美しき女策士3-4

 セントジョージ女学院高等部と市街地を挟んで反対方向。

 人気の少ないなだらかな丘陵地の裾野に、その尼僧院はあった。

 年配の尼僧が数人、イエス・キリストの精神に則った共同生活を営んでいる極めて小規模の施設だ。

 そしてそこは、神に対する祈りの場であると同時に、わけあって親とともにあることのできない子供たちが暮らす生活の場児童養護施設でもあった。

 その最大のスポンサーとなっているのは、セントジョージ女学院の母体となっているキリスト教系の宗教団体だ。

 両者の繋がりは長く、その発端はこの尼僧院の設立段階にまで遡る。

 当然ながら、学園の現理事長である雪姫松乃との関係も深い。

 彼女と施設の代表者たる尼僧院長とがおよそ四十年来の親友であることは、関係者ならずとも多くの人が知っている事実であった。

 毎週の日曜日、松乃の孫である金髪の少女雪姫シーラが同施設をボランティアで訪れるようになったのも、あるいはそれがきっかけのひとつであったのかもしれない。

「お疲れさま」

 尼僧院の一角に設けられた小さな事務室。

 その片隅でノートパソコンとにらめっこしているシーラの前に一杯のコーヒーが差し出されたのは、間もなく午前十一時に差し掛かろうとしたあたりでの出来事だった。

 臨時雇いの見習いシスターとして白い頭巾ウィンブルを被った彼女がひょいと視線を上げた先。

 そこに立っていたのは、この尼僧院で院長を務める大久保おおくぼいつきという修道女だった。

 年の頃は、シーラの祖母・松乃とほとんど大差ない。

 修道院長という固い立場に相応しく、いささか古びた修道服を一分の隙もなくまとっている。

「本当なら」

 柔和な仕草で頬に手を添え、彼女はそんな感じで切り出した。

「こういった経理の仕事は私たち当事者こそがしっかりしなくちゃいけないのだけど、どうにも年を取っちゃうと、パソコンとか数字とかにはとんと弱くなっちゃってねェ。正直な話、毎週あなたが手伝いに来てくれてなかったら、この尼僧院もどうなっていたことやら。ありがとう。心からお礼を言うわ」

「あ、いえ」

 妙に畏まった口調でシーラが応えた。

「こちらこそ、いろんな社会勉強させてもらってます」

「そう言ってもらえて嬉しいわ」

 感謝の意を伝えながら、修道女は少女の隣に腰を下ろす。

「本音を言うとね。あなたには、アルバイト料を支払いたいと思ってるくらいなの。でも知っての通り、うちは何かと貧乏で……」

「そんな。アルバイト料だなんてもったいないです!」

 いまにも立ち上がらんばかりの勢いでシーラは言った。

「わたしがここに来てるのは、むかしママがここでお世話になったことの恩返しでもありますし、院長先生にそんな対応されたら、気まずくて、いままでどおりにやってけなくなっちゃいます。絶対にやめてください!」

「そうは言ってもねェ」

 難しそうに顔をしかめ、樹は応えた。

「感謝の気持ちが言葉だけというのもいささか心苦しくって……ことに、先週からはあなたの紹介してくださったあの轟さんとかいう男性にも大変お世話になっちゃってるし。ほら、尼僧院はどうしても女手ばかりになるから、たまに力持ちの殿方がいてくださるととっても助かるのよ。あの方、毎回手作りのお菓子を持参してきてくださるので子供たちにも人気があるし──」

「先週はミニドーナッツで、今週はバタークッキーだったみたいですね」

 弾むシーラのその声には、どこか嬉しそうな響きがあった。

「あいつ、ほんとーに家事全般が大好きで、料理なんかもうプロ級の腕前なんです。最近は男のくせにお菓子作りなんかにはまっちゃってて、さっきちらっと様子見に行ったら、『来週は山ほどプリンを作ってくるぞ』って子供たちを前に意気込んでましたよ」

「そう。いいひとに出会えて、本当によかったわね」

 うふふ、と意味ありげに院長は笑った。

「でも、その点に関しては少しだけ残念だわ。この尼寺はね、いずれあなたにこそ継いでもらおうと思っていたのだけど、まさかあんな素敵な男性が側にいてくれてる娘さんに『一生を独身のまま過ごしてください』だなんて、口が裂けてもお願いできないもの」

