第四十七話:奥義・昇り龍

 息つく暇もない打撃の豪雨が、ケンタの肉体目がけて降り注いだ。

 拳が、肘が、膝が、臑が、およそ人体の固い部分すべてを用いた攻撃が、文字どおりあらゆる角度から巨漢の素肌へ襲いかかる。

 皮膚が割れ、肉が裂け、骨がきしんだ。

 人体のあげる鈍い悲鳴が絶えることなく周囲に響く。

 断続的に繰り返される頭白の加撃は、たちまちのうちにケンタの巨体を敗北の間際に押し込んだかのように見えた。

 その身に一枚のショートタイツのみをまとったプロレスラーは、対戦相手にただの一撃を返すことすら許されず、一方的に苦痛と損傷とを浴びせかけられるだけの立場を強制されていたかのようにうかがえた。

 もはやこれまでか。

 そのあまりの形勢不利を目の当たりにし、藩士や重臣たちの中からは早くも仕合の勝敗に見切りを付ける者たちまでもが現れだした。

 だが、そのことをもって彼らの即断を嘲笑することはできまい。

 なぜなら、彼らの視界内で展開しているその光景は、その判断を後押しこそすれ、決してそれを否定する類いのものでありはしなかったからだ。

 そんな戦いの成り行きを直視することで抱えていた重篤な不安を払拭されたのであろうか。

 鷲鼻の城代家老とその腹心との表情に、うっすらと安堵の笑みが浮かび上がった。

 まったく、いらぬ心配をかけさせおって。

 その顔色は、いまにもそんな台詞をこぼさんばかりのそれであった。

 彼らの目には、異形の僧侶と相対する筋骨隆々たる大男の様子があたかもいままさに蛇に飲み込まれんとする大蛙のごとくにすら映っていた。

 勝敗は既に決している。

 残すは、柳生蝶之進が彼の者を料理するのにあとどれだけの時間を要するかだけの問題だ。

 刻が経過するにしたがって、左様な思いを持つ者が皆々の大勢を占めるようになっていった。

 試合前に場を包んでいたあの独特の緊張感が徐々に途切れ、入れ替わって幾ばくかの緩みが漂うようにすらなっていった。

 しかし、衆目の中にはそうした意見に反する思いを抱く者たちもまったくおらぬというわけではなかった。

 彼らはいまおのが眼前で進行している状況を、ある者は純粋なる希望から、そしてある者は深遠なる洞察から、そしてまたある者は確かなる信頼から、これを一過性のものと断定してその意を覆そうとしなかった。

 その筆頭とも言えるひとりの少女秋山葵は、この時、自分が過日に見聞したとある出来事を胸中深く幾度も幾度も反芻していた。

 あたかもおのれ自身に言い聞かせるように、その結末を何度も何度も繰り返し噛み締め続けていた。

 なぜなら、それこそがいまの彼女が寄って立つ確固たる希望の、いわゆるひとつの原点であったからだった。

 同じだ。

 じっとりと手に汗を握りつつ、真一文字に唇を閉ざしながら彼女は思う。

 いまの古橋さまは、まるであの時と同じに見える。

 絶え間なく激しい打ち込みを受けながらなおそのお身体を亀のように固め、一方的に加えられる痛みにあくまでも耐え続けようとなさっている無残なお姿。

 でもそれは、私たちふたりが出会った明くる日、あの方が乾半三郎殿と立ち合いをなさったまさにあのおり、そう、まさにあのおりに見た光景と私の目には重なり合ってすら映る。

 いやむしろ、そのふたつがまったく同じようにしか見えない。

 あの仕合、同じように傷だらけとなったあの方は、それでもなおそのお手で確固たる勝利をお掴みになった。

 私の、そしてお父さまの見ている前で、誰恥じ入ることなき堂々たる勝利をお掴みになった。

 なればこそ、私はあの方を信じます。

 たとえこの世の誰もがあの方の勝利を信じようとなされずとも、私だけは、あの方の「ふぁん」である私だけは、あの方の勝利を心の底より信じます。

 ええ、信じずにおれましょうか。

 古橋さま。

 私は、あなたさまが勝って私のもとへ帰ってきてくださることを信じております!

 一方、そのすがりつくような願望とは対称的にひたすら理性的な眼差しでもってことの成り行きを見詰めていたのが、この仕合の主賓たる徳川三位中将光圀だった。

「これはなんとも勇ましきこと」

 あくまでも傍観者の立場を崩すことなく、老爺は率直な感想を口にした。

「古橋殿。ものの見事に追い込みなされましたな」

「追い込んだ?」

 そんな光圀の呟きを耳にした頼時が、ふと疑問符を立ち上げた。

「御老公。いまの御言葉は『追い込まれた』の誤りではございませぬか?」

「若い若い。若いのう、出雲殿は」

 虚心から来る領主の問いかけを真摯に受けた老雄は、微笑みながらそれに答える。

「あの変わり者の武芸者殿が真に追い込んでおるものは、おのが敵手たる白髪の法師殿などではありませんぞ。彼の御仁が追い込んでおるもの。それはまさしく、『おのれ自身』というこの世にふたつとない代物にほかなりませぬ」

「おのれ……自身ですと?」

「左様」

 大きく頷き光圀は告げた。

「ようごらんなされ、あの武芸者殿の足下を。あの仁は、法師殿より斯様に厳しく攻められておきながら、なお一歩たりとも後退っておらぬではありませぬか。あれはのう、出雲殿。あれは、断じておのが身を『攻められて』おるのではありませぬ。あれは、おのが身をあえて『攻めさせて』おるのでございますよ」

