第四十八話:魔法の言葉

 それは少しでも武術を知る者であれば誰でもわかる、わずかでも武術を学んだ者であれば誰でも確信する、仕合中においては二度と蘇生しないであろう倒れ方、そう、文字どおり「勝負あり」の倒れ方にほかならなかった。

 その倒れ方をした者は、定められた時間内では絶対に起き上がってこない。

 なぜならば、ひとたび震盪させられた人間の脳は、ふたたびもとの機能を取り戻すまで、どうしてもそれ相応の時間経過を必要とするからであった。

 およそ人の頭骨と脳髄とは、水を満たした容器とそれに浮かぶ柔らかな豆腐にも似た関係にある。

 極めて堅固な頭蓋という城壁によってその周囲を固められているとはいえ、守られるべき脳そのものはあまりにも脆弱で、かつ不安定に過ぎる存在だ。

 もちろん、おのれの位置を自ら調定できる能力をそれ自身が備えているというわけでは決してない。

 少しでもいい。

 例に挙げたその容器を、おのが手で外から強かに打ち据えた様子を想像してみるがいい。

 おそらくほとんどの人間は、器の縁に激突して簡単にその形を崩す白い内容物の姿を思い浮かべることができるであろう。

 それこそが、いまケンタを襲った「脳震盪」というシステム障害の正体だった。

 外部からの振動によって生まれた脳の揺れ。

 それはもう、なまなかのことでは収まろうはずがない。

 ただ黙ってその鎮静を待ち続けるならば、そこからの回復に要する時間がいったいどれほどのものになるのかは、たとえ専門家であろうともはっきりとした答えを出すことが難しかった。

 それは五分……いや、あるいは十分か。

 どちらにしろ、刹那の判断が生死を分ける時もある立ち合いの場において、その無防備極まる空白は、文字どおり対象者にとって致命的な間でしかあり得なかった。

「ひとぉーつ、ふたぁーつ」

 うつぶせに倒れたままぴくりとも動かないケンタ。

 その側に素早く駆け寄ったボブサプが、抑揚のない独特の調子でゆっくり数を数え出す。

 彼の積み重ねていく数字がとおに達した時、それがそのままこの仕合の決着を告げるみことのりとなるのである。

 ひとつ、またひとつと告げられる数が増えるたび、周囲にあれほど充満していた異様な熱気が火を落としたかまどにも似た勢いで急速にその温度を低下させていく。

 この時、あえて口には出さねども観衆たちは心の底で悟っていたのだ。

 この仕合、勝負はすでに着いたのである、と。

 古橋ケンタがふたたび立ち上がってくることは、およそ考えられないことなのである、と。

 そんな彼らの心中をものの見事に象徴していたのが、ほぼ対称的な反応を示したふたりの男の表情だった。

 この光景を目の当たりにした徳川光圀は、あたかもほぞを噛むかのように重々しくまぶたを閉じ、姉倉玄蕃は、まるで我が意を得たと言わんばかりにその魁偉な形相をにやつかせて見せた。

 一方はあからさまな無念を、もう一方はむき出しの歓喜を、ともにいっさい隠すことなくその面持ちに現していた。

 感情の出口こそ異なれど、その発端となった何事かが双方まったくの同一であることに疑う余地は微塵もなかった。

 そしてまた、当事者の片割れたる柳生蝶之進頭白も、そうした流れの外に身を置いてなどはいられなかった。

 ふらふらとおぼつかない足取りで舞台の隅へと後退した彼はそのままがっくりと腰を落とし、弛緩した身体を力なく支柱に対して預けながら、息も絶え絶えにその両肩を上下させる。

 終わった。

 ともすれば倒れてしまいそうになる我が身を気力でもって支えつつ、この異形の僧侶は幾度も幾度もそのひと言を咀嚼した。

 押し寄せる圧倒的な疲労感をどこか他人事のように味わいながら、繰り返しおのれに向かってそのように言い聞かせ続けた。

 あの技昇り龍をまともに受けて、なお立ち上がってきた者などこれまでにひとりもおらぬ。

 勝負あった。

 勝負あった。

 勝負あったのだ。

 だが不思議なことに、彼はその実感を少しも掌握することができずにいた。

 理由はさっぱりわからない。

 舞台中央に伏し横たわる宿敵てきの姿を見詰めることでその現実を我がものにしようと試みるのだが、理屈を司る頭脳がそれを理解してもなお肉体が、激戦に傷付き血を流しているおのれの五体が、どうしてもそれを拒否して止まないのだ。