「はぁ?」

 その発言を聞いたシーラの口が、鯉のようにぽかんと開いた。

「それ、いったいどういう意味でしょうか?」

「あら、照れなくてもいいのよ」

 微笑みながら樹は言った。

「あの方、あなたの彼氏さんなんでしょ?」

「雷牙が、ですか!?」

「違って?」

「だ・ん・じ・て・違いますッッ!!」

 机をどんと叩きながらシーラは吼えた。

「そりゃあ確かにわたしと雷牙はひとつ屋根の下に暮らしちゃってますけど、あいつはあくまでただの同居人で、院長先生が想像しておられるような関係なんかには全然なってませんからッ! そんな関係になる意志も予定も計画も、現時点ではこれぽっちも持ってませんからッ!」

「あら、そうなの」

 そんな少女の焦り具合を目の当たりにして、この年配の修道女は、あっけらかんと言い放った。

「それはそれで残念な話ね。あの方、どこか悠馬ゆうまさんと同じ雰囲気をお持ちの男性だったから、あなたとはきっと似合いの夫婦になれるわねって、皆で密かに期待していたのに」

「パパとですか?」

 シーラの両目が見開かれた。間を置かず突っ込みが入る。

「いったいどこがですか? 顔も体格も言葉遣いも、雷牙とパパとじゃ、ちっとも共通点なんてないじゃないですか?」

「それは、見た目や性格がどうとかって意味じゃないのよ、雪姫さん」

 諭すように樹は答えた。

「強いて挙げるなら、そのひと個人が持っている独特の臭いや空気のようなものに例えられるかもしれないわね。

 これは私の勘なのだけれど、轟さんは、あなたのお父さまととても似通った人生を歩んでこられた方だと思うの。ふたりの目にある色彩がね、私には凄く重なって見えるから。

 だからきっと、あなたと彼とは素敵な関係を築けるはず。ふたりの出会いは、神の思し召しに違いない。そんな風にね、心の底から思っていたの。もしかしたら、この尼寺であなたたちふたりを祝福する時が来るかもしれないって、そんな期待を抱いていたの。

 でも、それが私の勘違いだったと言うのなら仕方がないわ。ちょっぴり惜しいなとは思うけど、それがあなたの選択なら、こちらはそれを受け入れる立場でしかないもの」

「う゛~……院長先生ィ~……」

 わざとらしくも未練たらたらな樹の口調に、しかしシーラは、それ以上の言葉を言い返すことがどうしてもできなかった。

 礼拝堂の掃除を終わらせた春香がその報告に訪れたのは、ちょうどそんな矢先の出来事だった。

 部屋の扉がぱたっと開いて、ジャージ姿の女子校生がそこからひょっこり顔を出す。

 はきはきした口振りで彼女は言った。

「お掃除終わりました」

「ご苦労さま。少し早いけど、あなたがたはお昼休みに入ってちょうだい」

 にこやかな表情で樹が応じた。

「午後からは、子供たちと一緒にお庭の手入れをしてもらいます。ですから、遅くとも一時までには、子供たちを連れて現場のほうにいてくださいな。あと、差し支えなければ轟さんにもその旨をお伝えしておいてください」

