狂愛


 電話での応対をしていた本田先生が、子機を置いた途端に大きな溜め息を吐いていた。少しばかり目元に隈ができている本田先生の顔を窺いながら尋ねる。

「どうかしましたか?」

「いやね、兵藤ひょうどう先生。三日続いて山口が休んでるんですよ」

「山口さんですか。去年も休みが多かったですよね」

「新学期に入ってまだ間もないのに勘弁してほしいもんだ」

「そうですね」

 本田先生との会話に区切りをつけ、ホームルームに必要なプリントをその場で確認してから席を立つ。他の先生方に続いて廊下に出れば、窓から射し込む五月のうららかな陽光が床を照らし、晴れやかな朝の訪れを感じさせた。職員室の隣りの保健室を通り過ぎては、左手の折り返し階段を昇り自分のクラスに向かう。

 今年、教師になって三年目で、初めて自分のクラスを持つことになった。それが二年B組。クラスを持つまで二年もの間、上から散々押し付けられた雑務を文句一つこぼさず熟しては、お金にならない残業を馬鹿みたいにしてきた。クラスを持ったことで労働時間はいままで以上に増えるが、自分のクラスを持ったことは素直に嬉しい。

 三階の踊り場に出ては、足音をたてて廊下を歩み、二年B組の扉の前に立つ。毅然とした態度を心掛け、いつものようにゆっくりと戸を引いた。

「おはようございます」

 挨拶と、職員室で打ち合わせていた連絡事項を済ませ、出席を確認してから漸く生徒と向き合う。話を真面目に聞いてくれる生徒、話を聴く振りをしている生徒、読書をしている人もいれば、この中には隠れて携帯電話を弄っている生徒もいることだろう。

 そこで、橘 彩花と目が合った。

 目が合った途端、嬉しそうに彼女は微笑んでくれる。

 入学式が終わって間もない頃、この黒板に携帯電話のアドレスと番号を記し、何か困ったことがあれば連絡してほしいと二年B組の生徒に呼び掛けた。あれから橘 彩花だけが悩み事とは程遠い、どこか好意的なメールを送ってくるようになってきた。昨日のことだ。彩花とのメールで目が留まったある一文が、私の頭から離れない。

『先生のこと、好きです』

 そのメールに対し『私も彩矢のことは好きだよ』と素直に返せば、『じゃあ、相思相愛だね』なんて、からかいのメールが返ってきた。橘 彩花に対し恋愛感情は当然ながらない。生徒と教師の恋愛なんてものは有り得ないし、そもそもそれ以前の問題だ。

 彩花の笑みから目を逸らし、クラス全体を見渡しては、笑顔を意識して何気ない話を始めた。それまで顔をあげていなかった生徒もいまは私の方を向き、時折会話に参加してくれる。こうした些細なコミュニケーションはとても大切だ。新任である私が生徒からの信用を勝ち取るには、こうした小さな積み重ねが何よりも大事だと思っている。それを如何に計算せず、無意識にやるか。その域に達するにはまだまだ経験が足りない。

 ホームルームを切り上げて、職員室に引き返す。このクラスのことを中心に物事を考えていたが、私が担当している英語は二年生のクラス全体を回って授業をしなければならない。全てのクラスが平等に授業の進行ができるよう調整し、テスト期間までに予定通りの範囲を教えなければならない上に、ここでもまたコミュニケーション能力が重要になってくる。生徒たちと会話をしつつも、自分の頭の中で思い描いていた授業をやり遂げなければ、一人前の教師には程遠い。だが、まずは目の前のことだ。一限目を乗り切って、そこから勢いに乗ろう。

 廊下を歩む自分の足音だけが耳に響き渡る中、「よし」という喝が自然と紛れていた。本日も、頑張っていこう。


   ※


 家に居るよりかは断然、学校の方が居心地が良いと気付いたのは小学生の頃だった。家で過ごす時間を減らすために部活を始めたのは中学生の頃で、コンビニのバイトを始めたのがいま現在。アルバイトで稼いだお金は携帯電話の代金と昼食代に回し、夕食はコンビニで貰う廃棄物で賄うのが生活の基本だ。たまに夕食の用意がある日は、遠慮せずに戴いていた。食べ物を残せば、母親が機嫌を悪くすることは知っている。きょうは十七時から二十二時までバイトだ。苦とは思わない、あの家に居続けることを思えば。

 一限目。本田先生の数学の授業に耳を傾ける振りを装いながら、机の上に置かれた英語の教科書に目を通す。五限目は英語だ。この日は小テストがあることを覚えていたし、この日のためだけにしっかりと英語だけを勉強してきた。全ては、兵藤先生に見てもらうがために。

 一年の頃から知っていた兵藤先生。他の先生とは違う、言葉では表現し難い魅力が兵藤先生にはあって、兎に角、私にとって兵藤先生は憧れの存在だった。

 入学式であった二年生の担任発表のとき、兵藤先生が自分のクラスを担当するって決まったときは、驚きのあまり、あの静かな空間で一人声をあげてしまいそうだったほど。それほど、嬉しかったのだ。まさか自分の憧れていた先生が担任になるなんて、夢にも思わなかった。

 先生が黒板に連絡先を書いたとき、クラスメイトの中で一番早くメモをとった自信が私にはある。勇気をもって「これから一年間お願いします」と送ってから、もう一ヶ月。信じられないことに、メールはあれから毎日のように続いていた。兵藤先生はバスケ部の顧問を務めている上に、クラスを持つことは初めてだ。だから先生の負担にならないようメールを控えようと思っていたが、先生とのメールはとても楽しくて、結局しつこいくらいメールを送ってしまう。昨日なんて少し大胆なメールを送ってしまった。先生のことが好き、なんて、思い返すだけでも恥ずかしい。昨日の夜、ベッドに腰掛けて、携帯電話をぎゅっと握りしめて返事を待った結果あの言葉が返ってきたものだから、すごいすごい嬉しくて。鏡を見れば口元がだらしないほどに緩みきっていたと思われる。

 バスケ部に入ろうか悩んだが、運動があまり得意でない事は中学の部活動でいたいほど経験している。当時だって本当は辞めたかったけれども、家に帰りたくなかったから仕方なく我慢をしていただけだ。それにいまはバイトがある。

 いままで恋愛なんて興味なかった。

 でも、先生に出逢えたことで私、橘 彩花の世界は確実に変わった。

 休み時間には恋愛の話で盛り上がることも多々ある二年B組。友達の紗紀ちゃんは他校の先輩と付き合っていて、美香ちゃんは大学生と付き合っていたり。中には十歳以上も離れた社会人と付き合っている子もいたりする。こうしてみんなが恋愛の話で盛り上がる中、私は自分が恋愛していることを友達の前で公にはしない。するつもりもなかった。ここにいるみんなとは多分、価値観が違う。だから、言わない。兵藤先生が、好きだということを。誰にも、言わない。


   ※


 昼休み。職員室で昼食を摂り始めている先生もいれば、残っている仕事を片付けたりしている先生もいた。この時間をどう過ごすかは人それぞれだ。昼休みに生徒との相談が相次いで、昼食を摂ろうと思っても摂れない先生がいる中、私と本田先生は食事を摂っていた。

「兵藤先生、きょう飲みに行きませんか」

「いいですね。いつものところですか?」

「そう、いつもの」

 数学教師、二年C組担任の本田先生は、この藤高に私が勤めてからこうして何回か飲みに誘ってくれている。私は今年で二十五、本田先生は五つ上の三十。指導教員だった林先生を含めた三人でよく飲みに行っていたが、林先生は昨年、隣県の西高に転勤してしまった。寂しいことではあったが、教師というものは別れがつきもので、三年も経てば折角仲が深まっていた生徒も旅立ってしまう。

 教師は見送る立場にあるものだ、と、林先生はあの行き付けの飲み屋で言っていた。生徒一人一人の未来を祈り、その背中をそっと押すものだと。自分もそういった教師の在り方に憧れを懐いていた。

「終わったら連絡しますね」と、本田先生に言う。

 部活もあって仕事も残っているから、九時に帰宅できたら良い方だろう。本田先生が頷きを返す。

「分かった。もしかしたら、こっちも帰り遅くなるかもしれないから。そのときにまた連絡するよ」

「分かりました」

 その遣り取りを終えてから本田先生が立ち上がり、廊下に出ていった。本田先生と私の二人で飲みに行くのは、いつものことだ。私よりも年齢が下の鈴木先生や柴田先生は誘っても断ることが多いため、あまり誘ってはいない。

 こういった酒の付き合いも大切だと思うのだが、いまの若い教員は一人の時間を大切にしたいようだ。若い内は仕事を押し付けられ、お金の出ない残業時間の多さに辟易するだろうから気持ちは分かる。若いからこそやりたいことも沢山あるだろう。私だってまだ三年目で、クラスを持ったのは初めてだ。ここにいる八から九割方の先生が私のことを若造と見下しているかもしれない。だから、人のことなんて言える立場ではないから口に出さず、思うだけにする。

 つまりは人それぞれ。そういったことには気をとられないほうがいい。教師が教師に気を遣ってる暇があったら、一人でも多くの生徒を見詰めた方がいい。先生は大人で、生徒は子供なのだから。

 食事を摂り終え、席を立ってから二年のクラスの見回りをしようと廊下に向かって歩き出す。

「先生」

 廊下に出た途端、聞き慣れた声が耳に届いた。職員室の出入り口を背に、左側に視線を向ければ、我がバスケ部のエースでもある二年生の未希が体操着の姿で近寄ってくる。職員室の出入り口から少し離れて未希と向き合う。

「先生、きょう試合やりますよね」

「やろうとは思ってるかな」

「やった。もう授業中すっごい楽しみにしてたんですよ」

「ちゃんと授業に集中しなさい」

「勉強の方は大丈夫ですよ。ほら、うち天才だから」

「また調子のいいことを。期末テスト、赤点を一つでも取ったら試合には出さないから」

「ええ、本当ですか? さすがにちょっと」

「授業をしっかり聞いていれば、よっぽどのことがない限り大丈夫」

「先生。実はうち、天才じゃなかったりして」

「言いわけ無用」

 大袈裟な反応の未希を見て、思わず微笑む。

「未希ならできる。あれだけバスケに集中できるんだから、その力を勉強に向けなさい」

「先生が言うなら、頑張ってみます」

「よろしい。またあとでね」

「はい」

 笑顔の未希を目にしてから、廊下を出て右手に向かい、保健室を通り過ぎる。

 中学、高校とバスケ部に所属していた私がいまはバスケットボール部の顧問を請け負っている。一年前、最初の頃はこれが残業と組み合わさって本当に辛かったが、慣れというのは恐ろしいもので部活が日常の一部分にすっかりと溶け込み、習慣のようになってしまったものだから驚きだ。

 いまは夏のインターハイに向けて皆が皆、必死に練習をしている。生徒が頑張っているのに先生が音をあげては駄目だろう。生徒たちを背中から支えるのが教師の役目だということを、教員生活一年目から私は教わっている。回り階段の段を一段ずつ緩慢に昇りながら思う。どれだけの時間が過ぎようとも、教師である限り、いつまでもこの熱情が燃え尽きないことを。私は願う。


   ※


 あれだけ待ち遠しかった五限目がやっと訪れた。小テストの制限時間は僅か十分。静かな空間でペンを走らせる音だけが聴こえる中、何回も問題文と解答を照らし合わせては間違いがないかを確認する。

「やめ」

 澄み渡るような兵藤先生の声。

 その一声で、それまで黙っていたクラスメイトが様々な反応を起こしては、忽ち喧しくなる。

「はい、静かに。隣りの人と交換して」

 先生の指示に従って隣りの美香みかちゃんとプリントを交換しあう。採点は各自、隣りの人とプリントを交換して、先生が解説と共に黒板で解答を記しながら、正解か不正解かを赤いボールペンでチェックする。「全然、分からなかった」と隣りの美香ちゃんが笑顔で言う。見れば美香ちゃんのプリントはほぼ白紙に近い。それから美香ちゃんが私のプリントを見て、どこか白々しい驚きの表情を示す。

「すごいね、あやちゃん。またまた満点?」

「まだ分からないよ」

 美香ちゃんの言葉に笑顔で相槌を打ち、兵藤先生の方に視線を向けた。背筋を綺麗に伸ばした立ち姿、細長く綺麗な指でチョークを扱っては、黒板に記されていく達筆な文字を目で追う。

 先生が最後の解答を書ききったときに美香ちゃんが「すごい」と一際大きい声をあげる。

「あやちゃん、また満点」

「ほんと?」

「うん。ほら」美香ちゃんがわざわざ胸の前で掲げて、赤丸が沢山ついた用紙を見せてくる。

「あやちゃん天才だね」

「そんなことないよ」

 自分のことのように話す美香ちゃんがどこか微笑ましく、彼女から掛けられる誉め言葉も少し大袈裟だが素直に嬉しい。ふと先生の方に目を向ければ、口元に微かな笑みを湛えてこちらを眺めていた。きっと、美香ちゃんの言葉が聴こえたのだろう。先生の嬉しそうな表情を見て、それだけで頑張った甲斐はあったと本気で思った。

 あとで絶対にメールしよう。そうしたらまた、先生に誉めてもらうんだ。そしてまたさりげなく好意を伝えよう。

 兵藤先生の声に従い、一番後ろの席に座っているひとたちがその列のプリントを全部回収し、兵藤先生に手渡す。プリントを回収しに来た友達の沙紀ちゃんに「何で英語だけ勉強できるんだよ」と笑われた。残念ながら、それは紗紀ちゃんでも教えられないことだ。兵藤先生に再び視線を向ける。そこで先生と目が合った気がした。すぐに逸らされたことにちょっとだけ傷付く。

 先生と会話がしたいのに、できないもどかしさ。私が一番後ろの席だったら、プリントを手渡す際、先生に声を掛けることができるのに。

 それに他の授業はあんなにも時間の流れが遅いのに、先生の授業だけがこんなにも時間の流れが早いなんて、あまりにも理不尽だ。アインシュタインの相対性理論を彷彿とさせた考えに、我ながら笑ってしまう。こんなにも私は先生のことが好きなんだとまたまた実感する。

 生徒と教師の不埒な関係が発覚してニュースで取り上げられることは別段、不思議な話ではない。いまはそういったことを題材にして生徒と教師の恋愛を描いた漫画やドラマが蔓延しているくらいだ。でも現実ではそういったことに関して、世間からの目はとても冷たい。昨日、自分が送ったメールの文面に相思相愛という言葉があった。有り得ない話ではあったが、もし先生と私が両思いだったとしても世間はそれを認めない。

 叶わない恋。

 そんなありふれたフレーズが頭の中に思い浮かぶ。

 叶わぬ恋と分かっていながら、どうしてこんなにも先生のことを。

 先生を見詰めるたびに膨らむ想い。このままでは、どうにかなってしまいそう。こんなにも近いのに、何だか遠い。気付けば時計の針は、先生の授業があと少しで終わることを指し示していた。

 思わず溜息。

 本当に、理不尽だ。


   ※


 予定していた授業を無事に終えて、清掃の時間が訪れた。生徒にとって学校を掃除するのは面倒以外の何物でもないだろうが、この時間は担任にとって貴重なものだ。掃除を共に行いながらこうして生徒とコミュニケーションを交わすのは、生徒との仲を深める良い機会でもある。生徒が嫌がるであろう便所掃除を率先して一年間担当することになった私は、一週間で入れ換わりになる生徒たちと一緒に掃除を行う。

 私から話しかけずとも、基本的に生徒たちから話しかけてくれる。中間テストが近いこともあってか、どのような問題が出るかを堂々と尋ねる生徒もいれば、もうテストは諦めたと溜め息混じりに言う生徒もいた。そんな話題から一転して、たまに生徒たちは私自身のことを尋ねる。独り暮らしなのか、恋人はいるのか、結婚はいつ頃にできればいいのか。それらの質問は軽くあしらって、私から別の話題にすり替えてしまうのが大半だ。

 将来のことなんて見えていない。目の前のことで精一杯だというのに、他のことで現を抜かすなんて考えがそもそも思いつかなかった。だから自分自身のことを尋ねられても、返事に困るだけだ。

「どうして先生は先生になったんですか?」

 デッキブラシでタイルを何回も擦っている最中、そんなことを訊いてきた美咲。「そうだね」と一言、相槌を打ちながら言いたいことを頭の中で纏める。

「先生という職業に憧れてたのもあったんだけど、一番は、教えることが好きだからかな。自分が伝える言葉を受けとめて理解してもらえるのは、とても嬉しいことだから」

「先生の授業とても分かりやすいよ」

「急にお世辞を言われても成績は上げないから」

「えー」

 美咲と笑いあって会話を交わしながらも物思いに耽る。教師を志すようになったのは幼い頃からだ。思えば、自分の教えてきたことが報われるというのが、何よりも嬉しかったように思う。その気持ちはいまでも変わらず、この胸の中にある。

 トイレの清掃を終えて教室に向かい、机を運ぶのを手伝う。その間も生徒との会話を楽しみながら掃除を進めていた。普段、会話することのない生徒の新たな一面が見られたりして一日一日が新鮮に感じる。お喋りをしながら教室の掃除を終えて、下の階や廊下で掃除をしていた子が教室に集まってきた。

 いつも通りの時間帯で帰りのホームルームを始める。生徒に伝えたい連絡事項を資料の中から探っては、それを黒板に写す。

 間も無く球技大会、そのあとには中間テストがある。明日は球技大会の練習で、二年生のクラスがそれぞれグラウンドや体育館を行き交って、五種目ある競技の練習に励む。体操服に縫い付ける、二年B組と青のマーカーで書かれた白地の布を生徒に配り、明日にはもうこれを付けるようにと説明した。

 球技大会は近い。これで生徒同士が結束し絆を深めることができれば、それは先生にとっての喜びだ。

 話を引き延ばすことは早く帰りたいと思っている生徒の反感を買うため、早々に話を切り上げて生徒に起立を命じる。

 さようなら、また明日。

 生徒が教室から出ていくのを見送っている中、彩花と目が合う。今日という一日で一体、彼女とどれだけ目が合ったのだろうか。彩花が手を振って、私もそれに応えて手を振る。ここで私は、彩花を見て、密かに期待していたことを自覚する。今日もまた、彩花からのメールはくるのだろうか、と。


   ※


 面積が広い公園の前に並ぶあばら家。

 そのぼろい内の一軒が橘の家だ。

 それらの外観はどれも似たようなもので、比較しようにも、蔦が壁にどれだけ張り付いているか雑草がどれだけ生い茂っているかの違いしかないだろう。砂利を踏んで小さな庭に進み、自転車を停めてから、自宅の玄関にまで足を運ぶ。見れば駐車場に車がない、いまは父親は家にいないということだ。

 軋む戸を引いて玄関にあがる。二人ともいないことを願っていたが、靴を見る限り、どうやら母親はいるらしい。ただいま、という言葉を意識的に口には出さず、自分の部屋に向かう。廊下と呼ぶにはとても短い通路を一歩前に進めば、右側には木製の扉が見える。当然、鍵なんてものはない。

 自室の扉を開ければ、自分から見ても無趣味を感じさせる簡素な部屋が目の前にある。アイドルのポスターもなければ、ぬいぐるみもない。青のカーペットを敷いた床、部屋の真ん中にテーブルが一つと、奥の壁に寄っている敷き布団。出入口の傍に立つ少し大きめの本棚には、教科書や雑誌が何冊か入っていた。

 照明を点ければ外から部屋の様子がまるっきり窺える自室のカーテンを閉め、制服から私服へと着替える。コンビニで働くために必須な藍色のジーンズに、ラフなシャツ。藤高ではバイトが基本的に禁止なため、学校からは隠れてやっている。そのため、学校にコンビニの制服を持ち出すような真似はあまりしたくない。学校からそのままコンビニに向かうことはまずない。

 一息吐いてから部屋を出て、キッチンに出る。右手には和式トイレ。左手には居間がある。足音をできるだけたてないよう居間に足を踏み入れ、居間と隣接する右の部屋に視線を向ければ想像通り、暗い中、母親が背中を向けて眠っていた。

 水商売をやっている母親。離婚は一回していて、七歳の頃だろうか、いつの間にか父親が知らない人にいれ代わっていた。でも、何故かそれを私は自然と受け容れていた。離婚とはどういうことなのか意味があまり分からなかったのだ。勝手に離婚して、勝手に再婚した。そこに私の意志なんてものはない。あったところで七歳の意見だ。どうせ『うん、いいよ』と笑顔で即答したのだろう。覚えていないけど。

 そんな父親は、母親の仕事を手伝っているとのこと。実際に父親がどんな仕事をしているのか私には分からない。

 周囲の友達がお母さんやお父さんの話を持ち出すとき、激しい劣等感に私は襲われる。私の知っている母親というものは大抵眠っていて、父親はどこかに出かけていた。その出掛けた先がパチンコ屋だと気付いたのは、パチンコの雑誌が部屋に散らばっているのと、店の名前が刻まれたメダルを見たときだ。

 居間の左手にあるベランダ、そこに掛けてあるコンビニの制服を胸に抱えながら回顧する。みんなが話すお母さんとお父さんはまるで、ドラマで見るような、円満で温かい幸せな家庭を私に連想させた。私も私なりに幸せというものを、家族間で感じとっていたのだ。でも、朝に帰ってきては真っ赤な頬をした母親が、何もしていない私をいきなり怒鳴ったりしたとき、冷たい現実が私の喉元に突き付けられる。友達と私の住む世界は違うのだと。

 みんなは、我慢というものを知らない。理不尽というものを知らないんだ。勘違いで怒鳴られてぶたれたこともないのだろう。コンビニの弁当が毎日の私とは異なるわけだ。醜い嫉妬だっていうのは分かっている。私より不幸な子供がいるのは分かっているつもりだ。でも私にとってこの境遇こそが不幸以外の何物でもない。自分が感じ取る辛い思いは、他人が否定できるものではない。

 運動会も授業参観も小学三年生の頃には来なくなった。運動会のとき、先生と一緒に食事を摂って、その先生から憐れみの目を向けられたことを私は一生忘れない。卒業式には足を運んでくれたが、藤高の入学式では両親の代替で母親の姉が来た。

 でも、所詮は過去だ。

 いまさら振り返っても嫌な思いをするだけ。制服を抱えながら、いつの間にかその場に立ち尽くしていた私は、横たわる母親の背中を見詰めていた。一週間以上、会話をしないこともある。父親も同様。

 死ね。

 口はそう動いても、声に出すことはない。こうして足音をたてずに居間を去るのも、怒られないための染み付いた習慣だ。過去に足音がうるさいと怒鳴られたことを思い出す。

 本当に、死ねばいいのに。


   ※


 本日の雑務を片付けてから、本田先生と行きつけの居酒屋で落ち合う。お客さんは疎ら、広いとはいえない店内でキッチンに面したカウンターテーブルに二人並んで席をつき、早速ビールが注がれたグラスを互いに掲げては乾杯を交わす。ビールを呷るようにして飲みきった本田先生の「疲れた」という一言がいつにも増して重い。

「疲れましたか」

「疲れたよ。球技大会はいいが、中間テストも近いし、鬱になりそうだ」

「うちの生徒と同じこと言ってますよ」

「言ってることは同じでも、意味合いがまるで違う」

「確かに」

 頼んでいた塩の焼き鳥を目の前の店主から差し出され、「ありがとうございます」と礼を告げてから受け取る。本田先生と一緒に焼き鳥を喰っては愚痴をこぼす。毎日がサービス残業なうえに、労働時間と給料が見あわないことや、年配教師の誰よりも早い帰宅に対する不満など挙げたらきりがない。

「山口のことなんだけどな」

「山口って、不登校気味の?」

「そう」

 こうした酒の席で交わす会話は毎回の如く同じような愚痴ばかりだが、本田先生がいつもとは違う話題を切り出す。

「俺が朝に電話で話してた相手は、まあ、山口の親御さんなわけだ」

「はい」

「山口の親御さんがこう言うわけよ。先生の方からも何か言ってもらえますか、って」

「常套句ですね」

「そこからはもう小言のオンパレード。教え方が悪いだの、授業がつまらないだの、挙げ句の果てには娘を別のクラスに替えろだのと。娘の言葉を鵜呑みにし過ぎだ、あの母親は」

 そこで本田先生が頼んでいた二杯目のビールに口をつけた。飲むペースがいつもより早いことから相当、参っているのだろう。本田先生がビールのグラスを置いた、そのタイミングを見計らって問いを投げる。

「苛められてるんですか?」

 その問いにかぶりを振る本田先生。

「その可能性は低い。前に山口が学校に来たときは、他の生徒たちと楽しそうに会話をしていた」

「なら、何で来ないんでしょう?」

「学校に行くこと自体が面倒くさいと思う奴も別段、珍しい話ではないだろう。こちらとしては良い迷惑だが」

「確かに」

「一人の生徒に構っているわけにはいかない。だから、できるだけのことは山口にしても、あくまで平等が前提だ。誰に対しても平等に接することは教師の基本だからな」

「平等に接することは、そうですね、私も基本だと思います」でも、と付け加える。

「一人の生徒に対しても、構う、というか……そう、全力で接するのは間違いでしょうか」

「それは理想論だ。そんなことをしたら体も精神も保たない」

「そうでしょうか」

「兵藤先生」

 本田先生が何かを察したようにして、手に持っていたグラスをわざわざ置いて私と向き合う。

「橘とメールしてるって、前、兵藤先生が言ってましたけど」

「言いましたね」

「クラスを持つのは初めてだから気負う部分はあるだろうけど、特定の生徒とメールを続けるのは不味いよ」

「周囲に贔屓だと勘違いされるかもしれないから、と、本田先生は前におっしゃいましたけど」一息に言おうと、少し間を置いた。そのあとに、口を開いた。「私の連絡先はみんなに公表しています。公平に、他の生徒たちも私に相談を持ち掛けることができる中で、橘 彩花という一人の生徒が私にメールをした、ただそれだけです。私からは一切メールを送らないよう心掛けているつもりです。だから、どこにも贔屓なんてないですよ、本田先生」