 頭白は、ふっと書院に座る葵のほうに目を向けた。

 彼女の想い人古橋ケンタをこの手で倒すことでそのささやかな希望を打ち砕いてしまったという現実。

 それに起因する罪悪感が、彼にそのような行動を取らせた一因であることについては疑う余地がない。

 されどそれだけではなかったのも、また否定できない事実だった。

 この時の頭白の目には、明らかに浮き藁にすがりつく溺者のごとき絶望感がはっきりと宿っていた。

 出所不明の強い困惑と動揺とが、その瞳の中には見て取れる。

 じわりと湧き出るそれら負の感情が、いま押さえきれない空虚となって彼の背中を強力に突き動かしたのは明白だった。

 仕合の興奮がもたらした心身の高揚。

 それが鎮まっていくのを自覚した頭白の中で、この男に仏の道を歩ませるきっかけとなった厭世観がみるみる間に鎌首をもたげてきた。

 その思いはたちまちのうちに後ろ向きな自己否定となって、この異形の僧侶を内側から苦しめ始める。

 彼は思った。

 もしかして、それがしはまた取り返しの付かぬ過ちを犯したのではあるまいか。

 おのれの中のあれほど嫌った獣性に身を任せることで、この身はふたたび修羅の道へと足を踏み込んでしまったのではあるまいか。

 だとしたら、それがしは、それがしは……

 頭白の眼中にあった薄暗い光が、少女の姿を捉えるや否や助けを求める子供のそれへと変化した。

 そう、知らず知らずとはいえ、この悩める僧侶はおのれの信じる仏道にではなく、あろうことか縁あって知り合っただけのどこにでもいるひとりの娘にこそ我が身の救いを求めたのであった。

 しかし次の瞬間、その怯えたような双眸は、そこにあった信じられないそれを直視することで皿のように大きく見開かれることと相成った。

 彼が見たもの、それは一向に衰えることなき闘志の輝きであった。

 瞬きすらせず、ただ一心不乱に戦場舞台上へと注がれている葵の眼差し。

 その両目の奥底に燃えている炎の揺らぎを見知った時、頭白は思わず息を呑み、そして意図せず呟いた。

「古橋殿……?」

 彼の目に映ったそれは、紛うことなき古橋ケンタの色、あのおとこが戦場で見せた確固たる覚悟の色と酷似していた。

 いや、似ていたなどという曖昧な表現は相応しくない。

 まさしく、それらは瓜ふたつ。

 重ねればぴたり同一の形を成すのではないかと思われるほど、両者はそっくりそのまま同じ色、同じ方向性を有していた。

 愚直なまでの一本気。

 頑固なまでの不退転。

 そんな代物を目の当たりにしてしまった刹那、頭白は、この聡明極まる白髪の僧侶は、おのれの判断がまったくの誤りであったことに気付かされた。

 それはもはや理屈ではなかった。

 彼の中にうごめく武人としての本能が、この仕合がまだ終焉を迎えていないことをその所有者に対し強く警告したのである。

 まだ戦いは終わってなどいない!

 この時、秋山葵は自身に向けて、そんな思いを復唱し続けていた。

 微塵も揺らぐことなきその意志が、彼女の決断を根底でしかと支える。

 たとえ何があろうとも、自らの想い人を、それが行いを最後まで見届けること。

 そして、たとえいかなる結末が眼前に展開しようとも、ただ一心にその正しきを信じ続けること──それは少女にとって絶対に違えてはならない、おのれに課した絶対の責務だった。