「何ゆえでござる!」

 すぐさま頼時は驚いたような声を上げた。

「何ゆえにそのような理不尽を。あのように我が身を攻めさせ、傷付け痛めつけさせ、あの者にとってそこにいったいなんの利があるというのでござるか。そこにいったいなんのことわりがあるというのでござるか」

「それがわかるようならば、私はこの場になどおりませぬよ」

 緩やかに光圀が応えた。

「されどこの老いぼれには、たったひとつ、そうたったひとつだけあの姿より感じられる真実がございます。それは、彼の御仁があそこで見せるおのが様相には、確固たる意志というものが込められていることでございます。あの見るも残念な有様には、それをもって伝えたき何物かが込められているということでございます」

「確固たる意志……」

「そう。それはまさに不退転の意志でありましょう。決して何人にも譲ることのできぬ頑固な思い。あるいは意地、誇り、尊厳、等々──そのような別の言葉に置き換えることもできるやもしれぬ、左様な心意気でありましょう」

 呆然と舞台上へ視線を戻す頼時に向け、老爺は改めて言葉を紡いだ。

「ですがその本当の意味を知ることとなる者は、結局のところ、あそこで彼の者と対峙しておる白髪の法師殿ただおひとりでありましょうな。もし我らがその真意とするところをあえて知らんと欲するなら、それはこの仕合の結末をただ私心なく見届けることで初めて叶うことと相成りましょうぞ」

 古橋ケンタと並び立つ、この舞台における真の主役。

 光圀から左様評されることとなった白髪の法師・柳生蝶之進重明は、いま、おのが四肢を激しく対戦相手に打ち付けながら鮮やかな喜びにその全身を浸していた。

 古橋殿!

 彼は心の中でケンタに問う。

 これが……これこそが、あの日、星空の下でそこもとの語った「受け」というものでござるか。

 武技の基本中の基本たる「攻め」と「守り」のふたつの道筋。

 そのどちらにも属さぬ、武術において決して許されることのない三つ目の選択肢。

 そして、そこもとの身に付けた「ぷろれす」なる武芸に存在する異端の道程──…

 古橋殿。それがし、この「受け」なる行為がいったいいかなる「利」持つものなのか、皆目見当が付きませぬ。

 鳩尾みぞおち腎肝じんかんあばらもも……それら急所を守護することなくさらけ出し、あえて相手からの攻めを受け止めんとする行いにいったいいかなる「理」があるものか、皆目見当が付きませぬ。

 されど、これだけははっきりとわかり申す。

 これは、そこもとの「覚悟」を示すものなのでござるな。

 おのが身に受けた苦痛では倒れぬ。

 おのが身に受けた苦痛など耐えきってみせる。

 いわばそこもとは、仕合のそれとはまた別のもうひとつの手段をもって、それがしに勝負を挑んでおられるのでござるな。

 いままさに、そこもとの心の声が聞こえて来るようでござる。

 どうした頭白。

 おぬしの技で、この鍛えた我が身を打ち倒してみせよ、と。

 その人生の積み重ねを用いて、この自分のそれを凌駕してみせよ、と。

 まさに望むところ!

 古橋殿。

 それがし、この行いがそこもとよりそれがしに向け送られた敬意の表れであると受け止め申した。

 そこもとが、この頭白坊を対等な宿敵てきと認めてくださった何よりの証左であると受け止め申した。

 なればこそ、それがし、この力量のすべてをもって、いまこそそこもとに挑みましょうぞ。

 全力をもってそこもとを倒し、そこもとを越え、その向こうに見える「強さ」というものの一端を、なんとしても掴み取ってみせましょうぞ!

 そんな心の叫びが形を成したかのごとく、渾身の力を込めた右中段蹴りがケンタの脇腹深くに音を立ててめり込んだ。

 くぐもったうめき声とともに、巌のような巨体ががっくりとくの字に曲がる。

 突き上がってきた悲鳴を寸前のところで葵は飲み込み、藩士たちの一部もこれを決定打と捉えて顔をしかめた。

 肉体の傾きに応じて、これまで雷雨のような連撃に耐え続けてきたケンタの防御がわずかに下がった。

 顔面急所への行程がはっきりと開く。

 百戦錬磨の頭白坊は、そのあからさまな隙を見逃さなかった。

 おお、という雄叫びとともに大きく踏み込み、目方を乗せた右の鉤突きフックをケンタの横面目がけて斜め下方より叩き込む。

 かち上げられたケンタの身体が、頭白の眼前で独楽のようにくるりと回った。

 これを明白な勝機ととった白髪の法師は、さらなる一撃を加えんとして息つく暇もなくその左脚を振り上げる。

 狙いは左の上段蹴りだ。

 目標は、振り向いた直後に晒されるであろう無防備な顔面。

 たとえ見え見えの大振りであっても、いまのケンタであれば十分に直撃を狙えるものと彼は咄嗟に判断したのだった。

 だが次の瞬間、そんな頭白の背筋を冷たい汗が滝のように流れ落ちた。

 それは、体軸を中心に身体ごと一回転したケンタの、その怪しく煌めく眼光が、振り向きざまにおのれの心臓を真正面から鷲掴みにしたのが原因だった。

 喉笛に食らいつく獅子のごときその凄みを直視した頭白は、おのが失策を瞬時にして悟らされた。

 眼が死んでいない!

 彼は思った。

 あの眼は、闘志を失った者が持てるそれなどでは断じてない。

 古橋殿は、我が連撃をその身に数多受けながら、じっとこちらの間隙を突く機会をうかがっていたのだ。

 いずれ必ず訪れるであろうおのれの手番を、虎視眈々と待ち続けていたのだ。

 やられた!