 自分でも饒舌になっているのが分かった。本田先生の、何か問い掛けるような双眸に捉えられながらも、ここで目を逸らすつもりはない。自分の意見を変えるつもりは毛頭なかった。

 本田先生は優しい人だ。私のことを心配しているからこそ、あまり気負いすぎるなと気遣ってくれている。本田先生の言う通り、クラスを持つ教師が一人の生徒に対し構っている暇はないかもしれない。広い視野を持って全体を見渡すことは大切かもしれない。

 ひとりの生徒と向き合うということ。

 理想論と、本田先生は言う。

 私が理想論に夢見てしまうのは、教師として未熟だからか。

 ここで、ポケットから振動が伝わった。

 携帯電話を取り出せば、ディスプレイには橘 彩花の名前。

「大丈夫ですよ、本田先生」未だ心配そうに自分の表情を窺う本田先生に笑顔を向ける。

 それは決して、強がりではない。

「教師として、出来る限りのことをやってみます。これだって、ただのメールですから。職員室でパソコンを弄るよりか何百倍も気楽です」

「……兵藤先生が、そう言うのなら。うん、無理はするな」

「ありがとうございます」

 本田先生は心配のし過ぎだと思う。でも、その優しさは素直に嬉しい。

 仕事は多忙で辛いけれども、こうした生徒とのささやかな遣り取りは何一つ苦ではない、寧ろ楽しいものだ。本田先生が言うような心配は何もない。

 学校から離れた場所でこうしてメールでの遣り取りを行うのは彩花にとっても気が楽なのではないか。学校ではどうしても立場的に教師が上で、生徒が下だという捉え方がされやすい。その解釈は間違いではないかもしれないが、問題は、そういった解釈をすることにあると私は思う。

 メールでの遣り取りはいまや日常的なこと。友達と遣り取りをするかのように教師と意思疏通をとることで生徒もまた、心を開くのではないか。

 本田先生の目線を気にしながらも、彩花のメールの文面を見ては微笑み、メールを返そうと文字を打つ。同じように、彩花もメールの返事を見て笑みをこぼしていたら嬉しいと、そんなことを思いながら、彼女にメールを返す。


   ※


 バイトを終えて早速、兵藤先生にメールを送った。自転車のライトに照らされた夜道、時刻は十時を回っていた。夜遅くにメールを送るのは失礼だと分かっていながらも、どうしても小テストで満点をとったことを褒めてもらいたかった。疲れているはずなのに、先生は私のメールを必ず返してくれる。本当に先生は優しい。ますます好きになってしまう。

 きっと、いま鏡を見れば自分の口元が緩んでいるのは、自分が一番に理解していた。ペダルを漕ぐ足がとても軽い中、少しして、ジーンズのポケットから着信音が静寂な通路に響き渡った。流行の恋愛ソングに耳を傾けながら前方に人がいないことを確認し、携帯電話を手に収めてはディスプレイを一瞥。当然、兵藤先生だ。

 『彩花は偉いね』という一文が目に入って口元に笑みが浮かぶ。その誉め言葉のあとに『他の教科もこれだけ頑張ってくれれば、先生も鼻が高いです』という文で締め括られていて、苦笑い。

 他の授業を怠って英語にだけ励んでいたのがバレてしまった。英語だけを頑張ったのは、兵藤先生にだけ振り向いてほしいから、なんて、自分でも見ていて恥ずかしい文が思い浮かびながらも、そのまま返信の文字を打ち込んだりする。

 自分の素直な気持ちを吐き出せるようになったのは、昨日のメールでの遣り取りが大きい。兵藤先生が好きという、勇気を以ってして送った一つのメールが切っ掛けで、私自身が変わったのだ。以前の自分なら、恥ずかしいメールを打ち込んては削除の繰り返しだったのに、いまは積極的にメールを送れるようになった。

 兵藤先生にメールを返信したことを確認してポケットにしまう。

 よるの闇が、相も変わらず、目の前に広がっている。

 真っ暗闇の道を見詰めていると、何故だろうか、人の気配を感じるのは。

 時折、気配を感じて振り向いてしまうこともある。結果、そこには誰もいない。そんなことが重なる内に、いつしか私は、幽霊の存在を本気で信じるようになっていた。こうしているいまも本当は誰かが傍で自分のことを見ているのではないか、なんて想像を巡らせてしまう。でも、それを怖いとは思わなかった。

 寧ろ、そう望んでいる。

 だって幽霊がいたら、死ぬことに恐怖を覚えないから。 

 そして、帰宅。バイトに行く前と同じで駐車場に車は停まっていない。狭い庭に自転車を停めて、玄関に足を運ぶ。そこで母親のハイヒールと父親の靴がないことを確認した。両親はもう出掛けているらしい。気が楽だ、そのまま帰ってこなければいいのに。

 兵藤先生のメールが返ってくる前にさっさとシャワーを済ませよう。コンビニの制服が入った鞄と廃棄の弁当、携帯電話を低いテーブルに置き、着替えを風呂場に持ちこむ。

 照明を点けてから洗面所で衣服を脱ぎ、それらを洗剤と一緒に洗濯機の中に放りこんで起動ボタンを押す。

 洗面台に立つ自分を、ふと眺める。鏡に映る橘 彩花。高校生になってから少しだけ膨らんだ胸、肩まである黒い髪。体に変化は訪れていても、精神的な面では中学の頃と何も変わっていないように思える──前までは、そう感じていた。いま鏡の前の自分は、恋をしていなかったあの頃とは違う。上辺だけの笑顔はもうそこにはない。目の前の私からは、生きているという感じがひしひしと伝わってきていた。

 腕を見れば、赤い線が幾つかそこに刻まれている。消えない傷は、けれども、二年生になってからあまり増えていなかった。これも全て兵藤先生のおかげだ。兵藤先生がいるから、こんなにも私は生きている。前までの私は、目に光がなかった、生きている意味が分からなかった。恋をしていると人は変わるって、誰かが言っていたけど。実際その通りなのかもしれない。誰かとのメールがこんなにも楽しいことを私はいままで知らなかったのだから。

 浴室に入っては蛇口を回し、熱さを調節してからシャワーで体を洗う。兵藤先生からなんてメールがくるのかを想像しながら、歌を口ずさむ。無意識に歌っていたそれが、兵藤先生用に設定していたメールの着信音だったことに気づき、笑みをこぼす。兵藤先生のことを思いながら、愛の唄を、口ずさむ。


   ※


 待ちに待った球技大会当日。

 一日掛けて行われる五種目の競技、内二つは外で行われるものだ。天候にも恵まれ、見上げれば棚引く白い雲と眩い光が視界に入った。

 グラウンドでは体操服に着替えた二年生全員がクラス別になって集まり、名簿番号順に並んでいる。一年生、三年生はグラウンドの第二体育館でバレーとバスケと卓球の試合を行う手筈で、二年生はサッカーとドッジボールをこのグラウンドで行う。体育を担当している学年主任の山田先生が球技大会における二年生の予定及び、競技の説明をし終えて、どのクラスとクラスが試合をするか発表した。

 二年B組がまず挑む種目はドッジボール。対戦相手は偶然にも、本田先生が率いる二年C組だ。

「悪いがこの勝負、勝たせてもらうぞ、兵藤先生」

 対戦相手の発表直後、生徒に聞こえるようわざとらしく宣戦布告したのは、隣りにいるジャージ姿の本田先生。本田先生なりの、盛り上げるための余興だというのはすぐに察知できた。だって棒読みだから。こちらもその余興にのって不敵な笑みを浮かべながら、大仰な身振りで本田先生に向き合う。

「いいえ、勝つのはうちのクラスです。本田先生のクラス、いや、二年B組はどのクラスにも負けませんから」

 言い過ぎたと自分でも思う。だが、二年B組からは賞賛にも似た声があげられた。

「手加減しないぞ、兵藤先生」

「こちらも、手加減は一切しません」

 他のクラスからも煽りに近い言葉が掛けられたところで山田先生が「静かに」と笑いながら声をあげる。

 二年B組に体育会系はそこまでいない。正直、実力は総合的に見て他のクラスに劣るかもしれない。それでも自分のクラスを優勝させたい気持ちに変わりはなかった。私が担任として持つ初めてのクラスということが、先の宣言に反映しているかもしれない。

 勿論、この球技大会は勝つことだけが目的ではない。クラスが一致団結して、級友同士が親交を深める良い機会でもある。勝つことは第二で、第一は楽しむことだ。

「負けたら奢りな」

 自信に満ちた表情で私にだけ聞こえる声で言う本田先生。自分のクラスを余程信用しているのだろう。

「望むところです」

 自分のクラスを信用しているのは私も同じだ。先生も生徒も熱気に包まれる中、藤高の球技大会が幕を開けた。


   ※


 球技大会。スポーツがあまり得意でない私にとってこのイベントは気分的に優れないものではあったが、事情が変わった。さっきまで「嫌だね」「面倒」「帰りたい」とそんな会話をしていた美香ちゃんや紗紀ちゃんは、兵藤先生の宣戦布告を耳にしてから、人が変わったように気合いをその身に入れている。それは他のクラスの煽りにあてられたこともあったし、優勝すればジュースを振る舞うと約束した兵藤先生の言葉があったからかもしれない。

 他の生徒たちも似たような反応で、それは対戦相手の二年C組からも窺えた。かくいう私は、みんなとは違う意味で気合いが入っている。勿論、兵藤先生に勝利を貢献したい気持ちはあった。

 それよりもいま問題なのは何か。このドッジボールに参加しているのは生徒だけではない、先生もだ。兵藤先生の背中が、視界に映る。生徒を守るようにして前衛に立つ兵藤先生。先ほどから見事な運動神経でボールを受け止めている先生は自分から積極的に投げようとせず、外野に向かってボールを送っている。クラス一丸となって闘うことを意識しているのが伝わった。

 先生の傍にいようとできるだけ前衛に立つけど、これがなかなか怖い。相手からボールが投げられるたびに、こっちにこないでと心底願う。でもそのたびに兵藤先生が傍にいる私を庇うようにして守ってくれる。このとき私は、恍惚にも似た優越感を一人覚えていた。

 兵藤先生は必死になって、私を護ろうとしている。私だからこそ、兵藤先生は自分を顧みずに、私を守ってくれる。そう考えただけで、満ち足りた気持ちになる。

 先生の背中を見詰める。私よりも一回り大きい背丈。先生はとても素敵で、格好いい。だからこそ、不安なことがある。先生の姿に惹かれて、クラスメイトや別学年の人たちが、先生のことを好きになってしまうのではないかという、恐れ。兵藤先生に集まる視線が煩わしい。誰も先生を見ないでほしかった。私以外、誰も先生を好きにならないでほしい。そんなことを考えていたら、ボールに当たってしまった。

 折角、先生に守ってもらってたのに。最悪。


   ※


 ドッジボールに続いてサッカーを行ったあとに、休憩を挟み、三年生と入れ替わるかたちで第二体育館に二年生は向かう。移動の最中は生徒と沢山の会話を交わす。これまで以上に生徒と会話をする機会が多いことに、自分が浮ついていることを自覚していた。私のクラスがドッジボールで二年C組に勝利し、他のクラスにも立て続けで勝ち上がったことも、この気持ちが逸る一つの理由に含められている。

 ちなみに負けたら奢りと口にした本田先生。その勝敗はドッジボールの結果ではなく、総合的な成績で見てもらって構わないと私は口にしたのが、その言葉が癪に障ったらしい。「男は言い訳をしない」と言った本田先生は、何でも振る舞ってやると声にした。前ならここで遠慮していただろうが、いまは違う。担任という、本田先生と同じ立場が自身の心境を変えたのだろうか。お言葉に甘えて、と口にしたら、本田先生は大層悔しそうな顔をした。

 グラウンドに置かれたこの第二体育館。二階には壇上とは向かい側の小さな広場があり、そこでは部活の時間に見慣れた卓球の試合が行われていた。二階に通ずる通路は、壇上の裏にある左右の階段どちらからも行けることができ、左右の壁を沿うようにして造られた狭い通路を通ることで広場に出られる。その狭い通路の一部分を隠すようにしてバスケットボードが設置されていた。

 バレーボールと並んで試合を行うため、球技大会ではハーフコートでバスケットの試合を行う。試合の制限時間は二十分。コートに立つ人数は七人から八人で、二十分内に必ず全生徒を五分間参加させなければならない。

 ハーフコートで七、八人もいるのであれば、パス回しを中心に攻めていこうと生徒に指示する。

「勝つことよりも、みんな、楽しんでいこう」

 体育座りをしているみんなに向かって、そう声を掛ける。

「でもせんせーい。勝つことも大事でしょ」

「あれだけ大きいこと言っちゃったんだし」

 遥と詩織がそんなことを言う。もしかしたらあれはうちの生徒にとって大きなプレッシャーになっていたのかもしれない。

「いや、あれは盛り上げるために言ったようなものだから気にしないで」

「先生、バスケできる?」

「バスケ部顧問だから、多少ね」

「先生前半に出て、沢山点をとってよ」

「うんうん。楽させてよ」

「いや、先生は審判だから」遥と詩織の不満の声を笑って受け流す。

 総勢三十人の二年B組。名簿番号、一番から七番でチームを組んでコートに向かう。対戦相手は、浅田先生が率いる二年D組。

 審判を委せられた私はボールを持ちながらコートの中央に立つ。スコアボードの傍に立ってもらうのは、バスケ部員の桜にお願いした。

 ジャンプボールをするためにジャンパーに選ばれた生徒がサークルの中に立つ。二年B組から選ばれたのは比較的背が高い純。両者の確認をとって、ボールを上に放る。静かに試合が開始された。


   ※


 七人ものクラスメイトと交代して、私を含めた八人のクラスメイトがコートに立つ。

「あやちゃん、大丈夫?」

「うん?」

 美香ちゃんが表情を窺うようにして見てくる。

「何かね、顔色が悪いっていうか、何ていうか」

「そんなことないよ」

 美香ちゃんの心配を拭うように笑顔でそう応えた。美香ちゃんの言いたいことは分かる。余程、怖い顔をしていたのだろう、私は。

 先生のために、試合に勝ちたいという気持ちはあった。それよりも尚、上回る一つの感情。胸の内に潜む怒りの矛先は、先ほど兵藤先生に生意気な口を効いた鈴木 遥に向けられている。美香ちゃんが不審に思うほどの鋭い目付きで鈴木 遥を睨み続けるが、当の鈴木 遥はコート外のクラスメイトと呑気に会話を交わしていた。

 鈴木 遥だけではない。朝倉 詩織も同罪だ。二人並んで先生に謝ってほしい。そう思うと同時に、疑問。どうして急にこんなことを考えてしまうのだろうか。過去、兵藤先生とクラスメイトがあのような遣り取りを交わしたのは何もあれが初めてではない。なら、どうしてこんなにも自分の気持ちが抑えられないのだろう。別に兵藤先生本人が不快な気分になったわけでもないのに。

 歓声や喋り声に体育館が包まれる中、私の手元にボールが収まり、目の前にディフェンスがついた。自分から点を取ろうとは思わない。ドリブルも上手じゃないし。誰かにパスを回そうと必死に辺りを見回す。

 鈴木 遥が、視界に収まった。まだ余所見をしていて、コート外の友達と会話をしている。

 不自然に思われないよう、即座にボールを投げていた。

 鈴木 遥の頭に向かって、思い切り。

「遥ちゃん」と大きい声をあげて注意を促すも、もう遅いことは知っていた。

 鈴木 遥の側頭部にボールが当たって、その勢いで彼女が床から倒れる。バスケットボールがバウンドを繰り返しながら、コート外に出る頃には、私自身が駆け付けていた。

「ごめん遥ちゃん、ごめんね。大丈夫?」

「う、うん。大丈夫」

 側頭部を掌でおさえながら、痛そうに大丈夫と応える鈴木 遥が滑稽に映った。他のクラスメイトも「大丈夫?」と声をかけてきて、それに一々「大丈夫」と応えるものだから、何だかおかしい。

「ごめんね、本当に」

「大丈夫だよ、気にしないで、彩花ちゃん。ぼーっとしてた私が悪いんだし」

 うん、その通り。

 いつの間にか兵藤先生も駆け寄ってきて、立ち上がった鈴木 遥に保健室に行こうかなんて話を持ち出していた。鈴木 遥は保健室に足を運ぶことを拒み、そのまま試合は続行。

 その判断で正解。

 もし、先生と二人で保健室になんか足を運んでいたら、

「ごめんね、遥ちゃん。本当にごめん」

「もう、彩花ちゃん、気にし過ぎ」

 ボールを顔に当てるだけじゃ、済ませなかった。


   ※


 遂に終わりを迎えた球技大会。ドッジボールやバスケットボールで良い成績を残した二年B組は、しかし結果、一位にはなれなかった。だが周囲から非難を浴びるようなことはなかった。そのことを僅かに心配していたので思わず安堵の息を吐く。

 グラウンドをあとにする。これから各学年、ホームルームを行う予定だ。階段をのぼることすら億劫といった具合の生徒たちの横を通り過ぎ、職員室に置いていたバッグを教室に運ぶ。私よりも先に、クラスに着いていた二年B組の生徒はみんな疲れた様子だ。着いた途端、机で腕を枕にして顔を埋める生徒や、着替える生徒、汗の匂いをとるためにスプレーを使う生徒に「そのままでいいから聴いてほしい」という旨を伝えた。

「一位は獲れなかったけど、みんなは精一杯頑張ったから、先生がさっき全力疾走で買ってきました」

 笑い声に紛れて「最初から用意してたんでしょ」と言われた。

「紙コップは人数分あるから、好きなの飲んでって。本当に、お疲れさま。みんな、すごい素敵だった」

 二年B組の生徒たちの笑顔に囲まれ、笑みをこぼす。教師になって良かったと、こうして生徒の笑顔を目の当たりにする度に私は思う。

 彩花の方を見れば、紗紀や美香と笑顔でお喋りをしていた。楽しそうで何よりだと思い、生徒と一緒になって、飲み物に口をつける。辺りをみれば、いつにも増して二年B組が賑やかになったように思えた。無意識に微笑む。球技大会は、成功だ。


   ※


 バイトが休みだったため、学校でできるだけ友達と会話し、帰宅した頃には、時刻は七時を回っていた。駐車場に停まっていた車と、玄関に並ぶ靴を見れば、親が帰宅しているのが分かった。「ただいま」と元気からは程遠い、とても小さな声を発してから玄関に上がったところで「ご飯、できてるから」と、酒焼けた声を母親から掛けられた。

「うん、分かった」

 週に一回の、平日にある両親の休み。母親の体調が良いときだけ料理がテーブルに並ぶ、週に一回の。

 真っ暗な自室。鞄をテーブルに置いてから、制服のまま、重い足取りで居間に向かう。軋む廊下の向こうに、父親と母親の二人が其処にいた。

 どこか薄暗い天井の照明、その光にあてられた室内の壁は、はっきりと汚れが確認でき、視線を足下に移せば畳の藁が数ヵ所、解れているのが分かる。テーブルの前で腰をおろし、「いただきます」と手を合わせてから用意されていた箸を手にとった。テーブルに並ぶ料理に目線を固定し、父親と母親の顔を見ないように意識しながら食事を心がける。

 料理は美味しい。

 母親は、料理だけはうまかった。

「学校はどう」

 沈黙の中、母親がそんなことを訊いていた。この母親は毎週同じことしか言えないのだろうか。そんなこと興味ない癖に。

「球技大会があって、クラスが二位だった」

「そう」

「うん」

 取り留めのない会話。

 たったそれだけの遣り取りで口を噤むなら、最初から喋りかけてこなければいいのに。

 向かいあうように座っていた母親から視線を逸らし、横目で父親を見れば黙々と食事を摂っている。

 血の繋がっていない父親。母親よりも若い父親は、まだ三十後半だっただろうか。整髪された短い髪に、鋭い目付き。どうしてこのような男と母親が再婚したのか、未だに理由は分からない。今年に入って数えるほどしか会話を交わしていない、静かな父親。本日もどうせパチンコにでも行って、無駄にお金を使ったに違いなかった。こうした沈黙に身を置いていると、この二人にとって私は邪魔な存在なんだろうなと思う。贅沢を失ってまで学費をわざわざ払い、会話もろくにしない子供に部屋を与えるなんて。

 後悔してるんじゃない? 

 なら、最初から産まなければ良かったのにね。

「ごちそうさま」

 食器を手にとって台所に運ぶ。その場で自分の食器を洗い、水切りかごに置いてからキッチンを跡にした。部屋に足を運んで、照明を点けてから、携帯電話を鞄の中から取り出す。布団に向かって身を投げ出し、兵藤先生に向けてどういった趣旨のメールを送ろうか考えた。球技大会での先生は素敵でした、と、そんなメールを打っても、送信のボタンが押せない。

 両親が私のことを邪魔だと感じているように、先生もまた、私のことを邪魔だと思っていないだろうか? 今日で分かったことがある。先生は誰にでも優しい。生意気な口を朝倉 詩織や鈴木 遥から効かれても怒らなかったし、側頭部にボールが当たった鈴木 遥に怪我がないか心配していた。先生が私とメールしているのも、ただの優しさではないのか。そんな不安に駆られる。

 もしかしたら先生は他のクラスメイトとも、私と同じようにメールをしているのではないか。先生に訊いてみたい気持ちはあった。メールではなく、先生の声で、私を安心させてほしい。

 メール機能を閉じて、アドレス帳から兵藤先生の名前を見付け出す。先生のメールアドレスの下には電話番号が表示されている。何かあったら連絡してほしいと、黒板にメールアドレスと電話番号を先生は記していた。この電話番号を、誰かが既に掛けているのかもしれない。そう考えただけで、胸が苦しかった。

 メールを、再び打つ。

 先生。私のことを、どう想っていますか? 他の生徒を、どう想っていますか? ねぇ、先生。

 私は先生にとって、邪魔でしょうか?


