事件記者久美子・二十三才6-6

 対峙する巨漢と雷牙。

 その間隙を突いて久美子の救出を果たしたのは、「セントジョージの金髪姫」こと雪姫シーラであった。

 黄金こがね色の髪をなびかせて走り込んできたその美少女は、女性記者の身体を布袋から引っ張り出すや否や、いそいそと猿ぐつわから解放する。

 拘束を解かれた久美子が、「ぷはッ」と大きく口を開けた。

 両肩を激しく上下させながら、恩人である娘の名前を呼ぶ。

「雪姫さんッ!」

「シーラでいいわ」

「どうしてここにッ!?」

「雷牙がね、あの喫茶店を見張ってた怪しい連中に気付いたのよ」

 久美子の質問にシーラが答えた。

「で、あとを付けてきたその内のひとりを途中でふん縛ったら、そいつがあなたをさらう計画を白状したってわけ。なんでこの場所がわかったのかとか、その手の詳しい話は雷牙に聞いて。あいつ、生体反応のトレースがどうとかこうとか言ってたけど、わたしの頭じゃ全然理解できなかったから」

 屈強な範親子と宇宙刑事との睨み合いが熱を帯びたそれホットウォーに変わろうとしていたのは、ちょうどそんなおりでの出来事だった。

 父親である範勇の左手が、おのれのサングラスをピシッと頭上に跳ね上げた。

 この時使用されたのは、ただ中指が一本だけだ。

 高々と宙に舞ったフレームから、砕けたレンズが煌めきとともに四散する。

 恐ろしいまでの指の力であった。

 まさに人間離れしている。

 「フンッ!」と、そんな怪物が鼻を鳴らした。

 落下してきたフレームを、右手で素早くキャッチする。

 強靱な握力が音を立ててその物体を握り潰したのは、次の刹那の出来事だ。

 血走った眼光が、一直線に雷牙ターゲットを突き刺す。

「やるじゃねェか」

 ギロリと目を剥き、彼は言った。

「この俺を前にして、逃げずに立っていられるとはな」

 それは賞賛と言うよりも、むしろ威嚇にこそ近い口振りだった。

 肉食獣の唸り声にすら例えられようか。

 平穏があたりまえの時代を生きる市井の若者たちであれば、あるいはこれを耳にして、即座に失禁してしまったかもしれない。

 だが雷牙は、口を真一文字に閉ざしたまま身じろぎひとつしなかった。

 剥き出しの闘気を真っ正面から浴びながら、まるで痛痒を感じていない様子だ。

 それを見た範勇の頭髪が、またぞろ生き物のように動き出した。

 基礎体温が異様なまでに高いのだろうか。その輪郭が陽炎のごとくゆらゆらと揺れる。

 鬼面のおとこが口の端を歪めた。

 溢れかえる喜色がその顔面を覆い尽くす。

 ニタァ、と大口を開け、範勇は言った。

「アリガトよ、兄さん。アンタ、久々のごちそうだ。ありがたくいただかせてもらうぜ」

「待てよ、親父。コイツは俺にやらせてくれよ」

 その直後、倅の範刃が父親を制して前に出た。

 両者の闘争に割って入ろうというのだろうか。

 目線を父親に向けようともせず、ぎゅっと拳を握り締める。

 彼は言った。

「極上の獲物を独り占めしようとするのは、いつもの親父の悪い癖だぜ」

「よかろう。やってみるがいい」

 そう息子に告げた父親が、今度は雷牙に忠告する。

「我が倅・刃は、いまのところ地上最強に最も近いおとこのひとりだ。その身体能力は、近代オリンピック選手のそれを圧倒的に凌駕する。アンタも腕っ節に相当の自信があるようだが、さて、どこまで持ちこたえられるものやら」

「能書きは、そこまでにしてもらおうか」

 喧嘩腰もあらわな範親子の姿勢を、しかし雷牙は完全に無視した。

 「こちらは、争い事など望んでいない」と切り出しつつ、改めて自身の要求を突き付ける。

「無意味な闘争は、お互いなんの利益にもならないはずだ。あなたがたがおとなしくこの場を退いて、そして今後もこのひとに手出ししないと誓うのなら、こちらとしては見逃すことに是非はない。どうだろう? どちらにとっても悪い話じゃないと思うが」