 あのあからさまな防御の隙間は、余力を残した誘いであったか!

 直後、頭白の蹴りが目標へ到達するのよりはるかに早く、ケンタのごつい手刀が彼の右頸部目がけて勢いよく打ち込まれた。

 回転式ローリング袈裟斬りチョップ!

 逡巡も躊躇もない一撃が、頭白の頸動脈を強かに痛打した。

 血液の流れが分断され、脳髄が一時的にだがその機能を麻痺させる。

 それは、コンマ一秒にも満たぬほんのわずかな空白だった。

 だが同時にそれは、対戦者が付け入るにあたって十分過ぎる機でもあった。

 素早く床を蹴ったケンタの両足が、頭白の胸板をそろえた形で撃ち抜いた。

 ドロップキックだ。

 古今東西の武術体系においておよそほかには見当たらない、まさにプロレスというものを象徴する蹴り技のひとつ。

 体重百キロをはるかに上回るケンタの目方をまともに浴びて、頭白の身体は文字どおり真後ろ目がけて吹っ飛ばされた。

 対角線上に設けられた太い支柱へ、勢いよく背中から激突する。

 「がはっ!」という音とともに、頭白の口から多量の呼気が噴出した。

 おのが体重に直撃された彼の肺腑が、わかりやすい苦悶の声を張り上げたのだ。

 生命の根幹たる呼吸機能の不完全が、肉体そのものへのおびただしい悪影響をももたらしていく。

 一方、落下の衝撃に対し背中で受け身バンプを取ったケンタは、そんな頭白の窮状を尻目に、間を置くことなく立ち上がった。

 彼がその体勢を整えるのに要した時間は、白髪の僧侶がダメージから立ち直るため欲したそれよりひと呼吸以上も短かい。

 それは、まさしくケンタが待ち望んでいた絶好の時宜じぎであった。

 なんとしてもその一瞬をものにせんと、巨漢はすかさず追撃を開始する。

 苦しげに支柱に保たれた対戦者を気遣う気配など、そこには微塵も感じられなかった。

 頭白さん。

 ケンタは、おのが敵手に向かって心の中で語りかけた。

 頭白さん。

 武術家のあなたには信じられないことかもしれないけど、プロレスにとって「強い」とか「弱い」なんてのは、実のところ大した意味を持ってないんです。

 もっと極端なことを言っちゃえば、仕合における勝ち負けだってそれほど大切なものじゃあないんです。

 プロレスってのは、言ってしまえば互いにどっちのほうが「凄い」のかを競い合う、そんな子供みたいな意地の張り合いに過ぎないんですから。

 そう、俺らプロレスラーにとって本当に大事なことは、仕合における勝った負けたのやりとりじゃなくって、「どうだ。俺って凄いだろう」って自分が背負ってるどこかの誰かに胸を張ってみせることなんです。

 いくら仕合に勝ったって、凄くなけりゃあ意味がない。

 いくら仕合に負けたって、凄いって言われりゃ価値がある。

 そういうのが、俺たちの言う「プロレス」ってものなんです。

 でも、だからこそ、俺たちプロレスラーは簡単に負けるわけにはいかない。

 なぜなら、俺たちの背中には、そんな俺たちを信じて「夢」を預けてくれてる大事な大事な「ファン」の思いが載せられているからです。

 頭白さん。

 俺たちプロレスラーにとっての「勝ち負け」っていうのはね、もう自分ひとりの問題じゃないんですよ。

 この背中に負ってる多くの人たちファン、そのことごとくに絡む問題なんです。

 だから、俺たちプロレスラーは逃げない!

 だから、俺たちプロレスラーはみっともない戦いはできない!

 たとえそれがどんなに強い敵であっても、たとえそれがどんなに危険な技であっても、俺たちプロレスラーは絶対にそこから目を背けない。

 目を背けずに真正面から立ち向かって、必ず全部受け止めてみせる。

 逃げて、かわして、安全に、合理的に、効率よく利益を掴むような手段はあえて取らない。

 何故そんな賢くない真似をするかって?

 それはですね、頭白さん。

 「夢」が「現実」に負けることなんて、決してあってはならないことだからですよ。

 「夢」は承るものじゃない。

 「夢」は授けられるものじゃない。

 「夢」は厳しい「現実」を自分の力で乗り越えて掴んでこそ、初めて眩しい輝きを放つんです。

 だから俺らは、そんなみんなの「夢」を裏切るわけにはいかない。

 どんな厳しい「現実」にだって、逃げずに立ち向かわなくちゃならない。

 望んで「現実」に背を向けて、みんなの「夢」を汚したりするわけにはいかない。

 それが「プロレスラー」の、いや「プロレスラー」の使命なんです。

 頭白さん。俺はそんなひとりの「プロレスラー」として、いまあなたという「現実リアル」に対して挑みます。

 こんな俺を支えてくれた大事なひとたちのため。

 こんな俺を応援してくれる大切なあののため。

 そして何より、この俺が、俺自身であり続けるため。

 頭白さん。

 俺は、古橋ケンタは、絶対にあなたから勝利を盗んだりはしません!

 必ず、必ず、あなたという「現実リアル」からこの手で勝利を奪ってみせます!

 猪の突貫にも似たケンタのショルダータックルが、頭白の肉体を我が身もろとも舞台の角へと押し込んだ。

 両腕による咄嗟の防御も間に合わず、白髪の僧侶はふたたび背中から支柱目がけて激突する。

 苦痛に顔をしかめる頭白の胸板へケンタ渾身の一発がねじ込まれたのは、その次の瞬間の出来事だ。

 逆水平チョップ!

