美しき女策士3-2

「あははははー、そりゃあ災難だったねェ」

 やや閑散とした夕暮れ前の住宅地。

 クルマの行き来もほとんどない生活道路の端っこで、此路春香は盛大な笑い声を張り上げた。

 よほどツボにはまったのだろうか。思わず腹部を抱えつつ、その場で歩みを止めてしまう。

「でもさでもさ」

 ひぃひぃと呼吸を乱しながら、溢れる涙もそのままに春香は続けた。

「本音を言うと、そんな風にうろたえちゃったあんたの姿ってのも、この眼で直に見てみたかったって気はするなァ。まず滅多に遭遇できない光景だったろうしねェ。もしかしたら、ネッシー目撃するのより貴重な体験だったかも」

「もう! 本当に笑い事で済むような雰囲気じゃなかったんだからね!」

 相方が停止したせいで若干先行してしまったシーラが、振り向きざまに両肩を怒らせた。

 叩き付けるように言い放つ。

「こっちはさ、本気の本気で貞操の危機ってのを感じちゃってたんだからッ! そもそもあんたがあんな自爆ギャグかまして目を回しさえしなければ、わたしがあんなレズ教師相手に不快な思いすることもなかったのよ。少しぐらいは自分の責任って奴を痛感してみせたらどうなのッ!」

「いや~、それについてはまったくもって面目ない。返す言葉もございませんです。次回からはもうこれ以上なく注意いたしますので、なにとぞお許しくださいませませませませ」

 ぽりぽりと頭をかきつつ春香は言った。

 小さくぺこりと腰を折る。

 ただしその表情は、神妙からはあまりにほど遠く見える代物だった。

 へらへらとした笑いが、はっきりと口元に浮かんでいる。

「まったく」

 そんな謝罪の類似品を受け取ったシーラが、片手を腰に仁王立ちした。

 呆れ顔を浮かべながら、深々とひとつため息を吐く。

 彼女は言った。

「おかげでこんな時間まで付き合わさる羽目になったこっちのことも、少しは考えてちょうだいね。おごりのひとつじゃ勘弁しないから」

「へへェ~、仰せの通りにいたしますです」

 いかにもわざとらしく、卑屈な態度で春香が応えた。

「御家老さま。『アイリッシュ』のダージリンティーにケーキをプラスってところで、どうかひとつ勘弁してはもらえませんでしょうか?」

「『志村屋』の濃厚梅昆布茶と厚焼き醤油せんべいのセットで手を打ってあげるわ」

「合点承知の助であります!」


 ◆◆◆


 春香が意識を取り戻したのは、あれからさらに半時一時間ほどが経過した、そのあたりの出来事であった。

 時刻にすると、おおよそ四時半を回ったあたり。

 当然のことだが、すべての授業は終了している。

 いまだ校舎の敷地内にいる生徒は、部活動に勤しむ面々を別にすれば大した数であるはずもなかった。

 それゆえに、最後まで雷牙とともに保健室に残っていたシーラが親友を自宅まで送っていく役目を仰せつかったのは、まあやむを得ない側面もあった。

 もちろん、彼女自身がそれを買って出たのも大きな要素のひとつである。

「帰る途中で体調が悪くなったりしたら大変ですからね」

 わざわざ校門の外にまでふたりを見送りに来てくれた雷牙がそんな風に言うとおり、頭を打って気絶までした春香をひとりぼっちで帰宅させて、その途上に何か異変が起きたとあっては安全管理上問題が生じる。

 いまの彼女に付き添いが必要なのは、素人でもわかる成り行きであった。

 春香の自宅は、シーラのそれと比べると、学校を挟んで反対側の位置にある。

 距離的には、およそひと駅の区間ほどといったところか。

 つまり「セントジョージの金髪姫」は、その分だけ遠回りをして帰宅の途に就くこととなる。

 余計にかかる時間は、おおむね一時間弱。

 紅茶とケーキ、あるいは昆布茶とせんべいの価値がそれに見合うものであるかどうかは、ちょっと微妙なラインだったと言える。

「じゃあ、わたしはこれで帰るけど、気分が悪くなったり頭が痛くなったりしたら、すぐ救急車呼ぶのよ。無理して大事になったりなんかしたら本気で承知しないんだから。わかった?」