「お兄さん。面白いことを言うじゃないか」

 にやりと笑って範刃が応えた。

「喧嘩好きのこっちとしちゃあ、見逃してもらえないほうが全然いいんだけどな」

「どうしても、僕とりたいのか?」

「もちろん。アンタ、強ェんだろ? だったら、俺と遊んでくれよ」

「そうか。どうやら君たちは、口で言ってもわからない類に属するようだね」

 ため息を吐きつつ、雷牙は首を左右に振った。

 そして、半ば呆れ果てたように答えを返す。

 小さく右手を挙げながら、青年は告げた。

「じゃあ遠慮なくかかってくるがいい」

「お言葉に甘えて──全力で行かせてもらうぜッッ!!」

 ぐっと前傾に構えた範刃が、目を見開いて地を蹴った。

 それは、驚くべき瞬発力であった。

 武道の経験を持たない久美子はおろか、剣道・居合の有段者であるシーラですらが、その動きを目で追うことができなかったほどだ。

 何あれッ!

 普通じゃないッ!

 その驚愕が言葉となって少女の口から漏れる間もなく、範刃の左手が稲妻の速度で繰り出された。

 ジャブだ!

 よく鍛えられたジャブは、人間固有の反応速度をいとも容易く凌駕する。

 それはつまり、打撃そのものを目視してからの回避が不可能であることとイコールだった。

 来るとわかっていても必ず喰らう。

 喰らうことを前提にして闘わねばならない。

 それがジャブという打撃技の特色であった。

 先制攻撃ファーストアタックを託すには、ある意味、最良の技術だとも言える。

 そのテクニックを用いて範刃が狙った箇所は、眼前の青年、その下顎の部分ジョーだった。

 ボクシングなどの打撃系格闘技では、主に顎先チンと呼ばれる人体の急所。

 そこを強打されることは被弾者に対し脳震盪をもたらしやすいうえ、構造上、鍛えることで防御力を上げることもできない。

 打撃の得意な格闘家ストライカーが真っ先にそういった場所を狙うのは、実戦において、ある意味定石とも言える。

 しかしこの時、彼の放った鋭い拳打は、まったく目標を捉えることができなかった。

 横合いから割り込んだ別の力が、拳の軌道を明後日の方向にねじ曲げてしまったからである。

 それは、軽く振られた雷牙の右手だった。

 虫でもはたくような気軽さでもって、この青年は刃のパンチを迎撃した。

 あらかじめ軌道を予測し「受け止めた」でも、命中を覚悟して「防御した」でもない。

 文字どおり無造作に、その攻撃を「ぱんッ」と払い除けたのである。

 なんだッ?

 予期せぬ事態に範刃は困惑した。

 何が起こったッ?

 まさか、俺のマッハパンチが見切られたとでもいうのかッ?

 されど、彼が顔色を変えていた時間はほんのわずかなものだった。

 少年はすぐさまその気を取り戻し、嵐のごとき拳撃を雷牙に向かって発射する。

 まるでショットガンのような連打だ。

 瞬きする間もなく、無数のパンチが目標めがけて襲いかかる。

 人体各所のウィークポイントを目指したそれらは、ひとたび当たりさえすれば、それぞれが重篤なダメージを与えること必須なものと断言できた。

 だが、当たらない!

 一発も当たらない!

 荒々しい範刃のラッシュは、間違いなく轟雷牙に両手での対応を強要した。

 しかしながら、ただそれだけであった。

 こちらの攻撃に対し相手の苦慮が増したとしても、それがダメージに結びつかないのであれば、そこにいったいなんの意味があるのだろうか。

 範刃の拳と雷牙の掌とが接触する軽快な音が、空しくあたりに木霊する。

「なんでだよッ! なんで当たらないんだよッ!」

 顔中から脂汗を滴らせる少年の目が、不意に敵手の表情に引き付けられた。

 それは、いかにも退屈そうな生あくびだった。

 瞬間、彼の延髄に真っ赤な火箸が差し込まれた。

 耐え難い感情が、少年の心臓にカンフル剤を叩き込む。

 莫迦にしやがって!