 激しく肉を撃つ快音があたり一面に轟き渡り、道着と胸筋とを貫通した衝撃が頭白の胸腔を波動となって激震させた。

 極限まで鍛え上げられたプロレスラーのチョップブローは、その威力において成人男子の手になる金属バットのフルスイングに匹敵する。

 そんな代物をまともに被弾した頭白の表情が、さらなる苦悶に醜く歪んだ。

 太い支柱を背にしたがゆえ受け身を取って後方へ倒れ込むこともできず、彼の両膝はその場でがくりと落下する。

 最上段の太縄を掴むことでかろうじて立ち続けていられる──いまの頭白の状況は、まさにそう評価するのがもっとも真実に近いと断言できた。

 形勢逆転!

 だが、ケンタの攻めはその一撃だけにとどまらなかった。

 続けざまに重々しいチョップの連打が頭白目がけて襲いかかる。

 一発、二発、三発、四発、五発、六発!

 歯を食い縛り、左手を固く握り締めながら、ケンタは一心不乱におのれの手刀を敵手の肉体目がけて叩き込んだ。

 断続する重圧から白髪の僧侶が逃れ得たのは、ひとえに咄嗟の機転と卓越した反射神経の賜物だった。

 ほんのわずかな息継ぎの刹那。

 ケンタが見せた一瞬の隙を利用して、頭白はおのが身をさらに下方へと沈めたのだ。

 唸りを上げたケンタのチョップが、彼の頭上を通過して真正面から支柱を叩く。

 ばしん、という乾いた炸裂音が聞く者すべての耳朶を打ち、舞台を囲む三本の太縄へたちまちその振動が伝播した。

 このままでは、いずれ肉の重圧に押し切られる。

 素早くそう判断した頭白は、訪れた刹那の好機を逃すまいと、転がるようにケンタの脇をすり抜けた。

 支柱と太縄によって構成された舞台の隅。

 そんな退路なき死地とも呼べる場所からの脱出を、この白髪の僧侶はまず第一に望んだのである。

 打撃戦の肝は互いの立ち位置、すなわち有利な射界を得るために必要な存在空間の確保にこそあり。

 そのことを幾多の実戦経験から熟知している彼にとって、この選択は何をおいても重視しなくてはならない戦うための基本姿勢だった。

 しかし、そんなに容易く物事は進まない。

 頭白にとって明白に過ぎる決断ということは、翻ってみればケンタにとってもまた至極予想しやすい行動であることにも繋がるのだからだ。

 ごつごつしたプロレスラーの両手が白髪の僧侶の頭部を捕らえた。

 太い指が短い髪を鷲掴みにし、おおよそ腰の高さに固定する。

 顔面への膝蹴りが来る。

 頭白はそれを直感した。

 もはや避けようもない事態に備え、全神経を来たるべき一撃に対して集中する。

 大丈夫だ。

 刹那の間、彼は何度も自分に向けて言い聞かせた。

 過去に数え切れないほど経験した「天井から吊した砂袋をおのが顔面に叩き付ける」という荒行を通じて、頭白は確かに信じていた。

 当て身技が直撃する時、その被弾箇所にすべての意識を集約させてさえいれば、ひとは決して倒れることがないという事実をである。

 ケンタの右脚が上昇を始め眼前に迫る。

 歯を食い縛り、その瞬間を覚悟する頭白。

 されど、彼が待ち構えていた衝撃は、いざその時になっても一向にやってくる気配がなかった。

 なぜなら、ケンタはおのれの太股に頭白の額を乗せたまま、文字どおり、ただその脚を大きく上へと振り上げただけだったからだ。

 相手が何をしたいのかをさっぱり理解できず、頭白の脳裏に特大の疑問符が立ち上がった。

 そして、それに対する回答は、まさしく次の瞬間に実行された。

 ケンタは、頭白の額を乗せたまま高々と振り上げた右脚を、そのままおのが直下へと勢いよく踏み下ろしたのである。

 ココナッツクラッシュ!

 打撃技とも投げ技とも異なる、まさにプロレス技としか言いようのない独特の技法。

 しかし、未体験のままそれを受ける立場の被害者にとって、その破壊力は既知の技法を下回るものでなど到底ありはしなかった。

 頭蓋の中で激しく脳が揺さぶられ瞬時に意識を失った頭白は、そのまま舞台中央へともんどり打って投げ出された。

 目の奥耳の奥、それら頭部の深いところで、けたたましい鐘の音が外へ飛び出さんばかりに鳴り響いている。

 天に広がる真っ青な秋空が双眸に光を差し込み、そのことが白濁化した頭白の意識を覚醒させる。

 しかしそれが完了するまでには、残念なことにわずかな時間を必要とした。

 歯を食い縛りつつひと言うめいた白髪の僧侶が身を起こさんとして首をもたげた直後、その身上に黒々とした影が重なる。

 勢いよく真上へと跳び上がったケンタが、彼の喉元目がけておのが右脚を落下させたからだ。

 ギロチンドロップ。

 反射的に身を転がし、寸前のところで頭白はそれを回避した。

 巨体が舞台に落下するどしんという音をどこか遠くに聞きながら本能的な対応でもって立ち上がった彼は、こちらもまた立ち上がろうと片膝を立てたケンタの顔面へ鋭利な中段蹴りを発射した。

 長年の修行により木刀にも似た堅さを持つようになったすねが目標箇所を見事に捉える。

 しかし体勢が不完全であったためか、十分に体重が乗り切れていなかったそれをケンタは平然と受け止めて、間髪入れず反撃の一打を放った。

 逆水平チョップが頭白の胸を正面から打ち抜く。

 衝撃に押され、白髪の僧侶は半歩後退。

 そこで踏みとどまりつつ反抗を開始する。

 拳が唸り、ケンタの顔面をまともに射貫いた。

 炸裂音とともに、その上体が後ろへ弾ける。

 追撃。

 左右の回し蹴りが襲いかかる。

 被弾。

 反撃。

 左の張り手。

 防御。

 汗が飛び散り身体がずれる。

 再反撃。

 再々反撃。

 再々再反撃!