   ※


 仕事を早めに切り上げて、車を自宅に置いてから居酒屋に向かう。本田先生はまだ仕事が残っているため、一人先に足を運ぶ手筈になっていた。住宅地にひっそりと建つ居酒屋が見えてきたところで、ポケットから携帯電話の振動が伝わり、彩花だろうなと予想した。

 予想通り、携帯電話のディスプレイを見詰めれば、橘 彩花の名前が目に映る。早速メールを見れば、このメールが先生の迷惑になっていないかという一文が目に飛びこみ、驚く。

 いつもの明るいメールとは違い、不安が滲んだ彩花の言葉に戸惑う。気付けば、私は道路の端で立ち止まっていた。一体、どうしたというのだろう。迷惑なわけがない、彩花とのメールはとても楽しい。そのことを伝えるために、急いでメールを返す。それは嘘偽りのない本心だ。初めてクラスを持った私が、生徒とこうして些細な遣り取りを交わすだけでも、どれだけ嬉しかったことか。

 彩花からメールが返ってきても、その内容は似通ったものだった。先生の負担になっていないか、気を遣わせていないか。それらを否定しても彩花は納得しない。

 そこで目に留まったのは、先生には誰にでも優しいから、という一文。誰にでも優しいから、何だというのだろう──彩花のいつもとは違う文面を見て、彩花にどのような言葉をかけるべきか思い悩む。誰に対しても平等に接することが教師の基本という本田先生の言葉を思い出す。それに対して、私はどのように答えたのか──

 電話番号を教えてほしいと、彩花に向けて率直にメールを打つ。少しの間を置いてから彩花の返信がきた。躊躇なく、メールに載っていた彩花の電話番号に発信する。

 直ぐに通話は繋がった。

『先生?』

 上擦った声。彩花の驚いたような反応に笑みをこぼす。戸惑う彩花に構わず、何気ない言葉を交わしあう。終始、彩花の声は上擦っていて、教室で耳にする声よりも弾んでいた。気付けばどれだけの言葉を交わしていただろう。一体、どれだけの人がこの場に立ち尽くす自分の横を通り過ぎたのだろうか。

「もう大丈夫?」

『はい。ありがとうございます、先生』

「良かった。彩花のメールがいつもとは違うから心配したよ」

 そう言うと、彩花が嬉しそうに笑う。

『先生』

「ん?」

『たまにで良いですから、その、電話してもいいですか……?』

「もちろん」

 やった、と、彩花が小さな声でそう言った。

『今日はごめんなさい。心配かけさせて』

「気にしないで」

『気にします。でも、嬉しかったです。先生ありがとう』

 そう言われると何だか照れくさい。どういたしまして、と素直に言葉を返す。

 続いて、一生徒とこうして電話で話したのは自分が初めてかどうかを彼女は訊いてきた。事実、彩花が初めてだったので「そうだよ」と答える。

 嬉しい、なんて、言葉の通り本当に喜んだ声で彩花が口にした。

『電話、本当に嬉しかった。先生。先生から、電話、切ってください』

「分かった。また明日、じゃなかった、また明後日」

『はい、また明後日』

 そこで彩花との通話を終えた。通話時間を見れば、十分以上も話しこんでいたものだから驚く。時間の経過が思った以上に早く感じた。

 兎に角、杞憂に終わって良かった。思い切って電話をして正解だっただろう。もしこの場に本田先生がいれば非難の眼差しが向けられていたかもしれないが、仕方ない。きっとメールだけでは伝えられない言葉だってあるのだから。

 居酒屋に着いてから、携帯電話にメールが届いていた。彩花からだ。お礼の言葉が沢山並ぶそのメールを見て、温かい気持ちになりながらもメールを返す。彩花に電話をして、良かった。


   ※


 幸せだ。

 兵藤先生の声が聞きたいと願っていたら、本当に聞けた。こんなに嬉しいことはない。改めて、兵藤先生のことが好きなんだなって、そう思った。何で明日が休みなんだろう。時計の針が早く回って明後日になればいいのに。学校に足を運ぶことがこんなにも待ち遠しい。

 耳朶に、先生の声が残っていた。真っ暗な部屋の中、布団に身を委ねながら目を閉じる。兵藤先生のおかげで今日は安らかに眠れると、そう、思っていたのに。

 嬌声。

 薄い壁を通して、醜い声が耳に入ってきた。

 また、あの声。もう、聞きたくもない、母親の、叫ぶような艶かしい声。

 このぼろい家の壁はとても薄い。防音機能なんてないし、居間に置かれたテレビの音も耳に入ってしまう程だ。だから居間と隣接した部屋からの声もこの通り筒抜けだった。

 母親と父親が性行為をしている。その事実が、言葉では表現し難いほどの気持ち悪さを私にもたらす。どうして、知りたくもないことを知らなければならないのだろう。いい齢をして、なんて醜い行為をするのだろうか。セックスの際に発せられる母親の声なんて聞きたくない、気持ち悪い、吐き気がする。それでも母親の嬌声が耳に届く。耳朶に残っていた兵藤先生の声が掻き消される。

 死ね。

 二人とも、いますぐ死ね。

 携帯電話でお気に入りの音楽を流して、そのまま耳元にあてた。いつ終わるかも分からない両親の性行為を、闇の中、じっと独りで耐える。どうして、このような場所に産まれてしまったのだろう。子は親を選べないというのを耳にしたことがあった。いつの間にか父親が代わっていたのだから、その通りなんだなって、実感した。親を選ぶ権利なんていらない、お願いします、神様。

 さっさとあの二人を、殺してよ。

 ラブソングが流れる携帯電話を、耳から離す。

 母親の嬌声が、耳に届いた。


   ※


 六月。

 五月に球技大会を終えて、続いて体育祭を迎えたあとに、梅雨の時期にはいった。体育祭でも中々の成績を残した二年B組は以前にも増して絆が深まっている。そのことが担任として心底嬉しかったし、クラスの輪の中に自分が溶け込めているのが何よりも幸せだった。

 体育祭を終えたあとの居酒屋で本田先生に言われたことを思い出す。『兵藤先生はスキンシップが多い。俺なんて肩が触れたものならセクハラで訴えられちまう』と。本田先生が言いたかったことは、それだけうちの生徒が自分に心を許しているということだろう。本田先生から見てそう映っていることに一種の優越感を覚える。生徒との仲はどうやら、本田先生よりも私の方が勝っているらしい。尤も、本田先生の方が私の何倍も仕事はできるが。

 六月の半ばにあった公開授業は緊張でどうにかなりそうだったが、無事に終わった。そういえばあの場に彩花の親御さんが見当たらなかったことを思い返しながら、職員室を跡にする。公開授業の際、出入り口の横に机が置かれる。机の上には、誰の親御さんが足を運んだかを書き込むボードが用意されていて、そこに、橘の苗字は書かれていなかった。

 雨が降っているため、ビニール傘を差してゆっくりと駐車場に向かう。本日は日曜日ではあったが、仕事が残っていたため学校で済ませることにした。七月にはいってから直ぐに一学期の期末テストが行われるため、その準備をいまの内に職員室で整えてから、各クラスの提出物を確認し終えて一時帰宅。着替えてから、待ち合わせ場所で彩花と合流し、食事を摂る手筈になっていた。

 傘を閉じて、雨に濡れながら急いで車に乗りこむ。先程、公開授業で彩花の親御さんが来ていなかったことを思い出したのは、これから当人と二人きりで逢うからという単純な理由だ。

 一人の生徒のことを考えてしまうと、その生徒の周囲を観察してしまう。

 テストの点は何点だったのか、誰と仲が良いのか、等。

 彩花は、誰よりも親密に遣り取りを交わす生徒だ。学校では一言、二言話す程度だろう。しかし、携帯電話のメール履歴を見れば、橘 彩花の名前で全て埋まっている。最近は電話で会話を交わすことの方が多い。互いの携帯電話の機種が同じだったため、私の電話番号を彩花が通話無料に登録したと口にしていた。着信履歴もまた、橘 彩花の名前で埋まっている。

 彩花との会話はどうしてだろうか、幾ら話しても飽きない。心の底から楽しい上に、仕事で疲れたあとに彩花の声を聞けば自然と元気を取り戻すほどだ。特定の生徒と密かに会話を交わすことを本田先生は良く思わないだろうが、私は彩花とのこうした遣り取りを自分からやめるつもりはない。彩花が自分との会話を望むのであれば、いつだってそれに応える。

 勿論、一緒に食事を摂る仲であっても贔屓はしない。その点に関しては彩花にも話を通しているから問題なかった。

 降りやまない雨の中、信号が赤であることを確認し、車のブレーキを踏む。

 一度、帰宅して着替えてから、待ち合わせ場所の店に向かおう。腕時計を見ればまだ時間に余裕はあったが、先生が生徒を待たせるわけにもいかない。できるだけ早めに行動を起こし、約束の時間よりも先に店の外で待っていよう。

 赤信号から、青に。浮き立つ気持ちを抑えてアクセルを踏む。

 クラスを初めて持って、当初は不安な気持ちで一杯だった。でも、そういった負の思いはいまやもう微塵も感じない。学校の行事や授業を通して生徒との仲は深まっていき、確かな絆を作りあげることができた。そう感じている。その中で彩花は、初めて、担任である私に連絡をとってくれた大切な生徒だ。不安で胸がいっぱいだった私を励ますかのように、楽しい会話を持ち出す彩花。いつの間にか私は、彩花に救われていたのだ。

 彩花にはとても感謝をしている。だから、彩花からの食事の誘いを断るなんて考えは、私にはありえなかった。フロントガラスの向こう側に映る空はどこまでも雲に覆われていたが、不思議なほど、自身の心は晴れ渡っている。ラジオから流れる歌を口遊む。その歌は偶然にも、昨日の電話で教えてもらった彩花の好きな歌だった。


   ※


『物音をたてるなって言ってるでしょうが』

『私があんたのためにどれだけ頑張ってるのか分かってるの?』

『好きでもないお酒を飲んで、それでもあんたのためを思ってこんな辛い思いしてるのに』

『何よ、その目は。何か言いたいことでもあるの』

『お父さんもあんなに頑張ってるのに。あんたはありがとうの一言も言えないわけ』

『お母さんなんて、勉強がしたくてもできなかったわ。高校に行きたくても行けなかったのよ、貧乏だったから』

『なのにあんたは勉強をしない。お母さんとお父さんの頑張りを無駄にしてるの。私の言ってることが分かる?』

『あんたも水商売をやれば、お母さんがどうしてこんなに辛いのか分かるわ』

『だから何よその目は』

『いい加減にしなさいよ。何なの。何か言いたいことがあるならはっきりと言いなさいよ』

『もう、何なのよ、本当に。何でお母さんがこんなに辛い思いしなきゃならないのよ』

『好きでもないお酒を毎日毎日飲んで、毎日が頭痛い。分からないでしょ、あんたには。分かるもんか』

『お母さんのことをどうも思ってないんでしょ。本当に、あんたなんか』

『あんたなんか、産まなきゃ良かっ、


「行ってきます」


   ※


 待ち合わせ場所には既に彩花が待っていた。公園の内に建てられた市民館、その玄関付近に立ち尽くしていた彩花とフロントガラス越しに目が合う。目が合った瞬間に彩花が嬉しそうな表情で、手に持った傘を差さずに雨の中、車に駆けこんでくる。それに合わせて助手席のドアを開け、彩花を迎え容れた。

「ごめんね、待たせた?」

「ううん、そんなことないです。早かったですね、先生」

「先生が生徒を待たせるのはどうかなって思って、早めに来たつもりだったんだけど」

「先生に逢うのが楽しみで、早く来ちゃいました」

 彩花の笑顔を見て、こちらも笑みが浮かぶ。健気で可愛い子だ、本当に。フロントガラスに付着した水滴を拭うワイパーを見詰めている彩花。

「何だか、嘘みたい」

「何が嘘みたいなの?」

「先生と一緒にいること。何だか、夢を見ているみたいで」

「大袈裟だ」

「そうですか?」

「学校ではいつも顔を合わせてるでしょ」

「それとこれとは違います」

 むくれた顔をする彩花。

「こうして先生と二人で逢ってることが、うん、何だか恥ずかしいからもう言いません」

「言わないと車動かないよ?」

「いじわる。教育委員会が黙っていませんよ」

「だから大袈裟だって」

 二人して笑いあう。普段、電話で話す遣り取りと大した変わりはない。いまと同じように、彩花と喋っている間は常に笑顔でいられる。

 助手席に腰をかけた彩花の服装は、小さな花弁の柄が可愛いワンピースに、落ち着いたグレーのカーディガン。おそらく天候に合わせたコーディネートだろう、とても綺麗に着こなしている。

「もうこのまま店に向かう? どこか寄りたいところとかはない?」

「あ、その、……先生、きょう時間は大丈夫ですか?」

「余裕だよ」

「あの、もし先生が良かったら、映画に行きませんか? 食事を摂ってから、映画に」

「うん、いいよ」

「本当ですか? 良かった」

 彩花がはにかむようにして笑む。彩花の笑顔は素敵だ。見るだけで幸せな気持ちが沸き上がる。もし私が高校男子だったら間違いなく一目惚れしていただろう。それくらい、彩花の笑顔は可愛らしい。

「彩花」

「はい、先生」

「彩花は可愛いね」

 そう素直に口にしたら、恰も時が停まったかのように彩花の動きが硬直した。恥ずかしがっているのだろう、その小さな頬には赤みが差している。俯いてから「か、からかわないでください」と上擦った声で返事をした彩花は、やはり可愛かった。彩花の反応に満足してから、停止していた車を発進させる。

「先生」

「ん?」

「呼んだだけです」

「彩花」

「え? あ、はいっ」

「呼んだだけ」

「先生って、やっぱりいじわるですね」

「ありがとう」

「褒めてません」

 またしても互いに笑いあう。端から聞けばそれは下らない遣り取りかもしれないが、彩花と一言、二言交わすだけで心が和む。さっき、彩花は私とこうして一緒にいることが夢みたいだとそう口にしていた。私もまた彩花と同じかもしれない。。

 雨天。外に出ずとも、じめじめとした空気が漂っていることは容易に想像できた。それに比べて、車内の空気はどうだろう。こんなにも温かくて、こんなにも穏やかだ。雨だろうが関係ない。きょうは善い一日だ。彩花の笑顔を横目で見て、そう確信した。


   ※


 怖いくらいに幸せな時間。先生と、二人きり。本当に夢みたいで、だから、いきなりこの夢が醒めてしまうのではないか、なんて、馬鹿げた考えを懐いてしまう程に先生の隣りにいることが怖かった。でもそれ以上に、幸せな気持ちを私は味わっていた。

 先生と向かいあって食事を摂るというのは、以前から私が夢見ていたことだ。それが実現できた喜びをしっかりと噛み締める。当初の目的だったパスタ屋さんを跡にして、先生と私の二人は車に乗りこむ。店内で先生が奢ると言って会計を勝手に済ませるものだからそこで少し言い争ったが、先生は大人だからと口にして頑なに譲らなかった。

 言い争いのときは緊張が解れていたが、先生の隣りを歩いていると緊張が蘇ってきて、いま現在、車内でも心が落ち着かない状況だ。何しろ先生との距離があまりに近い。その緊張を悟られないよう平静を装って先生に喋りかける私の声は、いつもより高いだろうか。自分のことなのに分からない。

 緊張しているというのに、それでも先生との会話は途切れないものだから不思議なものだ。あれだけメールや電話で遣り取りしているのに話題が尽きない。一つの話を終えるたびに、次に話したいことが頭の中で浮かぶ。先生も同じだろうか。先生から話題を切り出すことも多い。先生も、私と同じような考えでいたら嬉しい。

 映画館で何を観ようかという話になっていた。先生は、ホラー映画が苦手だと言う。お化け屋敷も駄目だと口にした。両手でハンドルを握りながら運転する先生の横顔に笑いかける。

「怖いの苦手なんですね」

 可愛い、と、胸中で呟いたのは内緒だ。

「そういう彩花はホラー映画とか、お化け屋敷とかは怖くないの?」

 そう先生が訊いてきた直後に赤信号で停まる車。前を向いて安全運転をしていた先生がこっちを向いて、目が合う。それから私は恥ずかしくなって目を逸らす。メールや電話では積極的な性格でいられたのに、何故だろう、実際に先生を前にすると口ごもってしまうのは。目を逸らした先のフロントガラスには、雨の中、ずぶ濡れで自転車を運転する人が見えた。

「私は、平気です」

 自転車の行方を目で追って、先生に応えた。

「話が変わるんですけど」

 やがて、自転車が角を曲がって視界から消えた。

「先生、幽霊の存在って、信じてますか?」

「幽霊?」

「はい」

「どうだろう。真剣に考えたことはないかな。それにしても、本当に急に話が変わったね」

「お化け屋敷って、先生の口から聞いたとき。何故か、そんな話が浮かびました」

「幽霊、ね」

 青信号。

 停まっていた車がゆっくりと走り出す。先生はどこか考え倦ねている様子だったから、自分の考えを話すことに決めた。

「私は幽霊っていると思います」

「どうして幽霊がいると思うの?」

「だって、いた方が幸せじゃないですか」

 天国も地獄もあるかどうか分からないから、人間は死ぬことが怖い。無に帰することを、人は本能的に恐れているのだと思う。

 でも、幽霊の存在を認めれば、人は死の恐怖に耐えられる。中学生の頃だったか、自分が死んだことを想像した日は眠れなかった。死んだ先に何が待っているのか、想像するだけで恐ろしいものがあった。死生に関する考えは学校ではあまり触れない。学校の先生はきっと、その話題に触れることすら恐れているに違いなかった。

 でも、私はそんな大人たちとは違う。死の恐怖を乗り越えるために、且つ、受け容れるために。幽霊の存在を心の底から信じた。そんなことを掻い摘まんで先生に話す。こんなこと、いままで誰にも話したことがなかった。周りの人たちは死ぬことについて恐れているあまり、こうした話を持ち出さないからだ。だから、話しても真面目に耳を傾ける人なんていないと思っていた。なのに、兵藤先生の前で言ってしまったのはどういうことだろう。

 話し終えてみて、兵藤先生は口を噤む。先生との間に流れる沈黙、車を叩く雨の音が怖い。いまの話をなかったことにしたい、と、後悔に苛まれていたとき、先生の頷きが目に映った。

「うん、確かに」

「え?」

「そう考えてみると、彩花の言う通り、幽霊はいた方がいいね。幽霊って、ホラー映画やお化け屋敷のような、おぞましいイメージしかなかったけど、うん、考え方が変わった」

 真面目な口調で兵藤先生がそんなことを言う。私はこのとき、一体どんな表情をしていたのだろうか。手鏡を見たかったけど、いまは兵藤先生の横顔を見詰めていたかった。

 先生は自分の考えを馬鹿にしたりしない。私の考えに共感して、だから頷いてくれたのだ。

 先生だけは分かってくれる。

 先生だけは私を理解してくれる。

 私はそう確信していたからこそ、自分の考えを先生に話したのではないか。きっとそうだ。そうに違いない。

 目的の場所に着いたことに気付いたのは、聳え立つ大きなビルの一階に、映画館の受け付け窓口がガラスの扉越しに見えたからだ。シートベルトを外しながら、先生が「着いたよ」と口にして、私に微笑む。

 先生。

 ますます先生のことが好きになっていきます。好きの一言を口にしたいのに、言えません。メールや電話では伝えられたのに、いざ先生を前にしてしまうと怯えてしまう。

「映画、なに観ようか」

「私の大好きなホラー映画に」

「映画、なに観ようか」

 言い直す兵藤先生が可愛くて、どうしようもなくて、手を繋いで歩きたいけど、できない。でもいまは、隣で一緒に歩くだけで幸せだった。胸の内でそっと、呟きを洩らす。大好き、先生。


   ※


 思えば教師になってからというものの、こうして誰かと学校外で長い時間を過ごすのは林先生や本田先生以外に彩花が初めてかもしれない。隣りで自分の歩調に合わせて足を踏み出す彩花は、相変わらず可愛い。

 話題の映画を見終わってから、彩花と一緒に映画館の隣りに聳え立つデパートに向かう。閉店の時間が近いためか、人はそこまでいない。デパートの一階はフードコートの規模が大きく、その横を通り過ぎれば衣類や寝具、携帯電話などを取り扱う店が見えた。それらの店を回りながら、彩花と会話を交わす。ここでふと、何回も疑問に感じていたことを思う。どうして彩花はここまで自分と接してくれるのか。

 生徒と先生の仲が良いというのは素晴らしいことだ。しかし、彩花の場合は他の生徒よりも極端に自分との距離が近い。教師の仕事を三年間続けているが、生徒がここまで自分との距離を詰めてきたのは彩花が初めてだ。それでいて彩花は、毎日のようにメールや電話を通じて私と遣り取りを交わす。

 確かに彩花との通話やメールは楽しい。だがその頻度があまりに多いことに気付いた。彩花が露骨な好意を寄せていることは教室にいるときも、メールからも、電話からも、こうして隣りにいるときも犇犇とこの身に伝わっていた。自意識過剰ではない、これに気付かないのであれば鈍感どころか只の間抜けだ。でもその好意の程度が、どれだけのものかは分からない。

 彩花が本気で自分のことを好きになっているのではないか。そう考えて、一人、かぶりを振りたい気持ちに駆られた。生徒が先生のことを、彩花が自分のことを好きになってしまうなど──いや、これはそれ以前の問題だろうか?

 ともかく店内を一通り回ってから駐車場に向かう頃には、降り続いていた雨はもう、勢いを失っていた。隣りを見れば彩花はどこか遠い目をしている。この一日を名残惜しむかのような、或いは、其処に幽霊でもいるかのような、もの悲しい目付き。

 車の施錠を解錠して、「お願いします」と口にしてから助手席に腰をかけた彩花。小雨で濡れた躯が艶めかしい。いつの間にか彩花との会話が途切れていたことに気付き、何か言葉を掛けようとしたところでつぶらな瞳と目が合う。

 寂しさを帯びた、瞳。

「何だか、あっという間な一日でした」

「そうだね」

 運転席に腰を掛けてから、彩花の言葉に頷いた。彩花と過ごす時間はいつだって早い。メールや電話でも、気付けば何時間も彩花と遣り取りを交わしていたこともあった。寝不足で学校に出勤した私の目の隈は、本田先生や二年B組の生徒たちにからかわれたこともある。

 だから彩花のあっという間という表現に、素直に頷けた。

「何だか寂しい」

 彩花が拗ねたように言うものだから、そこで笑みをこぼす。

「いつでも逢えるよ」

「確かに、そうですけど」

 彩花の反応はいつもより薄い。一先ずエンジンを掛けてから彩花の様子を見るも、彩花は口を開かなかった。寂しい、と、彩花は言う。ここで何か気の利いた言葉を掛けようかと考えていたが、「帰りたくない」と彩花が呟いたことで意識はそちらに向けられた。エンジンをかけたことで表示されたオーディオプレーヤーの時刻を確認すれば、あと少しで十時を回る。

 明日は平日だ。彩花を家に送る時間を考えれば、これ以上留まるのは互いの明日に障る。その点を考慮して結論を出す。

「寂しいけど、明日は学校だから。きょうはこれで切り上げよう」

 彩花との会話を試みるが、依然として彼女は無言だ。ここで彩花の言葉を待っても返事はこない気がしたので、こちらから言葉をかけ続けることに。

「私も彩花と同じで、少し別れが寂しいけれど、さっきも言ったようにまたいつでも逢えるから。それに、帰りが遅いと彩花のご両親も心配するだろうから、」

「しませんよ」

 はっきりとした声でそう言った彩花に驚きを示す。電話でも耳にしたことがない、どこか冷たい声。彩花の目元を窺う。その瞳には先ほどまで自分と会話をしていたときの輝いていた光はない。闇夜だけを映したかのような、どこまでも虚ろな両の瞳。

「……あ」

 まるで言ってはいけないことを口にしてしまったかのような、驚いたような顔で彩花はこちらへと振り向き、「ごめんなさい」と小さな声で謝ってきた。

「ごめんなさい、先生。わがままを言って。先生と一緒にいることが、その、とても楽しかったから」

 取り繕うように笑顔を見せた彩花の態度はどこか白々しい。

「だから、明日逢えるといっても、いま別れるのが寂しかったから思わず、わがままを。ごめんなさい、先生」

 何かが、引っ掛かっていた。それが初めて見た彩花の表情と、聴いたこともない冷たい声が関係していたのは明らかだったが、雰囲気からしてそのことについて何も言及できなかった。彩花が先ほどの態度に関しては忘れてほしいと、目で訴えている気がしたから。

「いいよ、謝らなくても」

 努めて優しい声色を意識して、彩花に声をかけた。さっきの、豹変したかのような彩花の態度は当然、気になる。けれども彩花はその話題に私が触れることを嫌がっているようにしか見えない。だから彩花は取り繕ったような態度でこの場を誤魔化そうとしたのだ。

 沈黙の中、そのまま車を発進させた。いつもは考えずとも話したい事柄が頭の中で浮かぶというのに、何も言葉が思い付かない。それは彩花も同じだろう。積極的に喋りかけてきた彼女もまた、私と同じように無言でいた。

 ワイパーが一定の間を置いて、水滴を拭う。オーディオプレーヤーから流れる音楽の音量は耳を澄ませば漸く聞き取れる程で、彩花との対話の邪魔にならないようボリュームを下げていた。車内に流れる音楽は、小さな音量でもしっかりと歌詞が聞き取れる。

 静かな車内の中で、彩花の態度が豹変した原因を思い返す。帰りが遅いと彩花の両親が心配するから、と口にした瞬間、冷たい声で「しませんよ」と彩花は言葉にした。

 彩花の両親は、帰りが遅くなっても心配しない。そういうことだろう。彩花が両親と不仲だという話は耳にしたことがない。公開授業に彩花の親御さんが来ていなかったことを思い出すが、何も二年B組の生徒の親御さん全員が顔出ししていたわけではないのだ。それだけでは両親と不仲だという事には結びつかない。

 そもそも自分が何に引っ掛かりを覚えていたのかを見詰め直す。

 そうして真正面から捉えれば、それはとても単純な事柄だと知る。

 そう。彩花とこの二ヶ月間、毎日のようにメールと通話を繰り返しているが、その間に、彩花から両親の話題は一度として持ち出されたことがなかった。いまさらそのことに気付いても遅いということは、車内の雰囲気が如実に表しており、歯痒い思いで只、アクセルを踏む。雨はまだ、降り続いていた。


   ※


 どうしよう。

 何で急にあんな態度を先生に対し、とってしまったのか。理由は単純だった。あんなにも楽しい時間の中で、先生に両親の話題なんて持ち出さないでほしかったから。でも、兵藤先生に対してあの態度はないだろう。

 先生に家の近くまで降ろしてもらってから、雨の中、傘も差さずに暫く道路の端に立ち尽くしていた。幾ら悔いても、時間は戻らない。結局、この場で先生と別れるまで大した会話はなかった。それが自分の所為だと分かっているから、余計に辛い。

 帰宅した頃には髪も服も濡れていて、玄関に両親の靴がないことを確認してから、そのまま部屋に向かう。雨水が吸い付いて重さが増した服を脱ぎ捨てては抱え、ついで、テーブルの上に放り捨ててあった剃刀を指の間に挟む。裸のまま浴室に踏み入れ、熱いシャワーを早速浴びては剃刀で二の腕に傷を刻んだ。湯気で見え隠れする二の腕に走った赤い傷痕は、これで何本目だろう。

 衝動的に傷をつけても心は落ち着かない。また一線、赤い傷を走らせた。心はまだざわついたままで、シャワーで洗い流される血に視線を落とす。

 楽しい一日で終わりを迎える筈だったのに、どうしてと自分を責める。どうしてあのようなわがままを、どうしてあんな冷たい声を先生に向かって言い放ってしまったのか。

 最悪だ。最悪の一日になってしまった。先生は私のことを嫌いになってしまっただろうか、いや、違う、先生はあれだけで私を嫌いになったりなんかしない。そんなことを考えるのは先生に対して失礼だ。腕から流れ出す血に構わず、濡れた躯のまま、ふらふらとした足取りで部屋に向かう。両親がいないからって、裸で廊下を彷徨くのは気の弛み過ぎだろうか。床が濡れてしまった、あの二人が帰ってくる前に拭いとかないと。