 咄嗟にハイキックを放つ範刃。

 当然のごとく、その蹴撃は目標の身体にかすりもしない。

 その反動を利して間合いを離し、少年は改めて眼前の敵を睨み付けた。

 畜生。

 歯軋りしながら彼は思った。

 コイツ、もといた場所から一歩も動いていないでやんの。

 「バケモンめ……」と思わず漏れ出た範刃の呟き。

 そのひと言に、感情を込めることなく雷牙が応えた。

「まだやるのかい?」

「当然だろ」

 少年は、その場で不意に構えを解いた。

 肉体から、急速に「力み」というものが失せ消えていく。

 脱力の対象は、運動機能を司る骨格筋だけにとどまらなかった。

 呼吸からも、眼光からも、思考からも、そして、おそらくは自己の意志ではコントロールできない不随意筋からも、およそ緊張と名の付くもののことごとくが目に見える形で霧散していく。

「ほう……刃め。あれをやる気か」

 息子の闘争を腕組みしながら観戦していた父親の勇が、にやりと笑って独り言つ。

 脱力からの筋収縮。

 身体中を究極のレベルにまで弛緩させ、しかるのち一気に緊張へと転ずることで発揮される爆発的なパワー。

 それは、古の武芸者たちが「奥義」としてもてはやしてきた技の、いわば根幹とも言うべきテクニックにほかならなかった。

 ダン!

 少年がひと息で床を蹴ったのは、その次の刹那の出来事だった。

 踏み込みの力に耐えきれず、履いていたスニーカーの底が靴本体と分離する。

 瞬間的に放たれたそのエネルギー量は、もはや「爆発」と言って構わないほどの代物だろう。

 いや、紛うことなき「爆発」だ。

 脚力のすべてを「爆発」させることで、肉体そのものを「砲弾」と化す──…

 それこそが、この少年の身に着けた、彼一流の「奥義」であった。

 キャノンボールタックルッッ!!!

 躱せるもんなら、躱してみやがれッッ!!!

 範刃の肉体が、電光の速度で雷牙の土手っ腹に吸い込まれた。

 回避の余地などどこにもない。

 手応えアリッ!

 もらったァッ!