 並の男たちであるならとうのむかしになぎ倒されていたであろう凄まじい打撃技の応酬が、侍たちが固唾を呑んで見守るなか、いつ果てるともなく両者の間で繰り返された。

 双方の流す血が、汗が、被弾するたび飛沫となってまき散らされ、舞台表面を覆う純白の麻布を独自の色に染め上げていく。

 退けぬ!

 おのれ頭白の突きが、蹴りが、そして相手ケンタの張り手と手刀とが激しく交差し互いの肉体に着弾し続けるさなか、白髪の僧侶は必死になって自分自身を叱咤した。

 疲労の上に重ねられる疲労。

 苦痛の上に重ねられる苦痛。

 幾重にも幾重にも幾重にも幾重にも幾重にも──…

 分厚く積み重ねられるそれらは、もはやひととしてその身が耐えられる分水嶺をはるかに越えてしまっている。

 それは重々わかっている。

 それは重々理解している。

 されど──されど、断じて退くわけには行かぬ!

 この身の明日を考えれば、いったん退くのが賢かろう。

 ただ単に勝ちを掴み取りたいのであるなら、退くのも立派な戦略であろう。

 しかし、いまここで退しりぞけば、それはそのまま魂の格付け──すなわち「怯え」にと繋がる。

 許されぬことだ。

 許されぬことだ。

 それはひとりの「武人」として、それはひとりの「おとこ」として、断じて許容するわけにはいかぬ稀代の愚策にほかならぬ。

 ゆえにこそだ!

 たとえ何があろうと、我は決して手を休めてはならぬ。

 たとえ何があろうと、我は手を出し続けなくてはならぬ。

 我が肉体は、あとどれぐらい攻め続けられるものか?

 我が四肢は、あと何発の打突を繰り出せるものか?

 左様な換算などに意味はない。

 左様な換算は意味など持たない。

 「おとこ」としてただ純粋に目の前の「宿敵てき」に打ち勝たんと欲するなら、おのが死力を絞り尽くし、そのすべてが許す限り手を出し続けるしかないのだ!

「おおーっ」

 野獣のごとき叫び声とともに、頭白の猛撃がケンタプロレスラーの身体に襲いかかる。

 文字どおりあらゆる角度から降り注ぐ拳撃が、蹴撃が、遠慮仮借なく皮を裂き、肉を割り、骨を断たんと目論んだ。

 ケンタがまともに防御できた数など、その内の半分にも満たない。

 痛みが、苦しみが、熱さが、休むことなくその全身を覆い尽くしていく。

 だが、彼もまた一歩も退かなかった。

 その身の至るところを痛打されながら、なお痛烈な一発を返す隙をうかがい、実際にその好機を掴み、重々しい反抗を実施した。

 守りに徹するという考えは、ケンタの脳内にひと欠片も存在しなかった。

 真正面から殴り合うためならおのが身の損傷など一向に考慮しないという、いわば開き直りにも似た決意が、この時の彼を完全に支配していた。

 俺は嘘吐きだ。

 ケンタは思った。

 俺は嘘吐きだ。

 俺は、あの娘を守るということを秋山先生とあの自身に約束しておきながら、それを全うできなかった。

 あの雨の夜の河川敷。

 俺は、恥ずかしげもなく自分から口にした約束を守れなかった。

 俺は嘘吐きだ。

 何度でも言う。

 俺は嘘吐きだ。

 嘘吐きだ。

 嘘吐きだ。

 だからこそ、もう絶対に嘘を吐くことはできない。

 ひとりの「おとこ」として、嘘を積み重ねることはできない。

 ひとりの「プロレスラー」として、嘘を繰り返すことはできない。

 そう、古橋ケンタは、嘘吐きのままこの舞台リングを降りることなど許されないんだ!

 互いの打撃が人体を討つ音、それが静まりかえった高山城内に反復して響き渡る。

 白州の中央に設けられた舞台の上で小細工なしにぶつかり合うふたりの「おとこ

 その有様をひと言も発することなくただ呆然と眺めている藩士たちの眼にある種の光が宿りつつあったのは、素人でも判然と確認できるあからさまな出来事だった。

 多かれ少なかれ、その人生を武芸に捧げた経験を持つ藩士たち。

 「武士」として、「侍」として、戦うことそれ自体に「おとこ」としての夢を見たそんな彼らの眼に浮かび上がったその色は、紛れもなく「羨望」という独特の感情、その現れにこそほかならなかった。

