叶う仕業でもあるまい。この星の原住民でそなたを正面から打ち倒せる男など、そうざらにはおるまいな」

 彼女の視線が範刃に向いた。

 あらゆるものを両断せしめる、冷たく鋭い眼差しだった。

 「が……」という否定語で繋いで美女は語る。

「しょせん十の器は十の器。限界までその中身を満たしたところで、容量の計は百の器の十分の一、千の器の百分の一でしかない。おまえたち地球人がいかに尽力しようとも、おまえたち自身の器の大きさを変えぬ限り、その上限を超える望みは決して叶わぬ」

「う……うわァ……」

 怪しく輝くふたつの瞳に捉えられ、範刃の膝ががくがくと揺れた。

 その様子は、あたかも女郎蜘蛛に絡み取られた蝶々のごとくに見える。

 美女の唇がおもむろに吊り上がった。

 相好が美しくも邪悪な笑みを形成する。

「若者よ。力を手に入れたくはないか?」

 魅惑的な声音で彼女は尋ねた。

「もしそなたがそれを望むのなら、この私が、直々にその道筋を示してやろう。ただ運命の振り子が欲するままに。そしてその望みが叶った時、そなたは否応なく知ることになるだろう。自らが、何ゆえこの世に生を受けたのかを……な」

 そう言いながらその女──養護教諭・追露慶ことブンドール帝国のオイロケー参謀は、ゆっくりと少年に歩み寄った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る