美しき女策士3-3

 その日の夜のことだった。

 黒島と健二の両名は、ねぐらにしている安アパートの一室で、さして美味くもないだろう酒を絶え間なくあおっていた。

 雑然とした畳敷きの室内には、発泡酒の空き缶がいたるところに転がっている。

 おそらくは明るいうちから浴びるように飲んだのだろう。

 ふたりとも、完全に「できあがった」状態になっていた。

「畜生ッ!」

 飲み干したばかりのアルミ缶を力任せに握り潰し、黒島は呪詛の言葉を吐き捨てた。

「あの格好付けの兄ちゃんさえでてこなけりゃ、今頃はこんなビールじゃなくって、あのよだれもんの女子校生JKを、それこそ腰が抜けるまで味わえてたっていうのによォッ!

 そしたら次は、そいつをネタに写真で脅して、それが駄目ならクスリ使って言うこと聞かせて……じっくりたっぷり、一生かかってしゃぶりつくしてやれたっていうのによォッ!

 健二ィッ! 俺ァ諦めねェぞ! ぜってェに諦めねェぞ! あれだけの上玉だ。このチャンスを逃しちまったら、二度とご相伴に預かれる機会はねェ!

 なァに、通ってる学校はもうわかってんだ。『セントジョージの金髪姫』 今度は学校帰りを待ち伏せして、小細工なしに拉致ってやる!

 目撃者がいようがいまいが知ったことかッ! もしいたとしても、そいつが野郎ならぶっとばし、そいつが同じJKなら、一緒にさらって刺身のツマにするだけよ!

 サツが動くだろうがどうってこたァねェ。いざとなったら染田の旦那に相談して、組の事務所に連れ込んじまえばこっちのもんだ! そん時ァ、おめェを足蹴にした分もまとめてよォ、あの姉ちゃんの身体に百倍返ししてやれるってもんだぜ!

 そうだろう? 健二よォ」

 巨漢のヤクザは、顔を真っ赤にしながら相方に絡んだ。

 そんな黒島とあぐらを組んで差し向かう健二が、困ったように顔をしかめる。

「そりゃそうだけどよォ……」

 いかにも歯切れ悪そうに、チンピラは兄貴分をたしなめた。

「もしさっきの野郎がまたでてきちまったら、兄貴、あいつに勝てんのかい?」

「うぐッ……そいつは……」

 黒島は口籠もった。

 舎弟の問いかけに威勢のいい答えを返せるほど、甘い自己認識をしているつもりはなかったからだ。

 実のところ、黒島は自分の腕っ節に自信がなかった。

 もちろん、その筋の者として暴力沙汰の経験はそれなりにある。

 おのれの巨体が備えているナチュラルパワーも、一応自覚してはいる。

 だが、それとこれとはまったく別の問題だった。

 はっきり言うと、黒島はこれまで、誰かと真っ向からの殴り合いを演じたことが一度もなかった。

 相手を一方的に痛めつけた経験はあっても、こと喧嘩となれば素人並みというのが知る人ぞ知る実情だった。

 先に披露した十円玉を曲げるパフォーマンスも、種と仕掛けとを用いた彼一流のはったりだ。

 コイン自体に細工を施すことで、特定方向の力に対して意図的に曲がりやすくしてあったのである。

 だが、そのトリックは過去一度も見破られたことはなかったし、素人相手の威嚇効果も抜群だった。

 魁偉な容貌と組織の後ろ盾をちらつかせた粗暴な態度も、その外連味を効果的に後押ししていた。

 言うなれば、黒島というヤクザはそういった心理戦における玄人だったのだ。

 だからこそ、彼はいま思い知っていた。

 あの眼鏡の男轟雷牙が、あっさり「子供騙し」と評した十円玉のコイン曲げ。

 それがどれほど常軌を逸した芸当なのかを、この大男は誰よりも良く理解していた。

 二つ折りですら人類の力では仕掛けがないと不可能なのに、それを何事もなかったかのように四つ折り、八つ折りにまでして見せたその握力──…

 人間技じゃねェ。

 それがヤクザの結論だった。

 先ほどは舎弟の手前、酔いの勢いを借りて偉そうな口を効いてみたが、実際あの男が自分の前に立ちはだかったらと思うと、正直生きた心地はしなかった。

 背筋がぞっと寒くなる。

 畜生、と心の中で恨み言を吐いて、黒島は新たな缶の口を切った。

 そのまま勢いよく、中身を喉に流し込む。

 自棄酒やけざけだった。

 男としてどうしようもない力不足を認識させられたことによる、自暴にともなう酒だった。

 「力」があれば。

 悶々として彼は思った。

 もっと俺さまに「力」があれば、思うがまま、好き放題勝手に生きられるものを──畜生!