 武者奉行・山田恵一郎が、あたかもそんな思いを代弁するかのように呟く。

「なんと……うらやましい」

 彼らから尊崇のそれにすら近い眼差しを一身に浴びながら、なお休むことなく攻勢を取り続けるケンタと頭白。

 時を同じくして踏み込んだふたりの額が、舞台中央で言葉通りに激突する。

 ごつんと響く鈍い音。

 しかしながら、彼らは瞬きすらせず、その現実を受け止めた。

 歯を食い縛り、血と汗とを流しつつ、互いを討たんと躍動する。

 気合いとともに頭白の正拳がケンタの胸板を深々と抉った。

 練り上げられた分厚い筋肉をものの見事に貫通し、凄まじい衝撃が胸骨を軋ます。

 およそ常人には耐え難い苦痛を受け、ケンタの顔が醜く歪んだ。

 だが彼は、我が身を襲うその感覚を完全に無視し、構うことなく剛腕を振るった。

 逆水平チョップだ。

 ざっとおのが身を沈めることで、頭白は迫り来るその一撃を回避した。

 続けざまに身を滑らせ、自らの両足でケンタの太股を挟み込む。

 挟倒はさみたおし

 柔道・柔術における横捨身技と呼ばれる技術のひとつ。

 白髪の僧侶は、慣れ親しんだその奇襲技を用いてケンタの巨体を苦もなく仰向けに転がしたのだ。

 それは、流れるように滑らかな動きだった。

 完全に平衡を崩されたケンタは、為す術もなく背中から舞台の上に叩き付けられた。

 本能的に受け身を取り、後頭部への強打を防ぐのがやっとという有様だった。

 否応なく生じた一瞬の間。

 それを巧みに利用した頭白が、ケンタの左足首をおのれの左脇に抱え込む。

 アキレス腱固め。

 柔での呼び名は足挫あしくじきという、古くからある伝統的関節技の一種だ。

 その技をもってケンタの足首を捕らえた頭白は、おのが脇に固めたそれを、そのまま一気にねじり絞る。

 ケンタの口から苦悶の叫びが勢いよくほとばしり出た。

「古橋さま!」

「師匠!」

「古橋さまぁ!」

 前後して、葵たちの口々からも悲鳴が上がる。

 だが、彼女らがどれだけ天に懇願しようとも、ひとたび完璧に極まった関節技サブミッションを自力で解除するなどという行いは、およそ人の身である者に容易く可能なそれではない。

「ぬうっ!」

 確固たる気合いを込め、白髪の僧侶が身体を捻る。

 両者の身体がそれとともに裏返り、ほとんど同時にうつぶせの体勢となった。

 頭白によって仕掛けられた技が、正調のアキレス腱固めから、より脱出の困難な裏アキレス腱固めへと変化する。

 それは深く寝技グラップリングを学んだ者にとり、まず定石とも言える基本的な戦術であった。

 断続的に押し寄せる痛苦に激しく表情を掻き乱しながら、しかしケンタは歯を食い縛ってそれに耐えた。

 必死になって麻布を搔きつつ、芋虫のごとくその身を這わす。

 懸命に伸ばした手が、その指先が、わずかずつだが舞台外縁に向かって近付いて行く。

 やがてそれは目的地へと達し、最下方に張られた三本目の太縄をがしっと力強く握り締めた。

 ケンタの目論見が那辺にあったものか。

 それは、次の瞬間に明らかとなった。

「触れ縄!」

 審判を務める黒人戦士・ボブサプが高らかに宣した。

「仕切り直し。双方離れよ」

 それは、いわゆる「ロープブレイク」のルールだった。

 事前に定められた心得の条にもしかと左様に明記されたその規則こそが、この時の彼が求めた「釈尊の垂らす蜘蛛の糸」であった。

 故意に何かへ触れることによって、相手のかけた関節技や絞め技から逃れることができる──それは確かに、野仕合ストリートファイトに代表される実戦の場においてはまず考えられない規則にほかならなかった。

 場合によっては、それを理不尽だと考える人間も少なくはあるまい。

 あまりにも興業的な決まり事だと感じる者は、それに輪を架けて多いはずだ。

 これがルールのない野仕合であったなら、あのアキレス腱固めで決着が付いていたのではあるまいか。

 もしくは、その成り行きが決定付けられていたのではあるまいか。

 だが、おそらくそうした現実を十二分に認識しながら、なお頭白は審判ボブサプの指示に従ってがっちりと極まっていたはずの技を自ら解いた。

 仮にここが裁く者なき戦場であるならばおのが勝利を確定させていたかもしれない優位な立場、それをいとも簡単に投げ捨てて振り返ろうともしなかった。

 されどその表情には、不満の色や悔恨の情などいっさい浮かび上がっていなかった。

 むしろ、さも当然と言わんばかりにさばさばした雰囲気さえ漂わせている。

 そしてケンタもまた、方向性こそ異なれど彼と同じような態度を明確に示していた。

 その顔付きからは、対戦相手頭白に対する「してやったり」の感情などそれこそ欠片すらも見出すことはできなかった。

 そう、ふたりは心の底から納得していたのだ。

 規則ルールは、あくまでも双方に公平だ。

 立ち合っているどちらかを偏って守ったりはしない。

 もしどちらかの身にルールによって守られているかのような状況が発生したとしても、両者ともそれがゆえに勝ちを逃したとは思わないし、それがゆえに負けを逃れたとも思わない。

 互いにその決まり事を承知の上で仕合の舞台に登ったからには、「たられば」からくる仮定の話など、もはや戯言以外の何物でもないのだ!