 我がすべてを委ねんと誓ったただひとりの「おとこ」に対する、「おんな」としての聖なる努め。

 まだ十四という年若さでありながら、葵は「女性である」という我が身のさだめを、いま骨の髄まで自覚していた。

 その心がけは、あるいはとても愚かなそれであったのかもしれない。

 少なくとも二十一世紀初頭の日本国においてなら、彼女の態度は間違いなく時代錯誤で無知蒙昧なものとして同性から嘲笑の対象とされるそれであったに違いない。

 しかし、葵はそんな自分が誤っているなどとはこれぽっちも考えていなかった。

 莫迦げているのかもしれない。

 滑稽なのかもしれない。

 そう自認することにやぶさかではなかったとしても、それがおのれの誤断であるなどとは思ってみようともしなかった。

 彼女は、繰り返し自分自身に言い聞かせる。

 まだ戦いは終わってなどいない。

 審判の口は、その決着を告げてなどいない。

 なのに、自分が率先してあの方の勝利を諦めてどうするのだ。

 たとえ誰ひとりとしてその勝利を信じずとも、この自分だけは信じる。

 信じ続ける。

 信じなくてはならない。

 なぜならば、それこそがこの身に課せられた「おんな」としての、「ふぁん」としての、そして何よりも「秋山葵自分自身」としての唯一無二たる存在理由であるのだから!

「古橋さま!」

 ひと声大きく葵は叫んだ。

 堪えきれなかった感情がその身中から溢れたものか、まっすぐに舞台を見詰める彼女の両目から無意識のうちに大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。

 だが葵は頬を流れるその涙を拭こうともせず、声も枯れんばかりの大音量でケンタの名前を呼び続ける。

 まるで呪文の言葉を紡ぎ出すように、小さな身体を震わせて絶えることなく呼び続ける。


 こーばーしっ!

 こーばーしっ!

 こーばーしっ!

 こーばーしっ!


 少女の放つ全身全霊を込めた呼び声。それを聞き及んだ鼓太郎が咄嗟に過日のひとこまを思い出したのは、まさにその次の瞬間に起きた出来事だった。

 それは、彼がケンタたちとともに飛騨街道を北へと向かっていた旅程の最中。

 およそ馬瀬川の渡船場に至る前日の日のことだ。

 ほんの何気ない会話のなかで、唐突に葵がケンタに向けてこう問いかけたのである。

「古橋さま。古橋さまの仰る『ふぁん』というものは、いわゆる仕合の立会人や観衆の者たちとは、いったいどのように異なっているのでありましょうや? 昨夜、眠り際にいささかそのことが気になりましたもので、これは一度、当のご本人にお尋ねするのがよろしかろうと考えたのです」

 純朴な瞳を輝かせつつ、武家の少女はまっすぐ尋ねた。

 そんな予期せぬ質問に思わず目を丸くする傍らの大男に向け、彼女はなおも言葉を続ける。

「ひとは、たとえそれがどれほど公明正大な御方であろうとも、決して完全な中立の立場にはおられないものです。その根幹にあるものが利害のことわりであれ好悪の情であれ、相争うふたつのもののどちらかに、どうしても肩入れしがちになるものでございます。

 さすれば、あなたさまの仰った『ふぁん』というもの。とある心に決めた御仁を贔屓し、ただ無心にその方を応援するという存在と、彼らのごとく時に無責任な歓声を上げるだけ者たちとの違いが、私にはいまひとつ判然としないのでございます。

 もし差し支えなければ、古橋さまがお持ちになっておられるご見識を、何卒、この私に授けていただけはくれませんでしょうか?」

 葵が口にしたその大真面目な疑問を耳にした時、鼓太郎は無意識のうちに「葵姉ちゃんは堅物だなあ」と半分呆れたような感想を抱いてしまった。

 何事についてもきっちりしなければ気が済まないという彼女の気質を微笑ましいと感じる反面、「何もそこまで難しく考えなくても」と、どこか批判的にすら捉えてしまったからだ。

 ケンタの言う「ファン」という言葉。

 その意味するところについて、鼓太郎も葵から直接聞かされておおよその雰囲気は把握している。

 要するにそれは、おのれが肩入れする対象を明確に定め、その心を寸分も揺るがせない者たちのことである。

 端的に言えば、食材の好き嫌いにおけるそれと割合似ていると言えるかもしれない。

 鼓太郎にとって、それはそう難しく考えるほどのものではなかった。

 だが葵にとっては、筋道を通し理屈立てて胸に納めるべき代物であったのだろう。

「そうですね」

 軽く小首をかしげながらしばしケンタは思惑して、やがてはっきりとした回答を紡ぎ出すに至った。彼は答えた。

「『ファン』っていうのはある特定の個人を応援するだけの存在じゃなくって、自分の応援しているその誰かと力を合わせて、ともに戦うだけの心意気を持ったひとのことなんじゃないかなって俺は思ってます」