 自室に足を運んだところで、腕の傷がいまさら痛みを帯びてきた。一先ず、いまは落ち着こう。まずは先生に謝った方が良い。それでまた勇気を以て食事に誘ってみよう。

 携帯電話を手にとって、メール機能を開こうとしたら指の動きが止まった。もし、ここで先生に断られてしまったら、距離を置かれてしまったら私はどうなるのだろう。そんな恐れが浮かんだとき、暗闇の中、聞き慣れたメロディーが室内に響き渡った。

 驚きで、目が見開く。信じられない。まるで計ったかのように、それは奇跡であるかのように一件のメールがたったいま届いていた。ディスプレイに表示された相手先の名前は、言うまでもなかった。


   ※


 クラスを持ってからというものの笑えてしまう程に仕事の量が増えたが、それでも二年B組の生徒たちのことを思えば、与えられた仕事を必死に頑張ってきたつもりだ。その気持ちはいまでも変わらない。生徒に何も思うことがなければ、教師という仕事はさぞ苦痛だろう。

 しかし、生徒のことを考え過ぎて苦しみを覚えたのはこれが初めてかもしれない。気を紛らわすために作動していたパソコンのディスプレイに表示された英文に目を通す。自身が作成した一学期期末テストに向けた問題文に、何か訂正するような箇所がないかどうかを確認していたが、問題が全く頭に入らない。このような心持ちで業務に向き合うのは無意味なことだと理解した頃には、パソコンの電源を切っていた。

 背後にあったベッドの木枠に背中を委ねる。六畳ワンルームの小さな洋室は、狭いが独りで暮らすには充分なスペースだ。

 シンプルで明るい木目の家具でコーディネートされた室内。真っ白な天井を見上げていた視点を落とせば、木目のテーブルに置かれたパソコンの隣りには携帯電話が。それに手を伸ばそうとも、躊躇ってはそのまま動きが硬直し、何も行動を起こせないでいた。

 静寂とした部屋。テーブルの向かい側に置かれているテレビの真上に設置された壁時計の針が、耳を澄ませば一定のリズムで耳朶に届いたが、それを掻き消すように彩花の冷たい声が木霊のように響き、惑う。頭から離れない声と、いままで目にしたことがなかった彩花の表情が思い浮かぶ。橙色の照明に照らされた自分の顔は一体どのような表情をしているのだろうか。確かめようとも、壁にかけられた細長い姿見はこの位置からでは視界の端にしか映らない。

 溜息を洩らす。どうしてこのような、蟠りのような感情を持つことになったのか。原因は明確だというのに、自分が何をしたらいいのかが分からない。パソコンの隣りに置かれていた携帯電話を、いつの間にか自分の手は握っていた。

 メール機能を開いて、受信ボックスに並ぶ彩花のメールに返信ボタンを押し、文字を打ち込む。何をしたらいいのか、具体的には何も分からない。分からないからこそ、彩花の家庭については触れない方が良いだろう。その判断が正しいかどうかは知らないが、現状を何とかしないことにはこの先、彩花との関係が気まずいままになってしまうのではないか。その恐怖が私を突き動かす。

 メールをせず、電話で遣り取りを交わした方が良いのではないかという考えもあったが、通話の途中で言葉が途切れる可能性も踏まえ、こうして文字を打つことで何を伝えたいかを自分の中で整理していた。メールで自分なりの思いを綴っているとき、本田先生に言われたことが蘇る。特定の生徒とメールを続けるのは不味い、周囲に贔屓だと勘違いされてしまう。それに対し、私はこう口にしたのだ。私からは一切のメールを送らない、と。それはつまり、常に受け手であることを意味していた。主体的に行動を起こさず、生徒の意見を尊重する。そうすることで平等を維持し、贔屓なんて言葉を一蹴できると、いまのいままでそう信じていた。

 だがこの期に及んで悟ってしまった。そもそも、彩花の電話番号を自分から聞き出してしまった時点で、平等なんて言葉は無意味に帰したのだと。彩花の電話番号を思い切って聞いたあのとき、仕方ないと自分に納得させていたが、それは只の正当化だ。

 打ち終わったメールの文面を見詰める。期末テストや個人懇談を控えたいま、当分、教師としての余裕はないかもしれないが、また空いた日ができたら、一緒に花火を観に行こう。そのようなことを彩花に伝えた。

 メールは僅かな間を置いて返ってきたが、それが結構な長文だったことに驚く。文面には嬉しい、楽しみという喜びの言葉が沢山使われていて、その文を見ただけで彩花の笑顔が目に浮かぶようだ。

 メールを見て、やはり自覚してしまう。こんなにも自分は彩花との繋がりを大切にしたいのだと。自分から逢おうだなんて、担任としてそのような行動をとっていいのか。そういった葛藤は結局のところ、いまの自分には関係がなかった。だからこそ、こうして彩花にメールを返す。ここからでは鏡が見えない。でも、鏡を見ずとも自分がどのような顔をしているかは、簡単に想像できた。


   ※


 先生はどこまでも優しい、だから大好き。まさか先生から誘ってくれるなんて、まるで夢でも見ているみたいだ。メールで先生と遣り取りを交わしながら着替えを済ませる。それから濡れた躯で歩いたために床に落ちた水滴をタオルで丁寧に拭う。

 電話したい気持ちもあったが、あのような空気になったあとだ。先生が敢えて電話を選ばずにメールで話を持ち出したのも、そこに気まずさを覚えたからかもしれない。でも、先生はこうして誘ってきてくれた。それは、先生が私に逢いたいということだ。

 先生にまた逢える、二人で。幸せなことが二回も続いて、頭がどうにかなってしまいそう。

 玄関から浴室まで続いていた床をタオルで拭き終わってから、部屋に戻り、棚から英語の教科書を取り出す。期末テストが近いため、勉強をしなければいけなかった。必ず英語で良い点数をとって兵藤先生に誉めてもらおう。いままで勉強は苦痛だった。良い点数をとったところで、何を頑張ったってあの二人に誉めてもらうことなんてなかったから。

 小学生の頃、テストを見せつけるように掲げ、クラスで一番良い点数をとったことを母親に自慢したことがあった。そのときの母親はソファーに横たわっていて、酔いが醒めていなかったのか、訳の分からない言葉を発してテストの用紙を思い切り破った。

 でも、いまは違う。私を見てくれる人がいる。私を誉めてくれる人がいる。兵藤先生はこんな私に愛想を尽かさず、自分から拘わりを持ってくれた。テーブルを前に腰を落として、もう一度、携帯電話の画面を見詰めなおす。兵藤先生からの、メール。私も一緒に花火を観に行きたいです、先生。そう、胸の内で言葉にした。幸せを、実感した。

 

  ※


 梅雨が明けて、七月。一学期期末テストを終えて生徒たちの帰宅時間は縮められ、採点をするために各教科の担当は職員室に居残る。勿論、業務はそれだけに終わらない。生徒たちの夏休みが訪れる前に、成績処理、及び、通知表の作成に追われる。夏休みが始まったところで部活の顧問や雑務処理にも追われ、休みという休みがない。

 それでも、彩花との連絡は途絶えていなかった。この時期は体力的にも精神的にも辛いものがあるが、彩花の声、彩花の言葉が私の疲れきった心を癒してくれる。二年B組の英語の採点は済み、その中でも彩花だけは満点だった。他の生徒たちが見ている中で彩花に賞賛を送ったのは決して贔屓ではない、一教師として生徒の頑張りを褒め称えただけだ。周りの友達から持て囃されていた彩花は、とても嬉しそうで幸せそうな表情だった。その表情を見ているだけで、精神的負担が減ったことを自覚する。

 しかし、気掛かりが一つ。彩花と初めて一緒に出掛けたあの日から拭えない、蟠りにも似た感情。職員室で業務を片付けながらも、そのことだけが頭から離れず、仕事に集中できない。学級通信のプリントも、自分が担当した区画だけ誤字が酷かった。いままでそんなことはなかったというのに。

 保護者個人懇談会の参加名簿に、彩花の親御さんの名前はなかった。授業がどのようなものか、また、生徒一人一人の、学校生活での留意点など。普段学校でご息女がどのように過ごしているのか分からない両親にとって良い機会だと思っていたのだが、彩花のご両親は欠席していた。

 彩花と二人で映画を観に行ったあの日、あのときの彩花の反応がいつまで経っても脳裏に蘇る。彩花の家庭環境がどうなっているのか、そのことばかり考えてしまう。確かめようとも、確かめられないもどかしさにあの日からずっと、葛藤を覚えている。メールや通話でも、そのことについては一切触れないようにしていた。

 悩みはそれだけに留まらない。生徒一人一人の生活態度を思い返そうと頭を巡らしたとき、彩花の表情ばかりが頭に浮かぶのだ。そうして気付いてしまった。二年B組の担任になってから私は、橘 彩花のことばかり目で追っていたのだと。その事実に愕然とした。クラス全体を見ようと心掛けていた私は、結局は一つのことにしか目を見張っていなかったのだと。

 橘 彩花と連絡をとりあってから、いつしか彩花の存在は心の中でとても大きなものになっていた。だからだろう、彩花のことでここまで思い悩むのは。いっそのこと、彩花との連絡を絶つという考えが一瞬だけ頭を掠めたが、できるわけもなかった。彩花とのコミュニケーションは時間の経過を忘れてしまう程に楽しい。彩花とのメールや電話は自分にとっての癒しでもあったのだから、連絡を絶つなんてのはそれこそ私自身の首を絞めるだけだ。

 本日の業務を片付け、帰宅した頃には深夜の十時を回っていた。帰宅したタイミングを見計らったかのように彩花からの着信。

 結局のところ、何も変わらない。着信のボタンを押す。これからも私は、彩花との繋がりを大切にするのだろう。


   ※


 自分が働いているコンビニに新人さんが入ってきたのは知っていたが、今日、顔を合わせることになるのは知らなかった。私よりも一つ歳が上で、同じ学校の先輩だと言うその人は、苗字を成瀬と言う。だから、成瀬先輩と呼ぶことにした。

 身長は、百七十はあるだろうか。髪が茶色で二重の成瀬先輩はやたら饒舌で、何だか馴れ馴れしい。初対面の筈なのに、いきなり彩花と呼び捨てだ。でも張り切った声で「いらっしゃいませ」と言う姿は素敵だと思う。

 歳上の人に仕事を教えるのは嫌だなって正直に思ったけど、成瀬先輩に関してはそんなことなかった。成瀬先輩は仕事に対してとても真面目で、レジも積極的に一人で挑戦しては上手に熟す。オーナーもやたら成瀬先輩の接客を誉めていたから、端から見ても仕事ができる人に見られていたに違いない。

 バイトが終わり、そこから成瀬先輩と一緒に帰ることに。帰り道が途中まで一緒だったから、二人並んで自転車を漕ぎながら会話を交わしていた。成瀬先輩がコンビニのバイトを始めたのは、就職する際に労働経験は必要だと感じたから、という。軽薄な振る舞いとは裏腹に物事をしっかり考えている成瀬先輩を尊敬した。

 遣り取りをしている際に成瀬先輩、と呼ぶと、成瀬先輩は露骨に嫌そうな顔をする。

「堅いね。こっちは呼び捨てで彩花って呼んでるんだから、呼び捨てでいいよ」

 そう言われても困る。年上のひとに敬称を使うのは自分の中で当たり前のことだったから。それにもし、成瀬先輩のことを下の名前で呼ぶようであれば、私は兵藤先生の下の名前を既に呼んでいるだろう。

 成瀬先輩と別れてから早速、成瀬先輩のことを先生に電話で話した。何だか最近、先生との距離が前よりも近い気がする。以前にも増して会話が弾んでいるのはきっと、互いが感じていることだと思う。

 成瀬先輩のことを話すと、兵藤先生は微妙な反応だった。珍しい反応だったので先生にどうしたのかと尋ねると「何でもない」と拗ねたように答える。

 もしかしたら、嫉妬?

 そうだとしたら、すごい嬉しい。だってそれって、私のことを少しでも意識しているって証拠だから。真意を訊いてみたい気持ちはあったけど、勇気はなかった。

 先生。毎日のように思います。毎日のように悩みます。先生は私のことをどう思っていますか。私は、先生のこと好きです。

 先生は。

 先生は私のこと、好きですか?


   ※


 昨日の彩花との通話の中で、成瀬というこの学校の三年生の名前があがった。彩花との遣り取りは本当に楽しい上に、癒しでもあった筈だ。だというのに彩花が成瀬の話題を持ち出したとき、その話が楽しいものとは思わなかった。

 何故だろう、そんな嫉妬にも似た感情を懐いてしまったのは。馬鹿馬鹿しい話だ。同じアルバイトで働いていて、先輩と後輩の関係で、そこから仲が深まって何が悪いというのか。なら、何を怖れているというのだろう。成瀬との仲が深まって、それ以上の関係に発展することを怖れているのだろうか。それは有り得ないだろう。有り得ないと思っていながらも、どうしてこのように悩んでしまうのか。

 昨日の彩花の言葉を思い返せば、成瀬はやけに馴れ馴れしい態度で、初対面にも拘わらず彩花と呼び捨てだという。成瀬が活発で積極的な性格だというのは話から窺えた。だからこそ、何も思うところなく彩花に話し掛けただけではないだろうか。そう思いこもうとしても、考えれば考えてしまう程に、まるで泥沼に足が浸かってしまったかのような心境に至ってしまう。

 教師としての仕事に集中できていないことも、その悩みに拍車をかけていた。

 いまは彩花と二人きりで逢いたい。

 二人きりで初めて逢ったあの日、あの時。彩花に向かって「いつでも逢えるよ」と口にしたとき、彩花の反感を買ったのをいまさらになって思い出す。どうしてあのとき彩花があのような反応をしたのか、いまの私なら分かる。

 近いのに、遠かったのだ、彩花との距離は。

 昼間には大抵の生徒たちが帰宅し、学校の廊下は静まりかえっていた。蒸し暑い廊下に不快感を催す。

 水分補給のため階下に降りては、自販機を前に立っていると、背後から駆けるような足音が近付いてきた。

「先生」

 振り向かずとも、声だけで誰だか判別できる。当然だ、毎日のように耳元で聞いているのだから。振り向けば、息を僅かにきらしながらも素敵な笑顔を見せる彩花が、其処にはいた。

「走ってきたの?」

「はい、窓から先生が見えたから、急いで」

 息切れ切れに言う彩花は汗をかいていた。息を整えて自分の横に立つ彩花から良い匂いが漂ってくる。

「先生、何を飲みますか?」

「んー、コーヒーかな」

「じゃあ、私も先生と同じのにします」

「でも、ブラックだよ?」

「同じ銘柄のにします」

 そこから何気ない遣り取りを交わして、彩花と笑いあう。先程まで悩んでいた自分は何処にいったというのか。彩花と一緒にいるだけで疲れや悩みも吹き飛ぶのだから、不思議だ。

 だが皮肉なことに。悩みの原因は全て彩花が中心なのだが。

「彩花」

 いつからそこにいたのか。彩花との会話に夢中で、人の気配を感じなかった。彩花と一緒に声のした方へと振り向けば、其処には自分よりも身長が高い生徒が立っていた。

「成瀬先輩」横に立つ彩花が、そう言った。

 この生徒が昨日、彩花が話していた成瀬。彩花と私が二人で会話していたのにも構わず割り込んできた成瀬は、笑顔で彩花だけを見詰めていた。

「彩花、これから帰り?」

「はい」

「なら、折角だから一緒に帰ろう」

 この成瀬とかいう生徒、確かに彩花の言うとおり馴れ馴れしい。昨日が初対面だというのに、彩花にここまで積極的に拘わりを持とうとする成瀬には、何か企みがあるような気がしてならなかった。彩花は成瀬から視線を外して、横目で私の顔を窺う。どうしてそのような挙動をしたのか疑問に思った瞬間には、「はい」と、彩花は成瀬の誘いに応じていた。

 隣りに立っていた彩花が、いつの間にか成瀬の横に立つ。

 無性に、引き留めたい思いに駆られた。

 でも、それはできなかった。

「先生、また明日」

 彩花の言葉に、辛うじて「また明日」と答えた私の声は掠れていた。成瀬にいたっては先から私に一瞥も寄越さなかった。まるで目の敵にしているかのような態度に、しかし、どうすることもできない自分がただ腑甲斐無い。一人、自販機の前に取り残された私は惨めな気持ちのまま、彩花と成瀬の背中を見詰めながら、手に持っていたコーヒーを飲み干す。

 情緒不安定だ、いまの自分は。彩花が自分の隣りから成瀬の横に立ったとき、どうしようもない不安が全身に襲いかかってきた。彩花の背中が見えなくなっても、真夏の太陽の下、汗を頬にかきながら私はその場に立ち尽くしたままでいる。内心で焦っていたのだ。彩花の関心が、自分よりも成瀬の方に移ってしまうことに。

 いま、自分が何をするべきか。答えは簡単だ。決然とした足取りで、職員室に向かう。答えは、一刻も早く業務を片付けて余裕を作ることだ。余計なことに悩まず集中し、誰よりも仕事に励むことではないだろうか。

 そして、彩花を花火に誘おう。二人きりで逢おう。悩みに苦しんでいる場合ではない。自分は、急がねばならないのだ。

 そこで一つの疑問にぶつかる。どうしてここまで、橘 彩花という一人の生徒に思い悩むのか。

 それこそとても単純な答えだ。要するに惹かれていたのだ、彩花という一人の女の子に。でも、それは胸の奥に閉まっておかなければならない想いだ。生徒と教師である上に、世間から見ればそもそもそれ以前の問題だろう。

 彩花の前でも、この想いに鍵をかけ続けなければならない。それはとても辛いことだけど、仕方がなかった。だってもし両想いだったとしても、絶対に、世間は私たちの関係を認めないのだから。


   ※


 帰り道、自転車で成瀬先輩と並んで漕ぎながら、自販機の前に立っていた先生の表情を思い出す。成瀬先輩から一緒に帰ろうと私が誘われたとき、先生の顔に浮かんでいたのは明らかな戸惑いだった。それがどういった意味を持つのか。もしかしたら先生は本当に妬いているのではないだろうか、なんて、都合の良い考えが浮かぶ。

「彩花」

 でも、もし本当に先生が妬いていたとしたら、この状況は先生にとって好ましいものではない筈だ。軽率な行動だったかもしれない、先生の前で成瀬先輩の方にわざと寄ったのは。先生が悪い方向に考えを働かせてしまったら、先生との距離が遠いものになっていた可能性も否定できないのだ。

「彩花」

 成瀬先輩なんてどうでもいい存在だ。私にとって掛け替えのない存在は先生だけ。先生の隣りから成瀬先輩の隣りに移ったことで、先生が勘違いをしてしまったら、死んでしまう程に最悪だ。

 私が先生以外の人を好きになるなんてことは一生ないことだから。

「彩花」

「あ、はい」

 道路の端で自転車を停めた成瀬先輩につられて、自転車にブレーキをかけた。椅子に跨がったまま成瀬先輩が、顔を近付けてくる。

「さっきから名前呼んでるんだけど」

「気付きませんでした、ごめんなさい」

「別にいいけど……そういえば彩花、アドレス、」

「あ、帰り道こっちなので。さようなら」

 白白しい態度で、その場から逃げるようにして自転車を漕ぎ始めた。何だか成瀬先輩と会話を交わすこと自体が兵藤先生に対しての罪悪感を懐かせ、私を苛む。

 蝉の鳴き声を聞きながらメール機能を開いて兵藤先生にメールを打つ。本当は兵藤先生ともっと一緒にいたかったのに、先輩だから帰りの誘いが断り難いものだったことを文章で説明し、恰も邪魔者であるかのように成瀬先輩のことを汚い言葉で罵っては、そのまま送信。これで先生も分かってくれただろう。私が、先生だけしか見ていないということを。

 あと数日もすれば、夏休みが訪れる。約束していた花火はいつ観れるのでしょうか、先生。


   ※


 彩花からのメールを見て口元が綻ぶのが分かった。成瀬のことを彩花がそう思っている内は安心できたが、油断はできない。

 職員室で、同じように成績処理に追われていた本田先生に「顔付きがいつもと違う」と笑われた。ここ最近の自分の表情がどれだけ思い詰めていたものか身に染みる言葉だ。二年B組の生徒にも、疲れているのではないかと心配されたことを思い出す。

 もう大丈夫だ。怠けていた自分はもう此処にはいない。窓を閉ざしても蝉の鳴き声が聞こえてくる中、この集中は途切れないままでいた。肉体的疲労も精神的負担も、それを乗り越えた先のことを思えば頑張れる。彩花と一緒に、花火を観に。いまはただ、それだけのために。喉の渇きを感じながら机に向かっていた。


   ※


 八月半ば。遂に明日は待ち侘びていた先生との約束の日。隣りの市で開催される夏祭りに、先生の車で足を運ぶ予定だ。どうして隣りの市なのかは言うまでもないだろう。お互い、この地方の夏祭りで並んで歩くのは良い思いをしないだろうという暗黙の了解だ。

 仕事や部活で多忙な先生との連絡は自然と控えていたが、本音を言ってしまえば寂しかった。先生と逢うために我慢しなければいけないと分かっていたが、寂しかったのだ。その寂しさの行き場は腕に刻まれた幾つもの真新しい傷痕が物語っていた。

 でも、それも明日で終わりを迎える。明日、やっと先生に逢えるのだ。二人きりで逢える。

 浴衣は持っていないから、涼しさを意識した私服で夏祭りに向かうつもりだ。先生もまた私と同じで、普段着で来ると口にしていた。実を言えば先生の浴衣姿も見てみたかったけど。

 真夜中、ベッドに潜り込み、携帯電話から流れる恋愛の歌に耳を傾ける。両親の醜い行為が終わるまで、一人、小さな声で愛の歌を口ずさむ。「逢いたい」


   ※


 きょうこの日のために精一杯仕事に励み、夏祭りの開催にあわせてしっかりと休日をとった。練習試合を昨日に行ったバスケット部は、本日から一週間は休みになっている。予定していた夏期講習も自分が教壇に立っては、生徒一人一人の質問にちゃんと答えを返し、真面目に取り組んだ。夏期講習とはまた別に、八月に開いた英会話講座も木崎先生と一緒にやっている。夏休み中、生徒の向上心を身近に感じながら、部活や講習は滞りなく進んでいた。きっとこの夏の経験は生徒たちにとって、プラスの方向に働いただろう。それは自分も同じことだ。夏休みの部活動は生徒と共に汗を流し、クラスを持つことで与えられた初めての業務に向き合い、確実に一教師としての成長を実感していた。

 ある程度の余裕ができたいま、彩花との約束を漸く果たすことができる。ラフな格好で車に乗りこみ、以前と同じ彩花との約束場所に向かう。隣りの市で開催されている夏祭りに向かうことになったのは、藤高の関係者の視線から逃れるためでもあったが、八月に開催される夏祭りは隣りの市でしか行われないからというのも、理由の一つとしてあった。藤高の地域で行われた夏祭りは七月に終わっている。

 昂揚した気持ちを抑えきれているか、自分では分からない。時刻は夕方に差し迫り、夕日が運転席の窓から見えた。橙色に染まった道を走れば、開いた窓から流れこむ僅かな風が身に染みて涼しい。やがて、市民館前の駐車場に辿り着き、彩花と落ち合う。助手席に座るように促してから、そこで会話を交わす。

 ここ最近、彩花との連絡は控えていたため、自然と会話が弾むようになっていた。夏休み以降、お互いの顔を見る機会がなかったため、こうして久し振りに逢えたのは本当に嬉しい。

 彩花の格好は、可愛らしい青のフロントリボンが似合う半袖の白いブラウスに、薄いオレンジのスカート。夕日が沈んでも暑い時期にはぴったりな服装だと思う。

「やっと逢えましたね」

 彩花の上擦った声に頷きを返す。初めて二人きりで逢った日から一ヶ月は経っていた。感慨深い気持ちに駆られながら、彩花に微笑む。

「きょうは楽しもう」

 そう口にすれば「はい」と元気な声が返ってきた。以前の失敗も踏まえてきょうは必ず楽しい日にしていこう。

 そうと決まれば、と、早速車のアクセルを踏みこむ。開いていた窓から聞こえていた蝉の鳴き声がエンジンの音に一瞬断ち切られ、そのままスムーズに駐車場を跡にした。

 念願の夏祭り。あれほど逢いたがっていた彩花はいま横に座っていて、楽しそうに笑っていた。この日のために頑張ってきた自分を褒め称える。そして、誓う。

 思い出に残るような、楽しい日に。彩花にとって、最高の夏休みにしようと。


   ※


 藤高から四十分以上は掛かって辿り着いた場所は大きな土地を有した神社だ。夏の時期になると祭りが行われて、屋台が並んでは沢山の花火が空に打ち上げられる。民謡的な音楽が流れる中、ほどけないようにしっかりと兵藤先生の手を握っていた。はぐれてしまわないように思い切って手を繋ぐよう誘ってみたけど、これは想像以上に恥ずかしい。手を繋いだだけで高鳴る胸、掌に汗をかいてしまう。横目で兵藤先生を窺えば、学校で見掛けるようなイメージとは離れた涼しい格好をしている。こんな兵藤先生を知っているのは自分だけだろうな、と思いつつ、一人満足して口元が緩む。