「了解であります!」

 春香の家の玄関先で人差し指を立てながら言い放つシーラに向け、少女はおどけたように敬礼した。

 もっとも、態度とは裏腹にその目は笑ってなどいない。

 シーラが心底自分のことを心配して言っているのが、彼女にははっきりとわかっていたからだ。

「ねえ、シーラ」

 そんな親友を労おうと春香が尋ねた。

「喉渇いてない? なんなら上がってく? ジュースでも出そうか?」

「悪いけど遠慮しとくわ」

 片手をあげてシーラが微笑む。

「このあと、商店街で雷牙と落ち合うつもりだから。ほっといてもすねるような奴じゃないけどさ、たまには荷物持ちぐらいしてやらないと、ね」

「え?、歩いて帰るの?」

「まあね。大した距離でもないし。それがどうしたの?」

「う~ん」

 春香の顔が難しく曇った。

 腕組みしながら忠告を放つ。

「実は最近さ、このあたりで質の悪いナンパ野郎が出没するって話があるのよ。チンピラみたいのが、女子校生とかにしつこく絡んでるって話が。なかには強引に腕掴まれたりしたもいて、いまじゃ警察も動いてるとかなんとかかんとか」

「それで?」

「うん」

 問いかけられて春香は言った。

「あんた、その、物凄く目立つからさァ。そういうヤバイのに目ェ付けられちゃったら、かなり危ないんじゃないかなって」

大丈夫だいじょぶ大丈夫だいじょぶ

 ひらひらと右手を振りつつシーラは応えた。

「その時はその時で、これまでみたいにばしっと撃退しちゃうから。まだ全然明るいし、そうそう滅多なことなんて起きないわよ」

「だといいんだけど……」

「心配してくれてアリガト。じゃあ、『志村屋』の梅昆布茶とお煎餅、楽しみにしてるから!」

 そう言って春香と別れたシーラは、先に発した言葉のとおり、自宅近郊の商店街へと脚を向けた。

 この場から徒歩で同地へ向かうとすれば、通行人の姿もまばらな住宅地の中を抜けていくのが圧倒的に近道だ。

 いかに春香からの忠告があったとはいえ、わざわざ人通りの多い国道沿いに出るほどの手間をかける気にはなれなかった。

 彼女が馴染みとしている最寄り駅近くの商店街は、もっぱら個人商店が立ち並ぶ旧態依然の構成だった。

 ただし、立地条件と使い勝手の双方とに恵まれているせいか、いまのところ廃れるような素振りはない。

 おそらくこの時間帯であれば、商店の軒先は訪れた買い物客でごった返しているものと予想された。

 いまごろは、買い物袋抱えて悪戦苦闘してるんだろうな。

 八百屋だの、魚屋だの、肉屋だのに君臨する百戦錬磨の店主ども相手に、乏しい知識をフル動員しながら「今日の献立はなんにしよう」と顔をしかめている雷牙の姿を思い浮かべて、シーラはついつい笑ってしまう。