「ともに戦う心意気、でございますか」

 訝しげに葵が言った。

「されど古橋さま。いかに『ふぁん』となった者がその思い入れを深くしようとも、ひとたび仕合の場に臨まれた御方へ自ら加勢におもむくというのは、およそ叶わぬ努めなのではないでしょうか? それとも『ふぁん』となった者には、自らが信じる御方に合力できる何か不思議な方策でもあるのでございましょうか?」

「ありますよ」

 あっけらかんとケンタが応えた。

「『ファン』が自分の応援する誰かと力合わせて戦う方法はちゃんとあります。少なくともそのひとが俺たちみたいなプロレスラーを応援するなら、たとえその具体的な手段を問われたとしても、俺はその正解をはっきりと答えることができますよ。それも、飛びっ切りわかりやすくて簡単で、そして極めつけに効果絶大な奴を、です」

「それは、果たしていかなるものでありましょうや?」

「魔法の言葉を叫んでください」

「魔法の言葉、でありますか?」

「そう、魔法の言葉、です」

 にこにこと相好を崩しながら彼は告げた。

「もしこの俺が仕合で危機に陥ったらその時、葵さんは何も難しいことを考えず、ひとりの『ファン』として俺の名前を大声で連呼してください。その声が、声に載せた思いが、俺たちプロレスラーにとっては何よりの活力になるんです。

 いいですか。それはこんな感じでお願いします。とりあえず、俺に続いて言ってみてください。せーの──」

 並んで歩を進めながら、ふたりは周囲の目を気にすることなく、その「魔法の言葉」とやらを繰り返し繰り返し大声で放ち続けた。

 ケンタの名前の「こばし」の部分、その部分を独特のテンポでもって小気味よく反復する。

 それが本当にケンタの言うような「魔法の言葉」であったのか。

 その真偽のほどはわからない。

 あたりまえのことだ。

 誰ひとりとして、その恩恵なるものを目の当たりになどしていないのだから。

 むしろ、その実在を疑ってかかることこそがこの場における正しい判断であったと言い切ることすらできたはずだ。

 にもかかわらず、葵はそんなケンタの言葉を心の底から信じていた。

 そのことだけは、あえて言うまでもなく誰の目にも明らかな事実だった。

 この初心なひとりの少女にとって、想い人の意向に我が思惑を重ねるという決断は、断じて愚挙のひと言で済ませられるような軽い代物などではなかったのだろう。

 そうした一連の光景がまぶたの裏に浮かんだ刹那、少年は眼前の現実を刮目して凝視した。

 そこに見えたものは、文字どおり巨岩のように盤石で絶対的なまでに堅固な、信頼という名の栄誉であった。

 秋山葵は、古橋ケンタのすべてを信じている。

 この絶望的な状況においてさえ、なおいっさいの疑いを持つことなく彼という存在のことごとくを盲信し続けている。

 少年には戯れ言にしか聞こえなかった「魔法の言葉」を巡る他愛ない遣り取り。

 しかし彼女は、その子供じみた遣り取りですらなお信奉の対象として、いまおのれの想いを白日の下へ晒そうとしている。

 鼓太郎は、ひとりの少女からそれほどの信頼を委ねられている自らの師を、心の底から羨ましく思った。

 自分もいつか、心惹かれる誰かからこれに匹敵するだけの信頼を投げかけられてみたい。

 背筋を震わせ、切実なまでにそう願った。

 そんな思いが強く脳裏をよぎった瞬間、少年は自らもまたその流れの中におのれの意志で飛び込むことを決意した。

 この行いがたとえ愚挙でも構わない。

 あの目映い娘と同じように、この自分も憧れの対象とともに戦う道を選ぶのだ!

 それは、ひょっとしたらこの年頃にありがちな安っぽいヒロイズムの亜種であったのかもしれない。

 だが、ひとたびおのが意を左様定めた少年はもはや迷ったりなどしなかった。

 それこそが敬愛する師匠へ近付く最短路、憧憬の頂へ登り詰めるための一里塚であると確信していたからにほかならなかったゆえだ。

「こーばーしっ! こーばーしっ!」

 葵のそれに呼応して、鼓太郎もまたケンタの名前を叫び出す。

 ふたりが何を目論んでいるのか理解できないでいたおみつと茂助を彼は感情的にあおり立て、ほとんど勢いだけで自分たちの言動に同調させる。


 こーばーしっ!