 祭り独特の賑やかな空気、喧騒がいまは心地いい。兵藤先生と手を繋いで、一緒に歩いてる。その事実がより気分を昂揚させた。

「すごい賑やかだね」

 先生の言葉に頷きを返す。

「人がいっぱいいますね。はぐれないように、しないと」

 そう言って、人混みの中、先生の手をいまよりも強く握った。そんな自分を見て先生は笑い声で「そうだね」と言う。

「祭りって、久し振り。学生以来」

「そうだったんですか?」

 屋台を二人で見て回りながら会話を交わす。時折、喧騒や花火の音で声が憚れて伝わらないこともあったけど、そのときは伝え直すだけだ。先生の言葉は、聞き逃したくない。

「うん。大人になると、必ずやってたこととか、当たり前だったことが、いつの間にか出来なかったりするからね。だからこそ、新鮮に感じるのかな。うん、自分から誘ってなんだけど、いま、すごい楽しい」

 先生の笑顔を見て、また、鼓動が高鳴るのを実感した。きっといまの笑顔は私しか知らない。大人なのに、どこか子供っぽい先生の笑顔を、私だけが知っている。言いようのない優越感を味わいながら、先生の手にひかれて屋台の通りを歩く。

 芳しい匂いに誘われるように屋台の前で立ち止まり、二人でたこ焼きを買うことに。青海苔を抜いてもらうように店先の人に頼んでいると、先生が隠れて私の分までお金を支払おうとしているものだから、そこで前回と同じように言い争う。前のパスタ屋さんや映画館は先生がお金を払うことを断じて譲らなかったので音をあげたが、流石に連続として奢ってもらうなんてとんでもなかった。

 自分の財布から取り出したお金を、先生の分までお店の人に払ってから、二人分のたこ焼きが入った袋を左手に、右手は先生の手を無理矢理引っ張ってその場から去ることに。

「彩花は強情だね」

「先生も人のこと言えないですよ」

「たこ焼き代、払わせて」

「先生は強情ですね」

 そんな遣り取りだけでも笑顔になれる。薄暗い空、夕日が沈む頃。たこ焼きの他に、定番の焼きそばを先生と一緒に食べて、射的や水風船を先生と競いあう。屋台を回りながら先生と会話を交わすたびに、何だか胸が苦しい。まるで海に潜っているかのような息苦しさ。いつも以上に胸の高鳴りが激しい。先生の横顔を見るだけで、手を繋いでいるだけで、意識してしまうだけでこんなにも、切ない。

 いま、先生は何を考えているのだろう。

 先生は私と一緒にいても、いつも通りに見える。それが少し悔しい。

 映画を観に行ったときも思っていたことだけど、二人きりのこの時間がずっと続けばいいのにと思う。帰りたくない、と思わず口にしてしまいそうだったけど自制する。先生を困らせたくない。そうは思っていても、しかし、この気持ちの行き場は何処に向かえばいいと言うのだろう。

 全てさらけ出してしまいたい、何もかも。私が先生のことを本当にどう思っているのか、ちゃんと伝えたい。掌から伝わる先生の体温を感じながら、火照る体。この高鳴りも、苦しみも、先生の前で全部全部さらけ出したい。

 先生、好きです。

 大好きです。

 毎日のように先生のことを考えてしまいます。でも、この想いが報われないことは分かっています。それでも、先生のことが好きです。

 沢山の足音や笑い声が響く通りの先に石段が見えてきた。そこを上れば神社が見える。座れる場所は埋まっているように見えたが、運良く空いていた木製のベンチに先生と並んで座りこむ。

 此処に来るまでに車内で聞いていた、花火を一斉に打ち上げる時間帯が差し迫っていたことに気付き、携帯電話で時刻を確認する。見たところ、あと数分もすれば花火があがる予定だ。

 先生の横顔を窺う。そこで目が合ってしまい、視線を逸らす。このざまでは、いつまで経っても想いを伝えることなんてできはしないのではないか。自分が恥ずかしい。情けなかった。

 でも、怖いのだ。一歩を踏み出すことが。もし想いを伝えたとして、それで先生が自分に対して距離をとってしまうのではないかと恐れてしまう。そもそもメールでは簡単に好きと伝えられたのに、通話では伝えられない。況してや先生を目の前にして想いを口にするなんてとても無理だ。

 それでも、一歩を踏み出さなければ何も変わらないことは私自身が一番に分かっていた。俯いていた顔をあげて、逸らした視線を先生に。座っていても、何故か、先生との手は繋がったまま。

「もう少しで、花火、上がりますね」

 まるで現実から目を背けるように、そんな発言をしていた。

「もう上がるね。此処から見る花火は多分、絶景だよ」

「先生は、此処で花火を見たことありますか?」

「実は一回もない。だから、彩花とが初めてだね」

 自分に向けられた先生の笑みを見て、惑う。

 先生。

 先生、先生。

 臆病な自分を棄てなければ、前に進めない。分かってる、そんなことは。いまの関係では満足できない、だから今日は、今日こそは、もう、素直になろう。さらけ出してしまおう、自分という人間を。まずは深呼吸をして落ち着こう。そこで落ち着いたら、伝えたいことを頭の中で整理して、そのまま先生に素直に伝えよう。なけなしの勇気を奮って、伝えたいことを言葉に乗せるんだ。

 先生の手を握って、臆病な自分と向き合い、

「先生」

 最初の一歩を、踏み出す。

「人がいない場所に、行きませんか?」


   ※


 屋台が並ぶ通りから外れた、草花が生い茂った道に二人並んで立つ。

 神社を囲む木立の一辺。この場所に着いてから、繋いでいた彩花の手から強い力が伝わってきた。そこに伴う小さな震えに、戸惑いを隠せない。

 人がいない場所に行きませんかと彩花は言った。こんなところで彩花は何がしたいのだろう。空を見上げれば、偶然だろうか、そこだけ枝や葉が切り取られたかのように覆うものは何もなく、夕日の沈んだ空が視界に広がっていた。ここからでも花火は見えるだろう。

「先生」

 一緒になってこの場に立ち止まっていた彩花に声を掛けられる。見れば彩花の目は不安に揺れていて、けれどもその揺らぎの中で、確かな覚悟を垣間見る。

「私の話を、聞いてください」

 彩花の震えたその声を、どうして拒むことができようか。首肯し、彩花の言葉を待つ。

 涼風。木立がさざめきを生む中で、彩花が深呼吸をしてから自分と向き合う。

 迷いのない瞳。

「一年のときから、先生のことを見てました」

「うん」

「何に対してもひたむきに取り組む兵藤先生を見て、そんな、他の先生とは違う姿に憧れて、いつの間にか、先生のことを目で追っていました」

 ここにきて彩花が何を伝えたいのか、察してしまった。いや、それは自分の勘違いであってほしい。そう思うと同時に、心のどこかで何かを期待している自分がいたことを否めなかった。

「二年生の担任発表のとき、兵藤先生が自分のクラスの先生になって、すごい嬉しかった。本当に、嬉しかったんです。夢かと思うくらいに」

 こうしてるいまも自分の手を握っている彩花。おさまらない震えを振り払うかのようにその声が徐々に大きさを増す。

「私は、あまり家族と上手くやっていません」

 急に話題が切り替わった上に、まさかその話が出てくるとは思わなかったので驚いてしまう。彩花の言う家族関係の溝は薄々勘づいていたことだ。でも実際、彩花の口からそう言われて、どのような反応をすればいいか分からなかった。

「幼い頃から、母親と父親が大嫌いでした。家に味方なんていなくて、一人の夜はとても寂しかった」

 でも、と、彩花が付け加える。

「先生がいたから、耐えられた。先生と出逢ってから、先生とメールや電話をしてから、寂しい気持ちが、なくなっていったんです。先生がいたから、私は」

「……彩花」

「先生と一緒にいるだけで、胸が苦しいんです。先生のことを考えるだけで、とても切ないです。先生のことをそういう目で見ることは、周りの人からしてみればおかしいですよね。でも、そんなの、もう知りません。私は、」

 そのとき、空にあがった花火が、この場に漂う薄闇を裂き、彩花の表情をはっきりと映した。彩り綺麗な花火に照らされた彩花の表情はとても綺麗で、その間、確かに自分は一人の女の子に見惚れていて、

「私は。先生のことが、好きです」

 そんな、何も飾られていない真っ直ぐな言葉が、花火の音に紛れて、耳朶に響いた。

「先生のことが、大好きです。おかしいって、充分に分かってます。それでも、先生のことが好きなんです」

 花火の音があるにも拘わらず、彩花の言葉一つ一つがはっきりと耳に届いた。

 彩花が、私のことを、好き。

 恐れていたことが現実に起きてしまった。メールでも散々言われていたことだった。でもそれは先生と生徒であるが故に懐く普遍的な親愛だと思っていた。いや、正確にはそう思い込もうとしたのだ。

 いま、目の前で彩花に好きだと言われて、ありがとうと口にし、笑って受け流すという選択もあっただろう。教師と生徒という立場を考慮して、彩花の話を一蹴し、今後一切連絡をとらないという選択も脳内で浮かんだ。彩花のことを思うのであれば、その選択こそが彩花のためだと分かっていた。

 だというのに、何故、惑うのか。彩花が自分の言葉を待っている。なら、先程、頭に思い浮かんだ言葉をそのまま口にすればいい。もうやめよう、と。互いの先を見据えて導き出したその答えに間違いはないのだから。

 咲いては散り、また舞い上がる花火。それらに一瞥すら寄越さず、こちらの様子を眺める彩花の目付きは、怯えの色を示していた。それはおそらく、自分の告白が拒絶されるのではないかという恐れ。早くその恐怖から解放させたかった。でも、焦って答えを示すことを彩花が望んでいないことは知っている。

 自分の心を見つめ直す。もうやめよう、と口にできないのは、自分自身が彩花との繋がりを途切れさせたくないと思っていたからだ。

 四月に二年B組の担任になって、クラスの黒板にメールアドレスをチョークで記述したあの日から始まった彩花との関係。クラスを持ったことのない駆け出しの教師が、不安に苛まれる中、そのときに届いた彩花のメールは一種の救いだっだ。生徒との遣り取りは楽しいものであることを再認識させられ、自ら積極的に生徒との交流を深めた。

 肉体的にも精神的にも辛い中で、どれだけ彩花に支えてもらったのだろう。毎日のように遣り取りを交わして、毎日のように笑顔をもたらしてくれた彩花の言葉一つ一つ思い出す。そのどれもが胸に染み、辛いことも忘れてしまうほどに彩花の言葉に癒されていた。

 六月に彩花と二人きりで逢って、メールや通話では味わえない楽しさを教えてもらった。雨が降っていたあの日から彩花の家庭環境を気に掛け、悩み続けることになった。

 この夏祭りに自分から誘ったのは、彩花との繋がりを強く望んでいたからだ。二人きりで初めて逢った雨の日、気まずい空気のまま別れて、このままでいいのかと自分に問い掛けたとき、自分が何て思ったのか。本田先生に忠告を受けていたにも拘わらず、自分から彩花を誘ってしまったのは何故か。それは、彩花に。橘 彩花という一人の女の子に、心から惹かれていたから──

 精一杯の勇気をふるって、彩花は自分に好きだと口にしてくれた。どうしていまの彩花に嘘が吐けようか。どうして自分の心に嘘が吐けようか。こんどは自分が勇気を奮う番だ。大丈夫、覚悟ならもう既にできている。

 花火が大きな音をあげて咲いたと同時に、繋いでいた彩花の手を引っ張ってそのまま抱き締めた。僅かな間のあとに、彩花の体を離す。儚さを催す花火の光にあてられた彩花の表情は驚きに満ち、何が何だか分からない様子だ。

 彩花の目と合う。戸惑いの色を見せる瞳。しかし、いまの抱擁がどういった意味を持つのか、言葉で説明する必要はない。

「先生──」

 彩花の言葉を掻き消すようにして、その口を塞いだ。

 真上でまた、花火が咲いた。


   ※


 何もかもが妄想かと思った。あの花火も、虫の鳴き声も、この涼しい風も、頬に流れる汗も、先生の温もりも、何もかもが幻だと。

「先生」

 目の前にあった先生の顔は既に離れていた。指先で自分の唇に触れてみる。

「そういうことで、いいんですよね」

 自分でも信じられないほど震えた声で、先生に問う。

「先生も、私と同じ気持ちなんだって、そう思って、いいんですよね?」

 途切れ途切れになったその言葉に先生がゆっくりと頷きを返した。その反応すら真夏の夜が見せた幻ではないかと疑ってしまう。だって、こんなのは有り得ない。先生もまた自分のことが好きだなんて奇跡だろう。夢だと思ってしまうのは無理もなかった。この状況はあまりにも自分にとって都合が良い。

「私が先生のことを好きになるなんて、おかしくないですか? だって兵藤先生は、先生で」

 纏まりのない言葉。先生に向かって、思いついたことをそのまま口にした。

「だから、先生が私のことを好きになるなんて、そんなの考えられない。だってそれって、そういうことですよね。先生も、私も、」

 また、掻き消された言葉。自分の口を塞いだそれをはっきりと実感し、夢ではないことを漸く理解した。

 真上に咲いた花火は綺麗だろう。しかし、それらに視線を向けることはない。いまは兵藤先生だけをずっと見詰めていたかった。

 夢ではない。私は先生のことが好きで、先生も私のことが好き。これは夢なんかじゃない。それを確かめるために、先生に近付いて背伸びをした。

 目を閉じて、口づけを。先生がそれを黙って受け容れたとき、思わず泣いてしまいそうだった。これが夢でも現実でも、一生このままでいい。本気でそう思った。


   ※


 花火の打ち上げが終わった。屋台も大抵が店を閉め、境内に居残って話を交わす人だかりを跡にして、彩花と並んで駐車場に向かう。その途中で、彩花が私の腕に自分の腕を絡ませて、そのまま歩き出す。歩き難い上に、人目についてしまうものだからやめてほしかったが、いまは仕方ない。お互い、どこか浮かれていた。

 彩花と車に乗りこみ、夏祭りの余韻に浸りながら、互いを見詰めてはまたキスを繰り返す。お互いが不慣れなのか、それはどこか拙い。彩花と微笑みあう中で、自分がどういった立場にあるかを思い返し、現状を把握した。自ら迫って生徒にキスをした場面を偶然見掛けた第三者が教育委員会に報告すれば、教師としての生活はもう望めまい。分かっていた、そんなことは。付き纏う不安に身を震わせながらも、しかし、彩花とのこうした関係を私は自ら望んだのだ。

 こうして彩花は特別な存在になった。後悔なんてある筈もない。彩花を肩に抱き寄せながら思う。世間の目を恐れて自分の心に嘘を吐いたところで、結局は諦めきれないことを自分が一番に分かっていた。そうと分かっていたら、彩花を抱き締めることに何の躊躇いがあるだろう。取り留めのない会話とキスを何回も交わしては、彩花の言葉を思い出す。

 両親と不仲であることを打ち明けてくれた彩花。それがどの程度か彩花の口からまだ聞いていない。もしかしたら彩花の愛情、その根本的なものは、両親との仲違いから生まれた寂しさが原因ではないか。その寂しさを埋めさせたい気持ちはあったが、彩花が両親の話題に快い反応を示すとも思わない。

「彩花」

 いまはこの空気を壊すような真似はしたくなかった。

「何か困ったことがあったら遠慮せずに言ってほしい。いつでも力になるから」

 両親の話題には敢えて触れずに、とにかく彩花の力になりたい一心でそんな言葉を口にした。彩花が自分の気持ちを汲むようにして頷き「はい、先生」と笑顔で応える。いまはそれで良かったと思う。両親のことは孰れ彩花の方から話し始めてくれる筈だ。それがいつになっても構わない。彩花のためなら、いつまでも待っていられる。

 駐車場を出る際に、学校ではあまり過度な干渉はしないことを彩花に言う。少し不満そうではあったが、お互いの先を思ってのことだと説明すれば納得してくれた。贔屓できないこともちゃんと説明し、それでも特別な人は彩花だけだということも告げる。それだけで彩花がとても幸せそうに笑うものだから、多少の贔屓は許してもいい気がした。

 八月、彩花と結ばれたこの日をきっと永遠に忘れない。

 幸せを噛み締めながら、アクセルを踏む。

 信号が赤になって、車を停止させる。そこで隣りの彩花を見れば、彩花も同じように自分を見ていた。考えていたことは、同じだったのだ。

 この日をきっと、永遠に忘れはしない。

 きょう、何回したかも分からないキスを、また繰り返す。


   ※


 九月。夏休みが終わって学力テストを実施したあとは、保護者会があった。それらに両親は参加できない旨を兵藤先生に伝えれば、先生は心配そうな顔をしたが何も言わなかった。

 それよりも結局、夏休みが終わってから数えるほどしか先生には逢っていない。それが寂しかった。先生と結ばれたあの日からあと少しで一ヶ月が経つ。いま二年B組は文化祭に向けて材料を揃えては教室内で組み立てている真っ最中だ。出し物はお化け屋敷。二年A組もまたお化け屋敷がやりたいと出し物が被っていたが、公平にジャンケンで二年B組が勝ちを収め、自分のクラスがお化け屋敷をやることに。

 そんなのはどうでもいいとコンビニのバイトをしながら思う。文化祭自体が、どうでもよかった。学校ではあまり先生とは喋ることができない。喋りたいと思っても、触れたいと思っても、できないんだ。

 それがこんなにも辛いなんて想像できなかった。自分の想いが報われてからというものの、先生に対する想いは日々増すばかり。学校で毎日のように先生を見掛けても、先生と毎日のように目が合っても、何もできないのがもどかしかった。

 お客さんが入店しても時折「いらっしゃいませ」の掛け声を忘れてしまう。いまは仕事だ、先生のことは一時的に忘れよう。そうは思っていても、それすらできない。

 先生に逢いたい。明日、学校で逢えると分かっていても、それだけでは満足できない。電話やメールだけでは、この心は満たされない。無意識に指先が自分の唇に触れ、先生とのキスの感触を思い出す。

 切ない。学生の内は、先生との距離は本当の意味で縮まらないことを実感した。想い合っていても、先生との距離はまだこんなにも遠い。

「どうしたの?」

 レジで呆けていた自分に声を掛けてきたのは、成瀬先輩だった。この人はしつこい。露骨に嫌な顔をしても、成瀬先輩は何故か気にかけない。余程、人の顔をみていないのだろう。

「少しだけ、ぼんやりしてました」

「大丈夫? レジ代わろうか」

「大丈夫です」

 成瀬先輩は優しいとは思う。仕事も真面目で、気配りもできていて、先輩として尊敬に値するかもしれないが、仲を深めたいとは一切思わなかった。私には兵藤先生がいる。他の人と仲を深める必要なんてなかった。

 成瀬先輩は自分の横に立ったままで、何故か其処から動かない。

「彩花、明日は暇?」

「明日は用事あります」

「いつなら空いてるの?」

「空いてたら、どうなるんですか」

「二人で遊びに行きたい」

「成瀬先輩って、どうしてそんなに私のことを誘うんですか。少し、しつこいですよ」

 失礼な受け答えだと自覚しておきながらも、こうした遣り取りは何も一回や二回ではないのだ。成瀬先輩はそこで考えこんだ仕種を見せたあとに「好きだから」と口にした。

「はい?」

 成瀬先輩がいま何て言ったのか。好きだから? 成瀬先輩が、私を? そんなことあるわけないだろう。何かの聞き間違えだと思って、成瀬先輩を見る。お客さんが店内にいるにも拘わらず、恥じらいもない顔で「彩花が好きだから」とまた言葉にした。

 聞き間違いではない。

「それは、友達として、ですよね」

「違うよ」

 即答されてしまった。

「軽蔑する?」

「いえ……しませんけど」 

 お客さんが店内にはいってきても、あの真面目な成瀬先輩が見向きもしない。レジにいるにも拘わらず、「いらっしゃいませ」を言わない二人のアルバイトに、お年寄りのお客さんが不審な目を向けてきた。それにすら成瀬先輩は気付かない。

「彩花のクラスは?」

「え、あ、はい。クラス?」

「二年何組なの?」

「あ、二年B組です」

「二年B組ね。明日、足を運ぶから。そのときに答えを聞かせてほしい」

 成瀬先輩の言葉を、時間を掛けて呑み込んで理解し、そこで「はい」と返事した。成瀬先輩は満足そうに笑ってからレジを離れ、別の業務に励む。

 一瞬の出来事だった。

 だからこそあれが現実なのかどうか分からない。成瀬先輩が自分のことを好きだなんて、そんなの普通に考えて有り得ないだろう。いままで成瀬先輩がやけに積極的だと感じていたのは、つまり、そういうことだったのだろうか。考えてる最中も一人の会計を済まし、お客さんが店から出ていって、そこでまた気付いた。二人して「ありがとうございます」を、言い忘れていることに。


   ※


 職員室で打ち合わせをしているときに、昨日の彩花の連絡を思い出す。

 成瀬先輩。

 成瀬先輩に告白されたと昨日、彩花は口にしていた。成瀬の告白はその場で解決はせず、そこから一方的に話を打ち切られ、返事を貰うためにきょう成瀬が二年B組に伺うらしい。その話を聞いてショックだったのは、彩花がその場で成瀬の告白を断らなかったことだ。もしかしたら彩花は成瀬の告白が嬉しいと、少しでも感じたのではないだろうか。だからこそ、その場で成瀬の告白を断らなかった。折角、自分に告白した相手を傷付けてしまうのは可哀想だと、彩花は思ったから──

 その話題を電話で彩花が持ち出したとき、内心穏やかではなかったが努めて平静を装った。だが焦りは募るばかり。いまごろ、こうして打ち合わせをしている最中にも、成瀬が教室を抜け出して二年B組に向かって彩花と接しているのではないか。そもそも彩花と成瀬はバイトが同じなのだ。そう考えただけで、胸が苦しい。

 朝の打ち合わせが済んだところで、出席簿やその他のプリントを整頓していると、本田先生が近寄ってきた。

「文化祭の出し物は進んでるのか」

「なかなか進んでますよ。本田先生の方は?」

「まあまあだな。割り箸で鉄砲を作るなんて、うちのクラスは男勝りが多い」

「そうですね」

「そういえば最近、飲みに行ってないな」

「きょう空いてますよ」

「そうこなくっちゃな」

 本田先生がにこやかに笑って「またあとで」と職員室を跡にした。打ち解け合った仲のためか、本田先生との会話は本当に和む。でも、本田先生と会話を交わしたところで、成瀬のことについては頭の中から消えなかった。それもそのはず、例え打ち解けた仲とは言っても本田先生には彩花のことについて一切話していない。あれだけ忠告を受けていたにも拘わらず彩花とは教師と生徒の一線を越えてしまったんだ。彩花との間にあったことを包み隠さず全て話してしまえば、本田先生との間に亀裂が走ってしまうのは目に見えていた。そういったリスクも覚悟して彩花とはこれから先も付き合っていかなければならない。でもその道を選んだことに後悔はなかった。

 教室に持ち込むプリントを纏め終えて、立ち上がっては職員室を出る。出た直後、クラスに向かっていったと思われた本田先生が駆け寄ってきて「トイレ」と一言だけ言って私にプリントを手渡し、そのまま職員室前のトイレに。そんな本田先生の態度に笑みをこぼし、廊下の端に寄って本田先生を待つ。

 いまは九月。あと数日で始まる文化祭が終われば、もう十月だ。時間の流れが早いとしみじみ思いながら、未来のことを考えてみた。でも、未来のことを思えば思うほどに不安しか沸かない。

 いや、いまは惑うな。雑念を振り払って、しっかりしろと自分に言い聞かせる。成瀬のことでここまで悩んでしまうようであればこの先が思いやられるというもの。一つのことに囚われず、全体を見渡すのが教師だ。深呼吸して、気持ちを切り替える。いまは、彩花を信じよう。その気持ちが何よりも正しいと、そう、信じて。


   ※


 昨日、成瀬先輩との間にあった出来事を電話で兵藤先生に話した。そのときの兵藤先生の反応はどこか不信感にも似たようなものがあって、それが嫉妬なのかどうかは分からない。

 でも、いまの兵藤先生は普段通りだ。それが何だか自分のことを信頼しているようで嬉しい。廊下で兵藤先生の横に立ちながら、お化け屋敷としての教室を外から眺めて、お客さんとしての視点に立つ。廊下から見た教室の窓には『お化け屋敷』が一文字ずつ色画用紙で切り取られ、イラストを添えて窓硝子の内と枠に貼られていた。

「不気味さに欠けます?」

「いや、文化祭には小さい子供も訪れるから、あまり怖すぎるのも駄目だと思うけど」

「そう考えると難しいですね」

 不思議だ。兵藤先生とこうして学校で会話をしていることが。兵藤先生と付き合っても学校生活に変化はない。先生と生徒の関係に変わりはなかったが、ここにいる二年B組の生徒は私以外誰も知らないだろう。先生と私が映画を見に行ったことも、夏祭りに行ったことも。先生と私が両想いであることを二年B組の生徒は誰も知らない。

 一人、浮かれた気分を味わいながら、先生の横に立つ。ふと、窓に貼り付けられたお化け屋敷の文字と、そこに添えられたお化けのイラストを見て思う。先生と二人きりで初めて逢ったあの雨の日、そういえばあの日も偶然お化け屋敷という言葉が出てきた。