 まったく。

 宇宙人のくせに、妙なところで所帯じみてるんだから、あいつは──…

 おもむろにポケットからケータイを取り出し、歩みを止めてメールを打つ。


 ◆◆◆


 宛先・らいが

 件名・合流しましょ

 本文・春香の配達、完了しました。これから商店街のほうに行くんで、まだ買い物途中なら、どこかで合流して一緒に帰りましょ。お返事待ってます。


 ◆◆◆


 雷牙からの返事はすぐに来た。

 夕食の買い物はほとんど済ませてるので、これからそちらに向かいます、とのことだった。

 春香の家から駅前商店街への最短ルートがいまシーラの立っているこの生活道路であることは、雷牙の側でも十分わかっているはずだ。

 なれば、このまま目的地に向かって歩き続ければ、そのうちどこかで落ち合うことができるだろう。

 ケータイをポケットに戻し、シーラはふたたび歩き始めた。

 通りがかったひとりの男がそんな彼女を見初めたのは、それからおよそ十数分後の出来事だった。

 男はやにわに立ち止まり、ひゅう、と甲高く口笛を吹く。

 それは、紫色のシャツを遊び人風に着崩した典型的なチンピラだった。

 頭髪を金色に染め上げ、両手はともにズボンのポケットに突っ込んでいる。

 男の目線が自分の姿をロックオンした事実を、この時、シーラは敏感に感じ取った。

 先ほど春香の言っていた「質の悪いナンパ野郎」とはおそらくコイツのことなのだ、と直感的に認識する。

 この手の連中は、見栄えの良い異性を色事の対象としてしか認識していない。

 これまでの経験からそのことを嫌と言うほど熟知していたシーラは、表情を固めたままこの場を去ろうと決意した。

 面倒くさいことに関わり合いを持つのは、まっぴら御免であったからだ。

 男の存在をガン無視し、足早にその脇をすり抜けるべく歩を進める。

「おっと待ちなよ、お嬢ちゃん」

 だが次の瞬間、身体をずらしたチンピラが彼女の行く手を遮った。

 にやにやと嫌らしい笑みを浮かべながら、馴れ馴れしく下品な台詞を投げかけてくる。

 彼は言った。

「あんた、セントジョージ女学院の雪姫シーラだろ? 俺ァよ、ぜひ一度あんたに会ってみたかったんだ。とんでもねェくらいにそそる美少女だって聞いてたからよォ。

 なるほど、こいつは噂どおり……いや噂以上のベッピンさんだぜ! 輝くパツキンにブルーアイ。思わずしゃぶりつきたくなるでけえパイオツ……

 かァ~ッ、まったく見てるだけで勃起モンだ! たまんなくなってくらァ!」

 それは下品を通り越し、もはやセクハラと言っていい言葉の羅列だった。

 もし意志の弱い初心な女性が相手であれば、あるいはこの場で卒倒しかねるほどのショックを受けたかも知れない。

 しかし、雪姫シーラはそんな男の言葉を受けてもなお、一向に動じる素振りなど見せなかった。

 ぎん、とその青い瞳に刃を潜ませ、戦闘態勢を整える。

「そこ、どいてくれない?」

 氷のように冷たく、彼女は男に言い放った。

「あなたのパパとママは、天下の往来で道行くひとの邪魔しちゃいけないって教えてくれなかったのかしら? 身体だけ大きくなった幼稚園児じゃあるまいし、いい歳こいたオトナのくせに、そんな子供じみた真似して恥ずかしくないの?

 それともあなた、ひょっとして日本語が理解できないくらいのボンクラなのかしら? まさかその軽そうなオツムの中には、製材所から掻き集めてきたおがくずが詰まってるって言うんじゃないでしょうね?

 だとしたら、もう救いようなんかこれぽっちもないんだけどさ、一応ここは、あなたのオツムにたとえ人並み以下であっても人間の脳味噌が入ってるってことを前提にして、もう一度だけ親切心で言ってあげるわ。

 そこ、どいてくれない?」

 毒舌のマシンガンを容赦なく叩き付けられ、顔を引きつらせて男は怯んだ。

 突き刺さるようなシーラの視線が追い打ちをかける。

 思わず言葉を失った彼が自分を取り戻すまでには、軽く数秒の時間が必要だった。

「き……気が強えじゃねえか、お嬢ちゃん。気に入ったぜェ」

 虚勢を張りつつ男は言った。

「俺ァ、健二けんじって言うんだ。とある事務所に勤めててよォ。あんたみてェな綺麗どころに美味しい仕事を斡旋してるんだわ。どうよ? 俺らが紹介したお客さんとちょっとプライベートなお付き合いするだけで、簡単に諭吉が転がり込んでくるんだぜ。あんたほどのレベルなら、あっという間にひと財産だ。

 ちょっとそのあたりで休憩しながらよォ、話だけでも聞いてやっちゃあくれねェか? もしそっちがその気なら、タメの男どもじゃあ味わえねェ、気持ちのいい体験だってさせてやれるかもしんないぜェ。いひひひひひひ」

「寝言は寝てから言ってちょうだい!」

 切り捨てるようにシーラが応えた。

「な~にが美味しい仕事よ。それって、要するに援助交際のことじゃない! ふざけるなッ! この犯罪者ッ! 女の敵ッ! だ~れがそんな話に乗るかっての! 相手がイケメン芸能人だってお断りだわ!

 だいたいあなた、自分の顔をいままで鏡で見たことあるの? 男を顔で評価したくはないけどさ、そんな蛇だか蛙だかわかんない欲望丸出しの気持ち悪い顔しておいて、よくもまあ恥ずかしくもなく女の子に声かけられたものね! ひととして最低限の羞恥心も持ち合わせていないのかしら?