 こーばーしっ!

 こーばーしっ!

 こーばーしっ!


 都合四人分の絶叫が、仕合の場全体に響き渡った。

 彼らの行いがあまりに唐突であったためか、それを制しようとする藩士たちは誰ひとりとしていなかった。


 こーばーしっ!

 こーばーしっ!

 こーばーしっ!

 こーばーしっ!


 ボブサプのカウントが、それに重なり数を重ねる。


 こーばーしっ!

 こーばーしっ!

 こーばーしっ!

 こーばーしっ!


 されど、四人の声はなお衰えることなく発せられ続けた。

 祈り。

 のぞみ。

 願い。

 どんな表現であっても構わない。

 とにかく、それらの思いがことごとくないまぜとなった感情が、休むことなく舞台の上に差し向けられた。

 天空が枯れた大地に恵みの雨を授けるかのごとく、寸分も途切れることなくケンタの上に降り注がれた。

 それが異様な光景であることに疑問はなかった。

 不快感を覚える者こそ少なかれど、奇異の目を向ける者、その行いに哀れみにも似た目線を送る者は多かった。

 中には「狂を発したのでは」と訝る者すらいたほどだ。

 城代家老・姉倉玄蕃もまた、そういったうちに数えられる者のひとりだった。

 狂おしく叫び続ける四人の姿をふんと鼻先で嘲笑しつつ、彼はおのが腹心・生島数馬とその視線を合わせてかかる。

 この時、玄蕃の心中にあったものは、もはや仕合の勝敗などという些細な物事ではなかった。

 それは、この出来事のあとに続くであろう政治的立ち回りとそれに関する我が身の振り方、ただそれのみであった。

 してやったり。

 彼はにやりとほくそ笑んだ。

 一時その胸中に込み上がった強烈な懸念は、いまやきれいさっぱり払拭されきっている。

 群雲のごとく湧き起こった正体不明の全能感が、それと入れ替わるように鷲鼻の城代家老を包み込んだ。

 彼は思った。

 目を血走らせ、いまにもその口腔から噴出せんとする高笑いを必死になってこらえつつ、心の中で雄叫びを上げた。

 者どもよ、その眼でしかと見るがいい。

 何もかもが、まさにこの世の何もかもが、我が掌中で転がっているではないか。

 神仏の加護は、我にこそあり。

 金森家がなんぞ。

 御公儀がなんぞ。

 水戸光圀がなんぞ。

 いまのわしを阻める者なぞ、この天下には誰ひとりおらぬ。

 神の化身たるこのわしを阻める者なぞ、誰ひとりとしておらぬのだ。

 しかし次の刹那、ちらりと舞台上に移したその眼差し、おのれに逆らった愚か者を嘲笑うためだけに向けたその眼差しが、瞬く間に凍り付いた。

 彼は見たのだ。

 見てしまったのだ。

 そこに倒れ伏しているあの小生意気な大男の指が、力強く、そう実に力強く麻布の上に突き立てられるその瞬間を、だ。

 五本の指に端を発した脈動はまるでおのれの名を呼ぶ魂の叫びに応えるがごとく、その腕に、肩に、背中にと順を追って波及し始め、やがて小刻みに震える全身の筋肉を伝って巨漢の上半身をゆっくりと起き上がらせていく。