 そのときの遣り取りを思い出す。

「そういえば以前、お化け屋敷が苦手だってことを話してましたよね、先生は」

 以前、と口にしたのは周りの目を気にしてのことだ。映画に行った日と口にしたら、二人の関係を探られてしまいかねない。

「覚えてるよ」

「皮肉にも出し物はお化け屋敷ですね」

「やる側としては問題ないから、うん、大丈夫」

「あのとき、幽霊の話もしていたことも覚えてます?」

「勿論、覚えてる」

 そこで早織が廊下に出てきて、続いて文化祭用の白装束を着た由梨が両手を振り上げて早織を追う。そんな光景を眺めたあとに、先生の顔を覗きこむ。

「先生」

「ん?」

「もし、私が死んだとして、幽霊になったとします」

 窓に貼り付いた色画用紙、そこに書かれた可愛らしいイラストを指差して言う。

 あの雨の日と、同じ空気。

「先生、見つけられますか」

「どうしたんだ、急に」

「先生と、ずっと一緒にいたいから」

 小さな声で、先生に言う。

「もし先生が見付けられなかったら、ずっと一緒にいられないじゃないですか」

「ロマンチストだね」

「女の子ですから。……いますごい恥ずかしいですけど」

 顔が熱い。勢いに任せて何を口走っているのだろうかと後悔し、俯く。

「見つけてみせるよ」

 囁くような先生の言葉に反応して、顔をあげた。

 先生も言って恥ずかしかったのか、誤魔化すようにして笑い出す。

「もしそうなったら、誰よりも先に彩花のことを見付け出すよ。ほら、約束」

 小指を差し出す先生。

 そこに自分の小指を絡ませて、指切りをした。

 どうしてでしょう、先生。

 時間が経つごとに先生のことがますます好きになっていきます。 

 この想いは一体どこまで膨らむのだろう。

「教室、行きますね」

 本当はもっとずっと一緒にいたかったけど、それは駄目なことだから仕方なかった。二人の関係が特別だからこそ、学校ではあまり一緒にいられない。

 先生に背中を向けると、背後から「彩花」と聞こえた。先生の声ではない。その聞き覚えのある声に振り向けば、先生の横を通り過ぎて成瀬先輩がこちらに近付いていた。

 成瀬先輩越しに兵藤先生の様子を窺う。平静ではあったが、普段通りではないことが明らかだ。

「彩花のクラスは、お化け屋敷やるんだ」

「そうですよ」

 こうした受け答えの内容は、距離が近い兵藤先生には筒抜けだろう。

 都合がいい。

「あのさ、彩花。昨日のことなんだけど、」

「ごめんなさい、先輩」

「え?」

「私、好きな人がいますから」

 兵藤先生に目配せをしてから、成瀬先輩にそう告げた。

 沈黙を残したまま、成瀬先輩に背を向けて自分の教室に足を運ぶ。先生以外の人を好きになるなんてことは有り得なかった。いまの遣り取りで先生もそのことを分かってくれただだろう。私の兵藤先生が好きだというこの気持ちは一生変わらない。先生もまた、一生自分の隣りにいることを誓ってくれたのだから。だから、先生への想いは永遠だ。誰にも、汚すことはできない。


   ※


 文化祭。

 生徒の関係者でなければ通過できない校門を潜り抜けた先には、三年生の出し物である屋台が並ぶ。校舎に入って廊下を歩けば、一年生、二年生がそれぞれクラスで企画した出し物が開かれている。

 完成度としてはともかく、人々を賑やかにさせるという点でいえば、二年B組が催すお化け屋敷は大成功といえた。親子連れにも好評をいただいて、繰り返し何度もお化け屋敷に入る小さな子供が微笑ましかったことを鮮明に覚えている。

 生徒が催す出し物一つ一つに顔を出せたのは、校内に不審人物がいないかどうかを確認するための見回りをしていたからだ。普段、喋ることのできない三年生や一年生が、周囲の浮き立った様子にあてられてか、やたら喋りかけてきてくれて、自分たちの出し物に私を誘ってくれる。そういった何気ない触れあいが心の底から楽しい。

 暫く校庭を回ったあとに第二体育館に足を運ぶと、ステージで軽音楽部が演奏していた。観客と一体になったバンドの迫力に押される中、目的の生徒をステージの上で見つける。そこにはギターを手にステージの前線に立つ二年B組の佳緒里がいて、教室で見掛ける普段の表情よりもずっと輝いていて格好良かった。観客の中には美香もいて、彼氏だろうか、大学生辺りに見える男の人と一緒に盛り上がっている。

 第二体育館を跡にして、校舎に向かう。向かう途中、彩花のことを考えた。成瀬のことに関しては、ああいった結末になって心底良かったと思う。

 ここ最近、彩花と二人きりで逢う時間は少ない。そのことをつい昨日、彩花は言及していた。寂しい、と、彩花は素直に口にしていたがそれは仕方ないことだ。普段の業務、学級通信などのプリント作成、保護者会や文化祭の準備、職員会議や部活など、こちら側としても時間があまり作れない。彩花には申し訳ない気持ちではあったが、我慢してもらう他なかった。

 文化祭も一緒に回ろうと言われたが、それは無理だと応えたら彩花が拗ねて、慰めるのに時間を要した。学校内で彩花と会話を交わすことはできる限り避けたい。急に距離が縮まったことを周りに勘づかれてしまったら、この関係は忽ち終わりを迎えてしまう。そのことを彩花も知っている筈だというのに、彩花はわがままを隠さない。

 互いの想いが報われて一ヶ月は経っていた。彩花はいま二年生で、来年からは大事な時期に入る。だからこそいまは危機感を懐いて慎重にいきたい。まだ卒業するまで一年以上、いま耐えなければどちみちこの先やっていけないだろう。文化祭を二人で回るとなると、幾ら担任と生徒であろうとも少しは目立つ。

 校舎の中に踏みこんでは、お化け屋敷を開いている二年B組に足を運ぶ。名簿番号を順に区切って、ローテーションで店番を交代させている二年B組。休憩にはいったのか、そこに彩花はいなかった。店番をしていた奈央と一言、二言交わし、二年B組を跡にして見回りを続ける。

 四階に向かう階段に足が差し掛かったとき、着信を報せる携帯電話の振動に気付き、ポケットに手を伸ばす。メールの差出人は、一人しかいない。


   ※


 わがままだというのは充分に分かっていた。でも我慢なんてできない。先生との距離がこんなにも近いのにどうして触ることも話すこともできないのだろう。そんなのはただの拷問だ。

 文化祭に於いて先生が見回りをする役であることは電話で聞いていた。だからこその不安が付き纏う。自分の見ていないところで先生が他の生徒と仲を深めていたら、と、そんなあてもないことを考えては苛立ちを覚え始める。

 文化祭なんてどうでもいいけど、折角なのだから先生と思い出の一つくらいは作りたかった。四階にまで響き渡る校舎内の喧騒が、夏祭りの日を連想させる。どうして自分がこんなにも先生を欲しているのか、先生なら分かってくれるはずだ。

 四階の静かな廊下に、足音。振り向けば、メールを送って一分も経っていないのに兵藤先生が其処にはいた。先生の方に駆け寄って微笑む。

「わがままを言ってごめんなさい、先生。でも、我慢できませんでした」

 失望させてしまっただろうか。そんな不安を拭うようにして、自分の頭を撫でる先生の掌。

 先生は、優しい。

「もう、こんなことはしないように」

「はい、気をつけます」

「ずっと四階にいたの?」

「さっきまで、静かな場所を探してました。誰かと二人きりになっても、怪しまれない場所」

「それが此処?」

 三年生の教室が並ぶ四階、その廊下。先生と逢う前に学校を回ってみたところ、ここが一番、人の立ち入りが少ないと感じた。

「三年生はみんな屋台に出ていて、四階は出し物とか何も開いていませんから。廊下に顔を覗かせても、引き返す人が多いです」

「すごい分析だね」

「先生のために頑張りました」

「その頑張りを数学に向けてほしかったな」

「あ、え、もしかして小テストの結果、本田先生から聞いてました?」

「二学期の中間テストを不安に思ってしまう点数だった」

「英語は満点を目指します」

「数学も満点を目指そうね。それはそうと、友達と回らなくてもいいの? 紗紀とか、美香とかは」

「一回目の休憩のときに回りましたから、大丈夫です。そのときに、静かな場所を探してました。いま紗紀ちゃんは他のクラスの手伝いに行ってるし、美香ちゃんは彼氏と回ってます」

「体育館で美香を見たけど、隣りにいたの、やっぱり彼氏だったんだ。大学生くらいに見えたけど」

「大学生ですよ。周りとかの目も気にせずに彼氏と回るなんて、すごい度胸。でも、ちょっと羨ましい」

 そう言って、いまのは失言だったと自分を責める。

 生徒と教師。そうした互いの立場が相俟って、学校内ではこうして隠れなければならないし、二人きりで逢う際も関係者に見られないよう藤校の地域から離れなければならない。そもそも、私たちの関係は堂々とできるものではなかった。そんなことは分かっていたはずなのに、それでも失言をこぼしてしまった。

 先生の顔を窺うのが怖い。

「そうだね」

 けれど、僅かな間を置いて発した先生の一言は意外なものだった。

「少しだけ、羨ましいね。私と彩花は、みんなの前ではいつものように振る舞えないから。辛いけど、でも、我慢するしかない、お互いに」

「……はい、先生」

 辛いのは自分だけではない、兵藤先生もまた自分を抑えていたのだ。そう分かっていても尚、先生のことを求めてしまうのはわがままでしょうか。いま何を言われたって、先生が欲しいという気持ちは抑えきれない。

 先生の手に自分の指を絡ませる。廊下に先生と私以外誰もいないことを確認してから、先生の手を引っ張ってトイレに駆け込み、そこで無理矢理キスをした。先生は何か言いたげだったけれど、何か言う前にその口を塞ぐ。

「いまだけは」

 言葉は途切れ、またキスを繰り返す。いまだけは、自分のわがままを受け容れてほしい。その想いが伝わったのか、最初は抵抗していた先生も自分の行為を受け容れていた。洗面所の蛇口がちゃんと閉められていなかったのか、一定のリズムで水滴がこぼれる音を耳にしながら、先生と、幸せな時間を過ごす。


   ※


 衣替えの時期にはいった十月。テストの作成を終えてから見直しをしたところで、帰宅した頃には、いつも通り定時の時間を遥かに上回っていた。地域によっては定時にあがれることが多いという学校も聴いたことはあったが、まだ教師になって日が浅いものは大抵私と同じ境遇だと思う。

 私よりも若い新任教師はまだ学校に残って、窶れた顔で業務に励んでいる。いま職員室の固い椅子に居座って業務に向き合う人の中に、ベテラン教師はいない。大抵が新人に、職員打ち合わせに必要な書類や、会議資料などのそういった雑務を委せる。そうして残業の時間が嵩んで、教員の睡眠時間を削るという仕組みだ。

 教員の離職率で一番高いのは二十代という。確かに若い内は辛いことが多いかもしれない。しかし、そうした時期を乗り越えればきっと、自分の思いが報われることを私は信じて疑わなかった。

 テレビの画面に一瞥を寄越す。報道されていたのは、県立高校の男性教諭が女子生徒と性的関係を持ったことで、県教委はこの男性教諭を懲戒免職処分としたというもの。こうした生徒と教師の不祥事がニュースで取り上げられることは珍しい話ではない。いまの世の中、そういったことを題材にしてドラマや漫画が描かれているくらいだ。

 しかし、罰せられるものは罰せられる。そんな当たり前のことに気付いたとき、言い様のない恐怖が自分の身を襲った。あれだけ辛い時期を乗り越えて、あれほど夢に見ていたクラスの担任に漸くなった。だというのに、私は一人の生徒と特別な関係になっている。目の前で流れていた報道は最早、他人事ではなかった。どうして男性教諭が女子生徒と性的関係に至ったのかという過程は流されず、ただ、そういった関係であったという事実だけがテレビの画面に映し出される。

 このテレビで名前が伏せられた女子生徒と名前が公表された男性教諭が互いに想いあっていても、学校は、世間はそれを許さない。そんな当たり前のことを実感した。

 テレビを消して、静まり返った室内で彩花のことを想う。過度な接触は周囲に勘づかれるからやめようと忠告していたにも拘わらず、彩花は接触を図り、ここ最近に至ってはそれがエスカレートしている気がする。

 それでいて、嫉妬だろうか、他の生徒と親しげに喋っただけでも機嫌を損ねては電話でクラスメイトの悪口を言うようになった。愛情の裏返しとも読み取れるが、彩花がクラスメイトに向けて言う悪口は「死ね」など、あまりに短絡的で、その一言にはまざまざと憎しみが感じ取れる。

 互いの立場を考慮して、そういった嫉妬は抑えてほしいものではあったが、そのことについて自分からは強く言えなかった。死ねとはまでいかないまでも、以前、私は確かに成瀬に嫉妬していたのだ。そんな私が彩花に対してなんて言葉を掛ければいいのか分からない。そして、恥ずかしい話ではあったが、彩花が嫉妬してくれたことに対し、喜びを感じている自分が何処かにいた。

 ただ、現状は芳しいものではない。互いの先を見据えて話し合わなければ、いつの日か彩花との繋がりが断ち切られてしまうかもしれなかった。

 そんなことはさせない、絶対に。

 私は、彩花が好きだ。彩花とメールや電話をするだけでこの想いは増し、ぶれないものとなっていた。彩花と二人きりでいるだけで、これ以上ないほどの幸せを感じていた。あのニュースが他人事でないと感じたのも、孰れ自分と彩花がそうなってしまったら、という不安によるもの。

 この関係は終わらせない。彩花はシャワーを浴びてから、そのあとに連絡する旨をメールで送ってきていた。彩花が風呂からあがったら、この先もこの関係を続けるために話し合おう。


   ※


 苛立ちが収まらない。

 右手に持ったカミソリの刃に付着した血が、シャワーから撒かれた水に流されては排水溝に向かう。温かい流水が左腕に走った赤い傷にあてられ、痛い。

 先生に対する想いが増す一方で、何故かこうした苛立ちも膨らむ。容姿端麗な兵藤先生に近寄る同級生全員が気持ち悪い。いままでそのことは考えないようにしていたのに、どうしてだろう。一回、考え出したらもう止まらない。一体何回、教室で叫び出したい衝動を抑えたことか。

 だからこそ教室では先生と一緒にいたかった。それが駄目なことだと分かっていても、どうしても先生の傍にいたい。

 私たちが先生と生徒でなければ、街中を並んで歩く人たちと同じように、自由なのに。でも皮肉なことに教師と生徒でなければこの出逢いはなかった。

 左腕から流れ出す血が、こんなにも痛い。辛いよ、先生。先生のことを想えば想うほどに胸が苦しい。私たちは結ばれた筈なのに、どうして。

 濡れた前髪が目元を覆う。一体自分が何をどうしたらいいのか分からないまま、浴室を出た。途端、目の前の戸が軋む音をあげて横から引かれ、そこに父親が──

 悲鳴。

 まさか自分の口からこんなヒステリックな叫び声が出るとは思わなかった。父親が慌てたように「悪い」と言って、開きかけていた戸を元に戻す。しかし、まだそこに人の気配はして、戸の向こうに父親がいるのは分かっていた。扉越しに父親の「お前、腕、」という声が聞こえたが、それを掻き消すようにしてまた叫ぶ。

「出てってよ!」

 戸は閉まっていたのに、何を思って父親が開けたのかは分からない。娘と父親だから別に構わないと思って開けたのかもしれないし、ただ単にぼんやりとして気付かなかったのかもしれなかった。でも、そんなのは何一つ問題ではない。血も繋がっていない男に、自分の裸を見られたことに吐き気を覚えた。

 父親が其処からいなくなったと分かっても、安心できない。母親に仕事を任せて、一人だけのうのうとパチンコに出向いていたのだろう。そうでなければこの時間に帰ってくる理由がない。気持ち悪い、本当に。

 死ね。

 母親と一緒に、死ね。


   ※


 職員室で食事を摂っている昼間に未希が訪れてきた。部活で見掛けるいつもの表情とは違って何だか暗い様子だ。何があったのかこちらから尋ねると下駄箱にあったバッシュがなくなったと言う。

「朝にはあったんです、絶対。下駄箱の上に置こうとしたとき、一回落としたのを覚えてるし、隣りにいたあかりもそれを見てます」

「なくなったって気付いたのはいつ?」

「この時間です。休み時間を使って練習しようとしたら、なくなってて……」

「うん、分かった。こっちからも探してみる。未希も、見つかったらすぐに報せて」

「ありがとうございます。失礼します」

 頭をさげてから職員室を跡にした未希の背中を見て考える。バスケ部の中でも人一倍努力し、エースまで上り詰めた未希。そのバッシュが意図的に隠されたのだとしたら、未希の実力に嫉妬して他の部員が仕出かしたと考えるのが妥当な筈なのに、脳裏に過ったのは彩花の表情だった。

 どうしてここで彩花の表情が浮かんだというのだろう。最低の思考を振り払うためにかぶりを振る。

 ……しかし、私と生徒が仲良く喋っているときの彩花の目を思い返せば、疑う余地があるのではないか。私が未希と会話を交わしているところを見掛けた彩花が嫉妬の念に駆られてこのようなことを──そう考えて、違うと、またもや自分の考えを即座に否定した。

 幾ら何でも、彩花はそんなことはしない。それを私は知っているというのに。

 彩花を信じられない自分を恥じる中、とにかくいまは、未希のバッシュについて心当たりがないか各クラスの先生から生徒に尋ねてもらうようお願いしよう。途中だった昼食を後に回し席を立つ。バッシュを見付けるために早速、行動を起こすことにした。

 そこでタイミングよく職員室に戻ってきた本田先生に事の経緯を話す。話しながら頭は別のことを考えていて、自身に反省を課していた。疑ってごめん、と、心の中で彩花に向けての謝罪をする。彩花はそんなことをしないと、私が一番に知っていたのに。彩花を信じられなかった自分が本当に恥ずかしかった。ごめんね、彩花。当人に届かない謝罪を、胸の内で何度も繰り返す。


   ※


 自転車に跨がって帰り道を辿る。衣替えの時期にはいったこの頃、ハンドルを握る手が少しだけ寒さを感じていた。

 二学期中間テストまであと数日。英語で良い点数を採るために、違う教科の授業でも英語の勉強だけに励んでいた。テストの作成経過を先生から見せてもらえば早い話ではあったが、それでは先生に対する愛情というものが感じとれない。だから、そういった邪な話を先生に持ち出したことはなかった。

 またテストで良い点数を採って先生に褒めてもらいたい。あの優しい手つきで自分の頭を撫でてもらうことを想像したら、口元も弛むというもの。でも、残念なことにきょうは帰宅しても英語の勉強はできない。教材は全て机の中にあるから。

 自転車を道路の片隅に停めて、かごの中に入っていた鞄から汚い靴を取り出して、ゴミ捨て場に放る。汚いものを触ってしまった、最悪だ。自転車に跨がって再び帰り道を辿りながら、一先ず手を洗いたいとそう思った。


   ※


 互いのスケジュールを確認し、いつもの遣り取りを交わしてから彩花との通話を終えた。テーブルマナーの授業について褒めてもらったことや、つぎの英語のテストはいつも以上に自信があるなど、そんなことを楽しそうに話す彩花を思い返して、彩花があの件について無関係だということを再び確信する。

 結局、未希のバッシュは見付からなかった。明日になればまた分かることがあるかもしれない。問題は、バッシュを隠されたのだと未希が部員に疑いをかけてしまったことだ。チームメイト間の空気が悪くなり、顧問としてその修復に精一杯努めなければならない。

 ベッドの枠に背を委ねる。疲労が溜まっていることを感じて、わざとらしい溜め息をこぼす。バスケット部の大会も近いうえに、テストの期間も迫っていた。二学期も終わりを迎える頃には、通知表の作成などそういった業務が襲い掛かってくる。毎日のように頑張ろうと気を張っていても自身の気力、及び、体力が萎れるのは目に見えていた。それでもこの仕事をやめたいとは思わない。特にいま、クラスを持った身としては。

 そう思っていながらも、彩花を好きになってしまった。私は私の意志で、自分自身を危険な場所に陥れてしまったのだ。けれどもこの手は、彩花との繋がりを決して離そうとはしない。絶対に。

 携帯電話の着信音が、静かな部屋に響き渡った。彩花だろうか。何か伝え忘れたことでもあったのだろうかと、携帯電話のディスプレイを見た瞬間に驚きを示す。そこには恩師の名前があった。

 林先生だ。電話に出て、もしもしと声を掛けたら林先生のあの大きな声がしっかりと耳朶に届いた。転勤してから会ってはいないものの、電話の向こうで顔を綻ばせている林先生の表情が容易に想像できる。こちらも思わず口元が綻ぶ。聞けば、近況がどうなっているのか心配で電話を掛けてきたという。既に本田先生には連絡済みらしい。

『健太郎もそうだが、お前のことも、どうも心配になってな。この心境はあれだ、卒業していった生徒を想う気持ちと似ているのかもしれないな。どうだ、学校は』

「順調です」

 さっきまで溜め息をついていた自分を、林先生の前で隠した。『そうか』と安心そうに言う林先生に対し、罪悪感を懐く。その罪悪感を忘れるために林先生の近況を窺う。赴任先の高校でも林先生は無事にやっているらしい。それが聞けただけでも、嬉しかった。

 林先生がいた頃の当時を懐かしみ、『お前の指導担当についたとき』と林先生が話題を変える。

『そのときに思ったことを、いま言おう』

「いま、ですか?」

『ああ。いまのお前に必要な話だ』

 本田先生との連絡は済んだ、と林先生は口にしていた。そのとき、林先生の口から自分のことを少し窺ったのだろう。

 話題は、あのことについて及ぶと予想した。

『優秀だったよ。呑み込みも早かったし、自分が覚えることを自分の目でしっかりと観察していた』

「ありがとうございます」

『話は終わってない。ただ、唯一心配だった点があった。それはお前が、一つの物事に対して囚われるということだ』

「そうでしょうか」

『そうだよ。一年間、傍にいたんだ。そうだと俺は言い切れる。考え過ぎることはな、何も悪いことではない。ただ、囚われるのは駄目だ。周りが見えなくなるからな。健太郎から、だいたい話は聞いてる。まだ、メールはしてるのか』

 やはりそのことに話題が及ぶのかと思った。以前、居酒屋に行ったとき本田先生に彩花とまだメールしているのかと尋ねられたことを思い返す。ついで、少し窶れたとも言われた。

「メールは、してます」

『そうか。別に、生徒とメールをしてることが問題ではない。俺と健太郎が心配してるのはな、お前が一人の生徒に対して囚われていないかということなんだよ』

「…………」

『気を悪くさせたら、すまない』

「いいえ、そんなことは」

『ただ、心配だった。クラスを持ってまだ間もないだろう。あまり、気負いすぎるなよ』

「……ありがとうございます、林先生」

 そこから一言、二言交わして、林先生との通話を終えた。林先生の前で、本当のことなんて言えるわけがなかった。罪悪感に駆られながら思う。林先生があの学校に残っていたら、私の未来は、いまと違っていたものになっていただろうか、と。


   ※


 兵藤先生との電話が終えて少し経った頃、喉が渇いたから飲み物を求めてキッチンに向かう。キッチンに向かっている途中で、居間の電気が点いていたのに気付いた。引き返そうかと思ったが、そのまま冷蔵庫に向かう。左を見れば居間のテーブルで、母親が電卓を使って用紙に何やら書きこんでいた。そこから目が合わないように目を逸らして、冷蔵庫から取り出した麦茶のペットボトルに口をつける。

「売り上げが合わない」

 母親の呻きにも似た、そんな呟きが聞きとれた。そして、視線。母親がじっとこちらを見ているのが、見ずとも分かった。

「まさか、あんたじゃないでしょうね」

 何を言ってるのか本当に分からない。

 聞こえなかったふりをしてペットボトルを冷蔵庫に戻し、キッチンを跡にした。

 どうしていまこんなにも両親と距離があるのだろう。

 いつからこんな風になってしまったのだろうか。いつから、母親のことを蔑視するようになったのだろうか。自分でも覚えていない。でも、気付いた頃には母親も父親も受け容れられなかった。

 母親の仕事が嫌いだった。お酒を飲む母親が、嫌いで仕方なかった。仕事から酔っ払って帰宅した母親はとても醜かった。絶対、あのような大人にはならないと心の底から誓った。

 父親の立場が嫌いだった。血の繋がっていない父親。母親の仕事の補助で、パチンコばかりにお金を使って、娘になんて興味ない父親が嫌いだった。

 こんなの家族ではない。

 全部が全部、見せ掛けだ。

 でも、先生との繋がりだけは本物だ。

 先生との繋がり、その糸に縋り付けば何も怖いものはない。先生が傍にいさえすれば、何もいらなかった。先生だけは自分を裏切らない。先生だけは自分を見てくれる。世界に先生だけがいれば、他には何もいらなかった。


   ※


 十一月。バスケットの大会を控えたいま、朝の打ち合わせで秋山先生が口にしたのは、生徒の教材がまたもや紛失したとのことだった。これで未希のバッシュの件も含めれば四件目だ。

 教材を紛失した生徒の名前は前田 結菜。それを聞いて、またもや私とは比較的仲の良い生徒だということに気付いたとき、どうしようもない不安を覚えた。今年クラスを持った私に仲の良い生徒なんて限られている。自分の中での犯人像が浮かんでしまったとき、かぶりを振りたい気持ちに駆られた。違う、そんなはずはない。信じて疑わないことを誓った筈なのに疑ってしまう。