 もしかして、その可哀想なオツムにあるのは食欲と性欲のふたつだけ? それじゃ、ナマコと同じじゃん! いいえ、ナマコはまだ酢の物にして食べられるから、あなたの価値はナマコ以下ね。あ、以下とか同じとかって言ったら、ナマコに対して失礼か。ナマコ未満。そう、あなたの価値はナマコ未満よッ!

 そんなナマコ未満のタンパク質の塊が、いっちょまえに人間の言葉しゃべって青春真っ只中の女の子に不愉快な思いさせんなっての! わかった? わかったのならとっととここからいなくなって、二度とわたしの前にその汚らしい顔出さないで! 今度その面わたしに見せたら、その場で即行警察呼ぶからッ!」

 畳みかけるような罵倒の羅列が、真正面から健二を圧倒した。

 その足が、思わず半歩後退る。

 大の男が、女子校生の剣幕に気圧されてしまったのだ。

 「ふんッ!」と鼻息をひとつ立ててから、シーラは、ずんと一歩を踏み出した。

 思考停止状態に陥った健二の横を、大股ですれ違おうと試みる。

「ま、待ちやがれッ!」

 そんな彼女の左の手首を、チンピラの手が無造作に掴んだ。

 強引に引き寄せ、背中から一気に抱きつく。

 「きゃッ!」と悲鳴を上げたシーラの耳元で、凄みを効かせて健二は言った。

「おとなしく下手に出てりゃあ付け上がりやがって。俺みてェな筋者すじもんにここまで頭下げさせといて、あっさり『はいさよなら』が通じると思ってんじゃねェだろうな。ええ、お嬢ちゃんよォ。

 なんならよォ、このまま腕尽くでひんむいてやってもいいんだぜェ。ポリ公呼びたきゃ呼びなよ。こっちは、お務めなんざちっとも怖くねェんだ。その代わり、ムショから出てきた暁にゃあ草の根分けてでも探し出して、死ぬよりひでえ目に合わせてやっからな! ガキの分際で、あんまり舐めた真似こいてんじゃねェぞ、コラッ!」

 びくん、とひと震えしたのち、シーラの身体が凍り付いたように固まった。

 チンピラの口元が、我が意を得たりとほくそ笑む。

 筋者ヤクザの名を出した脅しが効力を発揮したのだと、彼は確信した。

 強い色欲が、たちまちその行動を支配する。

 背後から回された左手が、少女の豊かなバストをなでさすった。

 右手は、スカートの端を弄ぶように策動する。

 抵抗はまったくなかった。

 止めを刺すつもりで健二は告げる。

「ひひひ。お嬢ちゃん、どうやら自分の立場ってものがわかったようだな。んじゃあ、これからさっそく場所変えて、たっぷり朝までオトナの商談をしようじゃねェか。楽しい楽しいオトコとオンナの商談をよォ」

 ぶちッ、という短い音が健二の耳に届いたのは、続く刹那の出来事だった。

 まるで力任せに何かを引き千切った時のようなその音。

 それがいったいなんなのかを彼の頭脳が察するより早く、チンピラの顔面めがけてシーラ渾身のトルネードビンタが炸裂した!

「このォ……へんたいがーッッッ!!!」

 怒声とともに平手打ちが飛ぶ。

 それは、かつてあの宇宙刑事轟雷牙をすらはたき倒したことのある強烈無比な一撃だ。

 たかが一介のチンピラ風情がそれに耐えられる道理など、欠片も見出すことはできなかった。

 「ふぎゃァッ!」と情けない声を上げて、健二は路上に打ち倒された。

 そして次の瞬間、仰向けに寝そべり目を白黒させている彼に向かって、シーラによる容赦ない追撃が始まった。

「このォッ!」

 ストンピングが襲いかかる。

 下着パンツがちらつくリスクも厭わず、少女は、怒りにまかせ立て続けに右脚を踏み下ろした。

「このッ! このッ! このこのこのこのこの、このォッッ!!」

 彼女は叫んだ。

「いいことッ! おぼえときなさいッ! わたしのッ! 身体にッ! 許可なくッ! 触っていいッ! 男性はッ! 大切なッ! 家族以外はッ! 未来のッ! 素敵なッ! 旦那さまとッ! まだ見ぬッ! 可愛いッ! 子供たちッ! だけなんだからッッ!!

 それをッ! おまえはッ! おまえはッ! おまえという奴はァァァッ!

 死ねェッ! 死ねッ! 死ねッ! 死ねッ! 死ねッ! 死ねッ!