 信じられないことだった。

 あり得ないことだった。

「古橋さま!」

 歓喜に震え拳を握り締める四人の男女。

 しかしそんな彼らを除くすべての者たちは、驚愕のあまりに言葉を失い、唖然としたままその目を見開くことしかできずにいた。

 陰から陽へ。

 静から動へ。

 目の前で展開した劇的なまでの状況変化が、その意識の追従を一時的にしろ拒んだからにほかならなかった。

 審判の口が九つ目を数えた時、観衆たちの茫然自失を歯牙にもかけず、おとこは雄々しくも悠然と立ち上がった。

 おびただしい量の血と汗とを身体中から滴らせつつ、おのれの両足でもってしっかりと舞台表を踏み締める。

 ぜいぜいと苦しげに肩を揺らす彼の腫れ上がったまぶたの下で、なお精悍なる眼光が爛々とした輝きを見せていた。

 続けざまに、不敵な笑みがその表情へと来臨する。

 断じて死に体の男が見せられるそれではなかった。

 それは歴然たる闘志の証。

 まさに「戦いはこれからだ」とでも言わんばかりの不屈の意志が、その双眸から噴気のようにほとばしっていた。

 火砕流にも似た灼熱の奔流がケンタを中心に音を立てて溢れ出し、この場にいる者全員の顔を真っ正面から打ち据える。

 その熱気は、男の中の男たる部分、そして女の中の女たる部分を狙い違わず直撃した。

 もしなんらかの機器によってそれを計測すること叶ったならば、表れた数字を見ることのできた者は皆々の心拍数が急激な上昇カーブを描いた事実、それを知ることとなったであろう。

「なんと……」

「莫迦な……」

「よくぞ……」

 頭白が、玄蕃が、そして光圀がこぼした三者三様の呟きは、まさにここにいる者たちすべての心情をものの見事に象徴していた。

 尊敬と驚愕と賞賛。

 それぞれの相好から放たれる色彩が、鮮やかなまでのコントラストを描き出す。

 そこに新たな色合いを加えようとする者が現れたのは、それよりちょうど一拍置いてからの出来事だった。

 それは、飛騨高山藩主・金森頼時その人だった。

 彼は前の三者とは完全に異なる懐疑という名の色相を、傍らに座す高貴な老爺へと向けおもむろに呈してみせたのである。

「何故でござる」

 真剣な眼差しを湛え、単刀直入に頼時は尋ねた。

「いったい何故、あの者は立ち上がったのでござる。

 あれほどまでにその身を深く傷付けられ、形勢の逆転はもはや不可能。いま残された力を振り絞り立ち上がってみせたところで、そこに待っておるのは打ち込み稽古に用いられる立木のごとき役目のみ。

 仮にも一端の武芸者であるのなら、そのことがわからぬはずなどありますまい。いやたとえ武芸者でなくとも、そのことをわからぬ謂われなどいったいどこにあるのです。

 それを知りながら、あの者は何を好きこのんでただ痛苦と辛酸のみが待つ舞台へとその足を踏み入れたのでござるか。いったい何を追い求めて、わざわざ明日なき道程へと我が身を投じたのでござるか。

 御老公。お教えくだされ。

 あの者は、何ゆえ勝利を諦めようとせぬのでござる?

 何ゆえ潔う観念し、我が身の安泰を求めようとせぬのでござる?」

「出雲殿。おわかりになりませぬか? あなたさまとて一国一城が主。仮にも御公儀に認められた武家の領袖でございましょうに」

 声量を心持ち押さえつつも、どこか叱るような感をもって光圀は言った。

「形勢の逆転は不可能ですと? 待っておるのは痛苦と辛酸のみの明日ですと?

 何故、部外者たるあなたさまが左様なことを決めつけなさるのです?

 御覧なさい、あの者の姿を。あの御仁古橋ケンタは、いまだ勝負を捨ててなどおりませぬぞ。

 足は地を踏み、両腕も健在。闘志ひとつあれば戦いの継続は十分に可能。自ら勝利を諦める要素が、あそこのいったいどこにあるというのですか?

 出雲殿。あなたさまの仰るように、あの者にとって戦況は確かに劣悪でありましょう。その逆転はこの上もなく難しいものでありましょう。この光圀も、その見識を否定するものではありません。

 されど、出雲殿。あなたさまも武家の当主であるのなら、あの状況を目の当たりにして『成し遂げる価値がある困難である』と、何ゆえお考えなさらぬのです?

 世の事柄に初めからの不可能事というものは、およそどこにもありはしませんぞ!

 不可能と可能とを分ける一番最初めの関門は、それを試みる者が持つ偏見。『それはできぬ』とおのれを縛る、自らの心の声にほかならぬのです!

 出雲殿。我が行く手を遮るものとはその眼前に立ちはだかる何物かではなく、それに直面することで道行く意志を失う自分自身であるのだと心されませ。

 わずか一歩を踏み出す勇気すら持たぬ者が、どうしておのが前途を切り開くことなどできましょうや!」

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