「了解です。院長先生」

「よろしくお願いしますね」

 それに続いて院長は、傍らのシーラに向けても言葉を送る。

 彼女は言った。

「雪姫さん。よかったら、あなたもご一緒してらっしゃいな」

 「よろしいんですか?」と尋ねるシーラに樹は一度大きく頷き、短く「どうぞ」とそれに答えた。

 シーラのほうにも否はない。

 「じゃあ、ありがたく」と告げてから、少女はいそいそと席を立った。


 ◆◆◆


 弁当箱を持ったシーラが所用を終えた春香と落ち合ったところは、尼僧院に隣接するハーブ畑の外縁だった。

 そこは陽当たりも良く、流れゆく微風を心地よく堪能することができる場所だ。

 今日のように見事な秋空が広がる天候なら、その快感はまさに飛びっ切りのものだったと言える。

 ふたりの少女は香り漂う草地の上に腰を下ろし、食事の準備を整えた。

「そう言えば、雷牙は?」

 シンプルな塩おにぎりにかぶりつきつつ、シーラが尋ねた。

「さっき、『お昼休みだよ』って言いに行ったんでしょ?」

 その質問に春香は、「ちょっと前に追露先生が戻ってきて、どっか連れてっちゃったみたいだよ」と、こちらは出来合のサンドイッチを片手にさらりと答える。

「なんでもさ、帰る途中でクルマがエンコしちゃったんだって」

「うげッ、あのレズ教師も日曜礼拝に来てたんだ」

 シーラは、あからさまな嫌悪感をあらわにした。

「雷牙も雷牙よ。どうせクルマなんて簡単に直せやしないんだからさ、素直に業者呼ばせるなりなんなりさせればいいのに。ほんっっっとに、根っからのお人好しなんだから、あいつ」

「あはは、それがあの先生の良いところだよ」

 笑いながらそう応じた春香が一転、眉をひそめてシーラに囁く。

 彼女は尋ねた。

「ところで、シーラ。いいの? いつまでもこんな調子で?」

「???」

「いまのまんまじゃ誰かに盗られちゃうかもよ、轟先生」

「ブッ!」

 思わず吹き出しシーラは叫ぶ。

「ちょ、ちょ、ちょっとォ、それ、どういう意味ィ!?」

「どうもこうもないって。聞いたとおりの意味よ」

 牛乳パックに突き刺したストローからちゅーっと中身を吸い出しつつ、春香は上から目線で親友を諭す。

「今日の礼拝見てなかったの? いつもはがらっがらなのがあたりまえなのに、今朝に限ってうちセントジョージ女学院の学生いっぱい来てたじゃん。あれ、どういうわけかわかってる?」

「ううん、全然」

「あれ、みんな轟先生狙いよ」

「うそォッ!」

「ホント」

 春香はきっぱり言い切った。

「あんたねェ……自分はあのひとと同棲──」

「ど・う・きょ」

「──同居してるからってそんな余裕ぶっこいてられるのかもしんないけどさァ、先生、いま、もっっっの凄く人気あるのよ。特に一年二年の下級生どもに。

 そりゃ人気も出ますって。爽やか高身長なイケメンで、かつオトナで紳士で折り目正しくって、加えて頭も良ければ会話もできる。そいでもって、何かあったら助けてくれること確実な正義の味方で宇宙刑事なのよッ!

 王子さまと騎士と特撮ヒーローを足して三分割しない理想のオトコがそこにいるんだから、乙女回路装備した花の十代女子校生が理性保てるわけないでしょッ!

 あんたは気にもしてなかったんだろうけどさ、轟先生、あの一件からこっち、お菓子とお弁当の絨毯爆撃すっごいんだから」

「そんなこと、ちっとも知らなかった」

「あーッ、これだから処女は!」

 わざとらしく頭を抱えて春香は言った。

「あんたがさァ、さっさとあのひとに唾付けとけば、いまごろはこんなことになんてなってなかったんだよ。オンナとしてさァ、欲しくなってこないの?、あのひとのこと。一緒に暮らしててさァ、子宮がこう、きゅんきゅんってしてくることない?」

「し・て・き・ま・せ・んッ!」

 むすっと唇を引き締めシーラが応えた。

「わたしと雷牙とは、だ・ん・じ・て・そういう関係ではありませんッ! あれはあくまで同居人。それ以上でもそれ以下でもな・い・で・すッ!

 院長先生にしろあんたにしろ、どうしてそういう風にわたしたちを見るのかなァ。別にさァ、恋人臭漂わせてるわけでもないじゃない、わたしたち。それなのに、な~んでまた、そんな話が雨後の竹の子みたいに顔出してくるのか、いまのわたしにはさっぱりわかりませんですたい」