 部屋の電気が消失したのは、そんなおりの出来事だった。

「なんだ? どうした? 停電か?」

 驚いたように周囲を見回す健二が、思わず窓の外に目を向けた。

 だが、そこから見える隣家の灯りは消えてなどいない。

 ではブレーカーでも落ちたのか、と考えた彼は、酔いでふらつく両足に活を入れつつ立ち上がった。

 不意に生暖かい風が吹いた。

 窓枠のカーテンがひらひらと揺れる。

「おまえたち、『力』が欲しいのか?」

 不気味な声がふたりの耳に届いたのは、まさにその時のことだった。

 どこか艶めかしく響く女の声だ。

 黒島と健二は、ぎょっとして声のした方角へと目を向けた。

 その視線の先に「彼女」はいた。

 光源などいっさいない漆黒の闇の中、一種異様な存在感とともに不敵な笑みを浮かべ佇んでいる。

 男の情欲を刺激する、強い色気を備えた美女だった。

 モデルのように均整の取れた肢体から強烈なフェロモンを放つ彼女は、吊り上がった双眸をわずかに細めてふたりのヤクザを凝視している。

 その姿形は紛れもなく、セントジョージ女学院に勤める新任の養護教諭・追露慶そのひとのものであった。

 だが黒島も健二も、そうした事実を知り得る立場にはない。

「だ……誰だ、てめェは?」

 ごくり、と生唾を飲み込み黒島が凄んだ。

「どうやってここに入ってきやがった?」

「質問に答えるのはそちらのほうだ」

 ゆらり、と身体を振って美女は応えた。

「どうだおまえたち。『力』が欲しくはないのか?

 おのれのわがままを理不尽に通すための『力』

 我意を妨げんとする者を実力で排除するための『力』

 他者を蹂躙し、おのが欲望を満足させるために必要な『力』

 おまえたちが心からそれを望むなら、この私がその『力』をくれてやろう。

 代償はおまえたちの『魂』

 そのどうしようもなく邪で醜い、心底腐りきった『魂』と引き替えに、このオイロケーが、いまのままの人生では決して得られないであろう強大な『力』をその身の上に授けてやろうと言うのだ。

 ふふふ……悪い取引ではあるまい」

「た……『魂』と引き替え、だとォ?」

 ぶるっと震えて健二が言った。

「ざけんじゃねェッ! てめェ、不法侵入者の分際で悪魔にでもなったつもりかよ!

 へへッ……ちょうどいいや。こちとらあの金髪姫とヤれなくなって、溜まってたムラムラが爆発寸前だったところだ。あの極上ボディの代わりに、てめェのスレンダーボディでこの欲求不満を発散させてもらうぜ! 悪く思うなよ、姉ちゃん!」

「とことん見下げ果てた男だな」

 獣欲を剥き出しにして襲いかかってくるチンピラを前にしてもなお、慶は身動きひとつしなかった。

 冷たく蔑んだ眼光を湛えながら、にやりと口の端を綻ばせる。

 彼女は言った。

「だがいまは、おまえのその下劣さが実に好ましい」

 慶の右手が翻った。

 手中を離れた小さな物体が、狙い違わず健二の口内へと滑り込む。

「げッ、げほッ!」

 咳き込みながら健二が怒鳴った。

「て……てめェ、いま何を飲ませやがった!?」

 だが、その言葉は最後まで紡がれることはなかった。

 チンピラの表情が、いきなり苦悶のそれへと変化したからだ。

 両手で喉を押さえた健二が、「ぐァァッ!」と獣のごとき悲鳴を上げた。

 かっと目を見開き唾液をまき散らしながら七転八倒を開始する。

 その全身から、ばきばきという骨の砕ける音が発生した。

 服の下にある肉体が、ぼこぼこと至るところで凹凸を繰り返す。

「ふふふ──…」

 微笑みながら慶が言った。

「いまおまえの体内に入ったもの。それは、我がネオ機界獣の幼生だ。

 ネオ機界獣の幼生は、おまえの中に潜む忌まわしき情念を糧に成長を遂げ、やがては宿主の肉体を汚らわしい傀儡のそれへと再構築する。すなわち、おまえはこれより人間ではなくなり、邪悪なる機界獣の末席という蔑まれる者どもの列へと並ぶことになるのだ。

 だが安堵せよ、愚かなる者よ! これにより、しかと約定は果たされる。

 ネオ機界獣として新たなる生を得たおまえは、今後おのれの欲望を自制する必要などなくなるのだからな。そう──ひとの身を捨て我らが盟に加わったおまえは、力なき哀れな者どもに対し、その許しがたい欲望を存分に満たす権利と実力とを与えられることになるのだ。

 喜ぶがいい、ネオ機界獣・ザクーヤ!

 それが、おまえに授けられた新しき名だ!」

 その台詞が語り終えられるのと同時に、床上をのたうち回っていた健二の動きがぴたりと止まった。

 一瞬の静寂を挟み、彼はゆらりと立ち上がる。

 そしておもむろに振り向き、腰を抜かして動けない兄貴分へと視線を送った。

 爬虫類のそれにも似た瞳孔が、暗がりの中でぎらりと光る。

「ひ……ひ……ひィィッ!!」

 黒島が尻を引きずり逃げようとする。

 失禁の痕跡がズボンを濡らし、根源からの恐怖が口と鼻から多量の液体を垂れ流させた。

「次はおまえの番だ」

 優雅な動きで右手を差し出し、追露慶オイロケー参謀は巨漢に告げた。

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