 氏ねじゃなくて、死ねッッ!!

 地獄へ堕ちて、蛆虫になれッッ!!

 細胞分裂から、やり直してこいッッ!!」

 騒ぎを聞きつけてき野次馬がわらわらとこの場に姿を現し始めたのは、それから間もなくのことであった。

 シーラは集まってきた面々に対し、「コイツ、痴漢です! 警察呼んでください!」とボロ雑巾のように横たわる健二を指さし、間髪入れずに主張する。

 野次馬たちは、最近噂になっていた「質の悪いナンパ男不審人物」に関する情報を、どこからか聞き及んでいたのだろう。

 何名かが、シーラに言われるがまま警察を呼ぼうとスマホを取り出す。

「ふざけんなッ!」

 そんな状況を把握した健二が、靴跡だらけになった上体を勢いよく起こした。

 両の目を血走らせながら、懸命に抗議の言葉を口にする。

「この俺が、いつおめえに痴漢を働いたって言うんでェ! 勝手に善良な一市民を犯罪者扱いするんじゃねェや! それともなんだ? これがいま流行の、『痴漢冤罪で小遣い稼ぎ』って奴か? ふざけんじゃねえッ! この不良娘がッ!」

「はあァッ?」

 両手を腰に金髪娘が詰め寄った。

「この期に及んで、そんな言い逃れが通用するとでも思ってるの? だとしたら、あなたって思ってた以上の大莫迦ね。もうとっくに手遅れかも知んないけどさ、一度専門のお医者さまに、その足りないオツムをよ~く診てもらうようお勧めするわ」

「じゃあよォ、その証拠って奴を出してもらおうじゃねェか!」

「証拠ですって?」

「そうよ」

 むくっと立ち上がり健二は言った。

「そこまで自信満々に言うのならよォ、俺が痴漢だったっていう決定的な証拠を、いますぐこの場で出してくれよ。動画でも、写真でも、目撃者でも構わねェ。そんな決定的な証拠って奴をよォ」

「そんなもの……あるわけないじゃない」

 ためらいがちにシーラは答えた。

「でも、状況証拠はそろってるわ。そっちがあくまで濡れ衣だって言うんなら、警察行ってきちんと調べてもらいましょうよ! 目撃者がいないのはお互いさまじゃない!」

「待ちな」

 野太い声がふたりの間に割り込んだのは、その時だった。

 対立する双方の言い分に戸惑いがちの野次馬を押し退け、声の主は巨体を揺るがせ進み出てくる。

 それは、縦も幅も厚みも、まるで小山のような大男だった。

 完璧なスキンヘッドに仕上げられた頭部が、妖怪・海坊主の姿を見る者に連想させる。

 わざとらしく開いたシャツの胸元から、その肉体に描かれた倶利伽羅模様が垣間見えた。

 どこをどう見ても、堅気の者とは思えない男だ。

 その大男が、前置きなしに言葉を発した。

「俺ァ、黒島って言うもんだがよォ、さっきからおふたりさんの遣り取りは、この眼でしかと見させてもらってたぜ。そこのお姉ちゃんが、通りがかりのそこの野郎をいきなりぶん殴ったっていう決定的なシーンもな」

 「なんですってェ!」と激高するシーラをよそに、黒島は続ける。

「間違いねェ。証言してやったって構わねェぜ。その野郎は無実だ。

 可哀想に。質の悪い女子校生に冤罪ふっかけられて、危うく人生棒に振るところだったな。だが安心しな、兄ちゃん。この俺が現場に居合わせたってこたァ、お天道さまって奴がちゃあんと世の中見てくださってたってことだ」

「ちょ……ちょっと待ちなさいよッ!」

 シーラがその発言に噛み付いたのは、至極当然の成り行きだった。

 彼女は叫ぶ。

「なんでそんなデタラメ言うのよ! わたしがそこの男に冤罪ふっかけたですってェ!? 根も葉もない言いがかりつけるのはやめてちょうだいッ!」

「往生際が悪いお嬢ちゃんだな、ええ?」

 援軍を得ていきなり強気に転じたチンピラが、ぐいっと身体ごとシーラに迫った。

「しかも、あくまで自分の非を認めないときてらァ」

「こういうのを見ちまうと、最近の学校教育って奴に疑問を感じちまうな」

 その意見に黒島が同調する。

「こりゃあひとつ、この俺さまがオトナとして正しい人の道を教えてやらにゃあいくまいよ。おい兄ちゃん。なんなら、おめえさんもそのお姉ちゃんの再教育に付き合うかい? 冤罪の被害者としちゃあ、ま、当然の権利だろうからな」