 一人、葛藤をしていると秋山先生が再び口を開いた。うちの生徒で、犯人を見たものがいると。その犯人の名前が秋山先生の口から挙げられたとき、みなの視線が自分に集まった。

 ここから逃げ出したい気持ちになった。


   ※


 ホームルームが始まる前に、隣りのクラスからやってきた前田と知らない生徒の二人が椅子に座って英語の勉強に励む自分を見下ろしていた。二学期の中間テストで、英語で良い点数を採って先生に誉められたから、今週の実力テストでも頑張ろうと意気込んでいたのに。

 朝からうるさい。

「あんたでしょ、やったのは」

「何を?」

「教科書よ。私の教科書をどこにやったの?」

「教科書? 何の話?」

「とぼけてんじゃないわよ! 朝にあんたが私の机の中をまさぐってるのを、ちゃんとこの子が見たんだから!」

 そうやって前田が見知らぬ子を前につき出す。おどおどした様子、不本意ながら此処にいることが表情と態度から読み取れた。

 あのとき感じていた視線はこいつだったのか。振り返ったときにはいなかったのに、言うのが怖いからわざわざ隠れたのだろう。その場で言えば良かったのに。

「本当に知らない」

 知ってるけど。

「その子の見間違いだと思うけと」

 あんたの教科書はトイレにあって、既に水浸し。

「何なら鞄とか、机の中、見てもいいよ」

 見られたことを考慮して、いつものように鞄にしまったままにしなかったのは正解だった。

「そもそもお互い初対面の筈なのに、教科書を隠すなんてやる意味ないよ。何か恨みがあるんだったら、話は別だけど」

 お前が先生と仲良さそうに喋っているのが気に喰わなかった、だから当然の報いだ。

「とりあえず、さっさと教室に戻れば。私、どう考えても関係ないし。勉強の邪魔」

 突き放すようにそう言った。前田が怒りを剥き出しにして自分を睨み続け、目撃者でもある生徒は口を噤み、クラスメイトは遠巻きに眺めているだけ。そんな状況に嫌気が差していたら、教室の戸が引かれた。

 兵藤先生。先生がこちらに駆け付けては騒ぎをおさめるために一先ず、前田と目撃者の生徒を自分のクラスに戻るよう指示した。

 そこからクラスメイトに必要最低限の連絡事項を伝え、ホームルームを早めに打ち切った先生は自分を呼び出してから廊下に出る。先生のあとに続いて廊下に出れば、うるさい教室とは違って辺りは静けさが漂っていた。案外、廊下の方が勉強に集中できるかもしれない。

 折角二人きりになれたのだから、先生のことを抱きしめたいけれどそういうわけにはいかない立場に二人はあった、悲しいことに。先生と目が合う。いつにも増して強い眼差し。

「さっき、結菜と何か揉めてたね」

 先生から他の女の名前を聞いただけでいらついてしまうけれど、平静を装う。

「教科書がなくなったのは私のせいだと、言いがかりをつけられました」

「そう。そのことについて、」

「先生はどう思ってますか」

「どう、って」

「やったのは、私だと思ってますか」

 そこに僅かな沈黙があったけれど「そんなわけない」と先生は口にして、私の頭を優しい手つきで撫でる。

「先生は、彩花のことを信じてるよ」

 先生に頭を撫でられて思わず笑む。その答えが返ってくるのを知ってたからこそ訊いたんですよ、先生。そう、どんなことがあっても先生だけは私を裏切らない。何があっても先生だけが私を信じてくれる。

 先生を見詰めながら笑みをこぼす。こうして学校で珍しく先生と二人きりになれたのだから、先ほど揉めあいになった前田に少しだけ感謝をしてもいいとそう思った。


   ※


 十二月二十五日、時間はまだ昼間。部活の大会や通知表などといった業務を終えて、冬休みにはいった。年末年始にはある程度の休みがとれている上に、予定通り、クリスマスを彩花と過ごせるのは心から嬉しい。

 待ち合わせの公園、いつもの駐車場で暖房を効かせた車内で彩花の到着を待つ。気付けばもう十二月、あと数日もすれば今年が終わるというのは何だか実感がなかった。十一月に行われたバスケットの大会が昨日のことのように思える。良い成績を残すことはできなかったが、試合を重ねるにつれて未希とチームメイトの間にあった蟠りは完全に消えていた。勝ち上がることはできなかったけど、それ以上に大切なものを取り戻せたことに意味があった大会だ。

 ……結局、冬の大会までに未希のバッシュは見付からなかった。紛失被害に遭った他の生徒たちの中で、前田 結菜の教材がトイレで水浸しになって発見されたが、犯人の手掛かりは一人の目撃情報だけ。

 目撃されたのは彩花だ。結菜の机の中をまさぐっているところを見たと主張したのは、二年C組の宮下 楓だ。しかし、楓一人の目撃情報だけでは証拠不十分なうえに、橘 彩花と前田 結菜が揉め事を起こすまで、これまでお互い一言も会話をしたことがなかったということで、彩花を犯人と決めつけるのは早計だと教員の間で結論が出された。

 あれから紛失物がなくなったという報告は届いていない。それは良いことだ。犯人が見付かるどうこう以前に、もうこれ以上騒ぎが大きくなってほしくないという気持ちの方がいまは強い。

 彩花のことを疑ってしまう自分が、嫌で仕方なかったから。

 窓の外を見れば、駐車場を囲むように立つ木々の葉が風に揺れていた。鼠色の雲、あまり天気がいいとは言えない。外に一歩足を踏み出せば体が震えるほど寒いことは、車に乗り込むときに経験していた。だから彩花のためを思って、自宅にまで赴こうとしたが頑として彩花はいつもの待ち合わせ場所でいいと言う。そこに思うところはあったが、何も言えないでいた。彩花がその話題に触れることすら、嫌悪していたから。

 この日。本当なら逢うのを避けるべきだった。人目が多い場所に出向かうのは危険だと、二人とも分かっていたはずだ。けれども、彩花と結ばれて初めて迎えるこの日を蔑ろにしたくはなかった。それに長時間そこに留まるわけでもない。

 フロントガラスを見れば偶然にも、彩花がこちらに駆け寄ってくるのが確認できた。助手席の扉を開けて彩花を迎えいれた途端、彩花が抱きついてきた。

「どうしたの、急に」

「だって、久し振りですから」

 甘えた声で言う彩花。ベージュのシングルコートに黒のロングブーツを綺麗に着こなす彩花は大人びていた。そんな彩花を抱き締めながら、頭を静かに撫でる。

「ここ最近、忙しかったからね。でも、この日のために休みはとってあったよ」

「休みがとれて良かった、本当に。クリスマスは、どうしても先生と過ごしたかったから」

「うん、私も同じ想いだよ、彩花」

 抱き締めながら、実感していた。こんなにも私は彩花のことが愛しいのだと。彩花が隣りにいるだけでとても幸せだ。これからこの先、彩花と一緒にいればいるほどに辛い出来事が待ち受けているかもしれない。それは二人の立場がそうさせるのであって、私たちが寄り添うことはこの国では認められないことだ。だからこそ、未来が見えない。でもいまは、この一時を大切にしよう。折角のクリスマスだ。きょうは二人にとって忘れられない一日にしよう、彩花。

   ※


 クリスマスだけに、向かう先々が人混みでいっぱいで、先生とはぐれないようにお互いしっかり手を繋ぎ並んで歩いた。昼間はカフェやショッピングに時間を費やし、空が暗くなった頃には、予約していたレストランを先生と堪能し、そこから駅前に向かうことに。駅から少しだけ離れた有料の駐車場に車を停めて、そこから再び手を繋いで鮮やかなイルミネーションを先生と見て回る。幾つもの色合いに照らされた先生の横顔はとても素敵で、目が合うと二人とも口元が弛む。こんな幸せな時間が永遠に続けばいいと本気で思う。

 互いの凍えた手を暖めるようにしてぎゅっと握る。左手が暖まったから、今度は右手と自分から口にして、先生と立ち位置を交換した。通り過ぎる大勢の人々、中にはもしかしたら自分たちのような関係がいるのかもしれないが、見たところあまり見当たらない。先生は周りの目をかなり気にしていた。藤高からはかなり距離があるというのに、心配性だ。

 周囲のことなんて頭から振り払ってほしくて、積極的に先生と会話を交わす。

「綺麗ですね、イルミネーション」

「本当に。ここに彩花と来られて良かった」

「私もです。来年もまた、一緒に来ましょうね」

「そうだね。また、来年も」

「初詣も」

「もちろん」

 幸せすぎて、笑い声を洩らす。

「ねぇ、先生。あそこに上ろ」

 歩道橋を指差して、先生の手を引いた。歩道橋からならイルミネーションの眺めも良いし、プレゼントを交換するには絶好の場所だと思う。辺りの喧騒に紛れて先生と言葉を交わしながら一緒に階段を上る途中、不意に過去を思い返す。

 入学式。先生に思い切ってメールを出して、そこから電話をするまでの仲に発展した。六月の梅雨頃に先生と二人きりで逢って、向かい合って食事し、映画も観に行った。八月、花火を観に行ったあの日に想いは報われ、こうして先生との距離は縮まって、いま先生は目の前にいる。

 過去を思い返すだけで、何だか泣いてしまいそうだった。この一年がまるで夢のようで、先生との思い出でいっぱい溢れていて、ここで目を瞑ってしまったらその間に先生がいなくなってしまいそうで――それほどまでに先生といるのは現実味を帯びていなかったけど、繋いだ手の温もりがこれは現実なんだということを教えてくれる。

 階段を二人で上りきって、歩道橋の上に二人並んで立つ。想像以上の景観に言葉を失う。綺麗なイルミネーションを先生と二人で眺めながら、穏やかな時間を過ごす。

「先生」

 不意に、繋いでた先生の手を離す。歩道橋の柵に腕を載せて、先生の横顔を見詰める。――こうして高いところに立つと、自分の飛び降りる姿が目に浮かぶ。何かの間違いでこの柵を飛び越えたら先生はどんな反応をするのか気にかけながらも、そんなことは隅に置いていま、ありのままの想いを先生に話す。

「私、先生に出逢えて幸せです」

 先生に出逢えてなかったら、きっと、この柵を乗り越えることも躊躇しなかっただろう。

「本当に、幸せ」

「私も、幸せだよ。彩花と出逢えて、本当に良かった」

 二人で笑いあって、あの約束の話を持ち出す。お互いに懐からプレゼントを取り出して、それを互いの左手の薬指に嵌めた。それは指輪。クリスマスの日に、自分が見て選んだ指輪を交換し合うという一つの約束をここで果たす。事前に指のサイズはお互いに聞いていたので、ぴったり嵌まったのを確認して二人で笑みをこぼした。

 本当に、幸せ。

「ずっと一緒にいようね、先生」


   ※


 一月。

 初詣も彩花と一緒になって参じ、その帰りに初めて彩花が我が家に赴き、一晩宿泊した。狭いベッドで二人横になって眠ったのを思い出して口元が弛む。三学期にはいったいま、正月休みが抜け切れていない生徒に喝をいれなければと気合いをいれ、ホームルームを行うため、教室に向かう。

 戸を引いて、二年B組に踏み込む。二週間以上はみんなの顔を見ていなかったから、きょうこの日をすごい楽しみにしていた。おはよう、といつものように声を掛けてから出席をとろうとしたときに、違和感。……気のせい、だろうか。自分を見るみんなの視線が、何だか、おかしい。


   ※


 クラスメイトの自分を見る目が何だかおかしい。いつもは話し掛けてくる紗紀ちゃんや美香ちゃんが、何だか自分から距離をとっている気がする。どうしてだろうと思ったけど、やがて意識は英語の教科書だけに向けられた。以前は美香ちゃんや紗紀ちゃん、他の友達と会話をすることで家族のことを忘れられたけど、いまはどうでもいい。ここ最近、遊んでないし。

 いまは兵藤先生だけがいればいい。だから他人のことなんて、クラスメイトのことなんてどうでもよかった。休み時間、そんなことを考えていたら「ねえ」とクラスメイトに肩を叩かれる。振り向けば自分の肩に手を置いたクラスメイトに「話があるんだけど」と言われた。そのクラスメイトの言葉に反応して、他の同級生たちも私たちの様子を眺める。意味が分からない。どうしてクラスがこのような雰囲気になっているのか、まるで身に覚えがなかった。それよりもまず、話がある前に教えてほしいことがあるんだけど。

 あなたの名前。


   ※


 不安に駆られながらも自分の業務に向き合う。ホームルームで見せた生徒たちの、不信感にも似た視線は決して勘違いではない。乱れる鼓動、少しだけ呼吸が苦しい。クラスを持って初めてあの子たちにあのような目を向けられた。それは覚悟していた筈のものなのに、ペンを持つ指の震えが止まらない。季節は冬だというのに、手汗をかいていた。一体どうして生徒たちはあのような目を向けてきたのだろうかなんてのは白々しい。

「兵藤先生」

 学年主任の山田先生に呼び出された。何故、急に呼び出されたのか。悪い方向ばかりに頭が働き、パニックに陥りそうだ。山田先生の机に何とか足を運び、向き合う。一体どのような用件で自分を呼び出したというのか。山田先生の目付きは、少しばかり険しい。

 まさか。


   ※


 話を聞けば兵藤先生と一緒にいたところをどうやら同級生に目撃されたらしい。兵藤先生の立場が危ういものになるのではないかと心配したが、いまさらそれが何だというのだろうと思い直す。もしこの騒動で先生が先生を辞めてしまっても、先生は自分を裏切らない。だから、何も心配なんて必要なかった。

「橘さんが英語で良い点数とってるのはあれでしょ、兵藤先生に事前に教えてもらってるからよね」

 返事をするのも面倒だと思って、無視をすることに決めた。

「おかしいと思ったの。橘さん、英語だけすごい良い点数だから、いつも疑問に思ってた」

 勝手に思ってれば。

「橘さん、前田さんの教科書隠したでしょ」

 そうだけど。

「でも、あれが大きな騒ぎにならなかったのは、兵藤先生が橘さんの味方についてたからだ」

 どうしてそんな考えになるのか分からない。

「それもそうよね、二人はプライベートでも仲が良いんだから。橘さんが悪いことしても、兵藤先生が何とかしてくれる」

 それには同意。私に何があっても、先生が何とかしてくれる。先生は私を絶対に裏切らないから。

「ねぇ、さっきから何か言ったらどうなの」

 何も言う必要がないから黙ってるんだけど。

「無視してんじゃねぇよ」

 怒声と共に胸ぐらを引っ張っられて立ち上がらされてしまう。その際、ポケットから携帯電話を落としてしまった。携帯電話自体にそこまで愛着はなかったが、いまは違う。その携帯電話には、学校では装飾が禁止されているが故に付けられた大切なものが、細長い鎖に繋がれていた。いつどんなときでも自分の傍に置いておきたいという想いから付けた、大切な宝物が、携帯電話と一緒になって汚ない床に。

 その宝物はいままさに自分の胸ぐらを掴む同級生の足元に――その汚ない足に踏まれて――

 あ。


   ※


 彩花と一緒に手を繋いで歩いていたという目撃情報が生徒から自分に伝えられたという話を山田先生から聞いても、返事ができないままでいた。この場合どのような言葉を発していいのか、何一つ分からない。

 何かの間違いです、と否定しようか。いや、否定したら結果、自分自身の首を絞めるたけではないだろうか。弁解をと思っていても、何を言っていいのかが思い付かない。ホームルームで自分に向けられた生徒たちの目を思い出す。あれは、自分が夢見ていたクラスとはかけ離れていたものだ。

 覚悟していた筈なのに、考えが甘かったことをいまさらになって実感した。気付いたところで、もう遅いというのに。山田先生が落胆した様子で自分の言葉を待っている。凩が窓を叩き、音をたてたと同時に職員室の戸が開かれたのが分かった。

 そこで「兵藤先生」と大きな声で呼ばれ、反射的に声のした方へと振り向けば、職員室の出入り口に立っていたのは美香だった。走ってきたのだろうか、息を切らした美香が「大変です」と言う。「あやちゃんと、あいちゃんが――」


   ※


 ひたすらに殴打。適当に掴みかかっては床に転ばせて、馬乗りになって顔を殴り続けた。クラスメイトの悲鳴がしたけど、それを掻き消すようにして自分もまた叫ぶ。まるで母親の声とそっくりなことに吐き気がしたけど、叫ばなければ怒りのあまり意識が飛んでしまいそうだった。

 突っ掛かってきた無抵抗のクラスメイトの顔だけを殴り続ける。こいつは死んだ方が良い。先生から貰った大切な指輪をこいつは汚ない足で踏みつけた。私は何も悪いことなんてしていないのに。

「兵藤先生といたから何? 当たり前でしょ、愛しあってるもの。一緒にいて何が悪いの、好きな人といて何が悪いの。みんなみんな急に掌を返したように変な目で見ておかしい」

 誰かが呼んだのか、隣りのクラスの先生がきて「やめなさい」と叫び、おさえつけてきた。自分の両腕が背中から絡めとられて、思い切り引っ張られては殴っていた生徒から離される。

 それでも、叫ぶことはやめない。

「二人で手を繋いだからって何? そんなことで騒いで馬鹿じゃないの。先生とはね、キスだってしてるんだから」

 沈黙。

 静まりかえった教室でと誰かが呟いたところで、兵藤先生が教室に勢いよく入ってきた。こちらに近寄ってくる兵藤先生を見て笑みをこぼす。

 先生。

 先生は助けにきてくれたんだ。そ先生はこの教室で他の誰でもない私だけを見ていた。当然だ、先生は私だけを見てくれる。先生には私以外必要ないからだ。クラスメイトはまるでそれが分かっていなかった。だから、こんな騒ぎが起きてしまったんだ。

 先生。いま私は捕まっています。だから、先生に助けてもらいたい。先生に抱き締めてもらって、頭を撫でてもらいたい。静かな教室で先生の足音が迫っては、自分に確実に近付き、目の前に。先生に手を伸ばそうともがいて、そうして、

 そうして、先生は自分の横を通り過ぎた。通り過ぎてから、倒れたクラスメイトを抱えて廊下に向かう。また横を通り過ぎたとき、「本田先生お願いします」と自分にあてられたものではない言葉を残して、先生は廊下に出た。あまりに一瞬の出来事で訳が分からない。

 先生は自分を選ばなかった。

 先生が選んだのは私ではなく先生としての立場――何かの間違いだ、こんなの。再び叫んでは暴れても、腕はほどかれない。先生を呼んでも、その名前を叫んでも、先生は教室に来なかった。

 どうして、先生。


   ※


 一連の流れを高い位置から俯瞰しているかのような眺め。自分の行動も周囲の動きも、何もかもが他人事に見えていたが現実はそうではない。二年B組の生徒に事情を説明しようと再び赴いた。

『彩花とはプライベートでも逢っていたが、みんなと同じように接していました。もちろん、英語の成績が彩花の実力だということは、みんな、彩花の頑張りを間近で見ていたから知っていた筈です。本田先生から聞きましたが、キスなんて有り得ない。教師と生徒である上に、それ以前の問題です』

 そんな嘘を口にしたところで、不信感は拭えない。生徒からの信頼を失ったまま教室を跡にし、そこから保健室で呼び出した藍の親御さんに事態の説明をした。彩花を特別扱いしていると勘違いしてしまった藍さんが、彩花に突っ掛かってしまったという、伏せるところは伏せた都合のいい説明をし、藍の親御さんには納得してもらった。その間、生徒指導室で彩花を本田先生に任せていたが、彩花のご両親には連絡がとれないという。

 彩花との面会はまだしない方がいいというのは山田先生の意見だ。逢ったところで何をされるか分からない、折角落ち着いたのだからいまはそっとしておこうと、山田先生は言う。翌日、また話し合うことで定時にあがらせてもらった。

 教室での騒動、藍の鼻から血が流れていたあの場面が鮮明に蘇る。あそこで彩花に少しでも拘わってしまったら、生徒からの信用はそれこそ地に落ち、もはや担任として認められないだろう。いや、そもそも二年生が三年生に昇級するまで二ヶ月もないというのに、信頼回復なんてもう遅いのではないだろうか。

 藍の体を抱えて教室を跡にしたとき、彩花の悲痛な表情から自分は目を逸らした。彩花を裏切ることで自分は、少しでもクラスメイトの信用を取り戻そうとしたのだ。思い出すだけで空恐ろしいクラスメイトたちの自分を見る目の色に怯え、彩花と目を合わさなかった。

 彩花と二人きりで逢うときはやはり細心の注意が必要だった、そんなことは分かっていたのに。誰に見られたかどうかも分からない。でも、心当たりなんていくらでもあった。ようするに浮かれていたのだ、立場を忘れて。いまさら後悔しても、何もかもが遅かい。

 頭の中がパニックに陥った状態で、藍の痣だらけの顔を思い出す。どうして彩花が藍を急に殴りかかったのか。藍を保健室に運んでから教室に再び赴いたとき、床に携帯電話が転がっていた。事情を生徒に伺ったところ、二人が言い争っているときに藍が彩花の胸元を掴み、その際、彩花のポケットから携帯電話が落ちて、それを誤って藍が踏みつけてしまったことから事態は発展したという。

 床に転がった携帯電話をちゃんと見たとき、目が潤んだ。彩花が何故、藍を殴ったのかという疑問もそこで解消され、胸が張り裂けそうな気持ちになった。

 その携帯電話には、自分が彩花のために買った指輪が、アクセサリーのようにしてついていた。


   ※


 自宅待機という結論が出て、本田先生に自宅まで送ってもらうことになった。両親を同席させて話を進めないことには決定が下せないということで、ひとまずは自宅での待機。どうも私の両親が学校に赴き、一緒になって今後の話を聞かされるという流れらしい。そう本田先生が喋りかけてきても、無言を貫き続けた結果、そこから自然と沈黙が降りた。

 両親にこの話をするのも億劫だ。何故このような事態になったのか、その過程を話したところで一緒に学校に出向いてはくれないだろう。兵藤先生のことを本田先生から訊かれても何も答えないまま、お礼だけを口にして車から降りて、そのまま帰宅。

 案の定、居間に向かえば両親は隣りの部屋で二人一緒に眠っていた。この二人に先生との間にあった出来事を話したところで、理解は得られないだろう。二人を起こしてまで話す事柄ではないと思い、自室に足を運ぶ。

 何かの、間違い。

 先生が自分を裏切ったなんて、有り得ないことだ。そんなのは嘘、何かの間違いでしかない。携帯電話を取り出して、先生に着信をかけてみた。先生の声が聞きたい。二人きりで逢って話しあいたい。抱き締めて、安心させてほしい。

 呼び出し音は途切れ、先生の声が聞こえた。彩花、と、ただ一言。

「先生」

 先生の声を聞いた瞬間に言葉は胸の内から溢れ留まることを知らない。それだけ先生に伝えたいことが沢山あった。

「逢いたい」

 言いたいことは数え切れないほどあったはずなのに、口から出たのはそんな一言。でも、それが本心だった。いまはそれだけを望んでいた。

 先生の言葉を待つ。数秒、或いは数分。息を吸う音が聞こえたあとに、『いま、逢うことはできない』と言われた。どうして、と、悲鳴に近い声で聞き返す。

『逢わないことがいまはお互いのためだから』

 どうしてそんなことを言うの。

『いまは逢うことを控えよう、彩花』

 先生はそんなことを言わない。

『また落ち着いたら──』

 通話を切った。

 もう何を信じたらいいのか、分からなかった。


   ※


 部屋で明かりも点けず、携帯電話の照明だけが居間を照らしていた。定時に仕事を切り上げさせたのは山田先生の判断だ。また翌日に、この件について話し合うことになった。

 暴力問題を起こした彩花の処置は一週間の謹慎だろう。その処罰の決定も彩花の両親がその場にいなければならないのだが、両親は電話に出られるのかという質問すらできずに、彩花との通話は終わった。また電話を掛けようかとも考えたが、いまはやめたほうがいいと思い直す。彩花とのメールや通話は一種の習慣でもあった。その習慣を自ら乱さなければこの先、耐えられないだろう。

 逢いたい。開口一番に彩花はそう言った。信じられないほどに同じ気持ちだった、自分も逢いたいと口にしたかった。でも、状況がそれを許さない。だから、自分の思いを押し殺して本心ではない言葉を彩花に伝えた。

 こうなるかもしれない、という未来が実際に訪れたときにどのような反応を自分がとるか。そんなことを考えたことがあった。泣き叫びたいほどに辛いだろうと想像していた未来はいざ現実となって目の前に現れると、ただ浮遊感を味わうだけ。あまりに現実味がないから涙も出ないし、叫ぶ気力も湧かない。

 未練さを表わすかのように握っていた携帯電話から振動が伝わった。名前を見て通話のボタンを押すか逡巡したところで、構わず押すことにした。

『どういうことなのか、説明してもらうぞ』

 初めて聞いた、怒りが滲み出た本田先生の声。申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、謝罪の言葉なんて本田先生は耳にしたくないだろう。まるで罪を自白をするかのような心境で彩花との経緯を包み隠さず、本田先生に話した。彩花との思い出を振り返って切ない気持ちに浸りながらも、全部を説明し終えるまでそう時間はかからなかったように思う。その間、本田先生は相槌も打たずにただ黙って聞いていた。