 一間約一.八メートルほどの間を挟んで改めて向かい合う両雄。

 その肉体は、まさに満身創痍という表現こそが相応しい。

 骨折、打撲、擦過傷、皮下出血──およそ数え上げても切りがないダメージが、ふたりの身体には生々と刻みつけられていた。

 武によって鍛え上げられていない市井の人々であるならば、下手をすれば命に関わるほどの損傷であったやもしれぬ。

 しかし対峙するケンタと頭白の両目には、いまだぎらぎらとした輝きがその存在感を示し続けている。

 それは、むしろ戦いが始まる前よりも明度を増しているのではないかとすら思えるほどだ。

 灼熱の眼差しを真正面からぶつけ合いつつ、この時、ふたりの「おとこ」はおのが背筋を這い上ってくる愉悦をただただ無心に味わっていた。

 後から後からこんこんと湧き上がってくる原始の感情を抑えきれず、知らぬ間にその口元が笑いの形を構成する。

 およそひとの織りなすそれとは思えぬ、餓狼が見せる獰猛な喜色──…

 だが、その奥底にかすかな「恐怖」が潜んでいることを、いったいどれほどの者たちが気付いていたことであろうか。

 震える背筋のその下に、お互いを「畏怖」する感情がうごめいていることに、いったい何人が気付いていたことであろうか。

 戦いが最高潮クライマックスの刻を迎えんとしているを本能的に悟りながら、ケンタも頭白も、いまおのが目の前に立つ存在を素直に「怖い」と思っていた。

 心臓が高鳴り、呼吸が乱れる。

 激しい嘔吐感とともに吐瀉物にも似た何かが食道を迫り上がってくるのがわかった。

 このまま逃げ出してしまいたい。

 そんな不埒な欲望が、ふと悪魔の囁きとなってふたりの胸中に湧き起こった。

 しかし、彼らはともに、その誘惑を一蹴した。

 一瞥すらすることなく、塵芥のごとくその選択肢をはるか遠くへ投げ捨てる。

 そして、思った。

 まるでその心根が同一のものであるかのように、まったく同じ問いかけを、対面する好敵手に向け投げかけた。

 怖いんですね、あなたも。

 怖いんですね、この俺を。

 もしかして、あなたも感じているんですか?

 あなたもいま俺と同じく、この「恐れ」を心から「楽しい」と感じているんですか?

 もしそうだったら、俺はぜひ、そんなあなたに提案したい。

 あなたにもまだ、出し切ってない力と技があるんでしょう?

 あなたにもまだ、見せ切ってない可能性があるんでしょう?

 どうです。自分の中に残ったそれをあらん限りに使い切って、正々堂々、いまここでふたりっきりの比べ合いをしてみませんか?

 俺とあなたの、どっちが「上」かを!

「始めぃ!」

 ボブサプの号令が下されるや否や、「おとこ」たちの口から轟くような雄叫びウォークライがほとばしった。

 双方の肉体が間髪入れず前に出る。

 脇目を振っている様子などどこにもなかった。

 お互いがお互い以外の何物をもその目に宿していないことは、もはや誰の目にも明らかだった。

 ふたりの右腕が勢いを増して交差する。

 先に目的を果たしたのは頭白の放った一撃だった。

 渾身の右直突きストレート

 分厚い胼胝たこに覆われたその拳骨が、たっぷりと体重を乗せたままケンタの顔面に捻り込まれた。

 鈍い音が響く。

 鼻骨が折れたと診て間違いあるまい。

 ケンタの頭部が弾かれたように後ろへ仰け反り、その鼻腔からは真っ赤な鮮血が吹き出した。

 しぶいたそれらは返り血となり、白髪の僧侶を朱に汚す。

 だが、それでもケンタはたじろがなかった。

 伸ばした右手で頭白の襟を無造作に捕捉した彼は、力任せにその身を懐に引き込むと、振り戻したおのが頭部を小細工なしに相手の鼻っ柱へ叩き付けた。

 頭突きヘッドバット

 接近戦における人類種最良の武器。

 それをまともに食らった頭白の足が、あたかも主の抱く不退転の意志を裏切るかのようにたたらを踏んで後退する。

 一瞬の隙が生じた。

 その機を逃さず、ケンタは頭白のバックに回る。

 身の丈六尺約一.八メートルを越える大男が見せるものとは思えぬ、それはまさに疾風のごとき動きだった。

 彼は相手の右腕を片羽交い締めの形に捉えつつ、その背中に文字どおり身体ごと組み付いた。

 受け身の取れない危険な投げ技、ハーフネルソンスープレックスの体勢だ!

 本能的に危機を察した白髪の僧侶は、まだ自由の効く左肘で何度もケンタのこめかみを殴打して、技を掛けられるより早くその束縛から脱出した。

 振り向きざま飛び退くように間合いを取り、気合いとともに右上段蹴りを叩き込む。

 ケンタは逃げずに、むしろ踏み込みながらそれを受けた。

 ぱあっと汗混じりの血飛沫が舞う。

 その只中を潜り抜け、仁王にも似た激しい顔付きを浮かべた巨漢が愚直なまでに最短距離を突進する。

 欺瞞も誤魔化しもそこにはなかった。そう、彼は文字どおり、真正面から頭白の肉体を捕らえに来たのだ。

 その戦術姿勢を見るだけで、彼が先だっての打撃戦と異なる展開を望んでいるのは明白だった。

 終わらせるつもりなのだ。

 組み付いてきたケンタを巧みに首投げでさばきつつ、白髪の僧侶はそう悟った。

 過日、おのが古寺で観戦したこの者古橋ケンタと柔術家・男鹿直次郎との立ち合い。

 その光景を脳内で反芻した頭白は、彼の技、すなわち「ぷろれす」なる武芸の最たるものは、あのおりに目撃した後方への反り投げバックドロップ、その類いのそれに相違ないと見切っていた。

 相手の頭部や頸部を上空から急角度で地面に叩き付けるというその術理は、自らが深く学んだ柔の技とは明らかに似て非なるものである。

 それをもって相手を寝かせ、およそ反撃を試みられぬよう制圧するを最優先とする柔の投技と比較して、あれはまさしく一撃必倒を目的とした真の意味での「必殺技」だった。

 仰向けに寝たケンタの身体に下段のかかとを浴びせながら彼は思った。

 古橋殿。

 貴殿も、この仕合の終わりが近いと感じておられるのか。

 間もなく、この戦いが終わってしまうと感じておられるのか。

 いや、それを尋ねるまでもない。

 感じておられるからこそ、いまおのが身に付けた極意をこのそれがしめに見舞おうとなさっておられるのでしょうからな。

 だとしたら、それはなんと光栄なことでありましょう。

 だとしたら、それはなんと栄誉なことでありましょう。

 よろしい。

 なればそれがしも、その志に応じねばなりますまい。

 その志に応じ、奥許しをもってそれに答えねばなりますまい!