 この話題はこれまで、という意思を言外に込めて、シーラは塩おにぎりを口の中に押し込んだ。

 マイボトルから器に注いだ熱い緑茶を、ずずっと音を立ててすすってみせる。


 野太い男の怒鳴り声が響いてきたのは、まさにその瞬間の出来事だった。


「何ッ!? 喧嘩ッ!? こんなところでッ!?」

 びくっと両肩を震わせたシーラが、弾かれたように顔を上げた。

 その隣に座る春香もまた、彼女と同様の反応を見せる。

 食べかけの昼食もそのままに、ふたりはいまだ怒声が轟き続ける尼僧院の正門付近へ足を運んだ。

 そっと物陰に身を隠し、現場の状況を確認する。

 そこで彼女らが見たものは、尼僧院長である樹に向かって罵声を放つ、ふたりのヤクザ者の姿であった。

 ひとりは、小山のごとき巨体を持つ禿頭とくとうの男。

 もうひとりは、頭髪を金色に染めた典型的なチンピラだった。

「あいつら!」

 シーラはその両名に見覚えがあった。

「あの時の痴漢!」

 そう、それは間違いなく黒島と健二であった。

 どちらも気取ったサングラスで顔を隠しているが、見間違えなどするはずもない。

 男たちは、いまにも胸倉を掴みあげそうな勢いで、対応する樹に迫った。

「おい、ババア。ここにセントジョージ女学院の雪姫シーラが来てるだろう。いますぐ俺たちの前に連れてこいや」

 ドスを効かせて黒島が言った。

 だが、樹はその圧力にも怯まなかった。

 凜と背筋を伸ばし、毅然とした態度を崩そうともしない。

 背後でうろたえている他の尼僧や子供たちのため、そして何よりシーラのために、自らが生きた障壁になろうとしているのだ。

「お引き取りください」

 樹は言った。

「ここは、あなたがたのような狼藉者の来る場所ではありません。もしどうしてもこの門を潜りたいのであれば、まず身を正し、自らの行いを心より悔い改めてからになさってください。その条件が満たされるなら、私どもは喜んで、あなたがたの魂が救われるためのお手伝いをいたしましょう」

「説教臭ェ話はどうでもいいんだよ!」

 一歩も退かない樹の態度にいらついたのか、遂に黒島は手をあげた。

 そのごつごつした右手で、彼女の肩を突き飛ばしたのだ。

 小柄な老女はひとたまりもなく吹っ飛ばされ、どすん、と石畳の上に尻餅をついた。

 「院長先生!」と声を上げ、数名の尼僧と子供たちとがそこに駆け寄る。

「邪魔するぜ」

 そんな彼女らに向かってぺっと唾を吐きかけつつ黒島が告げた。

 か弱い老婦人に暴力を振るったという負い目は、その口振りからは微塵も感じられない。

「待ちなさいッ! このチンピラどもッ!」

 雪姫シーラが物陰から飛び出してきたのは、ちょうどその時のことだった。

 右手には、愛用の竹刀を握っている。こんなこともあろうかと密かに準備してきていたものを、慌てて持ち出してきたのだ。

 その剣先をまっすぐ相手に突き出しながら、彼女はずばっと言い放つ。

「あんたたち、わたしがここに来てるってことをどうやって嗅ぎつけたのかは知らないけど、それ以上の悪行はこの雪姫シーラが断じて許さないわ! 今後百年はこの顔見ただけでそっこー逃げ出すくらいけっちょんけっちょんにしてあげるから、そのつもりでいなさいッ!」

「おーおー、姉ちゃん。勇ましいねェ」

 あごの下をなでさすりながら、黒島は笑った。

 脂で黄色くなった歯が剥き出しになる。

「尼さん姿ってのが、またそそられるじゃねェか。その凜々しいお顔が、今日、俺の腹の下でどんな風によがるのか。そいつを想像するだけで堪んなくなってくらァ」

「下劣なのは顔だけにしておきなさいな」

 シーラは告げた。

「得物を持った剣士がいったいどれだけ強いのか。それをいまから証明してあげるわ」

「面白れェ。やってみせろや」

 くいっと指先を曲げて挑発する黒島に対し、シーラは竹刀を正眼に構えた。

「いけません! 雪姫さん!」

 それを制止したのは樹だった。

「神に仕えようとする者が暴力を振るうだなんて、決してあってはならないことです!」

「院長先生。それは間違ってます」

 鋼の口調でシーラが応じる。

「理不尽な暴力から弱者を守れない、そんな無力な正義に存在意義なんてありません。正しいことを成そうと欲するなら、その者はそれを成し遂げるだけの強い力を持たなくちゃいけないんです!」