 話し終わってから本田先生は少しの間を置き、『それで全部か』と僅かに震えた声で口にした。本田先生にとって信じられない話だっただろう。忠告していたにも拘わらず彩花と親交を深め、それでいて彩花とそのような関係に至ったなどと想像すらできなかったに違いない。

 いまの話で全部かという本田先生の言葉に対し、はい、と言葉を返す。馬鹿野郎、と怒りの声が即座に返ってきた。

『一、二ヶ月前に、林先生から電話がかかってきただろう』

「はい」

『そのとき林先生に何を言われたんだ、お前は』

 その言葉を前に、沈黙しか返せない自分がただ、不甲斐なかった。


   ※


 嫌いになろうとしても、それでも不思議なことに兵藤先生のことは嫌いになれなかった。縋っていた信頼は千切れたというのにどうしてだろう。まるで矛盾していた。裏切られたのに好きだなんて頭がおかしい。そんなおかしな自分に笑ってしまいそうだった。でも、電話はできない。もし連絡して、兵藤先生に拒絶されてしまったら、先生を殺してしまうかもしれないから。

 きょうはバイトがはいっていたが休むことにした。食欲もない、だから廃棄のお弁当も必要ない。空腹を忘れて居間に向かう。喉は、渇いていた。

 ついで、母親に学校であった出来事を話さなければならない。どうして母親に話さければならないと自分が思うのか。それは学校に戻って、兵藤先生と拘わりを持ちたいからではないのか──自分の思考が、分からない。自分のことなのに、自分を理解できないのだから、きっと世の中は分からないことだらけだ。

 母親が理解できない。父親の心情なんて分からない。兵藤先生がいま何を思っているのか想像すらできない。

 キッチンに着いて、そのまま冷蔵庫に向かう。取り出したペットボトルのお茶に口をつけながら、横の部屋に一瞥を。母親が居間で店の売り上げを確認し「合わない」と呟いていた。以前も見たような光景に既視感に似たものを覚え始めた頃、母親がこちらに振り向き、鋭い眼光で自分を睨む。

「あんただろう」

 憤慨に満ちた表情で急に怒鳴った母親に驚き、ペットボトルを落としそうになってしまった。

「あんたが売り上げのお金を盗ったんだろう」

 母親の言ってることが呑み込めない。売り上げ金が合わない、だから自分がお金を盗ったことにしないと辻褄が合わない。そういうことだろうか。やはり母親を理解できない。根拠もないというのに疑いをかけられてしまうなんて、納得できるわけもなかった。反駁しようとしたが、しかし諦める。正論を返そうがこの母親は自分の言葉を頑として受け容れない。そのことを誰よりも私は知っていた。

 母親の言葉に耳を傾けずに、自分の部屋に戻る。母親の罵声を無視して、自室の扉に背を向けてその場に立ち尽くす。

 母親のことも理解できなければ、自分のことも理解できない。

 その場に蹲る。

 理由も分からないまま嗚咽を洩らし、独り、涙をこぼす。


   ※


 クラスを初めて持った当初、学校に足を運ぶたびに胸が高鳴った。自分の教え子に一体なにを話そうか、そんなことを毎日のように考えながら二年B組に足を向けていた。だがいま、過去の自分とは程遠い心境で廊下を歩いている。ホームルーム前の静まりかえった廊下で聞こえる自身の足音を、心地よいと感じていた過去の私は何処にいったのだろう。いまその足音は煩わしいだけだ。

 結局、事態を穏便に収束させるため外部にこのことが洩れないよう世間から隠蔽するということで話は落ち着いた。学校というのは、そういう組織だ。

 あの騒動の場にいた生徒たちに彩花が与えた誤解を解かなければ、教師としての立場はないだろう。早朝、学年主任の山田先生はそう言葉にし、自身の処罰を保留とした。もし生徒の保護者が私と彩花との間にあった話を嗅ぎ付けて大きな騒ぎを起こした場合、その保留は当然、取り下げられる。きょうここで少しでも信頼を取り戻さなければ、私の教師としての立場は危うい。

 震える足で、一歩一歩、ゆっくりと前に進む。嘗て、職員室から二年B組までの道のりがここまで遠いと感じたことがあっただろうか。階段を踏み外して転びそうになった。惨めな気持ちになりながらも、足は見えない何かに引き付けられるようにして二年B組に向かう。

 やがて二年B組に辿り着き、戸を前に立ち止まっては把手部分の凹みに指をかけた。教室から聞こえた賑やかな声が、廊下にまで届き、自身の不安を増長させる。これを引けば現実を目の当たりにしなければならない。生徒たちのあの目と真っ向から向き合わなければならない。その恐怖に怯えつつも、深呼吸してから戸を横に引いた。いまだ震えている足に鞭を打って、一歩前に。生徒たちの声が一斉に止み、視線が自分一人に注がれた。

 黒板を背に立つ。

 ここからの眺めが、好きだった。生徒一人一人の顔を見るのが、毎日毎日楽しみだった。でもいまは生徒の顔を窺うことが怖い。

 俯きたい衝動を抑えて視線をみんなに向ける。

「ホームルームを始める前に、まず先生から謝らせてほしいことがあります。昨日の出来事をみんな、知っていると思います。先生は休日、橘 彩花さんと二人きりで逢っていました。これは事実です」

 ざわめきすら起きない教室に一種の寂寞感を覚えたが、感傷に浸っている暇はない。

「四月にこの黒板にメールアドレスと電話番号を公表したときから彩花とは連絡をとりあっていました。最初からこの話をみんなに隠すつもりはありませんでした」

 信用を取り戻そうと嘘を吐いてしまう自分は、教師失格だろうか。

 そうと分かっていても、いまはそれしか方法が見付からない。

「でも、彩花と二人きりで逢っていたことをみんなが知らなかったのもまた、事実です。逢うことをみんなから隠していたと、そう解釈されてしまったら否定はできません。でも、先生を信じてほしい」

 間を置かずに言う。

「二人の間にやましいことなんて何一つなかった。そんなの普通に考えて有り得ない」

 言って、胸が痛んだ。

 その言葉は彩花に対しての裏切りでもあって、ここにいる生徒に対しての裏切りでもあった。足が泥沼に捕らわれるかのような幻想を味わう。

「二人きりで逢っていたことと、彩花が昨日起こした暴力は無関係です。でも、未然に防げなかったのは先生の力不足です、ごめんなさい。そもそも、教師と生徒が二人きりで逢うことに問題がありました。みんなに迷惑をかけて本当にごめんなさい」

「謝る必要ないよ先生」

 顔に湿布を貼った藍が快活に言う。右目が少しだけ腫れていた。

「おかしいのは、あいつなんだから。先生はあいつの我儘に振り回されただけでしょ」

 その解釈は違う。自分自身も彩花と一緒にいることを心の底から楽しんでいた。いつ逢えるのか本当に楽しみで仕方なかった。その言葉を否定しようとしたが、口からは何も出ない。何も言えないということは心の隅でこの流れを望んでいたということではないか。

 そんなことを考えていた自分に、心の底から失望した。

「だから、先生は謝らないでいいよ」

 藍の言葉に数人が頷いていた。見ればみな、自分を見る目の色が違う。先の緊迫感に満ちた空気は去って和やかな雰囲気に包まれた教室。それはつまり、信頼を取り戻した証ではないだろうか。望んでいた結果ではあったが、素直に喜ぶことなんてできるわけもなかった。これでは彩花が教室に戻ってきたとき、敵意にも似たみんなの恐ろしいあの目を彩花は一人で耐えなければならないではないか。

 このとき私は自分のことばかりを考えていた。彩花を犠牲に自分だけが助かろうとしていたのだ。教師という問題以前に、人間として最低だった。きょうという一日を最初からやり直したかった。

 けれども、ここから生徒たちの顔を眺めればそこにはいつも通りの笑顔があって、もういちど裏切るなんてとてもできなかった。一人一人の表情を眺め、やがて視線の行方は彩花の席に辿り着く。一つだけ空いたその席を見て、これ以上はないという程の悲痛な思いが沸き上がった。ここから消えてしまいたい。心からそう望んだ。


   ※


 何歳のときだっただろうか。まだ父親が新しい父親に代わっていなかった頃、母親が水商売をやっていなかった頃だから、そのときの自分の齢が幾つだったかなんて正確には覚えていない。

 買い与えられたおもちゃに母親と一緒に興じていた記憶。プラスチックの包丁の柄を握ったとき、それが危険なものだと思いこんでいた。

 そのときに母親が言った言葉は、おもちゃだから大丈夫、ほら、ママにあててごらん、平気だから。優しい声色でそんなことを母親は言っていた。でも、幼い頃の自分は母親に包丁を向けるなんて考えがとても恐ろしいもので、プラスチックの包丁を握ったまま訳も分からず泣いてしまった。どうしてあのとき自分が泣いてしまったのか、いまでは分からない。あれから十年以上は経った。十七歳の自分ではとても分からない。

 気付けば、外が明るかった。学校には行けないから部屋で一人、何もせずに布団の上で横たわったまま無為に時間を過ごしていた。昨日、母親に話を持ち出すことはできないまま終わってしまった。あの母親に説明したところで理解はどうしても得られないだろうが、両親が学校に赴かない限り、正式に謹慎という処罰は下せないという。

 兵藤先生がいるけれど、学校に行ったところで居場所はない。そう分かっていても、このままではどうにもならないことを知っていた。

 母親が帰ってきたと分かったのは、外から聞こえる砂利を踏む足音が理由だ。そのまま玄関の扉が開いて、父親と並んで居間に向かうのが薄い壁越しで充分に分かった。母親に事情を説明しようと腰をあげて、扉に向かう。話を切り出したところで、怒鳴られて、始末には学校には行かない、自分で何とかしなさいとでも言われそうだった。

 キッチンに踏みこんだところで、居間に立っていた母親が鋭い目付きで睨んできた。化粧した母親は目を背けたくなるほどに、どこまでも醜い。「あんた学校は休みなの」と母親に言われて「違う」と答えた。

「あのね、お母さん──」

 お母さんなんて久しぶりに呼んだな、と思いながら、どうして学校があるのにも拘わらず、此処にいるのかを説明しようとしたとき「ふざけるな」と怒鳴られた。

 予想通りの反応だ。

「お母さんとお父さんが頑張ってあんたの学費を払ってるっていうのに、どうして学校に行ってないの。ふざけるな」

 ヒステリックな叫び声をあげながら母親は自分に近寄ろうとしたが、そこで意外にも父親が母親の動きを抑えていた。こういうときだけ偽善的で気持ち悪い。動きを抑えるだけで、父親は何も言わなかった。

 二人とも、死ねばいいのに。

「売り上げ金まで盗って、ふざけるな」

 お金なんて盗ってないのに。どうしてそう根拠もないのに決め付けるのだろう。何か言い返そうとしたとき、父親の手を振り払った母親が、テーブルに置いてあった何かを手にとってこちらに投げてきた。咄嗟の出来事に反応できず、投げられた物が自分の頭に直撃し、思わず呻き声を洩らす。

 痛い。反動で足がふらつき、倒れそうになった。痛みが強いと同時に、頭部から何か温かいものを感じる。頭に手を伸ばすと、僅かな滑りを感じた。見れば、指先に付着したものは血だ。惑いながらも足元に視線を落とせば納得した。母親が投げたものは灰皿だったからだ。吸殻にまみれた服を見下ろしていたら、父親が大丈夫かなんて言葉を掛けてきた。母親は未だ自分を睨み続けていた。酔いが醒めていないのか、自分が何を投げたのかなんて分かっていないのだろう。

 血や吸殻に構わず、キッチンの棚に向かって包丁を引き抜いた。両手で握った柄、その切っ先を母親に向けてみた。母親が悲鳴をあげた。父親も悲鳴をあげた。それに構わず二人とも殺そうとした。でも、何故か足は震えていて一歩も前に進まない。手元から落ちた包丁、あと少しずれていたら自分の足に突き刺さっていた。いまはそんなことどうでもいい、何故か頬が濡れていた。それは血か、あるいは──

 踵を返す。母親たちに背を向けて、導かれるようにして外に出た。もう疲れた、それに何だか眠い。

 居場所がない自分が向かうところなんて、きっと、最初から一つしかなかった。

 


   ※


 休み時間に彩花にメールをしてみても返事がない。彩花の親御さんに連絡しても、連絡が繋がらなかった。携帯電話を机に置いて、再び仕事に向き合う。両親と連絡がつかない場合、自宅に行けと山田先生からは命じられていた。彩花の両親と顔を合わせるのはこれが初めてだ。彩花は、両親と顔を合わせることについて良い思いをしないだろうが仕方ない。

 昨日、定時に上がってしまったためいま現在、職員室で残していた仕事の片付けに追われている。そんな仕事の最中に本田先生と目が合ったが、逸らされてしまった。その反応は当然のものだと分かっていても辛い。

 結局、彩花に対する生徒たちの誤解は解けないまま時間が過ぎていた。このままではまずいというのに、どのように話を切り出せばいいか分からない。話をしたところで下手をすれば、彩花に対してのイメージがまた下がってしまうだけだ。一体どうすればいいというのだろう。悩みに暮れながらも、しかし心が望んでいた只一つの願いは彩花に逢いたいという揺るぎない気持ち。でも、逢える立場ではなかった。

 このままでは彩花に顔向けができない。もしかしたらきょう、逢うかもしれないというのに。

 一体、どうすれば。


   ※


 見知らぬ人の横を通り過ぎれば悲鳴をあげられた。何故、悲鳴をあげられたのか原因が分からない。理解しようとしてもいつもより頭が働かないから分からなかった。足が冷たいと感じた頃には自分が裸足だということに気付いた。自宅からかなりの距離をとっていたのに、いまさら気付いてしまうのは感覚がおかしい証拠だろうか。感覚がおかしい、といえば、何だか体がいつもより軽い。まるで何かから解き放たれたかのような、いままで味わったことのない不思議な気持ち。もし空の上が歩けたとしたなら、このような気持ちを味わうのだろうか。そんなことを口にしたら、彩花はロマンチストだね、なんて言葉が先生から返ってきそう。でも先生は隣りにいない。それが寂しかったけど、大丈夫、先生と約束したんだ。必ず見つけてくれるって。だから寂しさなんて何処にもない。浮遊感にも似た感覚を楽しみながら歩いた結果、辿り着いたのは見知らぬ歩道橋。錆びた柵の上に足を載せて、空の上に一歩を踏み出す。

 ふわりとした感覚。

 そこに道なんてものはなかった。


   ※


 薄暗い外。二日続いて早めに仕事を切り上げ、彩花の自宅に足を向けた。面積の広い公園前に建つその一軒は横に長く縦に短い。そして隣家との距離は近いもので、幾つか同じような家が建てられていた。砂利が敷き詰められた土地に等間隔で並ぶその外観はどれも同じで大した変わりは見られない。彩花がどうして自宅までの送り迎えをあれだけ嫌がっていたのか、その心情を察しながらも砂利を踏んでは玄関にまで赴いた。呼び鈴がないため「ごめんください」と大きな声で挨拶してから、控えめのノックを戸の縁に二回。

 返事はない。人がいるような気配も感じられなかった。ここに訪れる前に一回、彩花の自宅、及び携帯電話に連絡を掛けていたが、通話にもやはり出ない。少しの間、その場に立ち尽くしていたが、また明日訪れようと踵を返す。

 こうして背中を向けたいま、もしかしたら彩花は窓から自分のことを眺めているかもしれない。そんな想像が頭を掠めたとき、ふと振り返ってみる。雑草が生い茂った庭と向かい側の部屋の窓はしっかりとカーテンで遮られていた。再び前を向いて、道路の端に停めた車まで歩き出す。

 きっといまも彩花は自分のことを赦してはいないだろう。電話で耳にした彩花の悲痛な叫びを思い出しながら、顔を苦痛に歪め、車に乗りこむ。運転席に腰を掛けて、キーを挿しこんではエンジンを掛け、ヘッドライトを点けて走り出そうとしたとき、ポケットから腿に振動が伝わった。即座に携帯電話を取り出してみれば、ディスプレイに表示された名前は自分が期待していたものとは違っていたが、驚きは隠せない。

「はい、もしもし」

 電話の相手は本田先生だ。まさか昨日のきょうで本田先生から電話が掛かってくるとは思わなかった。本田先生からの連絡を受けて、正直に言えばここで仲直りを期待していたが、どうやらそういった雰囲気ではないらしい。電話の向こうの本田先生は、何かがおかしかった。声が震えていて、まるで何を言っているのか分からない。

「すみません、もう一回、聞かせてもらえませんか」

『橘 彩花が自殺した』

 いま学校に連絡があった。翌日、学年集会で生徒たちにこのことを話す。辛いとは思うが、気を確かに。病院に一緒に向かって両親に事情を聴こう。他の先生方も既に向かってる。いま何処に──

「すみません、もう一回、聞かせてもらえませんか」

 訳が分からなかった。何処にいるのかと場所を訊かれて、辛うじて彩花の自宅付近に車を停めていることを伝え、本田先生との通話が終わる。エンジンを切ってヘッドライトを消灯してから座席に背中を委ねた。落ち着いて呼吸を繰り返しても本田先生の言葉が理解できない。彩花が自殺した、なんて、冗談にしては悪質だ。しかし、本田先生が果たしてそんな冗談を言うものだろうか。いや、本田先生の言葉を信じてしまったら、彩花が死んだことに。

 自然と彩花に電話を掛けなおす。電話しても、呼び出しの音が延々と鳴るだけで彩花は出ない。それが余計に不安を駆り立てた。携帯電話を耳に充てながら運転席から降りて彩花の家に引き返す。砂利を踏んでは彩花を呼び出そうと玄関に再び赴き、戸の縁を何回も叩いたところで、気付いた。

 耳を澄ませば、庭と向かい合った一室から音が洩れていた。それには聞き覚えがある。彩花が好きだと口にしていた、恋愛をテーマとした一曲。

 彩花の携帯電話の着信音が、その一室からは聞こえていた。

 膝が折れそうになったが踏み留まる。覚束ない足取りで踵を返す。彩花が携帯電話を手放して何処かに向かうなんてことは考え難い。彩花と出逢った期間は端から見れば短いかもしれないが、二人で一緒に共有した時間はとても長いものだ。メールや通話でいつどんなときでも意思疎通をとっていた。彩花と連絡ができないことがどういった意味を持つのか誰にも分からないだろう。いつだって彩花と心を通わせていたというに、それができないいま、半身を失ったかのような絶望に私は陥っていた。

 悪い夢だと自分自身に言い聞かせて、車に乗りこんでから彩花に電話した。彩花を犠牲にして自分だけが助かったことを謝らなければならない。あのとき裏切ってしまったことを謝らなければならない。そしてもし赦してもらえたなら、抱き締めあおう、いつものように。それこそ彩花の好きな恋愛の曲のフレーズに沿って、彩花のことを抱き締めて離さないようにしよう。

 まずは電話に出てほしい。どうして電話に出ないのか分からないまま、また彩花の自宅に引き返す。途中、何故か本田先生に出逢った。本田先生が目を醒ませと言って、腕を引っ張られて助手席に押し込まれ、何故かそのまま病院に向かうことに。訳が分からない展開に戸惑いつつも、本田先生の言動に従う。

 どうして病院に向かうんですか。

 それよりも本田先生、彩花が電話に出ないんです。

 本田先生は何も答えない。

 いつまで経っても呼び出し音しか聞こえない携帯電話。

 心が半分のまま、病院に着いた。


 彩花のご両親に警察関係者と医師、第一発見者の運転手、数人の教師が立ち会った病院の廊下で、いま、事の顛末を聞き終えた。

 歩道橋の上から飛び降りて、投身自殺した彩花。道路に向かって飛び降りた彩花は全身を強く打ち、その時点で死亡したと見られる。道路で倒れていた彩花の体を轢きそうになった車の運転手が運転席から降りて、彩花の容態を確認し、病院に連絡した。飛び降り自殺をした原因に心当たりはないかと教頭が彩花の両親に尋ね、彩花のお母さんがこちらに向かって、泣きながら事情を説明し始めた。聞けば、水商売をやっていたお母さんは娘の彩花によくあたっていたという。ここで彩花がどうしてあんなにも両親のことを嫌悪していたのかが分かった。

 仕事で募った苛立ちが形となってか、彩花に八つ当たりをしていたと話すお母さん。それの延長線で今朝、酔いが醒めていないままの頭で誤って彩花に灰皿を投げてしまったという。

 彩花の頭部には投身自殺で打った傷以外に、それ以前に付けられたと思われる傷があったらしい。お母さんの投げた灰皿が原因なのは明らかだ。それ以外にも、腕には数え切れないほどの傷痕が残っていたという。それほどまでに彩花は追い詰められていて、そしてこんかいの騒動が切っ掛けで彩花は――お母さんは涙声で「ごめんなさい」と何回も繰り返す。

 お母さんの酔いが醒めたのは灰皿を投げてからの彩花の行動にあった。キッチンから包丁を持ってきて、その切っ先を向けてきたという。しかし、彩花は包丁を持ったままその場から動かなかった。手から滑り落ちた包丁に目もくれず、そのまま玄関に向かって彩花は外に出て、そして歩道橋に。

 お母さんが蹲って泣き叫ぶ。それを悼むようにしてみんなが目を伏せた。細長い廊下の左側に面した扉、その向こう側に彩花の遺体は横たわっている。しかし、それを確認しようとは思わなかった。彩花には顔向けできないし、そもそも面会の資格なんてものは持ち合わせていない。

 彩花のお父さんが終始、お母さんの背中をさすっていた。お前だけが悪いわけではない、と、お父さんも一緒に泣いていた。なら一体、誰が悪いのだろう。その答えを追い求めていたとき遺書は、と、声を洩らしそうになったが、口には出さなかった。まるでそれは彩花が自殺したことを受け容れているかのような言葉で、自分自身に嫌気が差したからだ。

 どうしてこのようなことになったのだろう。彩花の声が聞きたい、彩花に謝りたい、彩花といつものような遣り取りを交わして、いつものように笑いあいたい。扉一枚、その向こう側に彩花はいるというのに、どうしても願いは叶わない。

 橘 彩花は自殺した。歩道橋の柵を飛び越えて、道路に向かって落ちていった彩花。歩道橋という言葉から一つの場面を連想した。それはお互いの指輪を交換した場所――

「お母さん」

 震えた声で、言う。

「彩花さんの指に、何か、指輪のようなものは」

「ありました。左手の薬指に、ありました。誰か、大切な人でも、いたのでしょうね。そんなことも、知らなかった」

 彩花がどうして指輪を嵌めていたのか、その心情を察した。

 彩花は、赦していたのだ。

 彩花はまだ、こんな自分のことを愛していた。

 その場に頽れる。

 彩花。

 愛してる。

 愛しているんだ。

 愛してるのに、どうして逢えない。

 涙は流さない。君が死んだことを認めたくはないから。

 彩花──

「ずっと一緒にいようね」

 そのとき、確かに彩花の声が耳朶に響いた。歩道橋で指輪を渡されたときと、同じ言葉。

 そうして、あの約束を思い出す。

『もし、私が死んだとして、幽霊になったとします』

『先生、見つけられますか』

 見付けてみせる。

 もしそうなったら、誰よりも先に彩花のことを見付け出す。そう誓った。……そうか、なら、この扉の向こう側に君はもういない。君は微笑みながら、きっと、自分から隠れているんだ。幽霊になって、ひとりぼっちで愛を試そうとしている。しかし彩花、一人では寂しいだろう。だから、必ず君を見付け出すよ。一人になんてさせはしない。

 ずっと一緒にいよう。

 ずっと一緒に。


 橘 彩花が自殺した翌日、の生徒が自殺したことがニュースで取り上げられていた。緊急学年集会で彩花が亡くなったことについて触れる前に、既に何人かの生徒は何のために呼び出されかを察し、嗚咽を洩らしていた。二年生の橘 彩花さんがお亡くなりになられた、と、死因を伏せて教頭は言う。学校側は不慮の事故として扱いたいのだろう。彩花と私の関係もまた、明らかにされてはいなかった。しかし、それは時間の問題だ。彩花の携帯電話には着信、メールの履歴が残っている。

 孰れそのことについて糾弾されるかもしれない。両親か、警察か、生徒か、教員か、マスコミか、世間か。そうなってしまえば、もう教師としてはいられないだろう。そんなことは構わなかった。静まりかえった体育館で啜り泣く生徒たちと教師。なんて悲しい光景だろう。死んでしまったら涙を流すほどに、人は人のことを想うことができるのに。どうして人は、生きている人のことを思い遣ることはできないのだろうか。

 教頭の話が終わって、自分に目が向けられた。担任からの言葉及び、通夜の場所、時間の説明、そして黙祷を私は承っている。担任として何も言うことなんてなかった。上辺だけの言葉に何の意味があるのだろう。彩花を愛していると本心を告げたところで、誰からも理解を得られないことは目に見えていた。ここは、彩花と自分にとって優しい場所とは言い難い。だから、誰にも邪魔されない場所に彩花は旅立ったのだろう。

 彩花。

 いま君が何処にいるのか、見当はつかない。でも、必ず君を見付け出す。だってそうだろう。ずっと一緒にいようと約束した。だから安心して、私のことを待っていてほしい。

「二年B組担任の、兵藤 洋子先生に代わります。兵藤先生、前に」

 教頭に呼ばれて、頷きを返す。

 左手の薬指に嵌めた指輪を一瞥してから、壇上に向かうことにした。





 

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