「ひひひ、そいつァ願ってもないことで」

 さすがにこの段階で、野次馬たちも真実を悟った。

 このヤクザ者ふたりは、もとよりグルなのだと。

 ふたりしてこの美少女を型にはめるべく、初めからこの遣り取りを仕組んでいたのだと。

 サラリーマン風の男性が警察を呼ぼうとスマホを弄った。

 正義感から出た咄嗟の行動だった。

 それをめざとく見付けた黒島が、ためらうことなく鉄拳を振るう。

 男性は強烈な一発を浴び、地面の上に打ち倒された。

 「つまんねェ真似してるんじゃねェよ、兄ちゃん!」という罵声が飛び、スキンヘッドの大男は周囲の面々を威嚇した。

「おめえらも、この性悪娘の同類かァ?」

 ドスの効いた声で黒島が凄んだ。

「おめえらみてェな生粋の雑魚どもはなァ、おとなしく隅っこのほうで縮こまってりゃあいいんだよ! 弱ぇくせにオンナの前で格好付けようだなんて考えず、黙ってセンズリこいてんのがお似合いなんだよ! わかったかァッ!!」

 巨漢の醸し出す迫力を前に、野次馬たちの腰が一斉に退けた。

 健二ががばっとシーラを羽交い締めにしたのは、そのすぐあとのことだ。

 「放しなさいッ! 放しなさいってば!」と懸命に身を捩る金髪娘を力任せに拘束しつつ、チンピラは「そういうわけだぜ、お嬢ちゃん」と勝者の余裕でささやいた。

「俺らみてェなヤクザもんに逆らったのが運の尽きだったな。だが安心しな。これからはよォ、俺らがお嬢ちゃんのことを責任持ってマネージメントしてやっからなァ。あんた、人気者になれるぜェ、ひひひ」

「冗談じゃないわよ! 誰があんたたちみたいなケダモノにッ!」

「おーおー、強気だねェ。もしかしてお姉ちゃんは、まだ白馬に乗った王子さまが助けに来てくれるとでも思ってらっしゃるのかな? だとしたらコイツは滑稽だ。げははは」

 嘲り笑って黒島が言った。

「残念だがな、お姉ちゃん。そんな夢みてェな奴はこの世にはいねェんだよ。これを機会におぼえとくんだな。この世の中はよォ、強ェ奴の天下なんだ。強くて悪い奴がワガママ通すってのがよォ、この世の中の摂理なんだ。どうでェ、ひとつ賢くなっただろうが」