 ふたたび両者の攻防が激しさを増した。

 それは、およそ闘技たるすべのあらゆる要素が凝縮した実に凄惨な光景だった。

 突き技、蹴り技、寝技、投げ技、関節技──…

 あるいは立ったままの状態で、あるいは寝たままの状態で──…

 そのあまりの壮絶さに、見る者たちは皆、粛としたまま声も出せない。

 だが、あえてそれを止めようとする者は皆無だった。

 それどころか、目を背けようとする者ですら絶無だった。

 誰ひとりとして、眼前に展開するそれを拒絶する者はいなかった。

 光圀も頼時も、玄蕃をはじめとする藩の重臣どもも──…

 数馬も恵一郎も、この場に詰めた諸々の藩士たちも──…

 そして、葵も鼓太郎も、おみつも茂助も──…

 皆が皆、その成り行きをただの一時も見逃すまいと、拳を握ってすべての意識を集約し続けていたのだった。

 そんな戦場の空気が激変したのは、この果てしなく続くかに見えた真っ向勝負に白髪の僧侶が距離を置いた、少なくとも観衆の目には左様に映ったその瞬間の出来事だった。

 音を立てて振るわれたケンタの逆水平チョップ。

 それをあえて退くことでかわした頭白は、なぜか反撃の一打をくれることもなく幽鬼のように間合いを外した。

 津波のように追いすがる対戦者、その溢れる闘志をいなすかのごとく、するすると射程内より撤収。

 改めて中腰に構えをとりつつ、大きく深呼吸するを試みた。

 ひとつ目は、口から吸い、口から吐く。

 ふたつ目は、鼻から吸い、口から吐く。

 回数はわずかに二度。

 されど彼の目論見にとって、その数はほとんど問題とはされなかった。

 行きますぞ、古橋殿。

 間もなく来るであろうおのが肉体の限界をここに悟り、白髪の僧侶は、太く短い丹田呼吸息吹とともに我が身に残されたすべての力を一気呵成に解き放った。

 その見姿が、陽炎のようにゆらりと揺らぐ。

 迅速極まるその踏み込みを、目の当たりとした者たちの眼が咄嗟に捕捉できなかったのだ。

 あり得ないことであった。

 うっすらと残影を引き連れ、頭白の総身がケンタの懐へと滑り込む。

 その速度は、これまでの彼が発揮したそれをはるかに越えて、眼前の大男にいかなる反応をも許す隙を与えなかった。

 直後、頭白の放った幻のごとき前蹴りがケンタの鳩尾をものの見事に貫いた。

 鍛えたくとも鍛えられない、人体正中線上にある急所のひとつ。

 その箇所を狙い澄まして打ち抜かれては、さしものケンタも膝を折るよりほかになかった。

 くの字に曲がった彼の巨体が、がくりと直下に崩れ落ちようとする。

 されど、その一撃が決め手になどならぬことは、技を放った当の頭白が誰よりもよく知っていた。

 いかに痛覚を刺激し呼吸困難に陥れたとしても、この「おとこ」は必ずやまた立ち上がってくる。

 この「おとこ」を倒すには、その肉体を砕くだけでは駄目だ。

 その精神を折るだけでは駄目だ。

 その双方を、ただの一撃で破砕しなくてはならない。

 次の刹那、それを確信していた頭白の左足が閃光のようにケンタの右肩を踏み締めた。

 体重が乗る。

 あろうことかこの男は、おのが右足で蹴り込んだケンタの鳩尾をそのまま踏み台として用い、彼の身体上を一気にそこまで駆け上がったのである。

 誰もがその目を疑うであろう、人とは思えぬその挙動。

 いったいどれほど過酷な修練が、これほど現実離れした動きをこの者にして可能なさしめたのであろうか。

 だが、その真相を知ろうとする努力は、ためになるべき刻を微塵も与えられること叶わなかった。

 それは、下方に残置した頭白の右脚が垂直に引き上げられ、営々と硬く磨き上げられた膝頭が無防備だったケンタの顎を凄まじい勢いで突き上げたからである。

 奥義・昇り龍。

 時に人の身では耐えきれぬほどの苦行をもって初めて我がものとし得る、頭白流闘術における究極の一打。

 完全に視界外から発射されたその一撃が、ケンタの頭部を上下に揺らした。

 激震する脳は頭蓋骨の内壁に何度も何度も衝突し、その結果が一過性の機能障害を引き起こす。

 脳震盪。

 ケンタの双眸から唐突に光が消え、彼の意識は頭の内より一瞬にして弾き出された。

 いかに規格外の打たれ強さを持っていたとはいえ、いまケンタの頭部が被った甚大な衝撃は人間の耐久できる限度というものを完膚なきまでに凌駕していた。

 仮にも「ひと」としてこの世に産まれ落ちた以上、そのダメージを飲み込めるだけの容量が身体に存在しうるはずもない。

 そう、それがたとえプロレスラーであろうとも、だ。

「古橋さま!」

 絹を裂くような葵の悲鳴が響き渡るなか、意識を失い弛緩した古橋ケンタの肉体は、まるで寿命の尽きた朽ち木を思わせる動きでもってゆるりと傾き、そのまま前方へと音を立てて倒れ伏したのだった。

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