 だが数瞬ののち、少年は完全に静止したおのれの身体を認識した。

 空を切ったのとはまた別の、圧倒的な違和感が彼の総身を覆い尽くす。

 目標とした青年の肉体は、間違いなく自分の腕の中にあった。

 その現実は、攻撃タックルの目論見が成功したことを如実に証明してはいる。

 しかしながら、それに続くべき手応えがまったくなかった。

 まるで、与えるべき衝撃だけがするりと相手をすり抜けたような感覚だ。

 理不尽な恐怖に身震いした範刃が、恐る恐る顔を上げた。

 彼がそこに見出したものは、自身を見下ろす轟雷牙の相好だ。

 間を置かず、青年の右手が少年の頭部に優しく置かれる。

 それは攻撃のためのものでもなければ、もちろん防御のためのものでもなかった。

 だがその小さな仕草は、刃の奥底にある太い何かを完膚なきまでにへし折った。

 それと同時に彼は悟る。

 この男は、自分とはまるで違う次元に立っているのだ、と。

 それは例えるなら、孫悟空を手玉に取る釈尊にすら似ていた。

 相手の全力を平然と受け止め反撃することなく実力差を受け入れさせるとは、およそ尋常のレベルではない。

 少年の足が力なく後退した。

 真っ青に染まったその表情からは、つい先ほどまで漲っていたはずの闘争心がきれいさっぱりと消え失せてしまっている。

 勝敗が、というより互いの格付けが決定した、それは何よりの証左であった。

「このサディストめ」

 そんな息子敗者を片手で押し退け、父親の勇がぼそりと言った。

「肉体より自尊心プライド……大の男が一番ダメージを受けるやり方を熟知してやがる」

「親父……」

「刃。おめェの負けだ。下がってろ」

 毒々しい笑みを浮かべながら、巨漢が雷牙の前に出る。

 両手をズボンのポケットに入れたまま、彼は青年に話しかけた。

「性格悪ィな、アンタ」

 にやけながら範勇が言う。

「フフ……よりによって、この範勇の倅を年端もいかない餓鬼扱い。実に頼もしい……と誉めてやりたいところだが……残念ながらそうもいかん。

 貴様はこの俺の、『範の血』を嘗めた。その勘定を取り立てねェとな……」

「ひとつ質問がある」

 新たに対峙する敵手に向け、轟雷牙が口を開いた。

「あなたがたにとって、『強さ』とはいったいなんだ?」

「そんなものは決まっている」

 前後に繋がりのない彼の質問に、しかし範勇は進んで答えた。

「俺だけってわけじゃねェさ。誰にとっても、『強さ』ってのは同じものよ。おのれの我意を貫く『力』……言っちまえば、この世の中のすべてに対し、てめェのわがままを押し通す『力』のことだ」

「理解した」

 その回答に、冷たい口調で雷牙が応じた。

「やはり、あなたがたとは相容れることができないようだ。手加減しようと思っていたけど気が変わった。少しの間だけ全力を出させてもらう。悪く思わないでくれ」

「フフフ……よりにもよって『手加減』ときたか……」

 鬼面のおとこが、嬉しそうに笑い声をこぼす。

「この範勇を格下扱い。こいつは、高く付く……」

 持ち上げられた範勇の右腕に、ぎゅっと力が込められた。

 女性のウエストをはるかに越える、太く逞しい上腕部分。

 その頂点に、これまた大山のごとき力瘤が出現した。

 隆起の表面には脈動する血管がびくびくとのたうち、高密度の筋繊維からはみしみしという軋み音が奏でられる。

 それは、とても人類のものとは思えないほどの、まさしく剛腕と言っていい代物であった。

 これと同等の逸品は、おそらく漫画やアニメ、もしくはそれを模した立体物の世界でしかお目にかかることはできないだろう。

 そんな尋常ならざる魁偉を目にして、シーラと久美子は思わず言葉を失った。

 人外の怪物機界獣と遭遇したおりとはまた別の種類の戦慄が、ふたりの背筋を走り抜ける。

 凶悪極まる「おす」の存在。

 本来なら女性の「めす」を魅了するであろうその力強さも、ここまで度外れていては恐怖の対象でしかあり得ない。

「うそでしょ? どうやったら、あんな身体をこしらえられんのよ……」

 巨漢が拳を振り下ろしたのは、シーラがそんな呟きを振り絞った、ちょうどその瞬間の出来事だった。

 鉄槌のごとき一撃が、その足元を力の限りに打ち据える。

 轟音とともに床面が穿たれ、直径数メートルに及ぶすり鉢状のクレーターが出現した。

 普通に考えればあり得ないほどの威力だった。

 とても人間業とは思えない。

「何よ何よ何よ、アレッ!」

 恐慌を来した久美子が、傍らのシーラに思わずすがった。

「中国の特殊工作員とかなんとか言ってたけど、ひょっとして、あのひともエイリアンの──」

「違うと……思う」

 小声だがしっかりとした口振りで少女が答える。

「うまく言えないけど、連中とは雰囲気が違う」

「でもッ!」

「大丈夫よ、久美子さん。雷牙がいるもの」

 うろたえる年上の女性に向かってシーラは告げた。

「あいつが必ず、わたしやあなたを守ってくれる。わたしたちは、いまそれだけを信じていればいいの。後悔することだけは絶対にないから」

 美貌の金髪娘からそう戒められた久美子が、震える瞳で青年を見た。

 宇宙刑事を名乗るその若者は、敵手が見せた盛大なデモンストレーションを前にしてなお、平然とした素振りを崩してはいない。

 その涼やかな佇まいは、彼女の心中にある種の感情を芽生えさせた。

 動揺や不安が、その感情に押し退けられてみるみるうちに消えていく。

 青年の視線が巨漢の胸を射貫いたのは、まさにそんなおりでの出来事だった。

 さっさと来い──そのクールな眼差しは、明らかに彼の意志を代弁していた。

 紛うことなき挑戦状である。

 それを察した範勇の顔が、ニタリと不敵な笑みを浮かべた。

 「行くぜ」と、その唇が短く宣戦を布告する。

 次の瞬間、放たれた巨大な拳が唸りを上げて雷牙に迫った。

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