「そこまでだ!」

 鋭い一喝が周囲の空気を斬り裂いたのは、まさにその瞬間の出来事だった。

 一同の視線が、声の主めがけ一斉に集中する。

 それは、地味な背広をまとった背の高いひとりの男性だった。

 両手には中身の詰まった買い物袋を下げ、誠実そうな双眸を黒縁眼鏡で囲んでいる。

 だがその一見温厚な眼差しには、いま、燃えるような熱い光が宿っていた。

 義憤だ。

 力強い足取りで一歩一歩歩み寄りながら彼は、ヤクザ者の存在に躊躇することもなく堂々たる口振りで言い放った。

 「そのひとを放せ!」と。

 轟雷牙だった。

 シーラの瞳が歓喜に煌めく。

 「誰だ、てめェ」と誰何する健二に、「その女性、雪姫シーラさんを守護する立場にある者だ!」と、胸を張りつつ雷牙は応えた。

 続けざまに彼は言う。

「おまえたち、シーラさんをいったいどうするつもりだ? もし彼女に不埒を働こうというのなら、この僕が、実力でもってそれを阻止する!」

「実力でもって阻止する、だとォ」

 いまにも笑い出しそうな雰囲気で、黒島が雷牙の前に進み出た。

「おいおい兄ちゃん。自分が何言ってんのかわかってんのかァ?」

 ポケットの中から十円玉を取り出し、指で挟んで見せつけるように掲げてみせる。

 人差し指と親指。

 二本の指に力がこもった。

 銅製の固い硬貨が、雷牙の眼前でじわりじわりと曲がっていく。

 恐るべき握力だった。

 人間離れしているとさえ言える。

「どうでェ」

 にたにたと自慢げな笑みを浮かべて黒島が言った。

「てめェの間抜けさ振りがよくわかっただろう? んんッ?」

 大男はその十円玉を雷牙の足元に投げ捨てるや否や、轟然と胸を張って自己の優位を主張した。

 路上に転がる曲がったコインを無造作に拾い上げ、雷牙はきょとんとした目で黒島を見た。

 その手が、湾曲していた十円玉をいとも容易く元に戻す。

「これが、いったいどうしたというんだ?」

 その瞬間、黒島の目が、健二の目が、文字どおり皿のような大きさに見開かれた。

 ざっと音を立てて血の気が引き、その顔色が見る見るうちに青ざめていく。

 雷牙の右手が硬貨を摘まんだ。

 そして先の黒島と同じ仕草で掲げたそれを、今度はひょいひょいひょいと二つ折り、四つ折り、八つ折りにしたうえで、何事もなかったかのように持ち主の手中へ返却する。

 それは、凄まじいとかとんでもないとか、とにかくそういった表現が陳腐にさえ感じられるほどの怪力だった。

 唖然としてその物体を受け取る黒島。

 そんな大男を見た彼は、心底呆れたとでも言いたげな風情でため息を吐いた。

「こんな子供騙しの芸当に、いったいなんの意味がある?」

 間を置かず青年は尋ねた。

「特に自慢できるようなことでもないだろう。もしかして、僕を威嚇したつもりだったのか? だとしたら、あまりにも説得力のない行いだな」

 いやいや雷牙。

 いまのは十分自慢できるし、説得力のある行為だって。

 そう内心で突っ込みを入れるシーラの目線に気付くことなく、雷牙はふたたびふたりのヤクザに詰め寄った。

 彼は言う。

「おまえたちに尋ねる。このままシーラさんを解放してこの場から立ち去るか、さもなくば、僕を相手に実力でおのれの意志をまっとうするか。ふたつにひとつ! そのどちらにするつもりなのか、さあ、いますぐに返答しろ!」

 雷牙の放つ人外の迫力に、直接対峙する黒島は否応なしに気圧された。

 健二もだ。

 ふたりはそのままじりじりと後退し、遂には突き飛ばすようにしてシーラの身柄を解放した。

 そして、なんとも型通りすぎる捨て台詞をほざいたのち、一方的に踵を返す。

「おぼえてやがれッ! 今度会った時は、ただじゃおかねェからなッ!」

「ふざけるなッ! だ~れが、おぼえててなんてやるもんかッ! だし汁で顔洗って蕎麦で髭剃ってから出直してこいッ! このへんたいどもッ!」

 撤退していくヤクザ者ふたりの背中に向かって、シーラは激しい言葉を投げ付けた。

 苦々しく表情を歪めながら、べ~ッと大きく舌を出す。

「あれは、いったい何者なんですか?」

 傍らに立つ雷牙がそんな彼女に質問したのは、それからひと呼吸置いたあとのことだった。

「ヤクザよ、ヤクザ!」

 吐き捨てるようにシーラが答えた。

「ヤクザ?」

「そう。平たく言えば、犯罪組織の一員よ。罪のない人たちに迷惑かけながら、勝手気ままに世の中生きてる。あんなのがそこいらじゅうウロウロしてるから、この国の治安が悪化するのよ! 人権人権言うのもいいけどさ、警察はもっと熱心に仕事しろっての!」

「この星の政府は、また随分と悪意持つ者に寛容なようですねェ」

 ふぅ、とひと息吐いて、雷牙は自分の頭に右手をやった。

「こんな調子じゃあ、彼らが法の処罰を受けるのは、もっとあとの話になりそうだ。

 シーラさん。あの手の連中は無意味に執念深いことが多いですから、しばらくの間、身の周りには十分注意しておいてください。『君子危うきに近寄らず』、でしたっけ? 僕のほうでもできるだけあなたの動向には気を配っておきますが、シーラさんのほうでも、意識してああいったのと距離を置くようにお願いします」

「わかったわ!」

 ぶん、と拳をひと振りしがらシーラが吼える。

「見てなさいッ! あの連中……次に出会ったときには、ふたりまとめてぎったんぎったんに畳んでやるんだからッ!」

「あの、シーラさん……」

 そんな彼女に雷牙は尋ねた。

「いま僕の言ったこと、ちゃんと聞いてました?」

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