 言うが早いか、少女の瞳が鋭さを増した。

 裂帛の気合いとともに、その足が勢いよく地面を蹴る。

 直後、バシッという炸裂音が周囲の者の耳朶を打った。

 振り下ろされた面打ちが、黒島の頭部をものの見事に直撃したのだ。

 得物を握るシーラの手中に、はっきりとした手応えが届いた。

 それがいかに竹刀とはいえ、「剣」の一撃をまともに被弾してなお平然としていられる人間など、そうそうこの世にいるはずもない。

 だが、いま彼女の目の前で仁王立ちしているこの巨漢のヤクザは、紛れもなくその「いるはずのない人間」のひとりだった。

 にやにやと口の端を綻ばせつつ、彼はシーラの技量を嘲笑う。

「むふぅ、かゆいな。姉ちゃん、大口叩いといてその程度かァ?」

「そんなッ!」

 少女は我が目を疑った。

 想像もしていなかった現実に、思わず言葉を失いそうになる。

 しかし、いまさら退くことはできない。

 無理矢理に自分自身を奮起させ、彼女はふたたび竹刀を振るった。

 伸びてくる二本の腕を払い除け、すれ違いざま胴を薙ぐ。

 怪我をさせても構わない。

 本気でそう思った上での打ち込みだった。

 にもかかわらず、黒島の巨体は小揺るぎひとつしなかった。

 振り向きざまにシーラの竹刀を掴んだ彼は、力任せにこれを手元へ引き寄せる。

 「あッ!」と短く声を上げ、少女は一気につんのめった。

 足先が、一瞬だけだが地を離れる。

 そんなシーラの鳩尾めがけ、ヤクザのパンチが撃ち込まれた。

 衝撃が腹から背中へ突き抜けて、彼女は直下に崩れ落ちた。

 痛みが呼吸を寸断する。

 ダンゴムシのように背を丸め、シーラは何度も嘔吐を繰り返した。

 これがボクシングなら、まさに一発KOな状態だ。

「シーラッ!」

「雪姫さんッ!」

 春香や樹、尼僧たちの間から悲鳴にも似た声が上がる。

「よお姉ちゃん。おとなしくしてりゃあ、そんな目にあうこともなかったのによォ。残念だったな」

 観衆の声をよそに、勝ち誇った黒島がシーラをジト目で見下ろした。

 自らの欲望を満たすべく、ゆっくりと指先を伸ばしていく。

 けたたましいサイレン音とともに二台のパトカーがやって来たのは、まさにそんなおりの出来事だった。

 おそらくは、尼僧の誰かが警察に通報していたのだ。

 停車したパトカーの中から飛び出してきたのは、それぞれ二名の警官だった。

 「おまえたちッ! そこで何をしているッ!」と掣肘の声を発し、黒島たちを威嚇する。

 そんな警官たちの前に、すぐさま健二が立ちはだかった。

「おいおいポリ公。これから兄貴がお楽しみになろうっていうのに、横からそいつを邪魔しに来んじゃねェよ。まったく、空気が読めねェ野郎はこれだから困るぜ」

「なんだとッ!」

 すでに状況を把握完了していたものか、先頭に立つ警官が健二に向かって声を荒げた。

「貴様ッ! 公務執行妨害で逮捕するぞッ!」

 鼻で笑ってチンピラは応えた。

「やってみなよ、公僕」

「確保ーッ!」

 命令一下、二名の警官が左右から健二の腕に掴みかかった。

 だがチンピラは、軽々その手を振り払う。

 成人男子の身体が、まるで人形のように宙を舞った。

 尋常の膂力ではない。

 明らかに衆を越えていた。

 さらにひとりの警官を、健二は拳で殴打する。

 顔面を殴られた警官は、数メートルほど吹っ飛んで、そのまま意識を失った。

 最後の一名となった警官が、恐慌を来して拳銃を抜いた。

 震えるその手で銃口を向け、警告なしに引き金を引く。

 続けざまに、数発の弾丸が健二の胸板に命中した。

 それは、常人なら死に至るほどの負傷のはずだ。

 しかし、チンピラの表情に変化はない。

 ありえない現実だった。

「ば、莫迦なッ!」

 銃口を保持したまま硬直する警官をよそに、健二は不敵ににやりと笑った。

 おもむろにパトカーの側へと歩み寄り、車体の縁に手を掛ける。

 次の瞬間、彼はそのパトカーを高々と頭上に掲げ上げた。

 計一トン半はあるであろう、セダンボディのパトカーをである。

 人間の所業ではなかった。

 獣のように咆吼したチンピラが、持ち上げたパトカーをもう一台のボンネット上に叩き付ける。

 盛大な破壊音が轟いた。

 警官たちの士気が崩壊する。

 失神した仲間を抱えながら、彼らは我先にとこの場からの逃走を図り始めた。

「がははははッ!」

 黒島の放つ高笑いが、丘陵地帯に木霊した。

 興奮気味に、思うがままをわめき散らす。

 彼は言った。

「堪らねェなァ、『力』って奴は! これでもう、恐れるもんは何もねェ! 欲しいものは奪いッ!、気に食わねェ奴はぶちのめしッ!、美味そうなオンナは、手当たり次第にしゃぶり尽くすッ!

 これが『力』かッ! これが『力』かッ!

 もう、ポリスの顔色をうかがう必要もねェ!

 上のご機嫌をうかがう必要もねェ!

 好き放題、思うがままに生きてやれるぜッ!

 最高だッ! 最高だッ!

 姉ちゃん! その手始めがあんたってわけだ!

 もう誰も俺らを止められねェッ! もう誰にも俺らを止めさせねェッ!

 そのことを、たっぷりじっくり、あんたの身体で確かめさせてもらうぜッ!

 がははははははははッッッ!!!」

 大笑する黒島の肉体が異様な変貌を遂げ始めたのは、その直後のことであった。

 ただでさえ大柄なその身体が見る見るうちに体積を増し、内側からの圧力に耐えきれなくなった着衣が、ビリビリと音を立てて引き裂かれていく。

 呆然とその変化を眺めるしかないシーラたちの眼前に、やがて一体の魔獣が出現した。

 巌のごとき体躯を持つ、直立したサイの化け物だ。

 同じ頃、健二もまたひととしての姿を失っていた。

 こちらが変体を果たしたのは、コウモリの耳を備えた不気味な巨猿の姿だった。

 どちらも、その身の丈は余裕で二メートルを越えている。

 禍々しさに至っては、もはや言葉にすることすら難しい。

 樹を初めとする尼僧たちが「神よ……」と呟きながら十字を切れば、まだ幼い子供たちは、本能的な恐怖に駆られ、火が付いたように泣き始める。

「嘘……でしょ……」

 苦痛に顔を歪めながら、シーラは言葉を絞り出す。

「これってまるで……機界獣じゃない……」

 サイの化け物黒島が、改めて足元のシーラを見下ろした。

 目を血走らせ、大きく開けた口元から、ぼたぼたと唾液の雨を滴らせている。

 この怪物が、いまいったい何を目論んでいるものか。シーラはそれを、誤解することなく察していた。

 こいつはいまだ、自分を使って獣欲を満たす企てを止めてなどいない!

 冗談じゃない!

 おのが身に渾身の鞭を入れ、少女は必死になってその場を離れるべく尽力した。

 だがダメージを受けた彼女の肉体は、持ち主の要求に応えようとしてくれない。

 陵辱者の手が、そんなシーラにゆっくり迫る。

 少女にとって、それは文字どおり絶体絶命のピンチだった。

 しかし次の瞬間、その絶望的な未来図は劇的なまでに書き換わった。

 勢いよく滑り込んできた光の球が、横合いから怪物の巨体を跳ね飛ばしたのだ。

 奇襲を受け、音を立てて転倒するサイの化け物。

 光球は、そのまま音もなく消失すると、胎内からひとりの男を解き放った。

 それは、黄金色の鎧をまとった凜々しき姿の戦士だった。

 彼はその背に少女を隠し、堂々と怪物の前に立ちはだかる。

 間を置かず、その身が鋭く見得を切り、唇が名乗りの言葉を紡ぎ上げた。


 轟雷牙が──否、宇宙刑事ライガが、見事戦場への推参を果たしたのである!

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